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サッカー扶桑代表とは、扶桑の男子サッカーにおける国を代表するチームである。 扶桑サッカー協会(FFA)によって選出される。
FIFAワールドカップには6度出場しており、最高成績は2002年大会、2010年大会のベスト16。AFCアジアカップでは最多となる4度の優勝を記録している。
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*概要
現在のユニフォームカラーは青、サブカラーに白。青の由来としては昔扶桑代表は選抜チームという形ではなく1つのクラブや大学などを扶桑代表チームとしており、優勝を果たした1930年極東選手権に大半の選手を送り込んでいた東京帝国大学のユニフォームが青だったために、そのまま採用されたと考えられている。
呼び名は単に代表もしくは扶桑代表。 2006年W杯から「SAMURAI BLUE(サムライブルー)」という愛称がつけられた。
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*簡単な来歴
-黎明期~ドーハの悲劇
最初の代表チームの試合が行われたのは1917年。長い間国際大会では本大会に出場することも難しかったが、オリンピックでは1936年のベルリンオリンピックに出場して初優勝(ベルリンの栄光)。 その後何度かベスト8に進出しているがメダルからは遠ざかり、次のメダルはストライカー釜田国光を擁し3位となる1968年メキシコオリンピックまでお預けとなった。
しかし1972年のミュンヘン五輪以降は予選敗退に甘んじる大会が続き、予選突破は1996年のアトランタ五輪になって再びようやく達成された。
1991年のプロリーグ(Jリーグ)発足によって、扶桑サッカー界の実力は飛躍的に上昇し、アトランタ五輪出場の他、オフト監督に率いられた扶桑代表チームは1992年自国開催のAFCアジアカップで初優勝。
扶桑国内でもサッカー人気が一気に上昇し、プレイ人口も増大した。
そして1994年FIFAワールドカップのアジア予選では、最終戦を残して地区1位に上りつめ、扶桑代表結成から77年目にしてついに本戦出場かと期待されたが、最終・イラク戦でロスタイムに同点弾を決められて敗退、2位3位が共に勝利したため3位に転落し、惜しくも出場を逃した(ドーハの悲劇)。
-ワールドカップ初出場後
1998 FIFAワールドカップ・フランス大会では、アジア予選のプレーオフでイランを破り、とうとう本大会出場を決める(ジョホールバルの歓喜)。本大会では3戦全敗でグループステージ敗退したものの、扶桑国内でのサッカーワールドカップと扶桑代表への注目度はますます上がる。
韓国との共催となった2002 FIFAワールドカップでは、本国開催ということもあって、2勝1分で決勝トーナメントに初進出を果たす。決勝トーナメントでは初戦敗退。
2006 ワールドカップ・カールスランド大会では、黄金世代を中心としたメンバーで大いに期待されたが、初戦のオーストラリア戦を逆転負けで落としブラジルにボコられ2敗1分でグループステージ敗退となる。
2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会ではアジア最終予選においてウズベキスタンに勝利して4大会連続4度目の本大会出場を決めるも、1勝2敗でまたもグループステージ敗退。
2014 FIFAワールドカップブラジル大会では、攻撃力の強化を持って大会に臨むも肝心の本大会予選では得点力は鳴りを潜め、2013年から続く失点癖が抜けず初戦のコートジボアール戦ではエース・本条健吾の先制ゴールも、後半のディディド・ドログバ投入から相次いで失点。その後のギリシャ戦ではスコアレスドロー、コロンビア戦では4失点を喫し、1分2敗とグループリーグ最下位で大会を終えた。
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*主な戦績(A代表)
-ワールドカップベスト16(2002)、グループステージ敗退(1998、2006、2010、2014)
-AFCアジアカップ優勝(1992, 2000, 2004, 2011)、ベスト4(2007)、ベスト8(1996,2015)
-UFWC(非公式サッカー世界王者)チャンピオン(2010/10/8~2011/11/15)前王者アルゼンチンを倒してタイトル獲得
*主な戦績(カテゴリ別)
-オリンピック1位(1936)、3位(1968)、4位(2012)、ベスト8(2000)
-U-20ワールドカップ準優勝(1999)、ベスト8(1995、1997,2003)
-U-17ワールドカップベスト8(1993、2011)