• スレッド_レス番号 01_674-686
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  • 備考 長編,荒野の悪魔4の続き
<注意>
  • 近親ロリネタが含まれます。


 救済を求めて伸ばした腕が、空を掻いたことを覚えている。まだ幼い、丸みの
少ない腕だった。
「女というものは穢れている」
 男はそう囁きながら怯えるリリの頭を撫でた。浮かべた笑みは優しげだったが、
真に優しいものではなかった。荒い鼻息や充血した眼の意味を知るのは、彼女が
もう少し長じて後だ。ただ、その言葉と笑みが、彼女に罰を―――苦痛を与える
開始の合図であると、それだけは理解していた。
 リリの罪は女であることだ。男は繰り返しリリにそう教え込んだ。アダムに従属
するものでありながら、女は蛇に唆され堕落した。あまつさえそれに、仕えるべき
アダムを巻き込んだ。
「おまえは罪深い。だが私はおまえを見捨てはしないよ」
 罰を与えるのは愛ゆえだ、と男は囁く。いつか完全に罪を償い、神の園へ迎え
入れられるために。
 それが本当か嘘か、幼いリリには判別できなかった。事の真偽よりも、辛い
時間が早く終わってくれるよう、ただ願うばかりだった。
 白い裸身をねっとりと舌が這う。この段階はさほどに苦痛を伴わないので、
リリはぼんやりと、母もこの罰を受けていたのだろうか、と考える。先日母が他界
するまでは、この部屋は母のものだった。リリは滅多に入ることを許されず、
入っても立派な調度の数々に触れないよう、厳しく言い含められていた。屋敷で
一番上等の部屋、重厚な扉の前を通るたびに、漠然と恐れを抱いていたことを
思い出す。
 何かしら漂う禁忌のにおい。
 それは、この罰だったのだろうか。
 考えはするが結論は出ない。そもそもリリは、母のことをあまりよく知らない。
 リリの母は、娘をことごとく疎んじた。生まれて十年あまり、母の温みを感じた
覚えがリリにはない。接触は暴力と同義、時に悪魔の子と罵り、時に産むのでは
なかったと嘆いた。そうして涙に掻き暮れながら、母はロザリオを手繰ってひたすらに
聖句を唱えていた。
 リリは母の意識に触れぬよう、息を殺してその様を眺めていた。邪険にされても
母が恋しく、物陰からそっと様子をうかがってはできうる限り近くに在ることを望んだ。
自分は『呪われた子供』なのだとわかっていたが、それでも、寂しかった。
 母を真似て何気なく聖句を呟いたのはいつだっただろう。聞き咎めた母がものすごい
形相で振り返り、リリの細い肩を渾身の力で揺さぶった。何かまずいことをしたらしいと
身を竦めるリリに、母は今言ったことをもう一度繰り返せと執拗に迫った。どう謝罪
しても受け容れられないことを悟ると、リリは涙を浮かべつつ、つっかえつっかえ聖句を
口にした。

 そうして―――リリは初めて母の抱擁に包まれた。
 驚きに身を固くするリリの耳元で、母は神に感謝の言葉を捧げていた。狂った
ような歓喜の声だった。
 主の御言葉を口にした、この子は悪魔の子ではない!
 それがどういうことなのか、リリにはよくわからなかった。ただ、覚えた言葉を
口にすると母が喜ぶこと、笑顔を向けてもらえること、頭を撫でてもらえること、
褒めてもらえること―――焦がれ続けた母の愛情を得られることを知った。
 以来リリは必死になって祈りの文句を覚えた。それは文字通り母とつながる
唯一の手段だった。母は神に関する言葉以外をリリに許さず、母もまた、それ
以外を語ることがなかった。けれど、それでもリリは嬉しかったのだ。
 ―――おかあ、さん。
 男に体を弄ばれながら、リリは心の中で呼びかける。焦点の曖昧な視線が、
黒檀の天蓋の上を滑って落ちた。
 今頃あなたは、神様の国で幸せでいるでしょうか。



 鬱々と自室で過ごしていたアゼルは、窓を叩く音にふと顔を上げた。窓といっても
硝子は嵌まっていない。荒削りの板戸があるばかり、開けるとするなら棒を噛ませて
固定する形になるが、外は茫漠と広がる灰色の荒野で、見ても楽しいことはない。
故に、ほとんど閉めきってある。
 こつこつ、と再び硬い音がする。どことなく急かす調子で、アゼルは寝台を離れ
窓を開けた。途端、視界を横切って黒い鳥が飛び込んでくる。鳥は部屋を軽く
旋回すると椅子の背に止まり、アァア、と太い声で鳴いた。
「……鴉……? どうして、こんなところに」
 呟いたアゼルに、鴉は再度アァ、と鳴く。ちょこんと片足を挙げた。それでようやく、
アゼルはそこに黒い筒のようなものが結ばれているのに気づいた。伝書鳩ならぬ
伝書鴉ということらしい。漆黒の使いは、魔の住まう世界にふさわしいといえば
ふさわしいのかもしれなかった。
「私に?」
 訊いてみると、いい加減焦れたのか鴉はばさばさと羽を動かす。このままでは
その鋭い嘴でつつかれそうで、アゼルは鴉の足から筒を外した。幾重にも巻かれた
用紙を取り出す。
「―――!」
 文面に目を落とし、その内容に息を詰める。思わず鴉を目で追ったが、当の
鴉は用事は済んだとばかりにさっさと飛び立っていた。呼んではみたが戻って
こない。アゼルはもう一度知らせに目を通す。踵を返して部屋を駆け抜け、
地上へと向かった。


 ―――マリア。
 マリアマリアマリア。
 焦りのままに名前を繰り返して、アゼルは地上に顕現するや、先日の教会を
目指して一目散に走り出す。周囲に気を配る余裕もなかった。突如現れた美しい
青年に、通行人が奇異の視線で振り返る。その中の一人、中年の女は首を
傾げたが、その頃にはもう背中が遠い。なんだろうねぇ、と呟いた足元を、それまで
追っていた豚がすり抜けた。女は慌てて意識を戻し、それきり青年のことを忘れた。
 そんな光景がアゼルの行く先々で見られたが、彼の視界にはまったく入って
いなかった。ただ、先程目にした文章が、ぐるぐると脳裏を巡っている。知らせは
アゼルからのものだった。悪魔が三人ばかりマリアの所へ向かったようだと、
一文だけが記された手紙。
 ―――マリア。
 無事でいて欲しい、と心底願う。その一方で、最悪の想像ばかりが膨らんで
いった。悪魔達がマリアの元へ向かうなら、目的はひとつしかない。アゼルが
いつ再会の約束をしたのかわからない以上、そう時間をかけたやり方はしない
だろう。勢い方法は限られる。手段を選ぶとも思えない。
 どうしてもっと気を配らなかったのか、とアゼルはひたすらに悔やんだ。
予想してしかるべきだった。下界でアゼルは、けして快く思われていないのだから。
 髪を乱しながら最短距離を駆け抜ける。勢いを殺さぬまま教会の敷地に駆け
込もうとし、その寸前。
 本能が、アゼルの足を止めた。
 入り口には、聖衣も黒い老人が一人、番人のように立ちはだかっていた。
アゼルの脳裏で警鐘が鳴り響く。
 この神父はまずい、と咄嗟に思った。
 滅多にいないが、真に徳の高い聖職者は悪魔を退け、祓う力がある。この
神父は、その希少な人間に該当するように思われた。教会を守護する力が、
明らかに強くなっている。先日であればアゼルだけでも敷地程度には入れた
ものを、今日は見えない壁が立ちふさがっているかのように、足が進まない。
 これが普段の食事であれば、アゼルは構わず神父に声をかけただろう。
実際のところ、精気を吸う相手に教会の関係者を選ぶ時点で、祓われる危険性は
常につきまとう。
 どちらでもいい、と思っていた。
 精気を得ても、あるいは祓われ滅ぼされても。
 どちらでも大して変わらない、と。
 だが、今はここで滅ぼされてもいいとは言えなかった。かと言って教会に用が
ある以上、逃げることもできない。
 咄嗟の判断に迷って立ち尽くすアゼルに、神父が重々しく口を開いた。
「どなたかな」
 年のわりに頑健そうな体にふさわしく、ずっしりと響く声だった。真っ白な眉の下、
灰色の厳しい目がアゼルを見据えている。アゼルの背筋に震えが走った。
「あの、私は……先日こちらでお世話になった者で……あの、マリアさんが
暴漢に襲われたと聞いて、それで」
 しどろもどろの説明の間、神父は一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
 ―――祓われる。
 かつてこれほど明確に身の危険を感じたことはない。恐ろしさに肌が粟立った。
アゼルは息を詰める。これまでだな、と思った。

 だがせめて、マリアの安否だけは確認しておきたい。
「マリアさんは……無事でしょうか」
 やっとのことで振り絞った声に、神父は少し間を置くとゆっくりと頷いた。
「……本当、に?」
「ああ」
 ほっと全身から力が抜ける。
 それなら―――いい。
 あの緑が失われずそこにあるのなら。
 アゼルは聖人の前に膝をつく。不思議に静かな気持ちだった。無防備に
身を投げ出して、ただ、願った。
「マリアさんに伝えてください―――健やかに、と」
 しばらく、沈黙が流れる。
「……君は、アゼル、かね?」
「はい」
「そうか」
 神父は一歩身を引いた。
「マリアから話は聞いているよ。―――入りなさい」
 一瞬何を聞いたのかわからずに、アゼルは顔を上げる。
「今……なんと」
「お入りなさい、兄弟よ。マリアに会っていくといい」
 老いた手がアゼルの腕を掴んで聖域へと導いた。その地を司る者に招かれて、
アゼルの体はあっさりと境界を越える。
「あ、あの」
「マリアはあちらの小屋にいる。晩餐は三人でとろうと伝えておくれ」
「神父様!?」
「悪いが私はこれで。旅から戻ってみればどうにも周囲が騒がしくていけない。
浄めてまわらねばならないのでね」
 そうして神父は再び門へと向かう。アゼルは呆然とそれを見送って、恐る恐る
小屋へと近づいていった。
 正体を―――見抜かれなかったはずはない。
 でも、では、何故自分は今もここにいるのだろう。
 自分の手が戸を叩くのを、どこか遠くのことのように聞いた。
 けれども次の瞬間、はい、と聞こえてきた声に胸が震える。
 この声を、聞きたかった。
 扉が開く。
 驚いたような緑の目があった。





 どうぞ、と招き入れられた小屋は、この前と何も変わらないように見えた。
 アゼルは小屋に入るやいなや、深く頭を下げる。
「申し訳ない」
 その後を続けようとして、ふと、言葉に詰まった。
 ―――知られて、いるのだろうか。
 醜悪なるアゼルの正体を。狼藉者達が悪魔であったことを。
 知られていなければいい、と思った。この期に及んでそう願う自分の浅ましさは
感じたが、マリアにそうと知られることは、どうにもいたたまれなかった。
 迷った末に、アゼルは当たり障りのない言葉を選んで口にする。
「この教会にお一人なのはわかっていたのに……私が、もう少し気を利かせて
いればよかった。本当に申し訳ない」
「何故アゼルさんが謝るんです?」
 マリアは静かに答える。
「こんなことになるなんて、誰にもわからなかったのですもの。私も夢にも
思いませんでした。教会に……押し入ろうとする者がいるなんて」
「いいえ。私がもう少し気をつけていれば」
「直前に神父様が戻っていらして、何事もありませんでしたから。こうして
無事におりますし、気になさらないで。あなたのせいではないのですから」
「けれど」
 言い募るアゼルにマリアは少し悲しげに微笑んで、複雑そうに、けれど
まっすぐにアゼルを見つめた。
「……それとも、本当にあなたのせいなのですか?」
 え、とアゼルは口を噤む。マリアは視線を逸らさずに続けた。
「本当にあなたは堕天使で、あなたに恨みを持った悪魔達が意趣返しをする
ために、私は襲われたのですか?」
 ―――ああ。
 知られていた、とアゼルは瞑目する。取り繕おうとした己の卑小な思惑が
滑稽だった。だが、それでも、マリアに嫌悪され蔑まれるかと思うとどうしよう
もなく胸が苦しい。いっそ神父に祓われていればよかったとさえ思う。マリアが
アゼルを憎むことには変わらないだろうが、滅んでいればそれを知らずに済んだのに。
 アゼルは深く頭を下げる。他にどうすることもできなかった。
「……申し訳ない」
 マリアは答えない。しばしの間、無言の時間が流れた。
 もしや口をきくのも汚らわしいと思われているのだろうか、とアゼルが思い
始めた頃、マリアはすっと身を翻すと鍋を手に暖炉へ近づいていく。
「……お座りになって」
 え、と訊き返したアゼルに、マリアは背を向けたまま乳壷を傾けた。白い液体が
鍋の中に注がれる。
「毎回同じもので恐縮ですけれど。他にないので許してくださいね」
 それが歓待を示す言葉であると悟って、アゼルは呆然とマリアの背中を見つめた。
立ち竦むアゼルに、マリアは少し強い口調で、座ってください、と繰り返す。

 戸惑いながらもアゼルが椅子に腰掛けると、マリアは振り向かないまま鍋を
かき混ぜ、口を切った。
「……私の母は、前の神父様の愛人でした」
 唐突な言葉の意図をはかりかねて、アゼルはマリアの方を見る。だがその
後姿からは、何を推し量ることもできなかった。それで、おとなしく疑問を口にする。
「神父に……愛人、ですか?」
「そうです。街の皆には慈愛深く高潔なと評判の高い方でしたが、教会の荘園に
あるお屋敷に、密かに母を囲っていました」
「そんな」
「馬鹿な、とお思いになります? けれども事実です。……物心ついたときには、
私もその屋敷にいました。恐らくはそこで生まれたのだと思います」
 マリアの手つきは変わらない。ゆっくりと鍋をかき混ぜ続けている。
「十のときに母が死にました。私はそのまま、母の代わりに神父様の愛人にされました」
 アゼルは言葉を失う。凝然とマリアの背中を見つめた。
「なにぶんにも子供の体ですから、最初は痛くて仕方なかった。恐ろしくてなり
ませんでした。けれど神父様はこれは罰だというのです。罪深い私を清める
ための行為だと。本当か嘘かはわかりませんでしたけど、どちらにせよ私には
拒む術がありません。いえ―――どちらかといえば、信じていたのかも。母は
よく私を悪魔の子と罵ったので、自分が忌まわしい存在なのだということは、
私には自然なことだったのです。やがて体が慣れ、苦痛が去り、快楽すら覚える
ようになる頃には、私も神父様の言葉が欺瞞だとわかっていました。むしろ、
貞節の誓いを破るこの行為のほうが罪深いと。けれどわかった頃には遅かった。
思えば私は幼い頃から、ずっと罪の意識に苛まれていました。それがこのことを
きっかけに、一気に表へ出たのです。神に怯え続け、恐れ続けた私は、信仰を
捨てました」
 アゼルは瞠目する。震える声で尋ねた。
「神があなたを救わなかったのが……恨めしかった?」
「そうですね」
 マリアは振り返らない。
「けれど、むしろ私は神などいないとすることで、自分の罪から目を逸らしたのです。
神を嘲笑することが、私の罪を消すことだった。私は奢侈に走りました。元々
屋敷には良い物が揃っていました。神父様は贅沢がお好きだったのです。
望めば高価な衣装も宝石も、幾らでも与えられました。そこそこ見られる姿
だったのでしょう、限られた範囲でしたが、神父様は社交の場にも私を連れ歩く
ようになりました。もちろん神父様が愛人を連れて行くようなところですから、
その内容は知れたものですが、私は初めて知った華やかな世界に夢中に
なりました。そこにいた方々と美しさを競い、華やかさを争った。扇の陰で微笑み
ながら人を嘲り、飽きることなく美食を口にし、朝まで踊り明かして。それがまた
罪深いと神父様は私を責める口実にしましたが、もうそんなものは恐くなかった。
言いようのない後ろめたさと不安から解放された私は、ただ浮かれていました。
神のいない世界が楽しかった。いえ、楽しんでいると、思っていました」
 マリアは淡々と語り続ける。

 もはや挟むべき言葉もなく、アゼルはひたすら耳を傾けていた。これはアゼルの、
ありえたかもしれないもうひとつの姿だ。自らの罪に恐れおののき、苦しむ者の姿。
 ずっと、悪魔達が享楽的な理由が理解できなかった。神を嘲笑することを楽しみ、
ことさらに背徳的な行為を行う訳を。ただ、そういう者達なのだと、邪悪に生まれ
ついたのだと、そう思っていた。けれど。
 悪魔達もこうなのかとアゼルは思う。恐らく口にすれば彼らはまた馬鹿にした
ように笑うだろう。愚かなのはアゼルの方だと、いつまでお綺麗な幻想にしがみ
ついてとアゼルを指さして笑うに違いない。それでも。
 ―――罪は、邪悪な者が犯すとは限らない……。
 ただ幼子への愛ゆえに、アゼルを引きずりおろした母のように。
「やがて私は……母と同じ立場になりました。子を孕んだのです。私が十五のときでした」
 マリアはふ、と動きを止める。しばし何かの物思いに耽っているようだった。
あるいは次の言葉を探していたのかもしれない。幾許かの沈黙の後、マリアは
我に返ったように動き出すと、自在鉤から鍋を外し、素焼きのタイルの上に置いた。
椀に山羊の乳をよそってアゼルの前に置き、自らも椀を持って、アゼルの座る
位置と垂直な卓の辺に腰掛ける。その間視線は一度も合わなかった。
「その段になってようやく、私は母があれほど私を疎んじた訳を悟りました。
……悟った、と思いました。私は確かに罪の子でした。結婚という主の祝福を
受けないでできた子供であり、貞節の誓いを欺いてできた子供です。加えて私の
場合、実の父の子供でもありました。口に出して確かめたことはありませんが、
きっとそうなのだと思います。……子供ができたことを知って、私は急に恐くなりました。
そんなものを産みたくはないと、本当に心底産みたくないと思いました」
「……でも……あなたは神を信じていなかったのでしょう? 何をそんなに恐れた
のですか」
「罪を犯すことをです」
 疑問に瞬いたアゼルに、マリアは少し笑った。
「神が禁じたことをあえて犯すのは、結局神の存在が頭にあるからでしょう。
そう、例えば―――極端な話、神が放埓を愛せよと言ったなら、私は貞淑に
したでしょう。神の言葉に逆らうことが、私の目的だったからです。私は神から
逃れてはいなかった。神を信じていたのです」
「それならむしろ、罪の子を産む方が、あなたの気持ちに沿うことになりはしませんか。
神を踏みにじる行為であるはずだ」
「そうですね」
 マリアは静かに笑う。
「けれども私は―――より卑怯だったのです。それまでの私の罪は、消極的な
ものでした。言うなれば私は被害者だった。望んで罪を犯したわけではないと、
言い訳のきくものでした。母が私を罪ある子供に産んだのです。神父様が私に
姦淫の罪を犯させたのです。私は贅沢を望みましたが、それすら、最初は
神父様が私に覚えさせたものでした。―――だから私は悪くない、と」
 アゼルは胸を押さえる。それは彼自身思ったことではなかったか。望んで
犯した罪ではない―――なのに何故神は私を許さないのだろう、と。

「もちろん子を孕んだことも私の望んだことではありません。望んで産んだわけ
ではない、と言うこともできるでしょう。……おそらく母はそう思っていました。
だから私を嫌ったのです。母にとって罪があるのは、自分ではなく私の方だった。
望んで母が産んだわけではなく、私が母から生まれてきてしまったのです。
私には、それがわかってしまった……」
 マリアは何かを諦めるように吐息を吐いた。
「いかに私のせいではないといっても、少なくとも私の子は、私に罪があると
思うでしょう。私がそうであったように。生まれて初めて、私は誰になすりつける
こともできない罪に直面しました。真に神がいないのなら、私はその子を産んでも
よかった。けれども私は神を信じていたのです。自ら進んで罪を犯すこと―――自分が
悪であると認めることは、尋常でない苦痛です。私は何とかそれから逃れようと
しました。冬の川に数時間浸かったり、子を流す毒を飲んだり。私は大層体を
損ないましたが、それで生じる苦痛など、罪の子を産む恐怖に比べれば何ほどの
こともなかった。……けれど、その心根こそが新たな罪でありました。神は私に
罰を与えた。そこまでしたのに、奇跡的に―――それこそ神の御業としか思えない
ことです、子供は無事に生まれてきてしまった。男の子でした」
 マリアは片手で顔を覆った。
「私は打ちのめされました。お腹を痛めた子供です。頼りなく柔らかい、無力な
赤ん坊でした。乳を含ませもしたのです。それでも、どうしても、私は彼を愛せなかった。
愛しいと思うことができませんでした。泣き声が悪魔の呼び声に聞こえました。
あるいはひたすらに私を責め、弾劾する声のようにも聞こえました。
そして……時を同じくして、神父様に司教を任じるお声がかかりました。本当に、
巷では聖徳の呼び声高く、慕われていた方だったのです。私は罪の子供と二人きり、
この教会に置き捨てられました。……司教ともなると、さすがに愛人を連れて行く
ことはできなかったのか……私に飽きたのか、あるいは神父様も、子供を疎んじた
のかもしれません。女の子ならともかく、男の子でしたから」
 マリアは一旦言葉を切る。膜の張って温くなった乳を口に運んで、唇を湿らせた。
「私は絶望していました。死ぬことも考えましたが、地獄に落ちるかもしれないと
考えるとそれも恐かった。事情を知らない街の人々は、私をどこの男のものとも
しれない、不義の子を産んだ淫売女と罵ります。私はもうどうすることもできなかった。
……そんなとき、今の神父様が赴任してこられました。私を見るや、着任直後の
膨大な仕事を後回しに、司祭館へ入れて事情を尋ねてくださいました。
……あれほど激しく泣いたのは、後にも先にも覚えがありません。きっとこれからも
ないでしょう」
 マリアは微かに笑う。
「神父様は、子供を遠い修道院に預ける手はずを整えてくださいました。私は
彼を愛せませんでしたが、殺すこともできなかった。今でも……愛することは、
できないと思います。ただ時折、今頃どうしているだろうかと思うのです。彼の
年齢を数えて……今なら四つですね、教会に来る子供達の中で同じくらいの
子供を見つけて、こんな感じなのかと思います。神父様はそれでいいと
おっしゃいました。私も……それでいいと思います。というより、それが私に
できるすべてのことなのです。……けれど、彼は自分を捨てた母のことを恨む
でしょう。そろそろ自分の境遇がわかりはじめる歳です。寂しい思いもするでしょう。
母に愛されない辛さは、私も身をもって知っています。けれど……その非難を
受けることは仕方ないと、覚悟はできました。私はあの子に、私のようになって
欲しくない。できることなら、幸せになって欲しい……」
 吐息のようにこぼされた願いに、アゼルは俯いた。何か言いたかったが、
何と言っていいのかわからない。ただ胸が詰まったように一杯で、何かの
気持ちが飽和していることだけはわかった。顔を上げたマリアが笑う。

「……泣かないでください」
 アゼルは慌てて頬を拭う。自分の同情など何の価値もない―――どころか、
自分如きが彼女の境遇に涙することは、かえって彼女を侮辱することのような
気がした。
「神父様はさらに、私が住まうためにこの小屋をくださり、下女として雇い入れて
くださいました。洗礼を施し、新しい名前をくださいました。何より私の話を、
何度でも聞いてくださいました。今お話した私の罪への意識は、当時からそうと
認識していたわけではないのです。神父様と幾度となくお話して、ようやくここ
までまとまりました」
 マリアは、少し寂しそうではあっても穏やかに笑っている。ここに辿りつくまでに、
この人はどれだけ泣いたのだろう、とアゼルは思った。
「私は、無知で、愚かで、卑怯でした。けれども……そうと自覚したときに、私は
ようやくわかりました。そんな醜くちっぽけな私を、主は愛してくださいます」
 マリアはアゼルを慈しむように笑う。
「主はすべての人の罪を背負って十字架にかかり、罪を贖う供物としてご自分を
差し出されました。私の罪は―――最初から許されていたのです」
 長い話をそう締めくくり、マリアはアゼルの手を握る。
「……天使様、あなたの罪は何ですか?」
「私の、罪……」
 アゼルは呆然と繰り返す。先程恥じたにもかかわらず、涙はあとからあとから
溢れて零れた。
「私に話さなくてもよいのです。どうぞ、お考えになってください。主はお聞き
届けくださいますでしょう」
 それは預言者の言葉のように、アゼルの耳に厳かに響いた。



 その夜、アゼルは司祭館での晩餐によばれ、泊まっていくよう勧められた。
与えられた寝室を夜半に抜け出し、ひっそりと礼拝堂にもぐりこむ。神父が
教会のいかなる場所にも自由に出入りしていいと、夕食の席で宣言してくれた
ために、堕天使である体もあっさりと扉を潜り抜けた。
 聖堂に入るのは、あの夜以来初めてだった。高く掲げられた十字架を前に、
いつものように膝をつく。
 ―――主よ。
 アゼルは心の中で呼びかけた。マリアの言葉のひとつひとつを脳裏でなぞり、
己の記憶に目を向ける。
 ずっと、罪は姦淫を犯したことだと思っていた。―――いや違う。対外的には
そういうことにしてあったが、アゼルはあのとき、己を襲った女を殺した。
 事が終わって力の抜けた女の体を、突き飛ばした感触を覚えている。
 そのまま女の体に馬乗りになって、細い首をひたすらに絞めた。
 自分の手首に食い込む女の爪。滲む血液。ばたばたと体の下で暴れる女の脚。
 泡を吹いて。変色した舌が飛び出して。哀れな女はこの手の中で息絶えた。

 憎んでいたわけではない―――とアゼルは思う。彼を罪に堕とした者は、けして
邪悪な者ではなかった。ただ子を想う心を悪魔の囁きにつけ込まれ、禁忌の道に
踏み出したのだ。哀れだと思う。思いはするが―――
 ―――私は、もっと哀れだ。
 そう、間違いなく心の奥底で、アゼルはずっとそう思っていた。無理矢理罪に
踏み込まされ、その事実に心底恐れおののいた。アゼルは天使だった。天使は
一点の穢れもなく清らかなものだ。それが、望まぬ罪によって天使ではなくなる。
己が天使でなくなることは、アゼルの存在意義を脅かしだ。自分が自分でなくなる。
自分という存在が消えてしまう―――。
 憎しみではなかった。ただ恐ろしかったのだ。女の存在を消すことで、
罪そのものを消そうとした。けれどもその卑小な思惑は、激痛によって破られた。
アゼルの翼は腐って落ちた。
 どれほど悔やんだことだろう。夜毎朝毎繰り返す祈り。
 ―――私は罪を犯しました。
 意に染まぬ姦淫の罪を。
 それ故に本意ではない殺人の罪を。
 堕天使となったがために、数多くの命を奪う罪を。
 主よ、哀れんでください。すべて私の意志ではありません。罪を犯さざるを
えないことが、こんなにも苦しいのです―――。
 その祈りこそが、アゼルの罪だ。どれほど祈ろうと許されるわけがなかった。
すべては己の傲慢が招いた苦しみ、己の怯懦が招いた事態だった。
 ―――私の苦しみが、どれほどのものだ。
 少なくとも、アゼルは今、特に不自由を感じることもなく生きている。
 幼子を残して逝く母の悲痛は、どれだけ深かっただろう。
 他者に害され、命絶える絶望は、どれほど深かっただろう。
 なんて哀れな者達。それを己可愛さに切り捨てて、その罪から目を逸らした。
どれほど罪を犯そうと、一番哀れなのは己だと思っていた。
 ―――主よ。
 今こそ祈りを捧げます。
 私は罪を犯しました。私が傷つけた人達に、どうぞあなたの愛を注いでください。
 瞬間、アゼルの体に何かが満ちた。胸の中心に熱を感じる。
「……天使様……」
 吐息のような声に振り向けば、マリアがそこで微笑んでいた。そうして振り
向いた拍子に、白く視界をよぎったものは―――
「綺麗な羽ですね……」
 静寂を乱すことを怖れるような、微かな微かな囁き。アゼルは敬意を込めて
その前に跪く。
「あなたの、おかげです」
 万感の思いを込めて告げた。
「そして……今まで、愚かな私を支えてくれた友と、愚かな私を生かしてくれた
すべての命のおかげです」
 深く深く頭を下げる。この世にある、すべてのものに感謝した。

「お立ちください、天使様」
 細い手が促して、アゼルは顔を上げる。
「どうか今までどおり、名前で呼んでいただきたい」
「アゼル様」
「はい」
 マリアはわずかに頬を染めた。
「お喜びを申し上げます、アゼル様。……僭越なお願いですが……どうか私の
懺悔を聞いていただけますでしょうか」
「あなたは私の恩人です。大仰な言葉遣いはやめてください。……私なぞで
よろしければ、どうぞいくらでも」
 マリアは胸の前で手を組んだ。
「私は、罪を犯しました」
「どのような?」
「……私は、恋をいたしました。初めての恋です。彼は美しい方でした。一目で
心捕らえられました。なのにその方は、私などの瞳を美しいと褒めてくださいました。
罪深い私と同じように、己の罪にあえいでいる方でした。私の異状をどこかで
お聞きになったのでしょう、なりふり構わず駆けつけてくださいました。愚かな
私の告白を最後まで聞き届け、私を軽蔑しなかっただけでなく、涙しても
くださいました……」
 アゼルは目を見開く。
「そして……私は浅ましいのです、天使様。その方がようやく願いを成就された
にもかかわらず、私は……私はその方と離れたくなくて……天の国に戻って
欲しくないと、そう願っているのです」
 マリアが縋るように手を伸べる。思わずその華奢な体を抱きしめた。胸の中で
マリアが嗚咽をこらえながら告解を続ける。
「お慕いしております、アゼル様。悪魔達に体に触れられて、思ったのはあなたの
ことでした。この想いは罪です。わかっているのです。けれど、それでも……
どうか私を哀れんでください。天の国に戻る前に、お情けを。どうか」
 マリアの手がアゼルの手を包み、胸の膨らみへと導く。布越しではあったが、
柔らかく温かく、そして早鐘のように、そこで鼓動が脈打っていた。
「マリア」
 アゼルは切なく名を呼んだ。全身の血が泡立って沸騰しそうだ。甘やかな
香りに脳髄がしびれる。けれど。
「……できません」
 手首を返して、そっとマリアの手を掴む。彼女は大きく緑の目を見開いて、
一瞬後、自嘲するような笑みを浮かべた。
「そう……ですよね。私ったら、天使様になんてことを」
「名前で呼んでくださいと言ったはずです。……そういうことではありません。
私も、あなたに焦がれています。初めてその目を見たときから、ずっと。
あなたが私を救ってくださった。私を迷妄の闇から掬いあげてくださったのです。
けれども、だからこそ」
 アゼルは敬虔な思いで囁いた。
「あなたが気づかせてくれた罪だから、私はまずそれを償わねばなりません。
主はすべての人の罪を背負われましたが、私は天使です。己の罪は己で
償わねば。……そうして我儘を言わせていただくなら……私が、あなたに
ふさわしい私になったそのあかつきには、お迎えにあがりたく思います。
その日まで……マリア、あなたは待っていてくださるでしょうか」
「アゼル様」
「待っていてほしい。お願いするのは私の方です。マリア、どうか」
「……はい」
 アゼルの腕の中、マリアは細い体を震わせる。聖なる十字架の下、どちらから
ともなく唇を合わせた。ほんの一瞬温もりを分かち合うだけの、切ないほど短い
口づけだった。




「―――で」
 バアルは呆れていることを隠しもせずに、白い影に呼びかける。
「なんで君がここにいるのかな、アゼル? というか天使様」
「バアル」
 アゼルは額の汗を拭って振り返った。
 灰色に広がる、大小の岩で埋め尽くされた下界の荒野。呪われた不毛の地の
一画を、天使は無心に耕している。
「ちょうどよかった」
 アゼルが笑うと、バアルは嫌そうに顔をしかめた。
「先に言うけど、いくら僕でも手伝ったりしないよ。僕は悪魔だ。労働なんて絶対にしない」
 アゼルは吹き出した。
「そうかい。肝に銘じておくよ。でも……君は本当に、絶対に働かないのか?」
「もちろん絶対だとも」
 アゼルは笑みを深くする。けれども素知らぬ顔で大地にかがみこんだ。作業を
再開しながら、友人に語りかける。
「君にききたいことがあったんだ」
「なんだい?」
「君は―――本当に悪魔なのか?」
 バアルは笑った。
「おかしなことを訊くものだね。僕が悪魔以外の何かだとでも?」
「鴉を遣いに寄こしてくれたとき」
 アゼルは畝を起こし、種を落としていく。
「君は一体どこにいた?」
「さぁ、どこだったかな。そもそもあれは君が言ったんだよ。しばらく顔を見せるなって」
「あぁなるほど。そうだったのか。ところで、知ってるかい、バアル?」
「うん?」
「君の影響で、私も東の文献に手を出してみたんだ。東のある国では、鴉は
神の遣いだそうだよ」
「それはいけない」
 バアルは大仰に肩を竦める。
「鴉を使うのを考え直さなくてはいけないな。じゃあ僕からもひとつ教えよう。
昔、ある悪魔が人間に呼び出されてこう言った。『悪魔は必ず嘘をつく。しかし
私だけは嘘をつかない悪魔である』とね。さぁこの悪魔は嘘をついているだろうか、
いないだろうか?」
 アゼルは笑う。笑いながら、柄杓に水をすくって撒いた。
「それが答えか?」
「さぁ、どうだろうね」
 バアルはのらりくらりと笑ったが、ふと真顔に戻った。

「何がしたいのか予想はつくけど、無駄だよアゼル。この地で植物は育たない。
君の故郷を再現することは無理だ」
「無理ではないと思うよ。精気なら私が与えてやれる」
 バアルは眉をひそめた。
「……アゼル。ここは君の故郷とは違う。精気の届かない場所なんだ。
なのに精気を垂れ流したら、それこそ君が滅んでしまうよ」
「垂れ流すは酷いな」
 アゼルが笑うと、バアルはむっとしたようだった。
「笑い事じゃない」
「うん、わかっているよ。ありがとう。……でもね、私は滅びないよ。滅びる気が
しないんだ。この地にあっても、主は私と共におわします。それが今の私には
わかるんだ。主の恵みはこの地に満ちるだろう。望まぬ罪に傷ついて、苦しむ
者がこの世界に落ちたとき、彼らは主の愛を知るだろう。……それが私の償いで、
私に課せられた仕事なんだ」
「どうあってもやめる気はない?」
「うん。心配してくれてありがとう。……大丈夫だよ。私はいずれマリアを迎えに
行くのだから」
 アゼルは晴れやかにそう言って、呪われた灰色の大地に膝をつく。敬意を込めて
不毛の荒野に口づけた。


 誰の姿もなくなった灰色の大地に、バアルは一人佇む。アァ、と鴉が鳴いた。
「自ら苦界に身を落とし……ね。馬鹿だなぁ、さっさとマリアと幸せになればいい
ものを。まさか本当にやるとはねぇ」
 呟いた足元に、染み入るほどに鮮やかな緑が、小さな葉を懸命に広げていた。



   END




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最終更新:2008年02月14日 00:41