「百詩篇第2巻51番」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

百詩篇第2巻51番」の最新版変更点

追加された行は青色になります。

削除された行は赤色になります。

 *原文
 Le sang du iuste à Londres fera faute
 Bruslés par fouldres&sup(){1} de vint trois&sup(){2} les six&sup(){3}.
 La dame&sup(){4} antique cherra de place haute:
 De mesme secte plusieurs seront occis.
 
 **異文
 (1) fouldres : feu 1672
 (2) vint trois : vinttrois 1557U 1557B, vingt-trois 1588Rf 1589Me 1644 1668P, vingt & trois 1589PV 1672
 (3) les six : les Six 1672
 (4) dame : Dame 1653 1672
 
-(注)4行目 seront について、[[ピエール・ブランダムール]]は 1611 の異文として feront を挙げているが、当「大事典」で用いた1611A, 1611B ではいずれも feront とは読めない。1866年のドゥラリュの版は feront となっているので、あるいはそちらを参照していたのかもしれない。
+(注)4行目 seront について、[[ピエール・ブランダムール]]は 1611 の異文として feront を挙げているが、当「大事典」で用いた1611A, 1611B ではいずれも feront とは読めない。1611年版の忠実な復刻とされた1866年のドゥラリュの版では feront となっているので、あるいはそちらを参照していたのかもしれない。
 
 **校訂
  2行目は1音節欠けている。
  [[エヴリット・ブライラー]]は plus を補った上で les six(レ・シ((普通に読めば「レ・シス」だが、ここでは押韻に基づくブランダムールの読みに従った。)))を saisis(セジ)と読み替え、Bruslés par fouldres plus de vint trois saisis.(囚われた23人以上が雷で焼かれるだろう)と読んでいる((LeVert [1979] p.124))。
  [[ピエール・ブランダムール]]は一部の版に見られるように & を補い、vint trois を vint & trois と読み替えている。これは特に意味の変更につながらない((Brind’Amour [1996]))。
 
 *日本語訳
 正義の血はロンドンでは欠けるだろう。
 二十三人のうちの六人が雷によって焼かれる。
 高齢の貴婦人が高い場所から落ちるだろう。
 同じ派の中の多くが殺されるだろう。
 
 **訳について
  3行目 antique は「古い」「高齢の」などの意味である。[[ジェイムズ・ランディ]]は高齢の女性ならば普通 vieille dame と言うはずとしているが、現代フランス語だけでなく中期フランス語でも antique に âgée(高齢の、老年の)という意味はあったし((cf. DMF))、ブランダムールもそう読んでいるのでそれに従った。
 
  山根訳の前半2行は解釈にかなり引きずられている。1行目「正義の血をロンドンは求めるだろう」((山根 [1988] p.95))は誤訳。faire faute は「不足している、欠く」を意味する熟語で、現代フランス語でも中期フランス語でも意味は同じである((cf. DMF))。「求める」はおそらく il faut(~を必要とする)に引き付けているのだろうが、強引過ぎる。
  2行目「二十の三倍に加えること六の火に焼かれて」は有名な読み方だが、明らかにおかしい。「20かける3たす6」をフランス語で言えば、vingt fois trois et six となる。vingt(-)trois は「23」を意味する普通のフランス語表現である。もっとも、これについては後述するように 23 x 6 なら当時の表現として読めるとする説もある。
 
  大乗訳も前半がおかしい。1行目「正義の血がロンドンにかわくとき」((大乗 [1975] p.84))は「かわく」というのがよく分からない。2行目「三度の火事で二〇と六が」はさらに意味不明で数字の結びつき方があまりにも不自然である。これは、[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 Burnt by the fire of three times twenty and six((Roberts [1949] p.60))を誤訳したのだろう。一見して明らかな通り、この場合の times は山根訳同様に掛け算を意味している。
 
 *信奉者側の見解
- 1666年のロンドン大火の予言ということで一致している。この解釈は[[1668年アムステルダム版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集と予言集 (ジャン・ジャンソンほか、1668年)]]の冒頭に載せられた簡潔な解釈集ですでに登場している。
+ 1666年のロンドン大火の予言ということでほぼ一致している。この解釈は[[1668年アムステルダム版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集と予言集 (ジャン・ジャンソンほか、1668年)]]の冒頭に載せられた簡潔な解釈集ですでに登場している。
 
 #ref(1668A.PNG)
 【画像】1668年アムステルダム版の扉絵。ピューリタン革命での国王処刑(上)とロンドン大火(下)を的中例として宣伝している((画像の出典:M. de Fontbrune [1975] p.45))。
 
  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、おそらく最初に解釈を整備した人物である。
  彼は1行目の「正義の血が欠ける」をチャールズ1世の処刑(1649年)に関連付け、その天罰としてロンドン大火が起こったと捉えた。
  2行目についてはそのまま of three and twenty, the six と英訳し、火災で燃えた住居や建造物の数をおおよその比率で表現したものだとした。23分の6は約4分の1になるが、それはロンドンの4分の3が焼けたとされる比率に大体対応しているという。
  また、three twenties and six とすれば66になり、大火が起こった1666年と理解できるかもしれないとしている(ジェイムズ・ランディは、ガランシエールが66を導く解釈を気に入らなかったらしいとしていたが((ランディ [1999] p.266))事実ではなく、特に否定的なコメントはない)。
  3行目の「古き貴婦人」(the ancient Dame)は、セントポール大聖堂のこととした。彼はその根拠として、その前身が古代のディアナ神殿であったことを持ち出し、「古き貴婦人」はディアナの隠喩とした。「高い場所」は高価さや建物の高さなどを複合的に表現したものだという。
  4行目の「同じ派の多く」は、セントポール大聖堂以外にも多くの聖堂が燃えたことを表現しているという。
 
  この解釈は、[[バルタザール・ギノー]](1712年)や[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)といったフランス系の信奉者には引き継がれなかった(彼らはこの詩に触れていない)。また、[[1691年ルーアン版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集と予言集 (ブゾンニュ、1691年)]]に掲載された「当代の一知識人」の解釈では、メアリー・スチュアートの処刑とされている。現代でも[[セルジュ・ユタン]]は17世紀初頭のジェームズ1世によるカトリック弾圧などと関連付けている((Hutin [1978/2002]))。
 
  しかし、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[アンドレ・ラモン]](1943年)、[[ロルフ・ボズウェル]](1943年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[エリカ・チータム]](1973年)といった英米系の信奉者にはほぼそのまま引き継がれた((Lamont [1943] p.116, Boswell [1943] p.89, Cheetham [1973]))。
  ウォードはガランシエールの見解に若干追加し、2行目の foudre(雷)は fireball(火の玉)と訳せるとか、3行目の dame はこの場合 dome > doma(ラテン語の「家」「教会」)と読むべきではないかなどと述べている((Ward [1891] pp.214-215))。
 
  また、当初のガランシエールの解釈から多少離れ、3行目の「古い貴婦人」を(ディアナ神殿という由来と関係のない)セントポール大聖堂そのものの隠喩とする解釈((Hogue [1997/1999]))、セントポール大聖堂の屋根に飾られていて火事で転落した聖母像とする解釈((Crockett [2001]))なども出現した。
 
 **懐疑的な視点
  [[ジェイムズ・ランディ]]は、ディアナ神殿と関連付ける解釈の検証は行っていないが、セントポール大聖堂そのものを「古い貴婦人」とする解釈に対しては、古来そのような別名で呼ばれたことがないと指摘している。また、屋根の聖母像に関しては焼失前のスケッチをもとに、そのような像は存在しなかったことを明らかにしている((ランディ [1999] pp.266-267))。
 
 *同時代的な視点
  [[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[ジェイムズ・ランディ]]、[[リチャード・スモーレー]]らはノストラダムスにとって同時代の存在であったイングランド女王メアリ1世(在位1553年 - 1558年)に関する予言と理解している。
  レオニは、イングランドにおいて真のプロテスタントの教義が導入されたのが1549年、メアリ1世が即位し、フェリペ2世と結婚し、プロテスタントの弾圧に乗り出したのが1554年で、ちょうどノストラダムスが予言詩を執筆していた時期に当たるとしている。
  ブライラーは、3行目の antique を「頭がおかしい」(foolish, mad)の意味に捉え、メアリの強硬な姿勢が彼女の権威失墜につながったと理解した。
  ランディはさらに解釈を深め、メアリが1555年1月22日にカトリックの処刑を開始し、その際6人ずつ火刑を執行したことと、死を早めるために火薬袋を足につけることを許可したことを指摘した。こうした情景と詩の様子がある程度合致している上、この詩の出版(1555年5月4日)は処刑の3ヶ月ほど後なので、それをモデルにした可能性は十分にあるとした((ランディ [1999] pp.267-271))。
  もっとも、ランディはそこでカトリーヌ・ド・メディシスが情報伝達に便宜を図った可能性も仄めかしていたが、それは明らかに勇み足である。ノストラダムスがカトリーヌと初めて謁見したのは、1555年8月のことであった。
  当時の通信速度との関連からは、信奉者の[[ジョン・ホーグ]]からも反論が寄せられた((Hogue [1997/1999]))。
  また、ブライラーやランディの解釈の場合、ノストラダムスはかなりプロテスタントに肩入れしていたことになる。彼は確かに、私信においてプロテスタントに好意的な姿勢も見せてはいるが、『予言集』で明示されているのはむしろ王党派カトリックの姿勢である。この詩でのみ露骨にプロテスタント寄りの姿勢を見せたと読むのは、妥当性に議論の余地があるだろう。
 
  [[ロジェ・プレヴォ]]は、1307年からのテンプル騎士修道会事件をモデルと見なした。テンプル騎士修道会事件とは、フランス王フィリップ4世が、不十分な調査に基づいてテンプル騎士修道会を解散させ、会士を処罰し、財産を没収した事件である。
  この際に告訴の対象になった会士は138人にのぼる。プレヴォは2行目を 23 x 6 = 138 と理解している。これに対し、イングランドで逮捕された会士たちは拷問にかけられることはなかったし、全てを白状するのと引き換えに処刑を免れることができた(1行目についてプレヴォは直接的に解釈していないが、流血沙汰がロンドンでは起こらない=「欠けた」ということなのだろう)。
  テンプル騎士修道会の解散はヴィエンヌ公会議でも追認された。その時期に、非常に美しいイングランド出身の女性幻視者が現れ、聖霊の生まれ変わりであると主張し、異端として処刑される事件も起こったという((Prévost [1999] pp.36-38))。
  [[ピーター・ラメジャラー]]はこの説を支持している((Lemesurier [2003b]))。[[ブリューノ・プテ=ジラール]]もこの詩についてはプレヴォの解釈のみ紹介しているが、特に論評を加えていない((Petey-Girard [2003]))。
 
 ----
 #comment