木口小鳥

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  • 木口小鳥
    ... 【木口子寅】 木口小鳥に、三歳年下の実妹がいたことは、あまり知られていない。その名を子寅と言う。子寅は本名である。『ひとつひとつは美人の鑑に遠けれど、ものを言う声の細く涼しき、身のこなしの活き活きたるは、快きものなり。』と、彼女を見た抽象画家は語っている。兄を殺した憎き新撰組隊士の追及に生涯を捧げた。大正末期まで数少ない情報を頼って追い続け、一人一人残虐な手段を持って復讐を遂げていったという。情報収集の過程で、子母沢寛でさえ知りえなかった隊士の些細な情報を得、全て詳細に日記に書き留めていた。そしてそれを、彼女の終焉の地である徳島にて、モラエスに託した。 モラエスは、最期、借家にて孤独死を遂げるが、その処理の際、彼女の貴重な日記が使用されてしまった。 ちなみに子寅は、コマンド・サンボの達人であったが、それをいつどこで習得したかは不明である。
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    ...にょうえ 川本 木口小鳥 きのやまさを 牛魔王 コーリン・チャップマン 皇尊皇(すめらみこと すめらぎ) 鯛谷 森膿伸太郎 縁者 環陀夛(かんだた) 小西蜜柑男(こにしみかお) セム チャー・コ 堀タキ子・タキタロウ
  • 川本
    ...京後は、何の因果か、木口小鳥と知り合い、交友を深めていく。小鳥が捕縛された後、失踪。ある人は、落語家として艶話を得意とし一世を風靡した「桂 万個狗斉」その人であると言う。またある人は、故郷に帰って牧畜を始めたとも言う。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 桂 万個狗斉 墓所 彼が桂万個狗斉その人であるならば、墓地は上方落語協会名誉会員墓地のC区-52番。ちなみに、右隣は月亭可朝、左隣は笑福亭鶴光の墓所である。 彼が、由良の牧童となっていたならば、その所在は知れない。 逸話 言わずと知れた「川本のアメフト勧誘・・」の川本である。セムをアメフト勧誘し失敗した事実を、小鳥のような小心者に揶揄されるという失態を晒し、人生最大の屈辱を味わうが、基本的にはそつのない行...
  • いんにょうえ
    ...た日、泊まった旅籠に木口小鳥が同宿しており、意気投合する。小鳥の吐く威勢の良い言葉の数々は、幕府に迫害を受け続ける長州の人間として、玉音のように響いたと言う。行動を共にするようになった二人に、川本が合流すると、おのずと威勢はさらに剛なる方向へと進んでいった。そんな彼らであるから、会津中将に京都の治安を任された浪士集団である新選組に当然命を狙われる存在となる。西本願寺にいんにょうえが身を隠しているという情報を新選組副長土方が知ったというのが、屯所の移転を西本願寺に強引に進めた真相であると言う。小鳥よりも、長州藩出身のいんにょうえの方が、その頃は重要人物として新選組にマークされていたとも、子母沢 寛の「新選組始末記」に記録されているので、その辺りの信憑性は高い。小鳥が皇尊皇と知り合い、何らかの情報を入手して以来、その立場は逆転したようだ。 小鳥が斬首された後、時代は開国へと流れた...
  • ヌティーク・セム・ホロゾンタ
    ...謳われた天才狂歌師、木口小鳥を首班とした結社・皇祖皇太神宮天津教が、日本におけるヌティーク・セム・ホロゾンタの創始とされる。 教義は特に定められていなかったとされるが、その教徒はすべて南朝支持派によって構成されており、平時においてはごく普通の日雇い労働者であったともいう。 しかし、一朝事の起こりし時には如何なる万難を排しても南朝皇子の下に馳せ参じ、南朝勃興のため、死力を尽くして祝詞を寿いだと伝えられる。 首班・小鳥は、幕末期最大の奇書とされる「新・文藝之書」の編纂が完了した際、酔いと喜びのあまり失禁し、その勢いを駆って京都七条大宮辻に捨て札を立てた上、特に気に入っている一首を札に落首した。 「川本の アメフト勧誘失敗し 度胸のなさを せせら笑われ…」と毛筆で太々と大書された落首は、雅を愛でて止まない京洛の人々、殊に祇園の芸妓衆の間を艶々と賑わした。 しかし、この事が当時京洛の...
  • チャー・コ
    『アホとめぐみ』のアホが、最愛の人めぐみに出会うまで片思いだった芸子。 今で言う『つんデレ』の原型で、厳しく叱った後に優しく抱擁という接客スタイルは、多くの男性を虜にした。 アホの告白を、セム同様むげに断ったが、小鳥が歌に詠まなかったため、歴史の闇に消えた。 生涯 ついつい忘れていたが、彼女は、『数理運命哲学』を完成させている。そもそも、その理念は、「神庭・シェットランド・鉄生(1900~1989)」によって生み出される。どの様な哲学であろうと、人間が生物である限り「刺激は理性を凌駕する」という原罪を念頭に置いた哲学を完成させようとした。しかし、象牙の塔を離れた在野の研究家であったのと、その余りに過激な理念が当時の哲学界からは無視される結果を生み出す。後継者を見いだせないまま、この哲学は消え去ろうとしていたが、チャー・コが、大学のゼミ発表で適当な題材を探している時に、やっつけ仕...
  • 環陀夛(かんだた)
    織田信長さえ手を出すことを躊躇ったとされる寺内町の僧侶。 ホロゾンタとの直接的な関係は薄いが、小鳥と同時代を生きた怪僧で、後の芥川龍之介にも多大な影響を与え「蜘蛛の糸」のモデルとも言われる。 「幕末の義経」とも喩えられ、維新直前のどさくさにまぎれて帝政ロシアに亡命し、怪僧ラスプーチンとなったとする伝説すら戦前まではなかば常識として語られるほどであった。 乱世ゆえにその本領をいかんなく振るう事のできた梟雄の好例といえる。 戦後、平等主義や平和主義の台頭とともに、その評価は一気に下落した。 生涯  江戸時代後期、環濠に守られた寺内町に僧侶の息子として生まれる。生まれながらにして奇っ怪な容貌は、彼を取り上げた産婆曰く「岩石のような」と形容せざるを得ない赤ん坊だったらしい。しかしそれは、外見だけのこと。裕福な寺院の跡取りとして何不自由なく育った環境は、小鳥に酷似している。学僧として京に上っ...
  • きのやまさを
    存命時よりこんにちまで多くの人々から誤解されているが、正しくは「きのやま・さを」が本来の姓・名である。 通称「ホビットのノルド」。 きのやまは、自らが編み出した洗脳受容教育学を河守博士に言葉の遊びと愚弄され、数ヶ月もの間 床に臥せったままだったと伝えられる 生涯 小鳥亡き後、ホロゾンタを引継ぎ、幕末から昭和初期にかけての約80年間、大魔道師として教団の手綱を握った。江戸後期、幕軍として宇都宮城の戦い、上野戦争、会津戦争、函館戦争などに参加し、全て敗走したが、奇跡的に無傷で生き延びる。その神業にも近い生命維持力が、口伝に民衆に広がり、信仰に近い存在となる。その力を頼りに、当時小鳥の死によって崩壊の危機にあったホロゾンタが、首班小鳥斬首の恨みをかなぐり捨てて、首班となることを願い出たのだった。当時、『秘湯』の号で、俳諧師としての道を選ぼうとしていたさをは、数分迷っ...
  • 皇尊皇(すめらみこと すめらぎ)
    マエオ・マンと称していた当時の皇尊皇 皇尊皇(すめらみこと すめらぎ)はここ一番に用いる自称であると言う。 他称は多くあり、「奈良王」or「奈良」、「フルハムロード」or「フルハム」or「三浦和義」、「ペテン師」、「口八丁」、「エッフェル」、「チン・モゲール」、「猫またぎ」等が確認されているが、他不明のものも多く存在するらしい。(判明する都度記入する) この人物が天津教に果たした役割は、全く不明である。しかし、幕末から昭和初期にかけて、ホロゾンタの重要人物の記録中に度々登場するのがこの人物である。小鳥はもちろん、いんにょうえ、環陀夛、きのやまさを、川本らと親交が厚かったようだが、どういうポジションの人間であったかさえ不明である。 ただ、天才的にそそのかすのが上手かったのは明らかで、小鳥の彼らしからぬ傍若な落書も彼の術中にはまったものであると、後に新選組副長助勤島田魁は語...
  • 牛魔王
    西遊記の牛魔王とは別人。 殉教十一烈士の二人に数えられる夫婦漫才師「アホとめぐみ」の師匠格。 カリスマ性が高く、圧倒的とも言える人望・暴力・性衝動に裏打ちされた言動によって、大東亜戦後、地下生活を送る末端ホロゾンタ教徒たちの結束を固めた。 500円基金は、牛の力により軌道に乗ったと言い切って良い。 この人物がいなければ、戦後ホロゾンタの空中分解は避けられなかったであろうと、教団の内外を問わぬ高い評価を得ており、我が国におけるホロゾンタ中興の祖とも謳われる義侠の人。 広く布教活動に勤しむため、大手塾に就職した彼は、あたかも三国志の関羽が近所の子どもを集め四書五経を教えたように、徳と仁で人心を魅了したと言われる。 卒論提出を諦めかけた きのやまを叱責するために出撃した牛 没後、現在に至るまで、彼の御霊を自宅の社に勧請して日夜の拝礼を欠かさぬ者が後を絶たない等、政財界から名も...
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