詩百篇第10巻21番

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[[詩百篇第10巻]]>21番* *原文 Par&sup(){1} le despit du Roy soustenant moindre, Sera meurdry&sup(){2} luy presentant les bagues&sup(){3}, Le pere au filz&sup(){4} voulant noblesse&sup(){5} poindre Fait&sup(){6} comme à Perse iadis feirent&sup(){7} les Magues;. **異文 (1) Par : Bar 1605sn (2) meurdry : meurtry 1590Ro 1610Po 1627Ma 1627Di 1840 (3) bagues : baques 1568X 1590Ro (4) pere au filz : Pere & Fils 1672Ga (5) noblesse : Noblesse 1672Ga (6) Fait : Eait 1668P (7) feirent : firent 1590Ro 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1672Ga 1716PR 1720To 1772Ri 1840 (注記)1568A では上のように Magues;. と、ポワン・ヴィルギュル(セミコロン)とポワン(ピリオド)が並ぶ変則的な句読点になっているが、他の1568は(1568Aに先行すると思われる1568Xも含めて)ポワンだけなので、単なる誤記であろう。ゆえに、いちいちその句読点の打ち方を異文として採取することはしなかった。 *日本語訳 より小さき方を支持する王の怒りによって 彼に指輪を贈る者が殺されるだろう。 父は息子から高貴に見られることを望み、 かつてペルシアで[[マギ]]がしていたようにする。 **訳について  1行目 par le despit de は直訳すれば「~の恨みによって」となる。despit には古語で「怒り、憤り」の意味もあり((『ロワイヤル仏和中辞典』第2版))、[[ジャン=ポール・クレベール]]はその意味に理解している。  [[エドガー・レオニ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らも depit の主体を王としているのでそれに従ったが、、中期フランス語の成句 pour le despit de に引き付けて訳せる可能性もある(ノストラダムスはしばしば par を pour の意味でも使っている)。pour le despit de は par ressentiment contre (~に対する怨みによって) を意味するので((DMF p.197))、そちらを採用すれば「より小さき方を支持する王への怨みによって」となる。  moindre は劣等比較。現代語では定冠詞がないと最上級にはならないが、中期フランス語の場合、定冠詞がなくても比較級にも最上級にもなった。クレベールは最上級に理解する一方、ラメジャラーやシーバースは the lesser と英訳している。  2行目 bagues は最も初期と思われる1568Xでは baques となっている。DFEでは baque は berrie (berry, ベリー、漿果) と英訳されている。モデルが特定できないのでどちらの方が適切かは断定しかねるが、贈り物としては指輪の方が適切だろう (bague はしばしば宝石の付いた指輪を指す)。ただし、『ロベール仏和大辞典』では、bague の語源としてオランダ語説とプロヴァンス語説が挙げられており、後者の baga は更にラテン語の baca に遡る。そして、baca は漿果や真珠の意味があった((『羅和辞典』およびBantam))。ゆえに、語源まで遡れば、baque だろうと、bague だろうと似た意味は導けるのかもしれない。  3行目 poindre は自動詞として「現れ出す」、他動詞として「刺す」などの意味で((『ロベール仏和大辞典』))、クレベールはこの場合 apparaître と釈義しているので、それに従った。  4行目 Magues は [[マギ]] のこと。マギは現代フランス語では mage(s) と綴るが、古語では mage の綴りの揺れとして mague も使われていた((DALF, T.05, p.65))。高貴と見られたくてそのように振舞うというのだから、おそらく否定的な意味合いではないだろう。東方の三博士(三賢者)にならい、「賢者」と意訳してもよいのかもしれない。 [[ピーター・ラメジャラー]]はそのまま Magi と英訳しているが、[[リチャード・シーバース]]は ancient Perisian Magi kings と英訳している。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「王に代わって弱者の部分を受けもち」((大乗 [1975] p.289。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。上で述べたように Par le despit de に「~に代わって」の意味などない。元になったはずの[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも to spite となっており、(それが適訳かはともかく)「~に代わって」とは訳せない。in spite of (~にもかかわらず) と解釈した上で instead of (~の代わりに) と取り違えたのだろうか。  2行目「かれらは殺害されて玉飾りを贈呈し」も不適切。「殺される」は sera (三人称単数) からすれば、「かれら」とはならない。ロバーツの英訳でも主語は he となっており、複数に理解した根拠が不明である。また、luy (彼に、彼女に)が訳に反映されていない。  3行目「父と息子は貴族にわずらわされ」の、父と息子が並列的に訳されているのは、底本の違いによる。また、poindre を「わずらわされ」とするのも tourmenter (悩ませる、苦悩させる) としていた[[アナトール・ル・ペルチエ]]の読みなどを考慮すれば、可能な訳である。しかし、voulant が訳に反映されていないのは不適切。  4行目「マギの人々がペルシアでしたようにかれらにするだろう」は「かれらに」に当たる語が原文にない。なお、[[マギ]]はもともと複数形なので(単数形はマグス)、「の人々」は冗長である。また、その語注に「ゾロアスター教の系統を引く古代ペルシアの拝火教の僧侶」とあるが、これはおかしい。拝火教は普通ゾロアスター教の別名であるし、古代ペルシアどころか現代においてさえもゾロアスター教は一定数の信者を擁しているくらいで、古代ペルシアにおいて他の「拝火教」に取って代わられた事実もない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  3行目 「父親 息子に高貴を注入せんと欲しながら」((山根 [1988] p.321 。以下、この詩の引用は同じページから。))は不適切。poindre を「刺す」の意味に理解して「刺しこむ=注入する」とでも理解したものだろうか。元になったはずの[[エリカ・チータム]]の英訳では impress ... with (~に~という印象を与える)が使われており、穏当である(おそらくチータムは[[エドガー・レオニ]]の impress ... on を真似たのだろう。レオニと同種の訳し方はシーバースもしている)。  4行目「かつてペルシアにてマギ僧族が行なうのをつねとしていた事を真似た」はおそらく不適切。「つねとする」に当たる語はない。おそらく過去の習慣的動作と理解して補ったのだろうが、それならば単純過去ではなく半過去が用いられるべきではなかっただろうか(この点、中期フランス語の用法を確認できていないので断言はしかねる)。また、「マギ僧族」は言いたいことは分かるものの、少々異質な訳語ではないだろうか。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、王と王子が、貴族に対抗する民衆に肩入れし、古代ペルシアのマギが君主を始末したやり方で殺されることになると解釈したが、マギのやり方とはどのようなものかや、具体的な事件との結び付けなどは、一切説明しなかった((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[シャルル・ニクロー]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1938年)はごく近い未来の第三共和政崩壊に関する詩の一つとして採り上げていた((Fontbrune (1938)[1939] p.133))。確かに第三共和政は1940年に崩壊したが、史実と詩を結び付けがたいと判断したのか、後の改訂版ではこの詩はまったく扱われていない。  [[アンドレ・ラモン]](1943年)はペタン元帥がナチスに屈して傀儡政権を立てたことと解釈した((Lamont [1943] p.287))。 #co(){Boswell [1943] p.300}  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)およびその[[娘>リー・ロバーツ・アムスターダム]]夫婦(1982年)、[[孫>ロバート・ローレンス]](1994年)は、前述のガランシエールの解釈をほぼそのまま踏襲したが、やはりマギのやり方とはどのようなものかや、具体的な事件との結び付けなどは一切説明しなかった((Roberts (1947)[1949/1982/1994]))。  [[エリカ・チータム]](1973年)は文字通り一言も解釈をつけておらず、後の決定版(1989年)でも解釈不能とだけ述べられている((Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。しかし、その[[日本語版>ノストラダムス全予言 (二見書房)]](1988年)では、王政時代のフランスについての予言に「ちがいない」と、かなり強く決め付けられている((チータム [1988]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1976年)は、ナポレオン・ボナパルトが1810年にマリー・ルイーズと再婚(指輪を贈る)したものの、その後権力失墜に見舞われたこと、生まれた息子(ナポレオン2世)をローマ王とした(高貴に見せようと望む)ことなどと解釈した。なお、2行目 luy は当「大事典」は「彼に」と訳したが、「彼女に」と訳すことも可能である。イオネスクの場合、そこから更に進めて、リュイ(luy) とルイーズを結びつけ、Sera meurdri lui には Marie Louise, R.D.R.(Roi de Rome)が[[アナグラム]]で隠されていると主張した((Ionescu [1976] p.327))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)もナポレオン・ボナパルトと解釈したが、ユタンはむしろ帝位に上り詰めるまでの方に力点を置いている((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)はパフレヴィー王朝がイラン革命によって倒れ、宗教指導者であるルホラ・ホメイニが権力を掌握したことと解釈した((Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] pp.407-408))。 *同時代的な視点  ペルシアで[[マギ]]がしていたやり方というのが曖昧である。[[ジャン=ポール・クレベール]]が指摘するように、『マタイによる福音書』に登場するマギ(東方の三博士)が念頭に置かれているのかもしれないが、そうだとしても詩の情景が不鮮明であることはあまり変わらない。文脈からすれば「賢者」と意訳するのが望ましいように見えなくもないが、いずれにせよ詩の前半と後半のつながりが不明瞭である。  [[ピーター・ラメジャラー]]は出典未特定としていた。他の実証主義的論者にも、特にモデルを示した人物はいないようである。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 #comment
[[詩百篇第10巻]]>21番* *原文 Par&sup(){1} le despit du Roy soustenant moindre, Sera meurdry&sup(){2} luy presentant les bagues&sup(){3}, Le pere au filz&sup(){4} voulant noblesse&sup(){5} poindre Fait&sup(){6} comme à Perse iadis feirent&sup(){7} les Magues;. **異文 (1) Par : Bar 1605sn (2) meurdry : meurtry 1590Ro 1610Po 1627Ma 1627Di 1840 (3) bagues : baques 1568X 1590Ro (4) pere au filz : Pere & Fils 1672Ga (5) noblesse : Noblesse 1672Ga (6) Fait : Eait 1668P (7) feirent : firent 1590Ro 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1672Ga 1716PR 1720To 1772Ri 1840 (注記)1568A では上のように Magues;. と、ポワン・ヴィルギュル(セミコロン)とポワン(ピリオド)が並ぶ変則的な句読点になっているが、他の1568は(1568Aに先行すると思われる1568Xも含めて)ポワンだけなので、単なる誤記であろう。ゆえに、いちいちその句読点の打ち方を異文として採取することはしなかった。 *日本語訳 より小さき方を支持する王の怒りによって 彼に指輪を贈る者が殺されるだろう。 父は息子から高貴に見られることを望み、 かつてペルシアで[[マギ]]がしていたようにする。 **訳について  1行目 par le despit de は直訳すれば「~の恨みによって」となる。despit には古語で「怒り、憤り」の意味もあり((『ロワイヤル仏和中辞典』第2版))、[[ジャン=ポール・クレベール]]はその意味に理解している。  [[エドガー・レオニ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らも depit の主体を王としているのでそれに従ったが、、中期フランス語の成句 pour le despit de に引き付けて訳せる可能性もある(ノストラダムスはしばしば par を pour の意味でも使っている)。pour le despit de は par ressentiment contre (~に対する怨みによって) を意味するので((DMF p.197))、そちらを採用すれば「より小さき方を支持する王への怨みによって」となる。  moindre は劣等比較。現代語では定冠詞がないと最上級にはならないが、中期フランス語の場合、定冠詞がなくても比較級にも最上級にもなった。クレベールは最上級に理解する一方、ラメジャラーやシーバースは the lesser と英訳している。  2行目 bagues は最も初期と思われる1568Xでは baques となっている。DFEでは baque は berrie (berry, ベリー、漿果) と英訳されている。モデルが特定できないのでどちらの方が適切かは断定しかねるが、贈り物としては指輪の方が適切だろう (bague はしばしば宝石の付いた指輪を指す)。ただし、『ロベール仏和大辞典』では、bague の語源としてオランダ語説とプロヴァンス語説が挙げられており、後者の baga は更にラテン語の baca に遡る。そして、baca は漿果や真珠の意味があった((『羅和辞典』およびBantam))。ゆえに、語源まで遡れば、baque だろうと、bague だろうと似た意味は導けるのかもしれない。  3行目 poindre は自動詞として「現れ出す」、他動詞として「刺す」などの意味で((『ロベール仏和大辞典』))、クレベールはこの場合 apparaître と釈義しているので、それに従った。  4行目 Magues は [[マギ]] のこと。マギは現代フランス語では mage(s) と綴るが、古語では mage の綴りの揺れとして mague も使われていた((DALF, T.05, p.65))。高貴と見られたくてそのように振舞うというのだから、おそらく否定的な意味合いではないだろう。東方の三博士(三賢者)にならい、「賢者」と意訳してもよいのかもしれない。 [[ピーター・ラメジャラー]]はそのまま Magi と英訳しているが、[[リチャード・シーバース]]は ancient Perisian Magi kings と英訳している。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「王に代わって弱者の部分を受けもち」((大乗 [1975] p.289。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。上で述べたように Par le despit de に「~に代わって」の意味などない。元になったはずの[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも to spite となっており、(それが適訳かはともかく)「~に代わって」とは訳せない。in spite of (~にもかかわらず) と解釈した上で instead of (~の代わりに) と取り違えたのだろうか。  2行目「かれらは殺害されて玉飾りを贈呈し」も不適切。「殺される」は sera (三人称単数) からすれば、「かれら」とはならない。ロバーツの英訳でも主語は he となっており、複数に理解した根拠が不明である。また、luy (彼に、彼女に)が訳に反映されていない。  3行目「父と息子は貴族にわずらわされ」の、父と息子が並列的に訳されているのは、底本の違いによる。また、poindre を「わずらわされ」とするのも tourmenter (悩ませる、苦悩させる) としていた[[アナトール・ル・ペルチエ]]の読みなどを考慮すれば、可能な訳である。しかし、voulant が訳に反映されていないのは不適切。  4行目「マギの人々がペルシアでしたようにかれらにするだろう」は「かれらに」に当たる語が原文にない。なお、[[マギ]]はもともと複数形なので(単数形はマグス)、「の人々」は冗長である。また、その語注に「ゾロアスター教の系統を引く古代ペルシアの拝火教の僧侶」とあるが、これはおかしい。拝火教は普通ゾロアスター教の別名であるし、古代ペルシアどころか現代においてさえもゾロアスター教は一定数の信者を擁しているくらいで、古代ペルシアにおいて他の「拝火教」に取って代わられた事実もない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  3行目 「父親 息子に高貴を注入せんと欲しながら」((山根 [1988] p.321 。以下、この詩の引用は同じページから。))は不適切。poindre を「刺す」の意味に理解して「刺しこむ=注入する」とでも理解したものだろうか。元になったはずの[[エリカ・チータム]]の英訳では impress ... with (~に~という印象を与える)が使われており、穏当である(おそらくチータムは[[エドガー・レオニ]]の impress ... on を真似たのだろう。レオニと同種の訳し方はシーバースもしている)。  4行目「かつてペルシアにてマギ僧族が行なうのをつねとしていた事を真似た」はおそらく不適切。「つねとする」に当たる語はない。おそらく過去の習慣的動作と理解して補ったのだろうが、それならば単純過去ではなく半過去が用いられるべきではなかっただろうか(この点、中期フランス語の用法を確認できていないので断言はしかねる)。また、「マギ僧族」は言いたいことは分かるものの、少々異質な訳語ではないだろうか。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、王と王子が、貴族に対抗する民衆に肩入れし、古代ペルシアのマギが君主を始末したやり方で殺されることになると解釈したが、マギのやり方とはどのようなものかや、具体的な事件との結び付けなどは、一切説明しなかった((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[シャルル・ニクロー]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1938年)はごく近い未来の第三共和政崩壊に関する詩の一つとして採り上げていた((Fontbrune (1938)[1939] p.133))。確かに第三共和政は1940年に崩壊したが、史実と詩を結び付けがたいと判断したのか、後の改訂版ではこの詩はまったく扱われていない。  [[アンドレ・ラモン]](1943年)はペタン元帥がナチスに屈して傀儡政権を立てたことと解釈した((Lamont [1943] p.287))。 #co(){Boswell [1943] p.300}  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)およびその[[娘>リー・ロバーツ・アムスターダム]]夫婦(1982年)、[[孫>ロバート・ローレンス]](1994年)は、前述のガランシエールの解釈をほぼそのまま踏襲したが、やはりマギのやり方とはどのようなものかや、具体的な事件との結び付けなどは一切説明しなかった((Roberts (1947)[1949/1982/1994]))。  [[エリカ・チータム]](1973年)は文字通り一言も解釈をつけておらず、後の決定版(1989年)でも解釈不能とだけ述べられている((Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。しかし、その[[日本語版>ノストラダムス全予言 (二見書房)]](1988年)では、王政時代のフランスについての予言に「ちがいない」と、かなり強く決め付けられている((チータム [1988]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1976年)は、ナポレオン・ボナパルトが1810年にマリー・ルイーズと再婚(指輪を贈る)したものの、その後権力失墜に見舞われたこと、生まれた息子(ナポレオン2世)をローマ王とした(高貴に見せようと望む)ことなどと解釈した。なお、2行目 luy は当「大事典」は「彼に」と訳したが、「彼女に」と訳すことも可能である。イオネスクの場合、そこから更に進めて、リュイ(luy) とルイーズを結びつけ、Sera meurdri lui には Marie Louise, R.D.R.(Roi de Rome)が[[アナグラム]]で隠されていると主張した((Ionescu [1976] p.327))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)もナポレオン・ボナパルトと解釈したが、ユタンはむしろ帝位に上り詰めるまでの方に力点を置いている((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)はパフレヴィー王朝がイラン革命によって倒れ、宗教指導者であるルホラ・ホメイニが権力を掌握したことと解釈した((Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] pp.407-408))。 *同時代的な視点  ペルシアで[[マギ]]がしていたやり方というのが曖昧である。[[ジャン=ポール・クレベール]]が指摘するように、『マタイによる福音書』に登場するマギ(東方の三博士)が念頭に置かれているのかもしれないが、そうだとしても詩の情景が不鮮明であることはあまり変わらない。文脈からすれば「賢者」と意訳するのが望ましいように見えなくもないが、いずれにせよ詩の前半と後半のつながりが不明瞭である。  [[ピーター・ラメジャラー]]は出典未特定としていた。他の実証主義的論者にも、特にモデルを示した人物はいないようである。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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