小田原の歴史
概要
戦国時代には後北条氏の城下町、江戸時代には小田原藩の城下町、東海道小田原宿の宿場町として盛えた。
廃藩置県の時期には、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島をエリアとする足柄県の県庁所在地でもあった。この位置関係もあって、箱根越えの三島を初めとして、伊豆地方の市町村との交流関係も深い。神奈川県内では、西湘エリアの中心的な都市である。
特産品としては、小田原ちょうちんやかまぼこが有名である。
一時期は東京のベッドタウン化したとも言われたが、長期不況であえなく人口動態が社会減に転じた。一時は20万人を超えた人口も20万を割り込み、新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保に忙しい。
地理
神奈川県のほぼ南西端に位置し、酒匂川の流れる足柄平野を中心に、東は大磯丘陵の南西端である曽我丘陵と呼ばれる丘陵に、西は箱根に連なる火山の外輪山の跡である山地となっている。南は相模湾に面し、遠浅の海に小漁港が点在している。
沖合いには、関東大震災の震源地となった相模トラフが伸びている為、地震対策に力が入れられている。
気候は太平洋側気候の地域で、四季を通じて温暖である。
沖合いには、関東大震災の震源地となった相模トラフが伸びている為、地震対策に力が入れられている。
気候は太平洋側気候の地域で、四季を通じて温暖である。
歴史
古代
古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。
鎌倉時代から天正まで
1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を築き、その子孫である後北条氏は関東一円に台頭し、鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、その他関東八屋形に列せられた諸氏による当時の関東の統治体制を転覆した。なお、下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれた。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消す。家康が関東を治めるようになった後は、藤原北家宇都宮氏流・大久保氏が小田原に入った。
江戸時代
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が成立し、1686年以降は代々大久保氏の城下町となった。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場としても栄えた。又、小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮金次郎の生地として有名である。
明治以後
1871年の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となった。同年11月の府県再編で、相模国西半分と伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれた。しかし1876年に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県と合併し、伊豆国部分は静岡県と合併して、小田原は県庁所在地の地位を失った。神奈川県と合併した後に設置された支庁も、間もなく廃止されたが、1878年の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれ、神奈川県西部の中心都市としての地位を保った。
東海道本線は当初、小田原~熱海~沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設された。これにより小田原は人及び物の流れるルートから外れてしまい、一時急速に衰退した事があった。それを挽回しようと、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行電鉄(現在の小田急電鉄)なども開通して、次第に地位を回復させた。
1923年9月1日の関東大震災では、震源地に近かった為に烈しい被害を受けた。1934年の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになった。1964年には東海道新幹線も開通し、東京・横浜への所要時間も大きく縮んだ@wikiへ