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竹中半兵衛の憂鬱ネタ解説 - (2009/11/13 (金) 15:37:56) のソース

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*初回
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:土壇場で叛きそうで|もちろん本能寺の変のこと。ゲーム内における「われわれのあずかり知らぬこと」に関する会話を「メタ会話」と呼ぶが、この作品はメタ会話だらけである。
:ハゲのくせに/キンカ頭ゲット|明智光秀はハゲていたため、信長から金柑頭(キンカあたま、キンカンのようにツルツルのハゲ)と呼ばれていた……という。実際にハゲていたかどうかは諸説ある。
:早死にするぞ/人のこと言えぬでしょうに|竹中半兵衛は1579年、三木城包囲中に肺の病で病死、享年36。斎藤龍興は1573年、越前刀根坂の戦いで戦死、享年26。
:まだまだいくよー|電波ソング『巫女巫女ナース』より。
:ムネンアトヲタノム|レトロゲー『侍』の死亡時より。
:泳、泳、魚ー|[[特産物の野望>特産物の野望解説]]での勝ち鬨が由来。
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*第二回
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:死ぬわけないじゃん|龍興は稲葉山城を落とされた時には殺されずに済んでいる。
:百歳越えて生きられないぞ/その説は大体|明智光秀=天海僧正同一人物説ネタ。天海僧正の前半生は定かでないが驚くべき長寿であったといい、1643年に亡くなった時には108歳だったとも135歳だったともいう。なお、よくネタにはなるがあまり信憑性は無い。
:俺の城を十数人で落とした|1564年、政務を省みない龍興を諌めるため、半兵衛は弟の重矩や義父の安藤守就ら16人(17人とも)で稲葉山城を占領したという。のちに龍興に返却し、自らは出奔した。
:兵一内政|正しくは少数の兵を敵国に送って内政を妨害する事。[[兵1内政>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/344.html#id_4233abb1]]を参考。ちなみに城に少数の兵のみを残す方法は敵に飛び道具部隊が居ない状態で、かつ同士討ちを相手が使用しない場合のみ有効に使える。また籠絡には特に威力を発揮する。
:アンパンマン、新しい顔よっ!/微笑み三年殺し/なんですって|声優ネタ。バタコ、シャンプー、ソフィアを演じているのは佐久間レイ。
:れみ りあ うー|[[~最近のお嬢様にはカリスマが足りない・・・と思う~>>お嬢様三国志 ~最近のお嬢様にはカリスマが足りない・・・と思う~ 解説]]での勝ち鬨が由来。正確には「れみ☆りあ☆う~!☆」である。
:城を攻められるとしばらく逆らえない|長政の祖父・浅井亮政が1525年に美濃土岐家の内紛(土岐頼芸を奉じた斎藤道三が関わっている)に介入した際、六角氏と朝倉氏は牽制のため朝倉宗滴を送り込み、その動きを封じた。ついで六角氏と朝倉氏が対立すると、浅井亮政は朝倉宗滴の支援を受けて六角氏を撃退した。こうして築かれた浅井・朝倉の同盟は、のち長政の代に再び問題となるのだが、結ばれた当時は従属的なものだったらしい。
:空城に手を抜いて攻撃していた|佐久間信盛は、石山本願寺攻めの際に攻撃の手を抜いていたとして追放された。明智光秀が讒言したとも言われる。
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*第三回
&nicovideo(sm4833015)
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