百詩篇第4巻47番

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*原文 Le noir&sup(){1} farouche&sup(){2} quand aura essayé&sup(){3} Sa main [[sanguine>sanguin]] par feu, fer, arcs&sup(){4} tendus: [[Trestout>trestous]] le peuple sera tant effraie&sup(){5}: Voyr les&sup(){6} plus grands&sup(){7} par col & pieds&sup(){8} pendus&sup(){9}. **異文 (1) noir : Noir 1594JF (2) farouche : farouohe 1568A (3) essayé : assayé 1568B 1589PV (4) arcs : arc 1653 1665 (5) effraie 1555 : effraié 1557U 1557B 1568A 1568B 1590Ro 1840, effrayé &italic(){T.A.Eds.} (6) les : des 1594JF 1712Guy (7) grands : grauds 1650Le, Grands 1594JF 1772Ri (8) pieds : pied 1653 1665 (9) pendus : pendu 1653 **校訂  韻からも意味からも3行目末尾の effraie は effrayé となっているべき。 *日本語訳 残忍な黒い者が試すだろう、 その血塗られた手を火、鉄、引き絞られた弓によって。 すると民衆は一人残らず縮み上がるだろう、 最も偉大な人々が首や足を吊るされているのを見て。 **訳について  前半は直説法前未来(3行目の直説法単純未来よりも時制的に前の出来事を指す)で書かれているが、各行にできるだけ単語を対応させようとすると訳に反映させづらいため、3行目に「すると」を補った。[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳「残忍な黒き人がその血まみれの手を/火と鉄と引き絞られた弓で確かめんや」((高田・伊藤 [1999] p.309))のように、若干語順を調整した方が読みやすいのは事実だろう。  大乗訳1行目「野の黒きもの 彼がなしたあと」((大乗 [1975] p.135))は誤訳。farouche は「野生の」といった意味もあるが、「野の」ではニュアンスが異なる。  同2行目「彼の血の手が火や剣やかがめた腰や」は次の行とも繋がっていない中途半端な訳で、文章としておかしい。また、arcs tendues を「かがめた腰」と訳すのは無理がある。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 bended bows ((Roberts [1949] p.126))を転訳したことによる誤りだろう。  同4行目「首や足にかせをはめられるのを見るだろう」も「吊るされた」(pendu)というニュアンスがない上に、「最も偉大な人々」(les plus grands)が訳に全く反映されていない。  山根訳は前半「残忍な王が血ぬられた手をふるったとき/火のなかに 剣を引きしぼった弓に」((山根 [1988] p.161))が不適切。  「残忍な王」は noir (黒)を roi (王)とアナグラムした結果にすぎない。また、「剣を引きしぼった弓」というのは、剣(fer)が単数、弓(arcs)が複数なので、文脈からも構文からも不自然な訳だろう。 *信奉者側の見解  固有名詞が一切登場しない曖昧な詩だが、サン=バルテルミーの虐殺(1572年)と解釈されることが多い。  この詩を最初に解釈した[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]もそうだった。彼は最初の3行をコリニー提督の残虐さの描写とし、4行目は彼が殺された後に晒されたことの描写だとした((Chavigny [1594] p.210))。  [[バルタザール・ギノー]]も同じ解釈を展開した((Guynaud [1712] pp.112-115))。  しかし、現代の信奉者たちにつながる解釈を展開したのは[[アナトール・ル・ペルチエ]]である。彼は前半に描写されているのは国王シャルル9世で、黒(noir)は王(roi)のアナグラムだとした。ル・ペルチエはシャルル9世が狩りのときにブタやロバの頭を一刀のもとに叩き落すことを好んだというエピソードも引き合いに出し、彼の残酷さを示した。  最後の行がプロテスタント、とくにコリニー提督らの最期という点は従来の解釈と同じである((Le Pelletier [1867a] pp.89-90))。  この解釈は[[チャールズ・ウォード]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[セルジュ・ユタン]]らが踏襲した((Ward [1891] pp.106-111, Laver [1952] p.78, Hutin [1978/2002]))。  ほかの解釈もある。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は同じ1572年でも、ロシアのイヴァン4世の暴君ぶりを予言したものだとした。  [[エリカ・チータム]]は当初サン=バルテルミーの虐殺と解釈していたが、のちに第三次世界大戦で現れる人物についての予言とする解釈に差し替えた((Cheetham [1973/1990]))。 **懐疑的な視点  現在では、サン=バルテルミーの虐殺はギーズ家が主導的立場にあったもので、シャルル9世が主導したとは見なされていない((cf. 渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』p.13, 柴田・樺山・福井『フランス史2』pp.132-133 etc.))。  また、この詩が書かれた10年ほど後にあたる1564年には、ノストラダムスはシャルル9世から「王附常任侍医・顧問」の称号を与えられ、『[[1565年向けの暦>Almanach Povr L'An M. D. LXV.]]』にシャルル9世宛ての恭しい献辞を掲載した。  以上を踏まえた上で、ノストラダムスが本当に予言能力を持っていたとして、果たしてシャルル9世を「残忍な黒い者」などと呼ぶことがありうるだろうか。  もちろん「残忍な黒い者」をギーズ公に置き換えてしまえば、こうした批判は意味をなさなくなるが、従来の noir から roi を導き出す解釈が妥当性を欠くとはいえるだろう。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は釈義の中で、「黒い者」は黒ひげの人物だろうとした((Brind’Amour [1996]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は[[百詩篇第3巻60番]]に登場する「黒い若者」との関連を指摘した((Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は『[[ミラビリス・リベル]]』に描かれた将来のイスラーム勢力によるフランス占領の状況が投影されているものと解釈した。  [[ロジェ・プレヴォ]]はアンボワーズの陰謀(1560年)がモデルと推測したが((Prévost [1999] p.66))、この詩の初出は1555年なので採用することはできないだろう。  [[ルイ・シュロッセ]]は1523年頃のフランス情勢とした。この頃は神聖ローマ帝国を相手に敗戦を重ね、有力な軍人たちにも命を落とすものが出た上、飢饉にも見舞われていた ((Schlosser [1986] p.56))。 ---- #comment
*原文 Le noir&sup(){1} farouche&sup(){2} quand aura essayé&sup(){3} Sa main [[sanguine>sanguin]] par feu, fer, arcs&sup(){4} tendus: [[Trestout>trestous]] le peuple sera tant effraie&sup(){5}: Voyr les&sup(){6} plus grands&sup(){7} par col & pieds&sup(){8} pendus&sup(){9}. **異文 (1) noir : Noir 1594JF (2) farouche : farouohe 1568A (3) essayé : assayé 1568B 1589PV (4) arcs : arc 1653 1665 (5) effraie 1555 : effraié 1557U 1557B 1568A 1568B 1590Ro 1840, effrayé &italic(){T.A.Eds.} (6) les : des 1594JF 1712Guy (7) grands : grauds 1650Le, Grands 1594JF 1772Ri (8) pieds : pied 1653 1665 (9) pendus : pendu 1653 **校訂  韻からも意味からも3行目末尾の effraie は effrayé となっているべき。 *日本語訳 残忍な黒い者が試すだろう、 その血塗られた手を火、鉄、引き絞られた弓によって。 すると民衆は一人残らず縮み上がるだろう、 最も偉大な人々が首や足を吊るされているのを見て。 **訳について  前半は直説法前未来(3行目の直説法単純未来よりも時制的に前の出来事を指す)で書かれているが、各行にできるだけ単語を対応させようとすると訳に反映させづらいため、3行目に「すると」を補った。[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳「残忍な黒き人がその血まみれの手を/火と鉄と引き絞られた弓で確かめんや」((高田・伊藤 [1999] p.309))のように、若干語順を調整した方が読みやすいのは事実だろう。  大乗訳1行目「野の黒きもの 彼がなしたあと」((大乗 [1975] p.135))は誤訳。farouche は「野生の」といった意味もあるが、「野の」ではニュアンスが異なる。  同2行目「彼の血の手が火や剣やかがめた腰や」は次の行とも繋がっていない中途半端な訳で、文章としておかしい。また、arcs tendues を「かがめた腰」と訳すのは無理がある。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 bended bows ((Roberts [1949] p.126))を転訳したことによる誤りだろう。  同4行目「首や足にかせをはめられるのを見るだろう」も「吊るされた」(pendu)というニュアンスがない上に、「最も偉大な人々」(les plus grands)が訳に全く反映されていない。  山根訳は前半「残忍な王が血ぬられた手をふるったとき/火のなかに 剣を引きしぼった弓に」((山根 [1988] p.161))が不適切。  「残忍な王」は noir (黒)を roi (王)とアナグラムした結果にすぎない。また、「剣を引きしぼった弓」というのは、剣(fer)が単数、弓(arcs)が複数なので、文脈からも構文からも不自然な訳だろう。 *信奉者側の見解  固有名詞が一切登場しない曖昧な詩だが、サン=バルテルミーの虐殺(1572年)と解釈されることが多い。  この詩を最初に解釈した[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]もそうだった。彼は最初の3行をコリニー提督の残虐さの描写とし、4行目は彼が殺された後に晒されたことの描写だとした((Chavigny [1594] p.210))。  [[バルタザール・ギノー]]も同じ解釈を展開した((Guynaud [1712] pp.112-115))。  しかし、現代の信奉者たちにつながる解釈を展開したのは[[アナトール・ル・ペルチエ]]である。彼は前半に描写されているのは国王シャルル9世で、黒(noir)は王(roi)のアナグラムだとした。ル・ペルチエはシャルル9世が狩りのときにブタやロバの頭を一刀のもとに叩き落すことを好んだというエピソードも引き合いに出し、彼の残酷さを示した。  最後の行がプロテスタント、とくにコリニー提督らの最期という点は従来の解釈と同じである((Le Pelletier [1867a] pp.89-90))。  この解釈は[[チャールズ・ウォード]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[セルジュ・ユタン]]らが踏襲した((Ward [1891] pp.106-111, Laver [1952] p.78, Hutin [1978/2002]))。  ほかの解釈もある。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は同じ1572年でも、ロシアのイヴァン4世の暴君ぶりを予言したものだとした。  [[エリカ・チータム]]は当初サン=バルテルミーの虐殺と解釈していたが、のちに第三次世界大戦で現れる人物についての予言とする解釈に差し替えた((Cheetham [1973/1990]))。 **懐疑的な視点  現在では、サン=バルテルミーの虐殺はギーズ家が主導的立場にあったもので、シャルル9世が主導したとは見なされていない((cf. 渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』p.13, 柴田・樺山・福井『フランス史2』pp.132-133 etc.))。  また、この詩が書かれた10年ほど後にあたる1564年には、ノストラダムスはシャルル9世から「王附常任侍医・顧問」の称号を与えられ、『[[1565年向けの暦>Almanach Povr L'An M. D. LXV.]]』にシャルル9世宛ての恭しい献辞を掲載した。  以上を踏まえた上で、ノストラダムスが本当に予言能力を持っていたとして、果たしてシャルル9世を「残忍な黒い者」などと呼ぶことがありうるだろうか。  もちろん「残忍な黒い者」をギーズ公に置き換えてしまえば、こうした批判は意味をなさなくなるが、従来の noir から roi を導き出す解釈が妥当性を欠くとはいえるだろう。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は釈義の中で、「黒い者」は黒ひげの人物だろうとした((Brind’Amour [1996]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は[[百詩篇第3巻60番]]に登場する「黒い若者」との関連を指摘した((Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は『[[ミラビリス・リベル]]』に描かれた将来のイスラーム勢力によるフランス占領の状況が投影されているものと解釈した。  [[ロジェ・プレヴォ]]はアンボワーズの陰謀(1560年)がモデルと推測したが((Prévost [1999] p.66))、この詩の初出は1555年なので採用することはできないだろう。  [[ルイ・シュロッセ]]は1523年頃のフランス情勢とした。この頃は神聖ローマ帝国を相手に敗戦を重ね、有力な軍人たちにも命を落とすものが出た上、飢饉にも見舞われていた ((Schlosser [1986] p.56))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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