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春秋戦国時代略年表 - (2011/09/25 (日) 08:59:48) の編集履歴(バックアップ)


春秋戦国時代の略年表。
春秋戦国三国志」に登場する人物を中心にしている。

周の東遷―春秋時代の幕開け
前771年 周の幽王、申侯と結んだ犬戎の侵攻を受けて殺される。
※笑わない美女・褒姒の伝説。
前770年 周の東遷。平王、洛邑に移る。以後を「東周」といい、春秋時代がはじまる。
※鄭の武公が、滅亡の淵からの王朝の再生を支えた。
斉桓晋文―「覇者」の登場
前685年 斉の桓公即位(~前642年)。
※宰相は、鮑叔との「管鮑の交わり」で知られる管仲。富国強兵を実現。
前671年 楚の成王即位。
※宋の襄公に恥辱を与える一方、放浪中の重耳を厚くもてなした逸話を持つ。
前660年 衛の懿公、翟(狄)の侵攻を受け戦死。
※鶴君主。
前659年 秦の穆公即位(~前621年)。
※百里奚を宰相に迎え国力を蓄える。
前657年 晋の公子重耳(のちの晋の文公)、国外に亡命。以後19年諸国をめぐる。
※趙衰・狐偃・先軫・魏犨・介子推など名臣たちが苦労を共にする。
前651年 斉の桓公、諸侯を集めて会盟を牛耳る。「覇者」のはじまり。
宋の襄公即位(~前637年)。
前645年 斉の宰相管仲没する。
※管仲死後桓公の政治は乱脈を極め、桓公が没すると(前642年)内乱発生。
前638年 泓水の戦い。宋の襄公、楚の成公と対戦して敗戦。「宋襄の仁(笑)」。
前636年 晋の文公即位(~前628年)。
前632年 城濮の戦い。晋の文公、楚に攻められた宋を救援、覇者となる。「三舎を避く」。
晋楚争覇―二大国の時代
前614年 楚の荘王即位(~前591年)。
※同国最高の名君にして五覇の一人。「三年鳴かず飛ばず」。
前607年 大棘の戦い。宋が鄭を迎撃。
※宋の宰相華元、食い物(羊肉)の恨みで捕虜になる。
前606年 楚の荘王、洛邑近郊に進軍。「鼎の軽重を問う」。
前605年 鄭の霊公、即位半年で殺される。「食指が動く」。
※原因は食い物(スッポン)の恨み。
前597年 邲の戦い。楚の荘王、晋軍に大勝。覇権を確立。
前579年 宋の宰相華元、晋と楚の停戦を成立させる(589年とも)。
前575年 鄢陵の戦い。晋の厲公、楚の共王を破る。
※晋の軍師は苗賁皇、楚の軍師は伯州犂。
前573年 晋の厲公殺され、悼公即位(~前559年)
※晋最後の名君。その死後、公家は衰微し、大夫の力が増大した。
孔子をめぐる「古典」の時代―名宰相・思想家・復讐鬼
前551年 孔子、魯に生まれる。
前548年 斉の荘公、宰相崔杼に不倫のもつれで殺される。斉の景公即位(~前490年)。
※宰相晏嬰(晏子)や名将司馬穰苴のもとで斉は第二の全盛期を迎える。
前536年 鄭の宰相子産、中国史上初めての成文法を作る。
前528年 楚の平王即位(~前516年)。
※平王は伍一族を殺害、伍子胥の復讐フラグを立てる。
前514年 呉王闔閭即位。
※彼のもとには兵聖孫武や復讐鬼伍子胥が仕え、呉を強国とした。
前506年 呉軍、楚の都・郢を攻め落とす。伍子胥「死屍に鞭打つ」。
前505年 陽虎、魯の実権を握る。
※陪臣から下克上。陽虎は孔子のそっくりさんだったとも。
前500年 晏子没。
前497年 孔子、魯を出て諸国を巡歴。
前496年 越王勾践即位。呉王闔閭は越に攻め込むも、范蠡の奇策に敗れる。
闔閭の子・夫差と越王勾践の「臥薪嘗胆」
前484年 伍子胥死を賜り自刎。
前483年 孔子、故郷に帰り弟子の育成に専念(前479年没)。
戦国の兆し―大国の衰亡と実力者たちの台頭
前481年 斉の陳桓子(田恒、田常とも)、斉の簡公を殺害して平公を立てる。
田氏が斉の実権を握る。
前473年 越王勾践、呉を滅ぼす。夫差自殺。
前453年 晋の智伯、韓・魏・趙に滅ぼされる。
※智伯に仕えた豫譲は、主導者の趙無恤(趙襄子)暗殺を図る。
前445年 魏の文侯即位(~前396年)。
※名政治家李克・迷信バスター西門豹・兵法家呉起らが仕え、戦国最初の覇権国となった。
戦国時代の始まり―七雄の名君主たち
前403年 韓・魏・趙、周より正式に諸侯として認められる。一般にこれを戦国時代の画期とする。
前390年 この頃、墨子が没したという。
前386年 斉の簒奪。田和、周より正式に諸侯と認められる。以後の斉を「田斉」とも言う。
前369年 魏の恵王即位(~前319年)。
※孫臏や商鞅など優秀な人材が流出。
前362年 韓の昭侯即位(~前333年)。
※法家の祖と言われる申不害が宰相を務め、法治主義で弱小の国をよく支えた。
前361年 秦の孝公即位(~前338年)。
※孝公は商鞅を用い、飛躍の基盤を作った。
前356年 斉の威王即位(~前320年)。
※「鳴かず飛ばず」2号。孫臏らを登用。人材は「千里を照らす」。
前341年 馬陵の戦い。龐涓らが率いる魏軍、孫臏らが率いる斉軍に敗れる。
※魏は覇権を失い衰退の道をたどる。
合従連衡―秦・斉の二大国と諸子百家の時代
前326年 趙の武霊王即位(~前298年)。
※「胡服騎射」を導入、趙を軍事大国化する。ただし、末路は悲惨。
前319年 斉の宣王即位(~前301年)
※孟嘗君を重用、学問を奨励。儒家の孟子、白馬非馬説の公孫竜などはこの時代。
前313年 燕の昭王即位(~前279年)。斉の干渉による混乱を収め即位。
※「隗より始めよ」で楽毅などを得、国力を蓄えて斉に復讐。
前311年 秦の武王即位(~前306年)
※武王には樗里疾・甘茂らが仕えた。鼎でリフティングをして死去。
前306年 秦の昭襄王(~前251年)即位。
※武王没後の混乱時に魏冄(穣公)が擁立して支え、秦は強勢となる。
前299年 斉の孟嘗君、秦に招かれ危うく逃れる。「鶏鳴狗盗」。
前298年 趙の恵文王即位(~前266年)。
※「刎頸の交わり」藺相如と廉頗、名将趙奢らが仕えた。平原君は恵文王の弟。
前293年 秦の将軍白起、韓・魏を攻め、伊闕で24万を斬首。
※白起無双の始まり。
前288年 秦の昭襄王が西帝を、斉の湣王が東帝を称したという。
※間もなくやめたとも、提案だけで実現しなかったとも。
大国秦の攻勢―諸国の名臣・名将たち
前284年 燕の将軍楽毅、五国連合軍を率いて斉に進攻。その大半を占領。
前279年 燕の昭王没し、楽毅亡命。斉の田単の反撃がはじまる。「火牛の計」。
前278年 秦の将軍白起、楚の都・郢を陥落させる。
楚の三閭大夫屈原、汨羅江に入水自殺。ちまき。
前274年 楚の黄歇(のち春申君)、秦と和平を結ぶことに成功。
前265年 秦の相国魏冄、罷免され追放。「遠交近攻」を唱えた范雎が宰相となる。
※范雎は復讐の人(復讐の主対象は魏の大夫・須賈)
前262年 楚の考烈王即位(~前238年)。
※春申君が令尹として楚の再建を図った。
前260年 長平の戦い。秦の名将白起、趙の名将(笑)趙括大先生を撃破。
※趙の捕虜40万が生き埋めに。趙は決定的に衰微。
前259年 秦軍、趙都邯鄲を包囲。趙の平原君、楚に赴き援軍を要請。
※「嚢中の錐」毛遂が同行。
前258年 魏の信陵君、候嬴の献策により晋鄙将軍を殺して兵権を奪い、出兵して趙を救援。
※しかしこの時の行為がのちに影を落とし、酒びたりになって死去(前244年)
前257年 白起、死を賜る。
※宰相・范雎に警戒される。
前255年 周王朝、ひっそり滅亡。
前251年 秦の荘襄王即位(~前246年)。
※「奇貨居くべし」呂不韋による擁立。
前246年 秦王政即位。
始皇帝による統一へ
前238年 楚の考烈王が没し、春申君も殺される。春申君老いたり。
秦王政、呂不韋を追放。
前234年 趙の将軍李牧、辺境から召還され、大将軍に任じられる。
※守戦の名将。秦軍を撃退し続けた。
前233年 韓非、秦にて死す。法家の同門・李斯の毒殺という。
※李斯は始皇帝の統一国家建設に功績があったが、末路は悲惨だった(~前208年)。
前229年 趙滅亡。
※讒言に惑わされた王が、李牧を処断してからわずか3か月であった。
前227年 刺客荊軻、燕の太子の依頼を受け、秦王政の暗殺を図る。
※「壮士ひとたび去って復た還らず」。
前225年 楚の将軍項燕、李信率いる秦軍を撃退。
※李牧とともに、統一戦期の秦軍を撃破した数少ない将軍。項羽の祖父。
前223年 楚滅亡。
前221年 斉滅亡。秦王政、天下を統一し始皇帝となる。