- スレッド_レス番号 01_606-610
- 作者
- 備考 長編,荒野の悪魔3の続き
<注意>
マリアは抱えた洗濯物を盥に入れようとして、ふとその手を止めた。
満々と水をたたえたその面に、平凡な女の顔が映っている。いや、久しく
見目のことなど気にも留めていなかったが、己はこんな顔だったろうか。
不器量というのではないが、もう少し整っていたような―――
いつの間にか両手は洗濯物を置き、確かめるように頬に触れる。ざらりと
荒れた指先の感触に、はっと我に返った。
―――何を、愚かな。
四年も前に、捨てると決めたものを。
マリアは深く息を吐く。この冬一番の冷え込みに、大気がそこだけ白く濁った。
一瞬の混迷を打ち消すように、布を盥へと押し込んだ。たちまちのうちに
水面は乱れ、女の影を消す。
惑っている。原因はわかっていた。あの人が―――アゼルが、この瞳を
美しいと褒めたせいだ。故郷を思い出させると、慕わしげに、狂おしげに
この目を見つめていた。
アゼルの視線を思い出しながらも、間違ってはいけない、とマリアは懸命に
手を動かす。あんな瞳で見つめられたからといって、想われているわけでは
ない。彼はただ、郷愁の念を抱いただけだ。美しいところだったと、もう二度と
帰れないと、寂しそうに呟いていた。
そう―――きっと、マリア自身も悲しみに共鳴しただけなのだ。マリアも今の
神父と出会う前、あんな表情をしていたはずだから。
マリアは小さく頷く。同じように痛みを知る者として、アゼルの力になりたかった。
その思いに偽りはない。
彼は今、どこにいるのだろう。
マリアはその旅路に思いを馳せる。アゼルの出立から十日が経った。二週間
ほどで戻ってくると聞いたから、今頃はこちらへ向かっているはずだ。毎朝の
祈りの中で、神父の道行きと共に、その平らかなることを願っている。
予定であれば、神父の戻りは今日明日辺りのはずなのだが―――
と、マリアは耳をそばだてて手を止めた。水音に紛れて、呼ばうような声が
聞こえた気がする。
「……もし……」
人の声だ。マリアは軽く手をすすぐと、前掛けで拭きながら表へまわる。
教会の敷地の外に、貴族のような身なりの、三人の男が立っていた。
「教会に、何か御用ですか?」
声をかけると、彼らは揃って笑みを浮かべた。一見爽やかそうだが、どこか
無理に作ったような、性根の卑しいものが透けて見えて、マリアは体を固くする。
嫌というほど見覚えのある笑い。その目は記憶と同じように、無遠慮にマリアの
体を眺め回していた。
「どちらさまですか」
今すぐにも踵を返したい気持ちを抑えて問えば、男の一人が口を開いた。
「貴女が、レディー・マリア?」
「いいえ。ご覧の通り私は下女です」
男達は顔を見合わせる。
「ですが、アゼルを歓待されたのは貴女ではありませんか?」
及び腰だったマリアが、その言葉に改めて男達を見直した。
「アゼルさんの……お知り合いですか?」
「ええ」
男達は笑みを深くする。
「我々はアゼルの朋輩でしてね。先日彼から手紙が届いたのですが、貴女に
大変世話になったと書いてありまして」
「戻るのはもう少し先になりそうだから、先に行って感謝の品を届けて欲しいと」
「それで我々が来たのです。少しお邪魔してもよろしいですか?」
男達は手にした小箱を指し示す。とろりと光沢のある絹の敷布、それだけでも
目を剥くものなのに、そこに乗った小箱自体も絢爛たる刺繍を施された布張りで、
マリアを唖然とさせた。
「神の家に住まう者として、兄弟に当然のことをしたまでです。アゼルさんには
半日の間仕事も手伝っていただきました。そんな過分な物をいただく謂れは
ありません。お気持ちだけで」
教会に世話になった礼にと、後日寄進が行われることはままあるが、これは
あまりに常軌を逸しているように思われた。たった一食の礼にこんなものを
容易く差し出す者がアゼルの朋輩とは、何かの間違いではないのだろうか。
眉を寄せ、マリアが半分以上呆れの気持ちで断ると、男達はますます笑う。
「すばらしい」
「アゼルの言ったとおりだ。今日び聖職者だとて金銀を前に目の色を変えるものを、
なんと美しい心映え」
「貴女はご自分を下女だとおっしゃるが、真に気高い貴女こそ、貴婦人の尊称に
ふさわしい」
口々に言われて、マリアは困惑する。その前で男らは、淑女にするように膝を
折ると恭しく小箱を開けた。
「美しい方には美しいものがふさわしい。どうぞご覧になってください」
綺羅綺羅しく輝く宝石細工が、黒い天鵞絨の上に燦然と並んでいた。マリアは
思わず一歩後退さる。
「アゼルさん……いえ、アゼルさまは、そんなにも身分の高い方だったのですか?」
左に位置した男が立ち上がる。否とも応とも言わぬまま、マリアに向かって
手を伸べながら、ふいに声を低くした。
「……アゼルは美しかったでしょう?」
マリアは頷く。異論はなかった。彼は確かに美しかった。
「彼の手を見ましたか?」
「……はい」
薪割りも水汲みも、畑仕事すら当然のようにこなしていたが、白い、滑らかな
指だった。あれは日々の労働を知らない手だ。皮が厚くなることもなく、血管が
透けて見えていた。
マリアは思わず自分の手を背後に回す。そこに男は優しく囁いた。
「恥じることなどありません。我々に任せていただければ、すぐにも柔らかな
手になるでしょう」
「さぁ、御手を。まずは香油を塗りこみましょう」
いつの間に出したものやら、男は小さな壷を傾ける。とろりと金の光が流れて、
マリアは慌てて手を出した。
「何をするのです、こんな、もったいない―――」
「貴女にはそれだけの価値があるのですよ、レディー・マリア」
寸前で油を受け止めた手を、男の手が包み込んだ。はっと気がつくと、
右の男もマリアの手を押し頂くように捕らえている。
「ほら、綺麗になった」
すっと指をなぞられて、違和感に目を向けると、マリアは驚愕した。
痛くない。
あかぎれのできかかっていた手が、本当に滑らかになっている。
「ああ、こんな御手にはやはり絹の手袋がふさわしい」
男が言うなり、マリアの手は白い手袋に包まれていた。
「肌は薔薇水で整えて、白粉に、紅を差し」
甘い香りが立ちのぼる。
「絹の衣装を。深い青がいいか、暗い赤がいいか―――」
肌触りのよい豪奢な衣装がくるくると色を変える。
「赤がお似合いだ。ブルネットによく映える」
「では手袋も色を合わせよう」
「靴はこちらを」
「髪を結い上げなくては」
「仕上げに宝石を飾ろう。髪と、耳と」
「首と、腰と」
「さぁ、扇をどうぞ。―――姫君」
気がつけば目の前には華やかな世界が広がっていた。数え切れぬほど
蝋燭の立った絢爛たる照明、磨き抜かれた水晶が光に反射して更に明るく、
ずっしりとなめらかな緞帳が優美な曲線を描いて窓々を飾る。そこかしこに
飾られた花々は、負けず劣らず色鮮やかな磁器に生けられていた。壁際には
山のように料理が並べられ、床は大理石の組み細工。天井もはるかに高い。
男に示され右手を見れば、全身が映ってもなお余りある大きな鏡。三人の
男をかしずかせ、映っているのは―――
「……これは、私……?」
「そうですよ、姫君」
「思った通り、いやそれ以上にお美しい」
「こんな……馬鹿な……なんの……魔法、ですか……?」
切れ切れに問うたマリアに、男達は笑う。
「我々は貴女の尊い御心に応えたまで。これが貴女の本当の姿なのですよ」
「いいえ……。いいえ!」
マリアは強く首を振る。
「これらは神の御心から遠いものです! とうの昔に捨てたもの!」
男達は宥めすかすように笑った。
「困ったな、お気に召さない?」
「とてもお美しいですよ」
「それに……そう。これなら、アゼルの美しさにもふさわしいご自分だと思いませんか?」
甘く囁く言葉に目眩がする。
アゼル―――アゼル。
朝食の席で辛そうな顔をしていた人。必死で痛みをこらえる目をしていた人。
苗の植え替えを手伝ってくれた。あまりに丁寧に、愛おしげな手つきで芽吹いた
緑を扱うから、緑が好きかと尋ねたのだ。アゼルは少しの間迷って頷いた。
そうして、マリアの瞳も同じ色だと、美しいと褒めてくれたのだ。
その人が、こんなことを望んだのだろうか。本当に?
「……主は言われました。栄華を極めたソロモン王でさえ、野の百合ほどにも
着飾ってはいなかったと」
男達がたじろぐ。
「主の栄光の前に、これらの輝きなど無いも同然。太陽の前の蝋燭ほどにも
輝かないでしょう。―――消え失せなさい!」
叫んだ瞬間、視界が戻った。男達が忌々しげに舌打ちする。
「強情な女だ」
「せっかく良い夢を見せてやったものを」
「まぁ……それならそれでやりようはあるがな」
マリアの両手を捕らえたまま、賛美者の顔からうってかわっていやらしい
笑みを浮かべた男達に、怖気が走った。
「嫌っ! 離して! 離しなさい!」
「悪魔に両手を差し出して、今更それは通らない」
マリアは目を見開いた。
「あく、ま……?」
「いかにも」
思わず身を引いたマリアの腕に導かれるように、男達は教会の敷地へと
足を踏み入れる。
「やれやれ、厄介な守護だった」
「聖域など形骸化しているのが常だというのに」
「まさか我らだけでは入ることもかなわぬとは」
口々に言いながら、悪魔らはようやくその手を離した。マリアは飛び退さる
ように男達から距離を取る。
「悪魔が……! アゼルさんの知り合いなどと、よくもそんな嘘を!」
「嘘ではない」
「確かに友ではないがな。不本意ながら仲間といわれれば頷かざるを得ない」
「向こうだとて嬉しくはなかろうよ。いまだに我らを見下げ果てた目で見るからな。
元が天使サマだからとて、何がそんなに偉いのか」
「自分だとて女への欲望に負けて翼をもがれ、人の命を啜って生きているものを、
いつまでもお綺麗な顔をして」
「バアル様も何故あんな輩に構うのだか」
マリアは大きく息を吸う。悪魔の言葉の数々が、妙に息苦しさを伴った。
「何、を……馬鹿な……。もう、騙されたり」
「嘘ではないと言っておろう」
「まぁ信じる信じないは好きにするがいい。それくらいの自由はやろうよ」
男らは獲物を嬲る眼差しで笑った。
「アゼルこそがおまえを騙していたのだ。あれは堕天使。我らと同じ、人を惑わす者だ」
「獲物を横から横取りされたと知ったなら、どんな顔をすることか」
「あの高慢な鼻も少しは低くなろうよ。やれ楽しみだ」
「下女殿は富も美貌もいらないと仰せだ。ならば無上の快楽を差し上げよう」
「我らの腕の中、よがり狂ってその魂を差し出すがいい」
マリアは踵を返す。礼拝堂目指して一目散に走った。その後ろを、悪魔達の
笑い声が追いかけてくる。
悪い夢を見ているように体が重い。足元がいやに頼りなく、扉までが果てしなく遠い。
―――主よ、主よ。
お助けください、どうか。あなたの僕をお守りください!
必死になって駆けるマリアの耳元で、くすりと悪魔の笑う声がした。髪を掴まれ
がくんと頭がのけぞって、白い首が露になる。
「捕まえた」
「はは、呆気ない。どれ」
顎を掴まれる。湿った吐息が耳にかかって、ぞわりと肌が粟立った。無茶苦茶に
腕を振り回すが、呆気なく手首を掴まれる。
「嫌っ! 嫌ぁっ! 離して!」
「そう嫌がるな。可愛がってやろうほどに」
「何、すぐによくなるさ」
「違いない」
下卑た笑いを立てながら、一人が背後からマリアの両手を押さえ、首と耳とに
舌を這わせる。一人が両脚を抱え込み、マリアの体が宙に浮いた。支えを失って、
抵抗の術が失われる。残りの一人がマリアの胸に手を伸ばした。
「触らないで! 嫌!! 誰か! 誰か助けて!!」
誰かこの声を聞き咎めてはくれまいか、とマリアは必死で声を上げる。だが、
悪魔らはおもしろそうに笑うばかりだ。
「なかなかに生きがよい」
「結構胸があるぞ。いやらしい大きさだ」
「いっ、いや……あっ! いやぁ!!」
「嫌か? もうここが立ってきたぞ」
「ほぅ、敏感だな」
「処女ではないな。だいぶこなれているようだ。昔は随分男に可愛がられたな?」
「それが教会に入って男日照りか。それは楽しめそうだ」
「嫌ぁぁぁ!!」
喉も裂けよとマリアは叫ぶ。涙が溢れて頬を伝った。
悪魔らの頭越しに青い空が見える。冷え込みは厳しいがよく晴れているからと、
洗濯を決めたのは今朝のことだったのに。
―――天にまします我らが父よ。
どうか助けてください。御目を少し、地上へと向けてください。この声をお聞き
届けください!
―――神様!!
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最終更新:2008年02月14日 00:38