第一話

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第一話 - (2010/09/07 (火) 01:50:35) のソース

 懐中少女
 
 
 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、駐輪場のパネルに触れた。自分の名前と現在時刻、そして施錠が完了したことを知らせる。
 駅のロータリーまでは一本道だ。彼女が近づくたびに、脇にある店の看板が彼女の興味を惹こうと表示を変える。ガラス細工の看板の横では、若いカップルが案内パネルを操作して、美味しいランチの情報を探していた。
 大きな荷物を抱えたお婆さんが、街路樹から表示されるホログラムディスプレイの地図を見て、道を確かめている。喫茶店ではスーツに身を包んだ男が、玉子サンドを頬張りながら机に映し出されたパネルを叩く。
 車、家、街灯に街路樹、喫茶店の机やマンホールに至るまでその全てに電脳が埋め込まれている。この町の多くの人間は、インターネットという言葉さえ知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術が結集したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。

「ごめん。待った?」
「いや、二十分前に来たところ」
 銅像の下で暇つぶしに読んでいた本を閉じ、青年が答える。
「変わってないな、イコナは」
 イコナと呼ばれた彼女は小さく笑った。漏れた息が白く濁る。
「あんたもね、駿(シュン)」
 イコナは駿の抱えた大きな鞄を見やると、道の端に構えたコインロッカーを指差した。駿は頭を小さく振って拒否するが、イコナは譲らない。
「そんなでっかい荷物抱えて女の子とデートする気?」
「デートって……。俺はさっさと新居に行きたいんだが」
「その前に町案内よ。あんたの居た田舎とは全く違うんだから、迷ってからじゃ遅いのよ」
 彼は渋々錆び付いたコインロッカーの蓋を開け、荷物を押し込んだ。暖かいコーヒーの一つでも、と取っておいた100円玉が無情にも暗い穴に呑まれていった。
 ロータリーは閑散としている。そもそもの駅利用者も少ないし、また平日の昼間にこんな寒くて何も無い場所を歩き回る者はほとんど居ない。端の方では黒ずくめの衣装に身を包んだ怪しい集団が、のぼりを立てて神がどうとか拡声器で叫んでいた。

 イコナがタクシー乗り場の小さなパネルに触れると、ほどなくして二人乗りの電動車が走ってきた。乗り込むと合成音声が行き先を尋ねる。彼女は先ほど押し込んだ懐中時計を再び取り出し、車の案内パネルに置く。
 その懐中時計は、丸い形をして三つの針と開閉する蓋を持つものではない。それは大きなリンゴ二つ分ほどの背丈の女の子であり、目を光らせながら小さな手足を器用に動かす、アンドロイドだった。
「イコナ、行き先は?」
 イコナを見上げて、懐中時計が喋る。イコナが行き先を告げると背中から通信用ケーブルを伸ばしてパネルへと挿し、程なくして車がゆっくりと動き出した。
「……何? これ」
「何って。『懐中時計』だけど」
 きょとんとした顔で駿を見る。直後、ハッとしたような顔をして、
「もしかして、知らないの」
「知らん。近頃の女の子の流行りなのか? 着せ替えドール的な」
「違うよ。懐中時計」
 駿は早くも頭痛がした。電脳都市トーキョーで少なからぬカルチャーショックは味わうと思っていたが、まさかこんなにも早いとは。駿の知っている懐中時計は、もっと質素で慎ましく、ただ淡々と三つの針が時刻を知らせてくれる、ちょっとお洒落なアンティークアイテムだった。
「うーん……ああ、携帯電話? 多分、あれに、近い。あんまり覚えてないけど」
「ケータイ?」
 駿はポケットから携帯電話を取り出し、イコナに見せた。
「そう。インターネットとか、データベース検索とか、メールに電話に財布に書籍の閲覧にゲームにプレゼンに創作に、なんでもしてくれる携帯端末」
「いや、携帯電話はそこまで出来んが」
 しかしいくらか全貌が掴めた駿はほっと胸をなでおろした。どうやら携帯電話は自分と同じ年頃の女の子にはウケが悪く、世界の誇る電脳都市トーキョーではこんな奇抜なデザインをしているらし──。
「!?」
 駿は息を呑んだ。道端を歩くサラリーマンが、女の子の人形に話しかけている。気でも違ってしまったのだろうか。そうではない。肩に載せて歩道を歩く人。懐に入れて伸びたコードを耳に挿している人。喫茶店のテーブルに置いて目から発せられるホログラムのディスプレイを見ながら、机に映るキーボードを叩いている人。皆が持ち歩いていた。この、『懐中時計』を。
「あ。その携帯電話、捨ててね。もう要らないから」
 彼は目の前が真っ暗になるのを感じた。
 
「何がいい? ここはホットココアが美味しいけど」
「ん……じゃあそれで……」
 タクシーの行き先は、フランスのシャンゼリゼ通りの外れにありそうな小洒落た喫茶店だった。
 イコナは素早くテーブルの電光パネルを叩き、ココアを二つ注文した。しばらくお待ち下さい……の文字と共にくるくると丸いマークが回転する。やがて奥から二つの綺麗なカップをお盆に載せて、ゴミ箱のような形をしたロボットがやってきた。
「ご苦労さん」
 イコナが受け取ったココアの代わりに懐中時計を載せる。ピッ、と電子音を発してロボットの前面に付いたパネルが「代金:320円 残金:4960円」と教えてくれる。
「じゃあ、引っ越し祝いね」
「安く済ませたな」
 駿はイコナからココアを受け取ると、二回息を吹きかけてから口元に運んだ。甘いチョコレートの香りが体を中から温めた。
「ここから少し歩くけど」
「どこに行くんだ?」
「勿論、時計屋よ」
 テーブルの上に、イコナが懐中時計を置く。
「うえっ。俺も持つのか、これ」
「当たり前でしょう。これがなかったら電車にも乗れないのよ」
 懐中時計はキョロキョロと辺りを見渡すと、駿の顔をじっと見て、手元まで歩いてきた。
「ナナよ」
 喋ったのは時計だ。百歩譲って時計に携帯と同等かそれ以上の機能を持たせるのはアリとして、自律行動と人工知能は意味が分からない。しかも名前まである。駿はまた頭が痛くなった。
 差し出された手は、握手のつもりなのか。駿が軽く指先で握ってあげるとナナはそのまま無表情で、イコナの方へと歩いていった。

 懐中時計ショップらしい建物は、外から見ればまるで携帯電話ショップで、店の中はどう見ても人形工房だった。四段、五段もある陳列棚にずらりと人型懐中時計が並び、二人を見下ろしている。
「ほら、早く選んでよ」
 イコナが急かす。駿も出来る限り早くここを離れたかったが、あまりの不気味さにそのうちの一つを手に取ることさえはばかられた。
「あ、店長。お疲れさま」
「おや、イコナちゃん。部品でも壊れたかい? それとも冬用の凍結防止シートを買いに?」と店の奥から出てきたのは大体三十代後半の男性。オイルで所々黒ずんだエプロンが店長としての貫禄を見せる。
「いえ。今日は友達の」
 そう言って彼女は見渡す限りの懐中時計達に囲まれ戸惑う駿を指差す。店長は嬉しそうに頷いて、カウンターの扉を開けた。
「東京には初めて?」
「え、ええ……」
「ゆっくり選ぶといい。ずっと使っていくものだからね」
「はあ」
 満足そうにもう一度頷くと、店長はポケットから雑巾を取り出しショーケースを磨き始めた。
「イコナ……もう少しこう、普通なのはないのか? あ、これこれ。これはどうだ」
 駿が指差したのは、いかにも「女性アンドロイド」というゴテゴテの姿形をした懐中時計だった。そういえばさっきのサラリーマンはこのタイプのものを持っていた気がする。
「はあ? おっさんくさい」
 ばっさり切り捨てる。
「あんたの田舎じゃどうだか知らないけど。こっちじゃこれが普通なのよ」とイコナは『普通』の懐中時計の頭を掴んで彼に突きつける。何とも可愛らしい西洋人形だ。五歳くらいの女の子は目を輝かせて喜ぶだろう。しかし彼は男だし、もうすぐ十八にもなる。
「あんたの田舎、ってお前の田舎でもあるんだが」
 彼は観念したように小さなため息を付いて、目の前の懐中時計を手に取った。
 
 と、その時。彼の携帯電話がブルブルと音を立てて震えだした。
「ん、着信か」
 彼が携帯を取り出して通話ボタンを押した瞬間、店中の携帯時計の目が光りだした。電灯の光が見えなくなる位、店が色とりどりの光によって照らされる。
「うわっ、なんだ!?」
「え、何?」
 イコナがさっとナナを取り出し、手近な売り物に通信要ケーブルのプラグを接続した。直後に映し出されたホログラムの画面を見て、彼女は血相を変えて叫んだ。
「店長、元線切って!」
 店長もその異常事態を察知し、既に外部と繋がる回線を遮断していた。
「何が起こったって?」
「多分、SID。携帯の」
 彼女が答える。その指は懐中時計のライトによって空中に照らし出されたキーボードを恐ろしい速さで叩いていた。
「イ、イコナ。俺なんかしたか?」と恐る恐る駿が尋ねる。
「あんた以外誰が何かするのよ」
 イラだった様子で言い放つと、彼女は売り物の懐中時計からプラグを抜き、店の壁に直接差し込んだ。
「あんたの携帯、第三世代でしょ。第三世代のシステムIDはたまーに暴走するのよ。勝手にね」。イコナは駿の携帯電話をぶん捕り、電源ボタンを連打した。「今じゃ、宝くじよりレアだけどね。ツイてるね。まったく」
「イコナちゃん、きっと外には逃げていない。大丈夫だ」
「分かった。店長、モニタをお願い。ナナ、行くよ」
「ええ」
 ナナと呼ばれた彼女の懐中時計が返事をする。店長の運んできたモニタのプラグをナナに繋ぐと、モニタにゲーム画面のような不思議な空間が映し出された。
「何だ? これは」と駿が聞く。
「ネットワークよ。ここじゃ、ネットがGUI……つまり、こうやって仮想空間として描かれるの」
「へ、へえ……」
 画面には無数の円盤が浮かび、細い橋で繋がっていた。画面中央に3Dアバターとして描かれたナナは、そのうちの一つの円盤に乗っている。
「お願いね、ナナ」
 ナナはイコナの方を向いてうなづくと、広大な空間に向かって飛び立った。
 
 ナナが宙に浮かぶ円盤を華麗にかわしながら上昇する。
「この円盤は?」と駿。
「端末よ。東京では、扉・テーブル・ポット・レンジ・エアコン・カーテン、全てに電脳が埋め込まれネットワークに接続されているの。それを一括で管理するために、こういう形で描かれてる」
 天井には真っ黒く大きな蓋があった。ナナはあっという間にそこまで辿り着くと、二度三度それを叩いた。
「これが出口。外と繋がる、回線ね。今は塞いでるけど」
「逃げ出した形跡はないね。一つずつ締め出そう」
 店長がそう言って手元にあった懐中時計の電源を切った。空間に広がる円盤のうち、一つが弾けて消えた。ナナは蓋に張り付いて、それを監視する。
「いない。次」とイコナが指示する。
 店長は店を歩きながら、次々と懐中時計の電源を落としていった。その度に円盤が消えていく。
 七つ目の電源を落とした時、消えた円盤から黒い影が飛び出した。
「いた!」
 ナナが猛スピードで真っ黒いオタマジャクシのような形をしたSIDを追う。SIDは逃げるようにして、近くにある円盤に隠れた。
「店長、Dの7!」
 店長が自分の懐中時計を取り出し、操作する。すると画面に別のアバターが現れ、SIDが隠れた円盤を弾き飛ばした。SIDが慌てて別の円盤に逃げると、ナナがその円盤を破壊する。
「また隠れた。店長、次」
 隠れた傍からその円盤を壊してSIDを弾き出す。壊すたびに店の中のどこかの懐中時計がデタラメな七色の光を出すか、プシュウンと音を立てて止まる。
「駿、見てないで手伝ってよ」
「手伝えって何を」
「適当な時計使って、接続すんの」
 駿は立ち上がり、『適当な時計』を探そうとした。が、どれもこれも目が光っていて眩しい。
「何も見えん」
 返事は無い。イコナは激しくキーボードを叩いているし、店長は付近の時計をつけたり消したり、手元の時計を弄ったりと非常に忙しそうだ。
「あたいを使いなよ」
 ふと頭上から声がする。見上げると、生意気そうな顔をした一人(?)の懐中時計が駿を見下ろしていた。彼女は背中のプラグを自力で引き抜くと陳列棚の縁に足をかけ、「えいっ」と小さな掛け声と共に飛び降りた。
「うわっ」
 慌てて手を前に差し出すと、その中に彼女はすっぽりと納まった。
「後ろからコードが延びてるでしょ、それをあれに差すの」
 小さな手で店の壁を指差す。コンセントに良く似た、不思議な形のプラグがあった。言われるがままにコードを差すと、目からホログラムディスプレイが表示された。イコナの見ている、あのモニタと同じ画面だ。
「よーし、行くよ!!」
 画面中央には、駿の抱える懐中時計のアバターが居た。瞬く間に円盤から飛び立つと、猛スピードで空間を飛び回り始める。天井の方ではナナと店長のアバターがあちらこちらの円盤を叩き壊していた。
 壊された円盤からSIDが飛び出す。疲弊しているのか、さっきより小さくなっている。視点がぐるんと周り、アバターがSIDを追い始めた。
「うっ、酔ってきた」
「ちょっと駿、邪魔よ!」
 ナナと接触しそうになりながら、空間を縦横無尽に飛び回る。駿は気持ち悪くなってディスプレイを直視できずにいた。手元の生意気そうな懐中時計も、威勢こそ良いが人間の指示が無ければ上手く動けなさそうだった。
「駿! そっち行った!」
 何かがアバターにぶつかった。SIDだ。目標を見失ってうろうろしていた彼女が、偶然にもSIDの進路を遮ったのだ。
 一瞬怯んで動きを止めたSIDを、巨大な網が捕らえた。そのままナナが突撃し、空間の壁に叩きつける。
「やった!」
 白い煙が晴れると、ナナの手の中でSIDがじたばたと暴れていた。
 
「どうも、ご迷惑をおかけしました……」
「いや、いや。いいよ。実害があったわけじゃないしね」
 頭を下げる駿に、店長が笑って答える。
「で、それにすんの?」
 イコナが駿の抱える懐中時計を指差して言う。
「うん」
 と答えたのはその時計だ。
「ありがとう。んー、現金かな? 携帯はもう使えないし」
「ちょっと待って下さい。これ、いくらするんですか?」
「ん」
 店長が出口近くにある看板を指差した。「特価! 200,000円均一」と書かれている。
「高っ!?」
「どうせ持ってないんでしょ。立て替えとくよ」
 ちょっと待て、立て替えられても銀行にもそんな金はない。と彼が言う前に既にイコナが支払いを終えていた。時計をかざすだけで良い。便利な時代だ。
「いや、払えんぞ」
「そう言われても、必需品だから。トイチでいいよ」
「毎度ありー」

 外は日が落ちて寒さを増していた。下ろしたての羽毛布団のように分厚い雲が、今にも雪を降らそうとしている。
「はあ、どうするか。まさか母さんに人形買ったから二十万くれとは言えんし……」
「人形じゃなくて懐中時計」
 自分が買ったわけでもないのに、どこかイコナは嬉しそうだ。
「そういえば名前どうするの?」
「名前?」
「その子の。難しく言えば識別ID」
 懐から買ったばかりの時計を取り出す。今は目を閉じてスリープモードになっている。
「付けなきゃダメなのか」
「ペットにも名前を付けるでしょ」
 駿は悩んだ。生まれてこの方名前を付けるどころかペットを飼ったことすらない。
「人形だからアリスとか?」
「だから、時計だって」
「クロック?」
「センスないわね」
 冷たいものが頬に触れる。綿菓子のかけらが、空から溢れ出したようだ。あちらこちらで窓が閉まる。多くはセンサー式の自動開閉窓である。
「そうだ。ユキ、とか」
「雪が降ってるから?」
「うん」
「はあ……。まあ、いいんじゃない?」
 タクシーに乗り込むと、イコナはユキをパネルの上に置いた。
「ザンガクガ、タリマセン」と自動音声が流れる。
「駿、財布出して」
 言われるままに財布を出すとイコナは躊躇無く一万円札を機械の中に放り込んだ。パネルの残額が一万円増える。
「行き、出したから帰りはあんたよ」とイコナは財布を返して言った。


 扉が静かに閉まり、自動音声がオカエリナサイとイコナを迎える。
「はいはい、ただいま」
 彼女は靴を脱いで揃え、母親の靴がなくなってることに気付いた。そういえば今日から三日ほど、友人と旅行に行ってくると言っていた。
 ふと、玄関に大きな鞄が置いてあることに気付いた。長く出張に行っていた、父親のものだ。
「お父さん、帰ってるの?」
 シンとした家の中にイコナの声が響く。しかし返ってくるのは遠くで冷蔵庫の奏でる重低音だけだった。
 イコナはコートを脱いで手を洗うと、父親の書斎に行った。廊下の冷たさがスリッパを通して伝わってくる。最近改築したばかりのフローリングの床を、イコナはあまり好きになれなかった。
「お父さん?」
 書斎は真っ暗だった。電気をつけると、確かに父親の帰った跡がある。もしかしたら一旦帰ってきた後また出かけたのかもしれない。
 書斎は四方の壁のうち扉のない三つを本棚で覆った小さな部屋で、真ん中に作業用の大きな机が佇んでいる。机には当然電脳が埋め込まれており、持ち主が起動すれば広い机の上がホログラムディスプレイで埋まる。
 イコナは机の上に、見慣れないものがあることに気付いた。無造作に放り出された袋と、そこからはみ出たケーブルのプラグ。懐中時計に差せる形のものだ。
「イコナ、勝手に触るとお父さんに怒られる」
「見るだけだよ」
 取り出してみると、その先に付いていたのはメモリースティックだった。彼女はナナのアイライトでそれを照らし、何も書いてないことを見るとプラグをナナに差した。
「アップデートパッチがある。当ててみよう」
「イコナ。変なの入れないで。イヤよ」
「人工知能体七原則第二、時計は人間に逆らえない」
「ぶー」
 パッチ適用完了の軽快なジングルが流れる。同時に、玄関から扉の開く音が聞こえてきた。
「やばっ」
 慌ててメモリースティックを引き抜き、元の袋に隠す。パッチ記録に細工する暇は無い。ナナを胸の専用ホルスターに入れて、スリープモードにした。
 書斎の電気が付く。
「イコナ、帰ってたのか」
 彼女はびくっとして振り向いた。久々に見る父親の顔だ。無精ひげが目立つし、髪の毛もボサボサ。服装もまるで朝帰りのサラリーマンだ。しかしこれでも、科学者である。
「え、ええ。お父さんこそ」
「ああ。例の事件で召集されてね。ちょうど日本が近かったし、連絡する間もなく帰ってきた」
 ポシェットから仕事用の懐中時計を出して、机の上に置く。机が認証を開始して、ディスプレイを表示した。イコナは今のうちに逃げようと、足音を立てず扉のほうへと移動した。
「あれ、イコナ」
「はい!?」
 声が上ずる。
「ここに置いてあったパッチ、弄ったか? もしかして使った?」
「う、ううん……知らない」
「まあ、調べた方が早いか。ナナを貸してくれ」
 渋々、ナナを差し出すイコナの顔は真っ白だ。出来ることなら、逃げてしまいたかった。
「疑うようなことをして済まないが、非常に重要な物だからね。外に出てしまえば大変なことになる。知能体第二原則は?」
「……知能体は権限を持つ人間に与えられた命令を必ず実行しなければならない」
「うむ、よく勉強している。開発者の娘たるもの、そこはきちんと知っておかないとな」
 そう、イコナの父親、水斗目道悟(ミズトメドウゴ)は懐中時計の開発者の一人である。すなわちイコナが何の気なしに適用したパッチは、開発用の最重要機密なのだ。
 慣れた手つきでナナを操作し、ログ機能を呼び出す。
「ナナ。今日のパッチ履歴を」
 終わった、とイコナは思った。数秒もたたぬうちに、どこか上機嫌な父親の顔は修羅に変わるだろう。拳骨で済むだろうか。晩御飯が抜きかもしれない。いや、もしかしたらナナを取り上げるかも──。
「参照完了。ドウゴ、本日のパッチ履歴は、ありません」
「えっ?」
 その日、懐中時計は嘘をついた。
 
 
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 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。車や家、喫茶店の机や呼び込み看板に至るまで全てが巨大なネットワークによって紡がれ、電脳が埋め込まれた。この町の人間は、インターネットという言葉を知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術が結集したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、自転車に鍵が掛かっていることを確認すると駅のロータリーへと急いだ。