「その時歴戦が動いた 「孟獲伝」 解説」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
その時歴戦が動いた 「孟獲伝」 | ||
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登録武将 | - | |
史実武将の扱い | 真面目 | |
紙芝居・ストーリー | 紙芝居と地図 | |
公開時期 | 2011年04月30日 | |
投稿者名 | 身振りの人 | |
関連タグ | - | |
関連動画 | ||
孟獲伝PK |
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動画作るの久しぶりだから勘弁してね!
適時一時停止をしてもよくってよ!
正直、この字幕速度で1.5倍は余裕とか。
呂凱と孟獲とか董和の登場シーンとか、 入れたかったような入れなくてよかったような。
ヨクアルコト。
寛大な心で見てね!
実はネットで読みました。
「華陽国志(かようこくし)とは、 中国東晋の永和十一年(355年)に常璩によって編纂された「華陽」つまり巴・蜀・漢中の地誌である。 古代から晋への歴史が断片的に書かれており、さらに地理の沿革・物産の状況を伝えている。」 ~wiki この中の「南中志」において 三国時代の南中の叛乱史が記録されております。
流石に孟獲贔屓か…。
ミャオ族は夷陵に参加した沙摩柯の出身でもあるので、 雲南から貴州省にかけての諸民族は当時から繋がりがあったのかも。 しかし沙摩柯が夷陵に参戦した直後の南中の叛乱、 ちょっと関係性を纏めるのは難しそうです。 ミャオ族にしろ叟族にしろ、中華文化と戦い続けた歴史があり、 幾度か虐殺の憂き目にも遭っています。 いずれかの仮定で共通の英雄像が作られたのかも知れません。
『理解力のある李恢』タグありがとうございます。
建寧の出身者でもあるので、 やはり南中の現状を一番見て育った人間だと仮定。 温情派の董和に目をかけられていた事も含めて、 この動画ではこういう立ち位置に設定。
やっぱ馬謖は少しダメな子の方が可愛い。
優秀さが鼻について意識せずに他人を見下しがちになる雰囲気。 一言多いスキルは後に王平とかに炸裂するのですね。 でも馬良の事があるから孔明はあんまり強く言えない。 …そして後にそれが致命傷に。
注にあるとおりこの時代は軍帥将軍。
でもまあ丞相の方が通りがいいのでさくっと捏造。 史実との整合性にはそんなに拘っていません。 職能としてはこの当時からあまり変わっていないでしょうし。
『李恢伝』に登場する記述です。
ただ、そこでは爨習が建寧の名家である事が示されるだけで、 爨習自体が登場するわけではありません。 ゲームの『三国志』に爨習が出たことは一度も…
拙作『夷陵会戦』からの続投。
史実の孔明に関しては五週目に紫電Pが本気でやってくれたので割愛。 キャラ造形に関しては、 世間が見え過ぎるがゆえに苦悩する天才の悲哀。 というイメージを大前提にしています。 誰よりも時代に翻弄された悲劇の人物でしょう。 そしてまた、 彼ほどの人物であったとしても時代の流れは変えることができないのです。
イケメン孟獲です。
動画提出まで運営にも隠してた上に、 事前に出したイメージカットにも孟獲を出しませんでしたw まずは第一前提として『演義』を忘れることから。 元々前半生が不明な人物でもあるし、後の出世から漢人説も根強い。 でありながら、叟族の高定らにも顔が利く人物であることは明白。 ということでここではハーフ設定に。 タイあたりの人間なら彫りが深くてイケメンでも問題ないはず! …結果、この孟獲になりました。 ちなみに顔グラは三国志11の登録武将から。
「さんしゅう」です。
読み仮名をどのタイミングで表示させるか微妙に悩みつつ、 本人登場のタイミングで。 『三国志』中には『李恢伝』での記述のみ、 『華陽国志』には建寧の名士として孟獲・李恢に並んで名が上がるだけの人物。 ですが、南中の歴史的には重要な人物であるようです。 『爨』については動画終盤で触れたのでその場面にて。 …人物造形に関しては、 法令を犯し職を追われたという点から、 天衣無縫で型に縛られない自由人という方向になっています。 ジルオールのゼネテスのイメージが滲み出てるかも。 人生の大きな問題にぶつかった時、 「逃げる」という選択肢を取ることは決して間違いではない。 彼がかつて「逃げた」南中の問題に対して孟獲はどう立ち向かうか、 それがこの動画のポイントの一つです。
史実には登場しない架空の人物です。
但し、動画中で解説している通り 爨家の家伝を記した『爨龍顔碑』という石碑に 爨家の先祖が火神祝融であると記してあり、 そこから爨家に関係のある人物として、 孟獲と爨習の橋渡し役を努めて頂きました。 火神祝融に関しては『山海経』などで調べることができます。 凛々しい女性ってステキやん? …孟獲との婚姻に関しては歌垣などの南中文化を踏まえて描写したかったのですが、 主に実力不足により割愛させて頂きました。
「中国の南北朝時代、南朝の宋で大明2(458)年に建てられた地元豪族の墓碑。
前代にあたる東晋の「爨宝子碑」とともに「二爨碑」と呼ばれ、こちらの方が大きいことから「大爨」とも呼ばれる。」 ~wiki 爨家の家伝が記された石碑です。 歴史資料としてよりも隷書から楷書への過度期の書体史料として 研究されているようです。 爨氏の事跡が記された貴重な金石文ですので、 三国志の時世と絡めた研究が今後期待されます。
女性優位文化として描いています。
これは現在の雲南・貴州の諸民族において 女性の立場がある程度保護されているという現実を踏まえ、 また雲南が日本人のルーツであるという説が 文化的にもDNA的にも大分保証されてきているという現実を重ねた上で 敢えて古代日本的な女性優位文化として描きました。 現実にも貴州省のトン族では氏族伝承の英雄として女性が祀られていたり、 ベトナムでもチェン姉妹の伝説があるなど、 中華とは別の女性上位文化圏というものが当時からあったと考えています。
『演義』に出てくる祝融の弟ですが、
さすがに史実的の関係性はない気がしますね。 今回も全く触れておりません。 孟獲の兄、孟節に関しても同様。
…あの雍です。
雍に関しては詳しくは後述します。 建寧の名家同士であり、 爨家の娘である祝融と縁談の一つもあった事でしょう。 祝融側が一方的に断ったという設定です。
秦代に楚の荘蹻が遠征の後、
帰郷困難の為に雲南に「滇」を建国した時代を起点にしています。 尚、この国は紀元前109年に前漢の属国となっています。
企画第五週の紫電Pによる孔明解説によって
速攻で否定されてしまいましたが、高定の乱馬謖原因説です。 史料に記載されない事象の有無をどう考えるか、 というのは悪魔の証明なのでフィクションとお考えください。 個人的には、文献というものは全て編纂された物であり、 必ずしも正確な事象を記した物ではないというスタンスです。
またカッコいい高定です。
東南アジア系は彫りの深(以下略)。 中華という土地からすれば彼らは未開の蛮人ですが、 王を中心とした独立王朝であった事は否定できないでしょう。 中華という観点さえ取り除いてしまえば、 交易の要所を治めていたことから鑑みても 同時代の倭などより進んだ独自文化を持っていた可能性は高いです。 人物造形としては気骨ある人物である事を全面に描いています。 懐柔されること無く民の意思を貫き、 叛乱に生き、叛乱に死した愛民の王。 そろそろ、こういう光の当て方も可能なのではないでしょうか。 …当然のように演義では酷い扱いですが。 『三国志』という中国の歴史に収めるよりも、 世界史の中の『東南アジア独立史』の原点に置くべき人物と思います。
拙作『夷陵会戦』を見ていただければ幸いです。
この敗北は蜀漢内部に相当の動揺を与えたと考察し、 この後の雍の乱の直接的原因であると想定しています。
共に益州郡の太守です。
正昴が雍に殺害された後、 後任として赴任した張裔がその雍にまた捕縛されている辺り、 派遣した行政サイドも当時相当の混乱があったことは想像に難くありません。 但し、この後任の張裔というのは大した人物であり、 雍によって呉に送還された後、 その有能さに孫権が蜀に返すのを惜しんだというエピソードがあるほどです。
あの雍はこんな雍でした。
先祖として名前を挙げた雍歯も劉邦に背いたエピソードを持つ人物であり、 雍の乱には因縁めいた物を感じます。 また雍歯は沛の出身であることから分かるとおり、 彼の一族は典型的な中原からの流入組の統治者です。 「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいない」 とは李厳の説得に対する彼の返答として『華陽国志』に記されており、 彼自身が天下三分という孔明の方針を由としない人物である事がわかります。 ただ、呉の孫権に接近している辺り、 漢の臣としての意識が高いワケでもなさそうですが。 その辺りの計算高さが今回の人物造形に出ています。 …無論、若干ゲス風味ではありますが。
完全に創作です。
史料上では高定を参戦させた人物として孟獲の名が突然登場していますが、 孟獲が雍の忠臣であったとするには疑問が残ります。 雍が高定の部下に殺された後、 その兵を孟獲が率いて殺害者である高定と共同して蜀漢と戦っている事を鑑みても、 孟獲自身は高定の側に近い人物であったのではないでしょうか。 彼が如何にして雍の乱に巻き込まれたか、 その仮定の一つとして楽しんでいただければ幸いです。
かっこ良くて頭の切れる伝令です。
某『孟獲伝PK』で使用した天道のデータでは、 この顔が建御雷命として登録されていますがどうでもいい話。 設定上では高定によって送り込まれた密偵であり、 祝融と爨習が潜入する為の手引きをしています。
史料では高定の部下とだけ記録されており、
その犯人の詳しい正体は不明です。 今回は祝融姐さんに活躍して頂きました。 雍の叛乱はその主な参加者が南中異民族でしたから、 漢を名を持ち出し孫呉の力を借りようとした雍には 当然のように従えなかったのでしょう。 それもまた、雍の漢人としての奢りが招いた結果なのかもしれません。 察するに、 孫呉にしても雍を本気で支援する予定はなかったように思います。 コメントに頂いたとおり夷陵始末に関する布石の一つとしてのみ利用された密約を、 何も知らずに雍が一人起爆させ、自爆した様に思います。
厳格な人物ではありましたが、
その為、赴任先の南中において233年に劉冑の叛乱を招いてしまいます。 その際に後任の馬忠の為に兵站を整え討伐の用意を整えた事で諸葛亮の評価を受け、 以降彼は蜀漢の最前線で戦い続ける事となりました。 北伐反対派でありながら常に姜維の北伐に従軍し、 最後は姜維と鐘会の乱の混乱の中で殺害されるという皮肉な運命を辿っています。
まずは名前でだけ登場。
後に登場した際にも紹介をいれ忘れてしまいましたが。 そもそも彼自身の経歴も不明で、 また叛乱以降の事跡も謎の多い人物です。 記録によれば柯郡の郡丞、或いは太守。 彼の叛乱に関してはその経緯が「後主伝」が『魏氏春秋』を引いて説明しています。 「丞相諸葛亮は、益州従事の常房(常頎)を派遣させた。 常房は益州南部一帯巡察中に朱褒が異心を抱いていると考え、その主簿を詰問し斬首するが、 朱褒はこれを怒り常頎を殺害し、常房が反乱を企んだため殺害したと誣告した。 この容易ならぬ事態を悟った諸葛亮は、朱褒を懐柔するために、常房の息子達を斬首し、 弟4人を越嶲郡に流刑にして詫びたが、それでも朱褒の気持ちを変えることはできなかった」 ~wiki 裴松之はこれを後世の捏造であると否定していますが、 孔明の不可解な行動がなぜ記されたのかは一考に価するのではないでしょうか。 或いは朱褒に乱を起させるためわざわざ問題ある人物を柯郡へ派遣したのではないか、 暗にその類の想定をすることも歴史のifとして面白いでしょう。
雍の乱に端を発するこの一連の叛乱劇において、
処刑の記録があるのは高定ただ一人です。 …その事実が孟獲の出自の推定を更に困難にするのですが。 彼を処刑する事が見せしめにならない事は 諸葛亮自身が誰よりも熟知していたと考えられるにも関わらず、 敢えて彼を処刑しなければならなかった理由は一考の余地がありそうです。 個人的には蜀漢内部の問題として、 成都の益州閥の官僚たちを納得させる為の生贄にされたと仮定しています。 この処刑は結果として10年に渡る越雋の混乱を招きました。 民衆叛乱を鎮圧する手段について、 後に織田信長は徹底的なジェノサイドを用いてやはり失敗しています。 更に時代を下ること400年。 現代に生きる私たちは何かを学べたのでしょうか。
菅野よう子・新居 昭乃の黄金コンビによる
「信長の野望 戦国群雄伝」のテーマソング『時の調べ』です。 昔の光栄歴史シミュ曲はどれも名曲揃いですね。 かつては三国志や大航海時代にもテーマソングがありました。
説明に関しては動画中の通り。
正確な成立年代、滅亡年代は不明。 隋唐の時代に分裂し、 東爨は烏蛮、西爨が白蛮と呼ばれたようです。 白蛮は後に大里国を建国。 分化過程で言語も別れたらしく、 西爨は漢語が通じたのに対し、 東爨は会話に通訳が必要であったといいます。
当時の情勢と孟獲の任地想定から推察。
孟獲が成都の中央で蜀漢全体の官吏を統括したとは仮定しづらく、 やはり南中の現地で中央より派遣された官吏を監察したと仮定するのが妥当でしょう。 それを踏まえた上で、南中郡の御史中丞という表現を取りました。 前述した、 「文献というものは全て編纂された物であり、 必ずしも正確な事象を記した物ではない」という 個人的な観点によっています。
明による雲南省成立の後も、
対立と叛乱、そして虐殺の歴史は絶えません。 近代では中国共産党による大長征の過程において、 ミャオ族らに対する虐殺事件が起きています。 羌族、回族に関しては無論言うまでもないでしょう。 |