深井史郎

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深井史郎 - (2007/07/09 (月) 19:58:48) の編集履歴(バックアップ)


秋田市生まれ。高校卒業後物理学専攻を志したが折しも病を得て2年間の療養生活に入り、その間に当時マンドリン・オーケストラの指揮者であった石田一郎(作曲家)父君の感化を受け音楽を志すようになる。その後東京に出て国立の東京高等音楽学院に籍を置き、菅原明朗にも師事。作曲家としての出発は非常に遅かったが1931年にはトーキー初期の映画音楽を手がけ、1933年には「5つのパロディ」を作曲している大変な才人であった。純音楽だけでなく映画音楽、バレエ音楽、ラジオなどの放送音楽も数多く手がけ、評論家としても活躍し、小説をもものしている。京都で映画音楽の作曲中に狭心症で急逝。論文集「恐るるものへの風刺―ある作曲家の発言」(音楽之友社)は作曲者の独特な個性、鋭い批判精神、明晰な頭脳を余すところなく伝えている。
なお、深井史郎の楽譜などの資料は日本近代音楽館に所蔵されている。