大澤壽人

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大澤壽人 - (2006/08/28 (月) 18:31:31) のソース

大澤壽人(1907-1953)
Hisato Ohzawa

 神戸生まれ。合唱やオルガンに親しみながら関西学院を経てアメリカはボストン大学とニューイングランド音楽院へ留学。そこで、コンヴァースとセッションズにつきシェーンベルクの教室にも出入りした。当地では奨学金を得たり、ボストン交響楽団を振って自作発表会をやるなど活躍を始める。更にパリに渡り、ナディア・ブーランジェにつきポール・デュカスのレッスンも受ける。ここでもコンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮しての自作品の演奏会を催し、これはオネゲルらの賞賛を受けた。1936年帰国するも、緻密かつ難解な作風は当時の日本では演奏困難な上、聴衆の理解を得られず、もっぱらポピュラーな作品や放送、映画の世界に身を投じる。戦後は神戸女学院で教鞭をとる傍ら、映画や放送にも引き続き携わりながら、クラシック音楽の啓蒙、聴衆の拡大に力を入れる。あまりに多方面での仕事に、無理がたたったのか過労による脳溢血で死去。まだ46歳だった。

:代表作|
ピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」、ピアノ三重奏曲、ペガサス狂詩曲


*大澤寿人作品に対する感想文集(駄文注意)

・昭和九年の交響曲シリーズ <その2>より

2006.3.4(土) 
大阪・いずみホール 18:00開演 

大澤壽人 交響曲第2番(1934) 
大澤壽人 「"さくら"の声」ソプラノとオーケストラのための(UNE VOIX A "SAKURA")(1935) 
大澤壽人 ピアノ協奏曲第2番(1935) 

指揮 本名徹次 本名徹次三輪 郁腰越満美 
ピアノ 三輪 郁 
ソプラノ 腰越満美 
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ 

:交響曲第2番(1934)|
 この交響曲はあまりにテクスチュアが複雑で、作曲者は一つの気分、一つの楽想に身を任せることを極端に避けているような印象。ころころ曲想が変わり、響きはこれ以上無いまでに磨かれ、技術的にもボストン交響楽団など、当時の実力あるオケの名人技を前提としているため、申し訳ないがアマオケには手に負えない代物だった。プロコフィエフの交響曲3番を技術的にも内容的にももうワンランク難しくして、泥臭さをかなり抜いてしまった、といえばある程度曲の印象の一端でも伝わるだろうか。邦人作品演奏に理解ある、腕の立つプロのオーケストラでの再演を期待したい。

:「"さくら"の声」|
 このソプラノのヴォカリーゼが支配的なオーケストラ伴奏歌曲は当夜で最もお客さんもリラックスして聴けたであろう作品。タイトルの通りの音楽が展開、洗練された音遣いは流石。ただ、元の旋律の持つ力が強過ぎるものの、大澤の特徴である潔癖な音遣いは健在。ソプラノの動きもゆったりなテンポの中でせかせかと縦横に動く。

:ピアノ協奏曲第2番(1935)|
 ピアノコンチェルトは当夜の白眉といったところか。交響曲2番に見られたような要素は多くあったにしろ、ピアノが中心にすえられたことによって音楽の骨格が捉えやすくなり、さらにこの作品には適度の通俗性が備わっていて、既に演奏されCD化もされているピアノ協奏曲3番「神風」と同じく再演すべき名曲だろう。もしかして大澤はピアノ協奏曲で本領を発揮するのだろうか。独奏者のヴィルトゥオージティが発揮され、しかもピアノとオーケストラが主従の関係ではなく絶妙に寄り添う、聴いていて全く飽きない作品。 


・幻想交響詩劇「邯鄲」(1953)
(片山杜秀氏が神戸女学院で2005年に行った講演より)

 能にもなった「邯鄲夢」の話を基にしたラジオ放送用の音楽劇。元の話は、中国の青年廬生が高僧に教えを請いに行く途上、邯鄲の町で宿をとり、そこの主人に勧められた不思議な枕を使うと、飯が炊けるまでの一睡の夢のうちに数々の挫折と栄華を経験し、目を覚まし、人生その全てはひと時の夢に過ぎないのだという悟りを得て、宿の主人に感謝して帰っていく、というもの。
 大澤はこの廬生を最終的に現代に迷い込ませた。音楽は場面に応じて変幻自在で、廬生が現代の街を行くシーンでは、ジャズ風の音楽と共に現実音(車のクラクションや雑踏の音)が一緒に流されており、当時としてはかなり斬新な技法を使っている。その部分は講演会でも流され、誠に華々しく、野心的に感じた。
 しかし片山氏によると、廬生の心の動きや、周囲の状況によって音楽の雰囲気だけでなく、様々な作曲技法が交錯する。その様は、まるで大澤自身の作曲家としての生涯、伝統的な作曲技法をしっかりと身に付け、ジャズ、ポピュラー音楽も体験し、当時の創作の最前線にいた芸術家達と交流し、もっと現代的な技法も自分のものにしてゆき、日本では生きていくために分かりやすい音楽に転向した、その波乱の運命を表しているかのようだ。

 そして物語の終盤、廬生が全てを体験したのち、「これは夢ではないかしら」という歌詞が高らかに歌われる。 
この廬生はもしかして大澤自身のことだったのではないだろうか。神戸での音楽といつも共にあった幸せな学生生活、アメリカ、フランスでの野心的な活動とそこで受けた賛辞の数々、日本での挫折と再出発、戦後の、もう海外での活躍も顧みられることもない、しかも保守的な風土の関西でのクラシック音楽啓蒙活動・・・・これら全てを「これは夢ではないかしら」と大澤自身が歌ったのかもしれない。