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龍興記ネタ解説 - (2009/09/16 (水) 00:55:24) の1つ前との変更点

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[[龍興記>龍興記解説]] > &bold(){ネタ解説} [[ネタ解説2>龍興記ネタ解説2]] ---- #contents(fromhere) ---- *序 |&nicovideo(sm7347857)|sm8087752| #areaedit() :さてと、信長の野望革新PKが何たるかは大体判ったぞ|前作[[竹中半兵衛の憂鬱>竹中半兵衛の憂鬱解説]]を踏まえて。 :全国の女子高校生の皆様|元ネタはタイムボカンシリーズ。ヤッターマンのボヤッキーなどが女子高生ネタを繰り出していた。 :PKチュートリアル/殿よりある意味逸材の方|特産物・諸勢力・貿易など、PK追加要素のチュートリアルは一条兼定と土居宗珊が担当している。 :新作の発表も近いでしょう|動画投稿時点(2009年6月15日)では「信長の野望13」と仮称され、秋発売がアナウンスされていた「天道」。 :どうせ発売当初は顔が間に合わないとか|顔グラの規格が大幅に変更された天下創世では、発売当初一部の武将で顔グラの使いまわしが行われた。修正パッチとPKの導入でようやく全武将にオリジナルの顔グラが提供された。 :神箭「糾方の系譜」|小笠原貞慶は、室町幕府のスタンダードとなった武家故実の宗家・小笠原家の当主で、ゲーム的には[[歩く家宝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/124.html#id_cf311fe0]]として有名。カットインは東方シリーズのスペルカード風演出で、元ネタは八意永琳の“神符「天人の系譜」”と思われる。糾方(きゅうほう)は小笠原流で弓法のこと。ちなみに、永琳の持ち物には弓矢があるというつながりがある。。&br()※このカットインは[[西園寺世界の逆襲>西園寺世界の逆襲解説]]にも提供された(第56話でお目見え)。一緒に"畢竟「歩く宝物殿」"というスペカ?も提供されている。「畢竟(ひっきょう)」は「結局」「つまるところ」の意味。 :紙芝居並行型純プレイ動画|(ツッコミ1)「純プレイ」は「紙芝居」(ストーリーパート)を含まないプレイ動画を指すので、この表現はおかしい。(ツッコミ2)純粋なプレイでなくて「ネタプレイ」じゃないのか。 :水戸黄門でもいいぞ|うp主が運営サイドで関わっていた[[HR(history-reproduction)>history-reproduction解説]]ネタ。うp主がシナリオを制作していた戦国中継動画では、水戸光圀と助さん格さんが進行役を務めていたのだが、ご老公(超監督)はまったく自重していなかった。 #areaedit(end) *解説および宣伝 &nicovideo(sm7653434) #areaedit() :前作終了時にあれだけ綺麗に纏まった|竹中半兵衛の憂鬱大尾参照。シリアスでしんみりした余韻を残す作品だった。 :しもけーねに無かった事にされた|「[[けーねに無かった事にされた>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/319.html#id_372db0e7]]」とは言われる。「[[しもけーね>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/352.html#id_0eae2430]]」は[[東方紅海夜>東方紅海夜 解説]]・[[東方白虎宴>東方白虎宴 解説]]参照。 :普通にやっても解けないの|[[九州席巻>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/317.html#id_811fb19c]]。 :[[(顔君主)>君主は陶濬 解説]]|マークの元ネタは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「笑い男マーク」([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E3%81%84%E7%94%B7_(%E6%94%BB%E6%AE%BB%E6%A9%9F%E5%8B%95%E9%9A%8A)]]参照)。ネット上の動画・画像では、顔などのプライバシーを守る用途で使われたりする。縁に書かれているのはサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の一節「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes(僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた)」で元ネタ「笑い男」通り。やめて顔君主様口をつぐまないで。 :考えるな、感じろ|元ネタは映画『死亡遊戯』でのブルース・リー演じる武術家のセリフ。Don't Think. Feel! :動画祭に出展|7月17日開催の「ネタ☆MAD3rd」([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8D%E3%82%BF%E2%98%86mad3rd]])。 :当動画の宣伝|素材は1988年の米国映画『Return of the Killer Tomatoes!』。『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト(Attack of the Killer Tomatoes!)』の続編([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%88]])。どう見てもB級映画です。本当に(ry :得月院|半兵衛の正室、安藤守就の娘。「得月院」は半兵衛の死後出家してからの名前。 :無茶苦茶強そう/別人の隠居先の名|戦国最強ばあちゃんの一人と目される由良成繁室・妙印尼([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%94%B1%E8%89%AF%E6%88%90%E7%B9%81]]参照)ネタ。牛久の領地を息子に譲った彼女が隠居した「得月亭」は、死後に菩提寺「得月院」となった。得月院は牛久市に現存している([[得月院ホームページ>http://www.ushiq.net/~ushiq/tokugetuin/index.html]])。 #areaedit(end) *初回ノ壱 &nicovideo(sm7662919) #areaedit() :若狭や真里谷のスタートで即解決/革新には御座りませぬ|武田氏の一族である若狭武田氏、真里谷氏(上総武田氏)は海に面した領国を持っている。蒼天録では大名として存在したが、革新では武将としても存在しない。 :一国で一つっておかしくね?|若狭武田氏は若狭守護を務め、上総武田氏は小弓公方の下で房総管領を自称するほどの勢力を持っていた。それぞれ大名として登場し、「武田家」が日本に複数あってもおかしくはない。 :蠣崎|戦国蠣崎氏の祖・信広は若狭武田氏の出身と称している。 :謎の軍師|ふつうは山本勘助のほうにかかる枕詞ではある。 :暴徒対策|ゲーム上の諸勢力「国人衆」を、ニコニコ歴戦ゲ界隈では「[[暴徒>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/345.html#id_7f432bb1]]」と呼び習わしている。 :飯富兵部とか将来やばくね?|飯富虎昌は義信を奉じて信玄に対して謀叛を図ったとの廉で処断される。 :大クマー|大熊朝秀は越後国人出身。上杉家から離反し武田家臣となった。妻は小幡虎盛の娘・小宰相。 :身の程を知れ|小幡虎盛は死に際し「みのほどをしれ」との戒めを残した。 :ぱわわ|元ネタは[[チルノがゆく>チルノがゆく解説]]。肥前のクマー龍造寺隆信が「ぱわわ」としゃべる作品。 :美濃は俺のものだ|原虎胤の官途名は美濃守。鬼美濃、夜叉美濃などと呼ばれた。 :馬場殿|馬場信春の官途名も美濃守。 :敵ながら天晴れ|『信長公記』では長篠の合戦時の描写で「馬場美濃守手前の働き比類なし」と賞賛されている。 :実際はともかく|甲斐は古くから良馬の産地として有名ではあるが、騎馬武者の集団突撃というイメージで語られる「武田騎馬軍団」と呼ばれるような存在は実際には無かった。 :典厩|武田信繁の官途は左馬助(唐名が「典厩」)。朝廷が保有する馬の飼育・管理・調教を掌る馬寮の次官。 :海へ行きたいかー/罰ゲームは怖くないかー|元ネタは「アメリカ横断ウルトラクイズ」。「ニューヨークへ行きたいかー」。 :弾正ズ|高坂・保科・真田。[[竹中半兵衛の野望・七弾正の野望>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/553.html#id_520abda0]]も参照。 :茨るぁ城ぃぃ|元ネタはラーメンズ。「千葉!滋賀!佐賀!」で検索するべし。大河ドラマ「風林火山」では村上義清との上田原の戦いで板垣信方(千葉真一)の戦死を聞いた武田晴信(カピバラ様)が「板垣ぃぃぃ」と絶叫していた。 :諏訪|諏訪家と武田家はいろいろ愛憎のある間柄。信玄は義弟でもあった諏訪頼重を滅ぼしてその娘・諏訪御寮人を側室とし、諏訪四郎勝頼を生ませた。ここで登用された諏訪頼忠は、諏訪頼重・諏訪御寮人の従弟で、諏訪大社大祝。のちに徳川家に仕え、大名としての命脈を残した。 :太郎は何をした/したんじゃなくて、するんだがな|武田義信は父信玄と対立。信玄によって幽閉され、自害に追い込まれる。 :二隊に別けうまく誘導し|まさに啄木鳥戦法。 :(CM)|「お隣」アイマス架空戦記の天下創世プレイ動画「美希の天下創世」のCM。この作品は「播磨のゆとり」こと星井美希が戦国を駆ける動画。合戦の操作が尋常ではないことから、うp主・別所就治Pは「リアル軍神」とも呼ばれている。(1)謙信が出てきたところで「軍神」つながり。(2)美希はアイマス界隈では、髪型から「みのむし」、言動から「ゆとり」などと呼ばれている。つまり、「みのむしでゆとり」→「美濃のゆとり」→斎藤龍興というメッセージが隠されていたんだよ!な、なんだってー!(AA略 :天道|信長の野望次回作「天道」は、7月上旬にスクリーンショットが公開された。「天道畏るべし」は「自然の道理や法則はおそれ敬うべきもので、逆らってはならない」という戒めを示す成句。 #areaedit(end) *初回ノ弐 &nicovideo(sm7810139) #areaedit() :万を超える軍馬が親不知を全速力で駆け抜ける|親不知は北アルプスが日本海に落ち込み断崖絶壁の連なる難所([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5]])。古来から北陸道最大の難所として知られ、旅人は波の退いたタイミングを見計らって波打ち際を通り抜けたという。実際の戦国時代では万を超える騎馬部隊というのもおかしい。 :うp主が好きな人物の一人の先祖|うp主による[[エンコード再々実験>http://www.nicovideo.jp/watch/sm3413950]]解説では、陶濬の末裔で政治家・医学者・書家・学者・道教思想家としてすぐれた足跡を残した陶弘景([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E5%BC%98%E6%99%AF]]、中国南北朝時代の人物)のことが語られている。 :いいぞもっとやれ|お言葉に甘えて。 :御実城様(おみじょうさま)|上杉謙信の敬称。信玄の「お屋形様」に相当するようなもの。春日山城は小高い山に多くの郭と屋敷が連なる山城であり、その中枢部(本丸)を「実城」と呼んだ。「御実城様」は「実城」の主のことである。 :もふ|[[七弾正の野望>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/553.html#id_520abda0]]参照。向こうの謙信は大鼠のもふもふ感に幻惑されていた。今回も相手が[[カピバラ様>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/125.html#id_da3199cf]]だからだろうか。 :黒土下座マジ最強|三国志Ⅸプレイ動画「[[登用プレイ>登用プレイ解説]]」ネタか? 事実上戦闘を封じた「登用プレイ」では、計略と盗用を容赦なく仕掛ける一方で贈答の使者を送り、友好度を維持した。そらぞらしい外交シーンに付けられたコメントが「黒土下座」。マジ最強であった。 :騒動息子/パパと一緒|武田義信は父信玄への謀叛を図ったとされるが、信玄もまた父信虎を放逐して当主の座に就いている。 :母……?|室町時代のなぞなぞに「母(はは)には二度会い、父(ちち)には一度も会わないもの(→答え:唇)」というものが残っている。こうしたことから古代・中世の日本語では「ハ行」の音が「パピプペポ」(あるいは「ファフィフフェフォ」)と発音されていたと考えられている。「パパ」という音を「母」と捉えても無理はない。なお、「おかあさんといっしょ」では父親追放なんて物騒なテーマを扱いません。 :あれな方の弟様|信玄・信繁・信廉は同母兄弟。信繁は「[[弟様>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_a295792b]]」と呼ばれ、武田家の支柱とも評されるが、信廉はぱっとしない。 :能登かわいいよ能登|声優能登麻美子に関するネタ。[[ニコニコ大百科>http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%83%BD%E7%99%BB%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%84%E3%82%88%E8%83%BD%E7%99%BB]]参照。 :遊佐続光/平和だな|[[遊佐続光>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/258.html#id_5a3b1005]]は能登守護代を務めたこともある遊佐家の当主で、美作守を称した。能登守護畠山家は政治の主導権をめぐっての家中騒動が絶えず、続光は主君の畠山義綱を追放、政敵を粛清して能登の実質的な支配者となった。「[[梟雄の野望>梟雄の野望 解説]]」では松永久秀すら呑む主役級の活躍をみせた。 :鞍川を呼ぶのが限度|鞍川清房・清経は越中氷見の豪族。1550年、義綱と対立した遊佐続光は鞍川氏の兵を味方に付けて七尾城に攻め寄せたが、続光は敗れ、鞍川父子は敗死している。 :奉行に栄転|「革新」では、[[奉行>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/343.html#id_ab865204]]への就任は事実上の左遷である。 :主でも入れない鉄壁|小山田信茂の居城・岩殿山城([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AE%BF%E5%B1%B1%E5%9F%8E]])は巨大な岩山を城砦化したもので、難攻不落を誇った。織田信長が甲斐に侵攻した際、信茂は主君勝頼に自らの居城に逃げ込むよう勧めながら途中で裏切り、勝頼を居城に入れなかった。 :柏崎より七尾の方が波とかまし|柏崎が日本海に直接面しているのに対し、七尾は七尾湾に面した天然の良港である。港町としては、古代に「香島津」と呼ばれた七尾の方が歴史が古く、規模も大きい。 :(CM)|「[[君主は陶濬>君主は陶濬解説]]」の、シリアスなほうのCM([[動画>http://www.nicovideo.jp/watch/sm7579936]])。今回はOPから顔君主の波状攻撃である。 :スモール典厩|「典厩」武田信繁の子、信豊も左馬助を称し「典厩」と呼ばれた。父(古典厩)と区別するために「小典厩」(あるいは「後典厩」)という。 :チート/真田は外れがない|さすが「例の一族」。BGMはチーターマン。なお、動物のチーターはcheetahであり、チートする人はcheaterである。 :長男次男なんて気のせいだ|真田昌幸は幸隆の三男。長男・信綱の能力値はぱっとせず、次男・昌輝に至っては「革新」に登場しない(「天翔記」に登場したのが最後)。 :こっちのがいいんじゃね?|「武田万里」は信玄の娘(三女という)で、木曾義昌に嫁いだ真竜院。史書では「真理姫」と記されることが多い。1582年、義昌が武田氏を裏切ると木曾山中に隠棲した。義昌の移封・木曾家の改易を見届け、1647年に98歳で死去。なお、史実で昌幸の妻となる山手殿(宇多頼忠の娘とされる)は長男信幸(1566年生まれ)・次男信繁(1567年生まれ)を儲け、関ヶ原後は信幸に引き取られる。1613年信州上田にて没(自害説あり)。どちらがより幸せかは本人にしかわからない。 :彼は彼で人望は高いかと/さっきの本来の旦那|真理姫を正室に迎え、武田家一門に組み込まれた木曾義昌であったが、事実上木曾谷を武田家の前線基地として支配されることになった。長篠戦後の武田氏からの離反は、軍役負担や財政面の負担から木曾の人々の不満が高まったことが一因。武田家からの離反に際しては、人質とされていた老母や息子・娘が処刑されるという悲劇にも耐えた。木曾谷に根付いた名門を預かり、家臣たちをよくまとめ、戦国を乗り切り、次代への生き残りに成功したといえる(もっとも、次の代で改易されてしまう)。後述するとおり、晩年に治めた下総では善政を敷いたといい、慕われている。 :何故に清岩(原虎胤)が松平にいる/彼の流転は運命なのか|徳川にいるのは前回龍興が追放したため。原虎胤は千葉氏重臣であった小弓城主・原氏の出身。1517年、虎胤21歳の折に小弓城が足利義明(のちに小弓公方と称される)に奪われ、父とともに甲斐に逃れて武田家に仕えた。法華宗信者で、信玄に浄土宗への宗旨替えを迫られたため出奔し、一時北条家に身を寄せたこともある。1559年、武田晴信が剃髪して信玄となった際に、原虎胤も一緒に剃髪して清岩と称した。 :旭市に免じて|長篠の合戦後武田氏を裏切り、その後秀吉によって徳川家康に所属させられた木曾義昌は、徳川家康の転封に伴い木曾谷を去り、下総阿知戸(現在の千葉県旭市)に1万石の領地を与えられた。義昌は善政を敷いたとこの地では伝えられており、「木曽義昌公史跡公園」に銅像が建てられている。「旭市」の地名も、義昌の先祖(ということになっている)「旭将軍」木曾義仲にちなんでいる。 :妻が半兵衛の……|妻が半兵衛の妻の剃髪後と同じ名前の隠居所に住んでる。由良(横瀬)成繁の妻・妙印尼ネタ。「[[解説および宣伝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/685.html#id_d4676c2d]]」参照。 :偽信玄説|従来「武田信玄の肖像」として知られてきた長谷川等伯筆の肖像画(高野山成慶院所蔵、重要文化財)について、近年の研究ではいくつかの疑問点が出され、像主(肖像画の主)は実は信玄ではないのではないか、という見解が示されるようになった。学会ではこの疑義は支持されており、歴史教科書・学術書やNHKの教養番組などでは「信玄の像」として成慶院所蔵の肖像画(恰幅のいいヒゲのハゲ)を使用することには慎重になっている。じゃあ像主は誰よ、となると諸説あるが、畠山義続というのが有力説の一つ。 :それにつけても金の欲しさよ|どんな上の句にも必ずつながる魔法の下の句。江戸時代後期の狂歌人・太田南畝(蜀山人)の「世の中は いつも月夜と米の飯 それにつけても金の欲しさよ」が元ネタとされる。落語のマクラなどで紹介されることがある。 :高城胤吉/千葉は城だらけ|千葉氏は平安以来の名族であるが、戦国の頃には内紛の果てに凋落し、「千葉に原、原に高城、両酒井」――「千葉氏を支えていたのは重臣の原氏であり、その原氏も家臣の高城氏と両酒井氏(土気・東金)によって支えられている」と言われる状況であった。高城胤吉は原氏庶流の出身で、小弓失陥後の原氏や惣領の千葉氏を支えて葛飾郡東部一帯を治めた。国府台の合戦では北条方で参戦し活躍している。高城胤吉ら千葉の家臣たち(多くは千葉家庶流の出身)は独自の勢力を持ちながら(それぞれ北条家の支配下に組み込まれながら)も宗家を立て、北条家滅亡の際に千葉重胤が改易されるまで宗家の命脈を保たせた。「人は城」とするならば、千葉氏は多くの「城」に守られていたと言える。もっとも、龍興は千葉県には城が多いと言っているだけのようだ。たとえば「[[余湖くんのお城のページ>http://homepage3.nifty.com/yogokun/]]」には1200近い千葉県の城が紹介されている。このサイトのほか、千葉の古城を詳しく扱ったサイトがいくつかあるので、覗いてみてはいかがだろう。 :システム的に絶望|追放をしたため恨みフラグが立っており、登用はムリ。 #areaedit(end) *初回ノ参 &nicovideo(sm7946440) #areaedit() :(龍興の顔)|太閤立志伝5仕様のグラ。「[[斎藤龍興を普通にプレイ>斎藤龍興を普通にプレイ解説]]」35([[動画>http://www.nicovideo.jp/watch/sm7831132]])のおまけで、革新顔グラのコラージュが用いられたこととクロスしている。向こうの龍興は美人でかわいい鶴(村上水軍の女性武将※)を嫁にしており、そのいちゃいちゃっぷりに「鶴タンには俺もあんなにボトルを入れたのに!メタボのくせに実にねたましい!龍興死ね!」と一部視聴者が嫉妬。これに応えて「かっこいい龍興」にしてみたという結婚記念企画であった。いつも片方だけ見ているとダメ殿にしか見えないグラなのに、たまに入れ替えると渋く見えたりかっこよく見えたりするふしぎ!&br()※太閤立志伝の鶴は架空武将。大三島の鶴姫([[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%A7%AB_(%E5%A4%A7%E4%B8%89%E5%B3%B6)]])がモデルと思われるが、年代が少し異なる。 :すべての道はローマに通ず|欧州の成句(英語:All roads lead to Rome)。古代ローマの交通網になぞらえ「たとえ手段は違っても目指す場所(目的)は同じ」といった意味を示す。あさっての方向に向かっているように見える進軍の道は柏崎港につながっているはずで、無謀な戦略もミッションクリアに行き着くはず。 :太閤顔の又助|太閤立志伝5の顔グラの太田牛一。太田牛一は「信長の野望・革新」には登場しない。 :正面にござりましょうや、後方にござりましょうや?|全ての道が通じるという目的地(ローマ)・柏崎港は越後。あきらかに現在地能登の後方。 :Nice boat./水軍衆|ニコニコ歴戦ゲ界隈では、よい働きをした水軍衆が[[nice boat.>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/128.html#id_3ff793f3]]と呼ばれるようになっている。はるばる丹後まで出かけるのは、「革新」では能登や越後を含めた北陸沿岸が「丹後水軍」の管轄のため。旧作では能登にも水軍衆があったのだが。 :家が割れると先が苦しうございます|原虎胤は千葉一族出身。千葉家は室町時代後期に内紛が生じ、大きく勢力を衰えさせた。 :手が打てるなら早ければ早いほど/家に乱れの兆しがあれば|1579年、家康の長男・信康は、織田信長から武田家への内通などの嫌疑をかけられる。酒井忠次は安土城に赴いたが、信康を庇うことができず(庇うことをせず)、信康は結局自害に追い込まれる。家康の悲劇と語られることが多い信康事件だが、徳川親子の対立、あるいは徳川家内部の権力闘争(家康直属の浜松派と、信康配下の岡崎派との対立)を、家康(あるいは酒井忠次ら浜松派)が信長の了解を得て決着させたという見解もある。 :見所のある者ども|榊原康政・本多忠勝は、酒井忠次と並んで徳川四天王の構成メンバー。1562年時点でともに15歳という、見所のありすぎる若武者たち。「チートに英才教育」タグもうなずける。なお、井伊直政はまだ乳児(1561年生まれ)。 :クリッククリックどかーんどかーん|社交ダンスの基本的なステップで「クイック・クイック・スロー・スロー」というのがあるが、関係するのかしらん。優雅な解体作業である。 :のんびり出荷しないと早く尽きんじゃね|甲斐の特産物は金。史実では、信玄の晩年あたりから甲斐の金山は枯渇を始め、財政問題は武田家の進路に影響を与えた。なお、ゲーム上で特産物が枯渇することはない。 :時代は水軍だろ|前作「[[竹中半兵衛の憂鬱>竹中半兵衛の憂鬱解説]]」で龍興が育てた美濃水軍は、戦国一の陸(おか)水軍である。 :かがみん|「らき☆すた」の柊かがみ。「[[らきすた☆立志伝>>らきすた☆立志伝解説]]」や「[[小早川ゆたかの降臨>>小早川ゆたかの降臨解説]]」では、北条氏政がかがみん萌えだった。うp主の前作「竹中半兵衛の憂鬱」第五回後編でも、家臣を引き連れて鷲宮神社に参拝しており、その留守中に斎藤家に小田原を攻められていた。 :駿河が崩れてから|婚姻関係で堅く結ばれたはずの甲相駿三国同盟だったが、今川義元が桶狭間で討たれてからは信玄が駿河への進出を図るようになり、関係は微妙なものになった。 :縁戚相手に構えてばかり/親父の愛情表現|龍興の父・斎藤義龍を中心に考えると、浅井家は妻の実家、織田家は妹(濃姫)の嫁ぎ先。その双方とも戦っている。 :海があれば塩はなんとかなる|塩は人間の必須物質であるため、信玄は「軍師」龍興の慧眼に感じ入っているようだが、もちろん甲駿の婚姻同盟が破綻した際に今川氏真と北条氏康がおこなう経済封鎖「塩留め」に絡めたネタ。 :小笠原貞慶/殺してでも奪い取る/お約束|小笠原貞慶は、信玄によって領国を追われた小笠原長時の子。「信長の野望」において、等級の高い家宝を複数持つ小笠原貞慶は「[[歩く家宝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/124.html#id_cf311fe0]]」と呼ばれて親しまれており、その人気は龍興のハイテンションからも窺える。「[[戦国のガラハド>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/125.html#id_ee2f9e6d]]」の異名の通り「(アイテムを)殺してでも奪い取る」→「な、何をする貴様らー」(アイテム没収、ときどき処断つき)の展開がお約束で、そこかしこの動画で憂鬱な目に遭っている。この場面のBGMは元祖「ガラハド」の登場した『ロマンシング サ・ガ』からで、「殺してでも奪い取る」気満々。 :(CM)|「佐竹の人」が制作した「[[太閤佐竹滅亡録>関東地方で頑張ってみる解説]]」のCM「[[太閤佐竹偽CM>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4505074]]」。CM明けに一瞬何かが映っているが、これはCMに入る前にも表示されていたゲーム画面の小笠原発見報告である(コマ送りして確かめたので間違いない)。このCMが選ばれたのは、(1)このCM動画と兄弟関係にある「[[ニコニコ歴史戦略ゲーム偽PV・信長の野望革新編>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4541390]]」では、ラストの一瞬で小笠原が処断されているから。(2)佐竹の人の新作「[[太閤佐竹衰亡録(カリブの海で頑張ってみる)>>カリブの海で頑張ってみる解説]]」は水軍(海賊)ヒャッハー動画だから。(3)太閤佐竹衰亡録Act.01で「ああ、窓に!!窓に!!」ネタ(後述)を使っているから。……という理由かもしれないが、意味のない深読みかもしれない。 :小笠原が武田に信濃で膝を屈する訳があるまい|小笠原氏は信濃守護。反武田を貫き激しい戦いを繰り広げた相手なので、ゲーム上やすやすと軍門に降るのには信玄もがっかりなようだ。 :大クマーなら顔見知りだし、木曾を除いた南信濃で手を打てと伝えたから|小笠原親子は一時期上杉家に身を寄せたので、大熊朝秀とも面識があったかもしれない。小笠原氏は「烈風伝」などでは「南信濃」の大名として配置されていた。木曾は史実で武田一門の(「龍興記」では一門入りし損ねた)木曾義昌の領地。&br()#ネタタグで【お前に信濃の半分をやろう】というのがあったが、これの元ネタは『ドラゴンクエスト(初代)』のラスボス・竜王が主人公にささやくセリフ「世界の半分をお前にやろう」。ホイホイ応じると即バッドエンド。 :大祝|大祝(おおはふり)は、神官長というべきポスト。諏訪頼忠は諏訪神社の大祝を務めていた。 :湖雲斎|小笠原長時の法号。武田信玄に追われて上杉氏のもとに逃げ込んだあと、三好氏を頼って上洛。史実ではこのとき、足利義輝の弓馬の指南役を務めていたらしい。さすが小笠原流宗家。その後も流転の日々を送り、1583年に会津で死去。湖雪斎とも。 :爆弾になってもっと効果的|敵国経済破壊兵器小笠原。「[[小笠原爆弾>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_5d0cf1af]]」参照。誰だ、こんな絶妙なネーミングを考えた奴は。 :小笠原流の真似が出来る訳がなかろう/どうであれこれは返せ|小笠原流は武家礼法の家元。[[本>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_86bea3aa]]やら[[弓>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/357.html#id_2d93ce0b]]やらを与えればすぐ小笠原流をマスター、というのは通信教育で空手を極めるくらいありえないが、システムだからしょうがない。一度取り上げた家宝を返すことで忠誠度を上げる小技は、マイリストに解説されている。 :武田家が壊れていく/時代の先取り|嫡男粛清、家内不和、長篠合戦、一族離反などを経て1582年武田家滅亡。 :解説様が見てる/嗚呼、作業窓に!!作業窓に!!|前者の元ネタは小説「マリア様が見てる」。後者は、「クトゥルフ神話体系」を構成するラヴクラフトの小説「ダゴン」の末尾の一節「ああ、窓に!!窓に!!」。最後にそう記された長い手記は、筆者の身を襲った変事を暗示して唐突に終わっている。前回にもあった、wiki解説編集者がうp主のPCをハッキングしたりネタ帳をチェックしたりしてネタ元を探っているかもしれないというネタ。&br()#うp主様の豊富な話題の引き出しを溝口顔で覗き込みたいのは山々です。 #areaedit(end) *初回ノ肆 &nicovideo(sm8072359) #areaedit() :我が小笠原流の新たな真髄/他の弓より実戦向きじゃなくね|鎌倉時代に起源を持つという小笠原流の武家礼法は、室町時代に将軍家に重んじられて発展を遂げた。小笠原貞慶は、小笠原氏の惣領・小笠原流礼法の継承者として「小笠原礼書七冊」を編纂・集大成した人物である。儀礼用ということで華美なイメージを持たれがちであるが、「小笠原礼書七冊」に記された故実や作法は、質朴な武家の心を伝えるものとされている。 :松尾とも争う必要もなくなって|戦国期、信濃守護小笠原氏はいくつかの有力支族に分裂した。小笠原氏の嫡流は、長時・貞慶が属する府中小笠原家だが、伊奈地方の松尾城(現・飯田市)に拠点を置いた松尾小笠原家も大きな勢力を誇り、対立と抗争を繰り返していた。松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、府中小笠原家との対抗上、1554年に武田家に降っている。 :そっちも祖先が仲間割れ|美濃守護土岐家、美濃守護代斎藤家は、室町期にその名をとどろかせた有力な家門であったが、親子兄弟が争う深刻な内紛を繰り返した末、新興勢力である斎藤道三に国を奪われた。そしてその道三も身内との抗争に敗れるのである。 :阿智の杜/そこに祀られたと仰せの神|長野県西南部・下伊那郡阿智村にある阿智神社。延喜式に記された古い歴史を持つ神社である。祭神は天表春命(アメノウワハルノミコト)と天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)。オモイカネは東方キャラ・八意永琳のモチーフになっている。 :その近くは武田にはやばくね|武田信玄が1573年に没した駒場は、阿智村の一部(ただし信玄終焉の地には異説もある)。 :膂力が驚くほど向上|八意永琳の持ち物には弓がある。武芸の流派には、神から奥義を示されるという逸話が多いのだが。( ゚∀゚)o彡゜えーりん!えーりん! :滅亡中にもう変わり身している|遊佐続光は畠山義続・義綱父子を国外に追放し、義綱の子義慶を傀儡として擁立した。しかし天正5年の上杉謙信による能登侵攻の際、七尾城に籠城している最中に対立する長一族を皆殺しにして上杉に降伏し、畠山家滅亡の原因となった。 :仲良く喧嘩しな|元ネタは『トムとジェリー』主題歌。遊佐氏・長氏・温井氏は血みどろの抗争を繰り広げた。 :旗や幟/(切裂いて繋げば解決)|時事ネタ。民主党の某候補が日の丸を切り張りして党旗をこさえ、物議となった件であろう。 :鶴のお吸い物|肝付家と島津家のエピソードから。島津家重臣・伊集院忠朗が、肝付家(家紋が鶴)の家臣・薬丸兼将に鶴の吸い物を勧めたことで(あるいは「お吸い物の具は鶴か?」と戯れを言ったことで)両家の関係は決裂し、合戦は肝付家が滅ぼされるまで続いた(もっとも、鶴の吸い物の逸話は後世の創作ともいう)。家とか組織とか国家とかの象徴とされる意匠を軽んじるのは、それくらいやってはいけない。小笠原は怒ってもいい。 :羽茂に柏崎|羽茂(はもち)は佐渡南岸の港町で、柏崎から海を隔ててほぼ北に位置する。戦国時代には羽茂本間家(佐渡守護本間氏の有力な分家で、佐渡の南半分を支配下に収めていた)の拠点であった。「革新」では佐渡はただの海上障害物。 :繋がりましたな|本間一族は謙信の父である為景を支持、保護した越後の有力国人衆であり、越後を攻める武田家の敵となる可能性が高い。その為、海上から柏崎を攻めるとなれば自家に水軍を持たない武田家からすると越後地域を含む海上に勢力をもつ丹後水軍衆を味方にする事は柏崎港攻めに必要不可欠。 :佐渡金山|有名な佐渡金山(相川金山)が発見されたのは1601年で、実は戦国時代にはまだ発見されていない。鉱物資源の豊かな島であるがそれらの開発が進むのは江戸時代に入ってからであり、戦国時代は砂金の採取や小規模な銀の採掘が行われるにとどまっていたようである。 :知っているがあいつの態度が気に入らない|元ネタはネット上の定型句「知っているがお前の態度が気に入らない」。画像掲示板等でクレクレ厨を突き放す一言。 :この時代の俺の年齢|1562年時点で14歳。オトナゲナイのでなく、オトナでない。さんざんメタっておきながら、いまさら史実を持ち出すのもひどい話だ。 :毘沙門天に正面の方角から挑むとは|毘沙門天は「十二天」の一で、北方の守護者。また四天王の一・多聞天を毘沙門天と同一視することがあり、こちらも北方の守護者。外敵の侵入から内側を守るとすれば、毘沙門天は北を向いて睨みを利かせていることになる。つまり、海の「北」から攻め寄せてきた武田軍は、まさに毘沙門天=謙信に「正面」から挑んだということになる。&br()#うp主様、追加ヒント感謝(合ってるかな?)。 #areaedit(end) ---- #center(){[[▼ネタ解説2>>龍興記ネタ解説2]]} ---- *コメント欄 #include(龍興記解説コメント)
[[龍興記>龍興記解説]] > &bold(){ネタ解説} [[ネタ解説2>龍興記ネタ解説2]] ---- #contents(fromhere) ---- *序 |&nicovideo(sm7347857)|&nicovideo(sm8087752)| #areaedit() :さてと、信長の野望革新PKが何たるかは大体判ったぞ|前作[[竹中半兵衛の憂鬱>竹中半兵衛の憂鬱解説]]を踏まえて。 :全国の女子高校生の皆様|元ネタはタイムボカンシリーズ。ヤッターマンのボヤッキーなどが女子高生ネタを繰り出していた。 :PKチュートリアル/殿よりある意味逸材の方|特産物・諸勢力・貿易など、PK追加要素のチュートリアルは一条兼定と土居宗珊が担当している。 :新作の発表も近いでしょう|動画投稿時点(2009年6月15日)では「信長の野望13」と仮称され、秋発売がアナウンスされていた「天道」。 :どうせ発売当初は顔が間に合わないとか|顔グラの規格が大幅に変更された天下創世では、発売当初一部の武将で顔グラの使いまわしが行われた。修正パッチとPKの導入でようやく全武将にオリジナルの顔グラが提供された。 :神箭「糾方の系譜」|小笠原貞慶は、室町幕府のスタンダードとなった武家故実の宗家・小笠原家の当主で、ゲーム的には[[歩く家宝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/124.html#id_cf311fe0]]として有名。カットインは東方シリーズのスペルカード風演出で、元ネタは八意永琳の“神符「天人の系譜」”と思われる。糾方(きゅうほう)は小笠原流で弓法のこと。ちなみに、永琳の持ち物には弓矢があるというつながりがある。。&br()※このカットインは[[西園寺世界の逆襲>西園寺世界の逆襲解説]]にも提供された(第56話でお目見え)。一緒に"畢竟「歩く宝物殿」"というスペカ?も提供されている。「畢竟(ひっきょう)」は「結局」「つまるところ」の意味。 :紙芝居並行型純プレイ動画|(ツッコミ1)「純プレイ」は「紙芝居」(ストーリーパート)を含まないプレイ動画を指すので、この表現はおかしい。(ツッコミ2)純粋なプレイでなくて「ネタプレイ」じゃないのか。 :水戸黄門でもいいぞ|うp主が運営サイドで関わっていた[[HR(history-reproduction)>history-reproduction解説]]ネタ。うp主がシナリオを制作していた戦国中継動画では、水戸光圀と助さん格さんが進行役を務めていたのだが、ご老公(超監督)はまったく自重していなかった。 #areaedit(end) *解説および宣伝 &nicovideo(sm7653434) #areaedit() :前作終了時にあれだけ綺麗に纏まった|竹中半兵衛の憂鬱大尾参照。シリアスでしんみりした余韻を残す作品だった。 :しもけーねに無かった事にされた|「[[けーねに無かった事にされた>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/319.html#id_372db0e7]]」とは言われる。「[[しもけーね>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/352.html#id_0eae2430]]」は[[東方紅海夜>東方紅海夜 解説]]・[[東方白虎宴>東方白虎宴 解説]]参照。 :普通にやっても解けないの|[[九州席巻>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/317.html#id_811fb19c]]。 :[[(顔君主)>君主は陶濬 解説]]|マークの元ネタは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「笑い男マーク」([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E3%81%84%E7%94%B7_(%E6%94%BB%E6%AE%BB%E6%A9%9F%E5%8B%95%E9%9A%8A)]]参照)。ネット上の動画・画像では、顔などのプライバシーを守る用途で使われたりする。縁に書かれているのはサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の一節「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes(僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた)」で元ネタ「笑い男」通り。やめて顔君主様口をつぐまないで。 :考えるな、感じろ|元ネタは映画『死亡遊戯』でのブルース・リー演じる武術家のセリフ。Don't Think. Feel! :動画祭に出展|7月17日開催の「ネタ☆MAD3rd」([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8D%E3%82%BF%E2%98%86mad3rd]])。 :当動画の宣伝|素材は1988年の米国映画『Return of the Killer Tomatoes!』。『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト(Attack of the Killer Tomatoes!)』の続編([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%88]])。どう見てもB級映画です。本当に(ry :得月院|半兵衛の正室、安藤守就の娘。「得月院」は半兵衛の死後出家してからの名前。 :無茶苦茶強そう/別人の隠居先の名|戦国最強ばあちゃんの一人と目される由良成繁室・妙印尼([[ニコ百>http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%94%B1%E8%89%AF%E6%88%90%E7%B9%81]]参照)ネタ。牛久の領地を息子に譲った彼女が隠居した「得月亭」は、死後に菩提寺「得月院」となった。得月院は牛久市に現存している([[得月院ホームページ>http://www.ushiq.net/~ushiq/tokugetuin/index.html]])。 #areaedit(end) *初回ノ壱 &nicovideo(sm7662919) #areaedit() :若狭や真里谷のスタートで即解決/革新には御座りませぬ|武田氏の一族である若狭武田氏、真里谷氏(上総武田氏)は海に面した領国を持っている。蒼天録では大名として存在したが、革新では武将としても存在しない。 :一国で一つっておかしくね?|若狭武田氏は若狭守護を務め、上総武田氏は小弓公方の下で房総管領を自称するほどの勢力を持っていた。それぞれ大名として登場し、「武田家」が日本に複数あってもおかしくはない。 :蠣崎|戦国蠣崎氏の祖・信広は若狭武田氏の出身と称している。 :謎の軍師|ふつうは山本勘助のほうにかかる枕詞ではある。 :暴徒対策|ゲーム上の諸勢力「国人衆」を、ニコニコ歴戦ゲ界隈では「[[暴徒>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/345.html#id_7f432bb1]]」と呼び習わしている。 :飯富兵部とか将来やばくね?|飯富虎昌は義信を奉じて信玄に対して謀叛を図ったとの廉で処断される。 :大クマー|大熊朝秀は越後国人出身。上杉家から離反し武田家臣となった。妻は小幡虎盛の娘・小宰相。 :身の程を知れ|小幡虎盛は死に際し「みのほどをしれ」との戒めを残した。 :ぱわわ|元ネタは[[チルノがゆく>チルノがゆく解説]]。肥前のクマー龍造寺隆信が「ぱわわ」としゃべる作品。 :美濃は俺のものだ|原虎胤の官途名は美濃守。鬼美濃、夜叉美濃などと呼ばれた。 :馬場殿|馬場信春の官途名も美濃守。 :敵ながら天晴れ|『信長公記』では長篠の合戦時の描写で「馬場美濃守手前の働き比類なし」と賞賛されている。 :実際はともかく|甲斐は古くから良馬の産地として有名ではあるが、騎馬武者の集団突撃というイメージで語られる「武田騎馬軍団」と呼ばれるような存在は実際には無かった。 :典厩|武田信繁の官途は左馬助(唐名が「典厩」)。朝廷が保有する馬の飼育・管理・調教を掌る馬寮の次官。 :海へ行きたいかー/罰ゲームは怖くないかー|元ネタは「アメリカ横断ウルトラクイズ」。「ニューヨークへ行きたいかー」。 :弾正ズ|高坂・保科・真田。[[竹中半兵衛の野望・七弾正の野望>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/553.html#id_520abda0]]も参照。 :茨るぁ城ぃぃ|元ネタはラーメンズ。「千葉!滋賀!佐賀!」で検索するべし。大河ドラマ「風林火山」では村上義清との上田原の戦いで板垣信方(千葉真一)の戦死を聞いた武田晴信(カピバラ様)が「板垣ぃぃぃ」と絶叫していた。 :諏訪|諏訪家と武田家はいろいろ愛憎のある間柄。信玄は義弟でもあった諏訪頼重を滅ぼしてその娘・諏訪御寮人を側室とし、諏訪四郎勝頼を生ませた。ここで登用された諏訪頼忠は、諏訪頼重・諏訪御寮人の従弟で、諏訪大社大祝。のちに徳川家に仕え、大名としての命脈を残した。 :太郎は何をした/したんじゃなくて、するんだがな|武田義信は父信玄と対立。信玄によって幽閉され、自害に追い込まれる。 :二隊に別けうまく誘導し|まさに啄木鳥戦法。 :(CM)|「お隣」アイマス架空戦記の天下創世プレイ動画「美希の天下創世」のCM。この作品は「播磨のゆとり」こと星井美希が戦国を駆ける動画。合戦の操作が尋常ではないことから、うp主・別所就治Pは「リアル軍神」とも呼ばれている。(1)謙信が出てきたところで「軍神」つながり。(2)美希はアイマス界隈では、髪型から「みのむし」、言動から「ゆとり」などと呼ばれている。つまり、「みのむしでゆとり」→「美濃のゆとり」→斎藤龍興というメッセージが隠されていたんだよ!な、なんだってー!(AA略 :天道|信長の野望次回作「天道」は、7月上旬にスクリーンショットが公開された。「天道畏るべし」は「自然の道理や法則はおそれ敬うべきもので、逆らってはならない」という戒めを示す成句。 #areaedit(end) *初回ノ弐 &nicovideo(sm7810139) #areaedit() :万を超える軍馬が親不知を全速力で駆け抜ける|親不知は北アルプスが日本海に落ち込み断崖絶壁の連なる難所([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5]])。古来から北陸道最大の難所として知られ、旅人は波の退いたタイミングを見計らって波打ち際を通り抜けたという。実際の戦国時代では万を超える騎馬部隊というのもおかしい。 :うp主が好きな人物の一人の先祖|うp主による[[エンコード再々実験>http://www.nicovideo.jp/watch/sm3413950]]解説では、陶濬の末裔で政治家・医学者・書家・学者・道教思想家としてすぐれた足跡を残した陶弘景([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E5%BC%98%E6%99%AF]]、中国南北朝時代の人物)のことが語られている。 :いいぞもっとやれ|お言葉に甘えて。 :御実城様(おみじょうさま)|上杉謙信の敬称。信玄の「お屋形様」に相当するようなもの。春日山城は小高い山に多くの郭と屋敷が連なる山城であり、その中枢部(本丸)を「実城」と呼んだ。「御実城様」は「実城」の主のことである。 :もふ|[[七弾正の野望>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/553.html#id_520abda0]]参照。向こうの謙信は大鼠のもふもふ感に幻惑されていた。今回も相手が[[カピバラ様>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/125.html#id_da3199cf]]だからだろうか。 :黒土下座マジ最強|三国志Ⅸプレイ動画「[[登用プレイ>登用プレイ解説]]」ネタか? 事実上戦闘を封じた「登用プレイ」では、計略と盗用を容赦なく仕掛ける一方で贈答の使者を送り、友好度を維持した。そらぞらしい外交シーンに付けられたコメントが「黒土下座」。マジ最強であった。 :騒動息子/パパと一緒|武田義信は父信玄への謀叛を図ったとされるが、信玄もまた父信虎を放逐して当主の座に就いている。 :母……?|室町時代のなぞなぞに「母(はは)には二度会い、父(ちち)には一度も会わないもの(→答え:唇)」というものが残っている。こうしたことから古代・中世の日本語では「ハ行」の音が「パピプペポ」(あるいは「ファフィフフェフォ」)と発音されていたと考えられている。「パパ」という音を「母」と捉えても無理はない。なお、「おかあさんといっしょ」では父親追放なんて物騒なテーマを扱いません。 :あれな方の弟様|信玄・信繁・信廉は同母兄弟。信繁は「[[弟様>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_a295792b]]」と呼ばれ、武田家の支柱とも評されるが、信廉はぱっとしない。 :能登かわいいよ能登|声優能登麻美子に関するネタ。[[ニコニコ大百科>http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%83%BD%E7%99%BB%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%84%E3%82%88%E8%83%BD%E7%99%BB]]参照。 :遊佐続光/平和だな|[[遊佐続光>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/258.html#id_5a3b1005]]は能登守護代を務めたこともある遊佐家の当主で、美作守を称した。能登守護畠山家は政治の主導権をめぐっての家中騒動が絶えず、続光は主君の畠山義綱を追放、政敵を粛清して能登の実質的な支配者となった。「[[梟雄の野望>梟雄の野望 解説]]」では松永久秀すら呑む主役級の活躍をみせた。 :鞍川を呼ぶのが限度|鞍川清房・清経は越中氷見の豪族。1550年、義綱と対立した遊佐続光は鞍川氏の兵を味方に付けて七尾城に攻め寄せたが、続光は敗れ、鞍川父子は敗死している。 :奉行に栄転|「革新」では、[[奉行>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/343.html#id_ab865204]]への就任は事実上の左遷である。 :主でも入れない鉄壁|小山田信茂の居城・岩殿山城([[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AE%BF%E5%B1%B1%E5%9F%8E]])は巨大な岩山を城砦化したもので、難攻不落を誇った。織田信長が甲斐に侵攻した際、信茂は主君勝頼に自らの居城に逃げ込むよう勧めながら途中で裏切り、勝頼を居城に入れなかった。 :柏崎より七尾の方が波とかまし|柏崎が日本海に直接面しているのに対し、七尾は七尾湾に面した天然の良港である。港町としては、古代に「香島津」と呼ばれた七尾の方が歴史が古く、規模も大きい。 :(CM)|「[[君主は陶濬>君主は陶濬解説]]」の、シリアスなほうのCM([[動画>http://www.nicovideo.jp/watch/sm7579936]])。今回はOPから顔君主の波状攻撃である。 :スモール典厩|「典厩」武田信繁の子、信豊も左馬助を称し「典厩」と呼ばれた。父(古典厩)と区別するために「小典厩」(あるいは「後典厩」)という。 :チート/真田は外れがない|さすが「例の一族」。BGMはチーターマン。なお、動物のチーターはcheetahであり、チートする人はcheaterである。 :長男次男なんて気のせいだ|真田昌幸は幸隆の三男。長男・信綱の能力値はぱっとせず、次男・昌輝に至っては「革新」に登場しない(「天翔記」に登場したのが最後)。 :こっちのがいいんじゃね?|「武田万里」は信玄の娘(三女という)で、木曾義昌に嫁いだ真竜院。史書では「真理姫」と記されることが多い。1582年、義昌が武田氏を裏切ると木曾山中に隠棲した。義昌の移封・木曾家の改易を見届け、1647年に98歳で死去。なお、史実で昌幸の妻となる山手殿(宇多頼忠の娘とされる)は長男信幸(1566年生まれ)・次男信繁(1567年生まれ)を儲け、関ヶ原後は信幸に引き取られる。1613年信州上田にて没(自害説あり)。どちらがより幸せかは本人にしかわからない。 :彼は彼で人望は高いかと/さっきの本来の旦那|真理姫を正室に迎え、武田家一門に組み込まれた木曾義昌であったが、事実上木曾谷を武田家の前線基地として支配されることになった。長篠戦後の武田氏からの離反は、軍役負担や財政面の負担から木曾の人々の不満が高まったことが一因。武田家からの離反に際しては、人質とされていた老母や息子・娘が処刑されるという悲劇にも耐えた。木曾谷に根付いた名門を預かり、家臣たちをよくまとめ、戦国を乗り切り、次代への生き残りに成功したといえる(もっとも、次の代で改易されてしまう)。後述するとおり、晩年に治めた下総では善政を敷いたといい、慕われている。 :何故に清岩(原虎胤)が松平にいる/彼の流転は運命なのか|徳川にいるのは前回龍興が追放したため。原虎胤は千葉氏重臣であった小弓城主・原氏の出身。1517年、虎胤21歳の折に小弓城が足利義明(のちに小弓公方と称される)に奪われ、父とともに甲斐に逃れて武田家に仕えた。法華宗信者で、信玄に浄土宗への宗旨替えを迫られたため出奔し、一時北条家に身を寄せたこともある。1559年、武田晴信が剃髪して信玄となった際に、原虎胤も一緒に剃髪して清岩と称した。 :旭市に免じて|長篠の合戦後武田氏を裏切り、その後秀吉によって徳川家康に所属させられた木曾義昌は、徳川家康の転封に伴い木曾谷を去り、下総阿知戸(現在の千葉県旭市)に1万石の領地を与えられた。義昌は善政を敷いたとこの地では伝えられており、「木曽義昌公史跡公園」に銅像が建てられている。「旭市」の地名も、義昌の先祖(ということになっている)「旭将軍」木曾義仲にちなんでいる。 :妻が半兵衛の……|妻が半兵衛の妻の剃髪後と同じ名前の隠居所に住んでる。由良(横瀬)成繁の妻・妙印尼ネタ。「[[解説および宣伝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/685.html#id_d4676c2d]]」参照。 :偽信玄説|従来「武田信玄の肖像」として知られてきた長谷川等伯筆の肖像画(高野山成慶院所蔵、重要文化財)について、近年の研究ではいくつかの疑問点が出され、像主(肖像画の主)は実は信玄ではないのではないか、という見解が示されるようになった。学会ではこの疑義は支持されており、歴史教科書・学術書やNHKの教養番組などでは「信玄の像」として成慶院所蔵の肖像画(恰幅のいいヒゲのハゲ)を使用することには慎重になっている。じゃあ像主は誰よ、となると諸説あるが、畠山義続というのが有力説の一つ。 :それにつけても金の欲しさよ|どんな上の句にも必ずつながる魔法の下の句。江戸時代後期の狂歌人・太田南畝(蜀山人)の「世の中は いつも月夜と米の飯 それにつけても金の欲しさよ」が元ネタとされる。落語のマクラなどで紹介されることがある。 :高城胤吉/千葉は城だらけ|千葉氏は平安以来の名族であるが、戦国の頃には内紛の果てに凋落し、「千葉に原、原に高城、両酒井」――「千葉氏を支えていたのは重臣の原氏であり、その原氏も家臣の高城氏と両酒井氏(土気・東金)によって支えられている」と言われる状況であった。高城胤吉は原氏庶流の出身で、小弓失陥後の原氏や惣領の千葉氏を支えて葛飾郡東部一帯を治めた。国府台の合戦では北条方で参戦し活躍している。高城胤吉ら千葉の家臣たち(多くは千葉家庶流の出身)は独自の勢力を持ちながら(それぞれ北条家の支配下に組み込まれながら)も宗家を立て、北条家滅亡の際に千葉重胤が改易されるまで宗家の命脈を保たせた。「人は城」とするならば、千葉氏は多くの「城」に守られていたと言える。もっとも、龍興は千葉県には城が多いと言っているだけのようだ。たとえば「[[余湖くんのお城のページ>http://homepage3.nifty.com/yogokun/]]」には1200近い千葉県の城が紹介されている。このサイトのほか、千葉の古城を詳しく扱ったサイトがいくつかあるので、覗いてみてはいかがだろう。 :システム的に絶望|追放をしたため恨みフラグが立っており、登用はムリ。 #areaedit(end) *初回ノ参 &nicovideo(sm7946440) #areaedit() :(龍興の顔)|太閤立志伝5仕様のグラ。「[[斎藤龍興を普通にプレイ>斎藤龍興を普通にプレイ解説]]」35([[動画>http://www.nicovideo.jp/watch/sm7831132]])のおまけで、革新顔グラのコラージュが用いられたこととクロスしている。向こうの龍興は美人でかわいい鶴(村上水軍の女性武将※)を嫁にしており、そのいちゃいちゃっぷりに「鶴タンには俺もあんなにボトルを入れたのに!メタボのくせに実にねたましい!龍興死ね!」と一部視聴者が嫉妬。これに応えて「かっこいい龍興」にしてみたという結婚記念企画であった。いつも片方だけ見ているとダメ殿にしか見えないグラなのに、たまに入れ替えると渋く見えたりかっこよく見えたりするふしぎ!&br()※太閤立志伝の鶴は架空武将。大三島の鶴姫([[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%A7%AB_(%E5%A4%A7%E4%B8%89%E5%B3%B6)]])がモデルと思われるが、年代が少し異なる。 :すべての道はローマに通ず|欧州の成句(英語:All roads lead to Rome)。古代ローマの交通網になぞらえ「たとえ手段は違っても目指す場所(目的)は同じ」といった意味を示す。あさっての方向に向かっているように見える進軍の道は柏崎港につながっているはずで、無謀な戦略もミッションクリアに行き着くはず。 :太閤顔の又助|太閤立志伝5の顔グラの太田牛一。太田牛一は「信長の野望・革新」には登場しない。 :正面にござりましょうや、後方にござりましょうや?|全ての道が通じるという目的地(ローマ)・柏崎港は越後。あきらかに現在地能登の後方。 :Nice boat./水軍衆|ニコニコ歴戦ゲ界隈では、よい働きをした水軍衆が[[nice boat.>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/128.html#id_3ff793f3]]と呼ばれるようになっている。はるばる丹後まで出かけるのは、「革新」では能登や越後を含めた北陸沿岸が「丹後水軍」の管轄のため。旧作では能登にも水軍衆があったのだが。 :家が割れると先が苦しうございます|原虎胤は千葉一族出身。千葉家は室町時代後期に内紛が生じ、大きく勢力を衰えさせた。 :手が打てるなら早ければ早いほど/家に乱れの兆しがあれば|1579年、家康の長男・信康は、織田信長から武田家への内通などの嫌疑をかけられる。酒井忠次は安土城に赴いたが、信康を庇うことができず(庇うことをせず)、信康は結局自害に追い込まれる。家康の悲劇と語られることが多い信康事件だが、徳川親子の対立、あるいは徳川家内部の権力闘争(家康直属の浜松派と、信康配下の岡崎派との対立)を、家康(あるいは酒井忠次ら浜松派)が信長の了解を得て決着させたという見解もある。 :見所のある者ども|榊原康政・本多忠勝は、酒井忠次と並んで徳川四天王の構成メンバー。1562年時点でともに15歳という、見所のありすぎる若武者たち。「チートに英才教育」タグもうなずける。なお、井伊直政はまだ乳児(1561年生まれ)。 :クリッククリックどかーんどかーん|社交ダンスの基本的なステップで「クイック・クイック・スロー・スロー」というのがあるが、関係するのかしらん。優雅な解体作業である。 :のんびり出荷しないと早く尽きんじゃね|甲斐の特産物は金。史実では、信玄の晩年あたりから甲斐の金山は枯渇を始め、財政問題は武田家の進路に影響を与えた。なお、ゲーム上で特産物が枯渇することはない。 :時代は水軍だろ|前作「[[竹中半兵衛の憂鬱>竹中半兵衛の憂鬱解説]]」で龍興が育てた美濃水軍は、戦国一の陸(おか)水軍である。 :かがみん|「らき☆すた」の柊かがみ。「[[らきすた☆立志伝>>らきすた☆立志伝解説]]」や「[[小早川ゆたかの降臨>>小早川ゆたかの降臨解説]]」では、北条氏政がかがみん萌えだった。うp主の前作「竹中半兵衛の憂鬱」第五回後編でも、家臣を引き連れて鷲宮神社に参拝しており、その留守中に斎藤家に小田原を攻められていた。 :駿河が崩れてから|婚姻関係で堅く結ばれたはずの甲相駿三国同盟だったが、今川義元が桶狭間で討たれてからは信玄が駿河への進出を図るようになり、関係は微妙なものになった。 :縁戚相手に構えてばかり/親父の愛情表現|龍興の父・斎藤義龍を中心に考えると、浅井家は妻の実家、織田家は妹(濃姫)の嫁ぎ先。その双方とも戦っている。 :海があれば塩はなんとかなる|塩は人間の必須物質であるため、信玄は「軍師」龍興の慧眼に感じ入っているようだが、もちろん甲駿の婚姻同盟が破綻した際に今川氏真と北条氏康がおこなう経済封鎖「塩留め」に絡めたネタ。 :小笠原貞慶/殺してでも奪い取る/お約束|小笠原貞慶は、信玄によって領国を追われた小笠原長時の子。「信長の野望」において、等級の高い家宝を複数持つ小笠原貞慶は「[[歩く家宝>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/124.html#id_cf311fe0]]」と呼ばれて親しまれており、その人気は龍興のハイテンションからも窺える。「[[戦国のガラハド>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/125.html#id_ee2f9e6d]]」の異名の通り「(アイテムを)殺してでも奪い取る」→「な、何をする貴様らー」(アイテム没収、ときどき処断つき)の展開がお約束で、そこかしこの動画で憂鬱な目に遭っている。この場面のBGMは元祖「ガラハド」の登場した『ロマンシング サ・ガ』からで、「殺してでも奪い取る」気満々。 :(CM)|「佐竹の人」が制作した「[[太閤佐竹滅亡録>関東地方で頑張ってみる解説]]」のCM「[[太閤佐竹偽CM>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4505074]]」。CM明けに一瞬何かが映っているが、これはCMに入る前にも表示されていたゲーム画面の小笠原発見報告である(コマ送りして確かめたので間違いない)。このCMが選ばれたのは、(1)このCM動画と兄弟関係にある「[[ニコニコ歴史戦略ゲーム偽PV・信長の野望革新編>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4541390]]」では、ラストの一瞬で小笠原が処断されているから。(2)佐竹の人の新作「[[太閤佐竹衰亡録(カリブの海で頑張ってみる)>>カリブの海で頑張ってみる解説]]」は水軍(海賊)ヒャッハー動画だから。(3)太閤佐竹衰亡録Act.01で「ああ、窓に!!窓に!!」ネタ(後述)を使っているから。……という理由かもしれないが、意味のない深読みかもしれない。 :小笠原が武田に信濃で膝を屈する訳があるまい|小笠原氏は信濃守護。反武田を貫き激しい戦いを繰り広げた相手なので、ゲーム上やすやすと軍門に降るのには信玄もがっかりなようだ。 :大クマーなら顔見知りだし、木曾を除いた南信濃で手を打てと伝えたから|小笠原親子は一時期上杉家に身を寄せたので、大熊朝秀とも面識があったかもしれない。小笠原氏は「烈風伝」などでは「南信濃」の大名として配置されていた。木曾は史実で武田一門の(「龍興記」では一門入りし損ねた)木曾義昌の領地。&br()#ネタタグで【お前に信濃の半分をやろう】というのがあったが、これの元ネタは『ドラゴンクエスト(初代)』のラスボス・竜王が主人公にささやくセリフ「世界の半分をお前にやろう」。ホイホイ応じると即バッドエンド。 :大祝|大祝(おおはふり)は、神官長というべきポスト。諏訪頼忠は諏訪神社の大祝を務めていた。 :湖雲斎|小笠原長時の法号。武田信玄に追われて上杉氏のもとに逃げ込んだあと、三好氏を頼って上洛。史実ではこのとき、足利義輝の弓馬の指南役を務めていたらしい。さすが小笠原流宗家。その後も流転の日々を送り、1583年に会津で死去。湖雪斎とも。 :爆弾になってもっと効果的|敵国経済破壊兵器小笠原。「[[小笠原爆弾>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_5d0cf1af]]」参照。誰だ、こんな絶妙なネーミングを考えた奴は。 :小笠原流の真似が出来る訳がなかろう/どうであれこれは返せ|小笠原流は武家礼法の家元。[[本>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/360.html#id_86bea3aa]]やら[[弓>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/357.html#id_2d93ce0b]]やらを与えればすぐ小笠原流をマスター、というのは通信教育で空手を極めるくらいありえないが、システムだからしょうがない。一度取り上げた家宝を返すことで忠誠度を上げる小技は、マイリストに解説されている。 :武田家が壊れていく/時代の先取り|嫡男粛清、家内不和、長篠合戦、一族離反などを経て1582年武田家滅亡。 :解説様が見てる/嗚呼、作業窓に!!作業窓に!!|前者の元ネタは小説「マリア様が見てる」。後者は、「クトゥルフ神話体系」を構成するラヴクラフトの小説「ダゴン」の末尾の一節「ああ、窓に!!窓に!!」。最後にそう記された長い手記は、筆者の身を襲った変事を暗示して唐突に終わっている。前回にもあった、wiki解説編集者がうp主のPCをハッキングしたりネタ帳をチェックしたりしてネタ元を探っているかもしれないというネタ。&br()#うp主様の豊富な話題の引き出しを溝口顔で覗き込みたいのは山々です。 #areaedit(end) *初回ノ肆 &nicovideo(sm8072359) #areaedit() :我が小笠原流の新たな真髄/他の弓より実戦向きじゃなくね|鎌倉時代に起源を持つという小笠原流の武家礼法は、室町時代に将軍家に重んじられて発展を遂げた。小笠原貞慶は、小笠原氏の惣領・小笠原流礼法の継承者として「小笠原礼書七冊」を編纂・集大成した人物である。儀礼用ということで華美なイメージを持たれがちであるが、「小笠原礼書七冊」に記された故実や作法は、質朴な武家の心を伝えるものとされている。 :松尾とも争う必要もなくなって|戦国期、信濃守護小笠原氏はいくつかの有力支族に分裂した。小笠原氏の嫡流は、長時・貞慶が属する府中小笠原家だが、伊奈地方の松尾城(現・飯田市)に拠点を置いた松尾小笠原家も大きな勢力を誇り、対立と抗争を繰り返していた。松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、府中小笠原家との対抗上、1554年に武田家に降っている。 :そっちも祖先が仲間割れ|美濃守護土岐家、美濃守護代斎藤家は、室町期にその名をとどろかせた有力な家門であったが、親子兄弟が争う深刻な内紛を繰り返した末、新興勢力である斎藤道三に国を奪われた。そしてその道三も身内との抗争に敗れるのである。 :阿智の杜/そこに祀られたと仰せの神|長野県西南部・下伊那郡阿智村にある阿智神社。延喜式に記された古い歴史を持つ神社である。祭神は天表春命(アメノウワハルノミコト)と天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)。オモイカネは東方キャラ・八意永琳のモチーフになっている。 :その近くは武田にはやばくね|武田信玄が1573年に没した駒場は、阿智村の一部(ただし信玄終焉の地には異説もある)。 :膂力が驚くほど向上|八意永琳の持ち物には弓がある。武芸の流派には、神から奥義を示されるという逸話が多いのだが。( ゚∀゚)o彡゜えーりん!えーりん! :滅亡中にもう変わり身している|遊佐続光は畠山義続・義綱父子を国外に追放し、義綱の子義慶を傀儡として擁立した。しかし天正5年の上杉謙信による能登侵攻の際、七尾城に籠城している最中に対立する長一族を皆殺しにして上杉に降伏し、畠山家滅亡の原因となった。 :仲良く喧嘩しな|元ネタは『トムとジェリー』主題歌。遊佐氏・長氏・温井氏は血みどろの抗争を繰り広げた。 :旗や幟/(切裂いて繋げば解決)|時事ネタ。民主党の某候補が日の丸を切り張りして党旗をこさえ、物議となった件であろう。 :鶴のお吸い物|肝付家と島津家のエピソードから。島津家重臣・伊集院忠朗が、肝付家(家紋が鶴)の家臣・薬丸兼将に鶴の吸い物を勧めたことで(あるいは「お吸い物の具は鶴か?」と戯れを言ったことで)両家の関係は決裂し、合戦は肝付家が滅ぼされるまで続いた(もっとも、鶴の吸い物の逸話は後世の創作ともいう)。家とか組織とか国家とかの象徴とされる意匠を軽んじるのは、それくらいやってはいけない。小笠原は怒ってもいい。 :羽茂に柏崎|羽茂(はもち)は佐渡南岸の港町で、柏崎から海を隔ててほぼ北に位置する。戦国時代には羽茂本間家(佐渡守護本間氏の有力な分家で、佐渡の南半分を支配下に収めていた)の拠点であった。「革新」では佐渡はただの海上障害物。 :繋がりましたな|本間一族は謙信の父である為景を支持、保護した越後の有力国人衆であり、越後を攻める武田家の敵となる可能性が高い。その為、海上から柏崎を攻めるとなれば自家に水軍を持たない武田家からすると越後地域を含む海上に勢力をもつ丹後水軍衆を味方にする事は柏崎港攻めに必要不可欠。 :佐渡金山|有名な佐渡金山(相川金山)が発見されたのは1601年で、実は戦国時代にはまだ発見されていない。鉱物資源の豊かな島であるがそれらの開発が進むのは江戸時代に入ってからであり、戦国時代は砂金の採取や小規模な銀の採掘が行われるにとどまっていたようである。 :知っているがあいつの態度が気に入らない|元ネタはネット上の定型句「知っているがお前の態度が気に入らない」。画像掲示板等でクレクレ厨を突き放す一言。 :この時代の俺の年齢|1562年時点で14歳。オトナゲナイのでなく、オトナでない。さんざんメタっておきながら、いまさら史実を持ち出すのもひどい話だ。 :毘沙門天に正面の方角から挑むとは|毘沙門天は「十二天」の一で、北方の守護者。また四天王の一・多聞天を毘沙門天と同一視することがあり、こちらも北方の守護者。外敵の侵入から内側を守るとすれば、毘沙門天は北を向いて睨みを利かせていることになる。つまり、海の「北」から攻め寄せてきた武田軍は、まさに毘沙門天=謙信に「正面」から挑んだということになる。&br()#うp主様、追加ヒント感謝(合ってるかな?)。 #areaedit(end) ---- #center(){[[▼ネタ解説2>>龍興記ネタ解説2]]} ---- *コメント欄 #include(龍興記解説コメント)

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