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- 作者
- 備考 長編,ホラーな医師
<注意>
彼は夜半に目を覚ました。
自室は暗い。ありふれた六畳一間の1K。安物のカーテンは外の明かりを
たやすく透過させ、数少ない家具の輪郭が朧に浮きあがっていた。
カンカンカン、と遠くで踏み切りの音がする。とすれば時刻はまだ終電前だ。
夕方、二十四時間耐久レースのようなバイトから戻って、食事もそこそこに
万年床へ倒れこんだ。六時間ほど眠った勘定になるが、彼は結構寝汚い。
いまだ覚醒しきらない頭でぼんやりと、どうして目が覚めたのだろう、と思った。
踏み切りの音はまだ続いている。元が警報音であるために、よく響く上
やたらと癇に障る音だ。ましてや随分遅くまで鳴るものだから、近くの住居が
嫌われるのも無理はない。おかげで相場より随分安く借りられて、フリーターの
彼にはありがたい話だった。睡眠中の雑音は気にならないタチだ。だからたぶん、
この音が原因ではない。
まぁいいか、と彼はこだわりもなく思考に見切りをつけた。たまたま目が覚めた、
答はそれで十分だ。
彼はもう一度眠るべく寝返りを打つ。否、打とうとして、異状に気づいた。
体が動かない。
金縛りか、と思った。少々息苦しさを感じたが、彼は構わず寝ようとした。
踏み切りの音は止んでいる。静けさの戻った室内で、彼が再度まぶたを閉じたとき、
ふと、かたん、と小さな音がした。
それは六畳間のドアの向こう、玄関の方から聞こえたように思えた。夜中と
いってもまだそう遅くはない。同じアパートの住人が、何かしている音が壁を
伝わってきたのだろうか。
彼はぼんやりとしながらそう思って、続いて聞こえてきた、ずるり、という何か
濡れたものをひきずるような音に眉をひそめる。今のは、なんだか明らかに
台所から聞こえた気がした。
訝しさに耳をそばだてていると、一定の間隔で、ぺたり、ずるり、と音は続く。
台所だか通路だかわからない狭い空間を、ゆっくりとこちらに向かっているように。
―――いやいやいや。俺、ユーレイとか見たことないし。
心の中で自分を笑う。とはいえ、耳を澄まさずにはいられなかった。動悸が
激しくなるのを感じる。
ぱたり、ずるり。
ぺたり、ずるり。
いつの間にやら息を潜めて聞き入っていた音は、ちょうどドアの向こうで止んだ。
もしも幽霊なら、そのまま帰ってほしい。単なる音ならこのまま止んでくれ。
彼は身動きのきかないまま、布団の中でそう願う。こんなおかしな『単なる音』を
たてるのがどのような現象なのかは不明だったが、それはもはやどうでもいいこと
だった。
あらゆる神経がドアの方へ向かう。しばしの静寂。
―――終わっ、た?
何事もなくある程度の時間が過ぎて、彼はほっと息を吐く。顔が動くなら、はにゃ、
と気の抜けた笑いを浮かべたことだろう。変な音だったが、気のせいだ。あるいは
起きているつもりで寝ぼけていたのかも。
やれやれ、と彼は思う。思ったところで、こん、こん、とゆっくり二回、ドアが鳴った。
油断していた分、心臓が跳ね上がった。
―――いや。いやいやいやいやいや。
意味もなく心中で『いや』を繰り返す。
ほら、俺今動けないし。だからノックされても困るし。おとなしく帰ってくれ、な?
必死で音にそう願う。また、しばらくの沈黙。
やがてしくしくとすすり泣く声が聞こえてきた。痛いよ、と合間に洩れる呟き。
若い女―――おそらくは高校生くらいの、少女の声。
―――ちょ、マジ本物!?
いまだに体の自由はきかない。ほんの少し枕元に手を伸ばして、ケータイで
誰か友人にでも電話すればすべてが消える気がするのに、指先はぴくりとも
動かなかった。
恐怖が背筋を這い上がってくる。それでもどうすることもできずにいると、不吉に
濡れた音が再開する。
ぺたり、と。
それは部屋の中から聞こえた。
どっと冷たい汗が噴き出す。ドアは開かなかった。間違いなく開かなかった。
なのに音は六畳間に侵入して、いまや泣き声がはっきりと耳に届く。
部屋の隅で寝ている彼のもとまで、もう距離は幾らもない。普通に歩けば三歩か
四歩、たったそれだけのわずかな隔たり。
彼は必死で首を巡らそうとした。見えないからこんなにも恐いのだ。見てしまえば
何もないに違いない。常と変わらぬ部屋の様子だけがそこに在って、拍子抜け
することだろう。
が、どれほど力を込めようと、やはり体はほんのわずかすらも動かなかった。
ひゅー、ひゅー、と自分の荒い呼吸が耳に届く。
ずるり、ぺたり。
「……痛いよ……痛いよ……」
ずるり、ぺたり。
「……あたしの脚……どこいっちゃったの……」
―――この生臭さはなんだろう。打ち捨てられ錆びた鉄の、つんと鼻にくる臭い。
ずるり、ぺたり。
「……どこを探してもないの……」
―――そういえばこの音、一体何をひきずっているのか。
ずるり、ぺたり。
「……だからお願い……」
強ばりきった頬に、ひやり、と冷たい手が―――そう、人の手としか思えない
ものが触れる。彼の視野に、ついに泣き濡れた少女の青白い顔が現れた。
鼓動も呼吸も、限界まで高まる。一方で咄嗟に、低い、と思った。彼は床に
寝ている。なのに少女の顔の位置が。座高ほどしか。
ほんのわずか、首が動いた。違う、少女の両手が彼の頬を挟んで、彼女の
方へ向けたのだ。視界が巡って、彼女の全身が見えるようになる。
―――床に、血の川が流れていた。
そこに浸かるようにして、少女の体がはえている。ドアからまっすぐにつながる
川の両側には、点々と赤い手形がついていた。
一瞬で彼の脳裏に、少女の移動の様子が描かれる。両手を前に出して、
体を支え、胴体を引きずって、ずるり、と前進する姿が。
彼は歯の根も合わないほど震えていた。少女の唇が笑みの形に釣りあがる。
「お願い……あなたの脚を、あたしにちょうだい……」
瞬間、激痛が太股のつけねに走った。途端に呪縛が解ける。
彼は、声の限りに絶叫した。
「こちらです」
「どーも」
大家の五十嵐が開けてくれたドアをくぐり、木下祐は問題の部屋に足を
踏み入れた。人のいない部屋は寒々しい。家具や生活用品の類がひとつも
ないともなれば、なおさらだった。冷え切ったソフトフローリングの床が、靴下
越しに体温を奪っていく。
狭い台所を抜け、祐はドアを開けて六畳の部屋へと入った。そのまま窓辺に
寄って、がたがたと雨戸を開ける。
「電気と水道は使えるようにしてあります。……あの、本当にガスはなくて
よろしかったんですか」
「コンロもないのにガスが使えても仕方ないでしょう。大丈夫、一晩くらい
コンビニ食でなんとかなりますから」
「はぁ……」
祐は越してきたわけではない。そう長いことこの部屋に留まるつもりもなかった。
五十嵐は落ち着かない様子で部屋を見回すと、祐に部屋の鍵を渡し、
それでは……、と頭を下げそそくさと立ち去った。祐はやれやれと肩をすくめ、
窓を開ける。寒いが、前の住人が引越してからしばらく閉め切られた部屋は、
陰気な気配がしていた。空気は入れ替えた方がいい。
そうして、下の駐車場に止めた車のトランクから、さしあたって必要なものを
運び入れる。電気ストーブ、電気コンロ、やかん、寝袋。途中のコンビニで
調達した食料、トイレットペーパー、ロウソク、その他こまごましたもの。何度か
往復するはめになってしまった。
ひととおり今晩を過ごす準備が整うと、ベランダに出て一服した。細く煙を
吐き出していると、カンカンカン、と踏み切りの音が聞こえてくる。周囲の下見は
してあった。踏み切りからこのアパートまでの距離なら、電車の走行音も聞こえる
はずだ。案の定、さほど時間を置くことなく、電車が走り去っていった。確認して、
祐は一人頷く。
祐のもとへ五十嵐がやってきたのは、三日前のことだった。しどろもどろに、
アパートに少女の霊が出る、と言う。五十嵐はこのアパートには住んでいない。
しかし、姪が受験のためこちらでしばらくの間滞在することになったので、ちょうど
空いていたアパートの部屋を貸したのだという。
「数日経って、姪が二時過ぎに半狂乱になって電話をしてきました。幽霊が出た、
と泣きじゃくり、私が車で迎えに行く間、電話を切ることも嫌がりました。仕方ないので、
妻がずっと電話口で慰めている有様で」
祐は無感動に相槌を打つ。都内のある喫茶店でのことだった。
「行ってみると、姪は立ち上がれもしませんでした。なんとか家に連れ帰り、
よくよく話を聞いてみると、金縛りにあって、じっとしているうちに女の子の霊が
出たと言うんですわ。脚がなくて、両手で体支えて近づいてきた、と。そんで、
おまえの脚をくれと言われた途端、両脚のつけねがものすごく痛んだと」
祐は軽く手を挙げて五十嵐の言葉を遮った。
「姪御さんはその日の日中、試験じゃありませんでしたか。あるいは翌日辺りに
試験を控えていたとか」
「あ……はぁ。確かに、最初の試験があった日の夜でした」
「ならばそれは、おそらく心霊現象ではないと思います」
「いや、そんなはずは」
五十嵐が不満そうに言うのを、祐は宥めるように笑ってみせる。
「金縛りというのは、簡単に言うと体が寝ていて頭が活動している状態です。
これをレム睡眠といい、この状態のときに夢を見ることがわかっています。
このとき、なんらかのきっかけで半端に意識状態が覚醒してしまうことがある。
これが金縛りです。日中激しい運動をして体が疲れているとか、神経が興奮
していたりするとなりやすい」
「いや、しかし」
「本人は起きているつもりでも、実際はまだレム睡眠中なものだから夢を見る。
しかもこの状態の夢は五感にかなり鮮明なものになりやすい。幻視、幻聴、
幻触なんかがメジャーですが、まぁ寝ぼけているだけです。実際に金縛りに
あっている人間を観察すると、目を閉じたままであることの方が多いんですよ。
科学的に認知されている事実です」
「だが理恵の脚が動かないんです!」
いつものとおりの説明をした祐に、五十嵐は焦れたように叫んだ。え、と祐は
口を噤む。
「私だって、幽霊やらなんやらを頭から信じたわけじゃない。受験生ともなれば
結構なプレッシャーもあるでしょう。まして、慣れない環境で生活しているわけ
ですしね。疲れているだけだと慰めて、その夜は妻と一緒に寝かせました。
しかし、翌日になって脚が動かないというんです。医者に連れて行きましたが
異常はないという。それでも精神的なものだと思いました。受験が嫌で、逃避して
いるんじゃないかとね」
「……正しいご判断だと思います」
同意した祐を、五十嵐は睨めつける。
「けれども、同じ頃不動産屋から電話がありました。以前部屋を貸していた若者が、
引越すにあたって『幽霊が出た』と洩らしていたというんです。こういう商売は、
悪い噂が立つと何かと差し障りがある。大丈夫かと問い合わせてくれたんですわ」
「はぁ」
「それで、アパートの住人にそれとなく話を聞いてみました。……十五人全員、
同じ体験をしていた」
祐は目を丸くする。
「単身者用アパートで、こんなご時世ですから、住人同士の交流なんてないに
等しいでしょう。そんな状態で皆が判で押したように同じ話を語るのです。これは
もう何かあるとしか」
「ちょっと待ってください」
祐は話を遮る。
「皆さん脚が動かないんじゃ困るでしょう。どうしてるんです?」
「脚が動かないのは、次の犠牲者が出るまでの期間だけです。大体二日から三日、
長い人で一週間。怖い思いもしたし、おかしな体験でしばらくは怯えていたけれども、
仕事や学業がある中で、そうそう引越すこともできんでしょう。人に話して信じて
もらえるものでもないし、後遺症もなくなった。だから黙っていたというんですな」
「……なるほど」
「恐らく、引越した若者が最後の遭遇者でした。夢かと思っても、脚が動かない
証拠があるんじゃそりゃあ怖いし、何より生活できないでしょう。そうして引越した
ところに、しばらくして姪が入ったのではないかと」
「一度来た人のところには、二度は来ない?」
「今のところ、そうです」
「ご近所で似たような噂は」
「聞きません。……が、おおっぴらに話される内容でもないと思います」
「わかりました」
祐は頭を下げる。
「早合点で不快な思いをさせて申し訳ない。お引き受けします」
祐は持参した灰皿に吸いさしをねじこんだ。五十嵐の妻に協力してもらって
噂を集めたところ、この近辺では半年ほど前から似たような事例が起こっている
らしい。よく今まで表沙汰にならなかったものだ、と思う。
その現象は踏み切りの音から始まる。しかし、電車の音を聞いたという者は
いなかった。時刻は大概夜中の二時頃。非常にスタンダードな時間で泣けてくる。
確かにその時刻では、電車は終わっているだろう。実際には聞こえないはずの
警報音。
しかしまぁアレだね、と祐は心の中で呟く。
五十嵐の家はここから車で十分ほどだ。歩けば駅からそれなりの距離になる、
客室がない、親戚の家は何かと窮屈だろう……といった諸々の理由でこの
アパートに滞在を決めたらしいが、短期間とはいえ何もない部屋で生活するのと
どちらがマシなのだろう。一応、小さな机と寝具くらいは入れたらしいが。結果として、
理恵は今受験に支障をきたしている。
おとなしく最初から世話になりゃよかったのになぁ、と思うのは、自分が祖母に
育てられたせいだろうか。とはいえその心情を考えるとやっぱり可哀相なので、
早く解決してやりたいと思う。
―――それに、霊の方も。
祐は部屋に戻ると、コーヒーを入れてから商売道具一式をとりだす。筆、文鎮、
フェルトの下敷き。岩塩でできた盆の上に硯。床が冷たいので寝袋を広げて座る
場所を作る。大きく深呼吸して、墨をすりはじめた。
*
ケータイのアラームで仮眠から覚める。午前一時半。よっこいしょ、と伸びを
して部屋の様子をうかがった。まだ異常はないようだ。
外の明かりと電気ストーブの光でそれなりに物は見えるが、ライターを探って
用意していたローソクに火をつける。一本、二本、三本。眠気覚ましにもう一度
コーヒーを入れて一服すると、正座をして再度墨をすりなおす。心静かにその時
を待った。
―――カンカンカンカンカン
来た、と祐は小さく呟く。立ち上がって六畳間と台所を隔てるドアを開け放った。
玄関に向かって座り直す、その膝の前には書道具がある。
ことん、と小さな音がするや、滲むように少女の上半身が扉から湧いて出た。
祐と目が合って、ぽかんとした表情を作る。―――理性があるのだ。
よかった、と祐は息を吐く。これなら大分楽に済みそうだ。よぉ、と話しかけた。
「こんばんは」
「……こ……こんばんは……」
少女は戸惑ったように言った。その下、腰と床が接している部分に、じわりと
赤い血が滲む。
「痛そうだな。可哀相に」
祐が言うと、じわりと少女の目に涙が浮かんだ。うん、と頑是なく頷く。
「痛いの。とても痛い……」
「だろう。だから、俺に診せちゃくれまいか。治してやれると思う」
少女は瞬く。
「あなた……誰?」
「俺ぁこう見えて医者でね。ただし、幽霊専門」
「お医者さん……?」
「おぅ。いや、ちょっと人間の医者とは治し方が違うが、実際治してやれるん
だから医者と言っていいと思う。あんたは患者で、医者のところに来た。札を
見ただろう?」
少女は小さく頷く。夕刻、最初にすった墨は玄関に貼り付けた札と、祐自身に
使った。両手にくねくねと黒い文字が書かれているのが少女にも見えるはずだ。
札は少女をスムーズに招くもの、祐のは霊の影響を避けるためのものだ。
金縛りにあっては治療ができない。
「でも……あたしの脚、見つからないの」
「大丈夫だ。名前を聞かせてくれるか?」
「斎藤……亜紀、です」
「了解。俺は木下祐だ。で、斎藤さん。俺に治療させてもらえるかい?」
「は……はい」
「そこじゃちょっと不便だな。動くのが辛けりゃ俺が運ぶが、どうだろう。傷口擦る
のは痛いだろう」
「あたしに、さわれるんですか?」
「何言ってんだ」
祐は笑う。
「聞いた話じゃ、斎藤さんは人に触ってるんだろう? そっちから触れるもんが、
こっちから触れないわけあるかい」
「え? あ……うん? そ、そうなんですか?」
しきりに首を傾げる少女に、そういうもんだ、と断言して祐は立ち上がる。
近づいて、背後にまわった。脇の下に腕を入れる。
「あとちょっとの辛抱だからな。頑張れよ」
はい、と頷いた少女を抱き上げる。ぱたた、と赤い液体が床を叩いた。
痛ましさに祐は眉をひそめる。少女の体は体温がなく、ひんやりと冷たかった。
「あ……あの、あたし重くないですか」
「軽い軽い。気にすんな」
六畳間までは五、六歩の距離、あっさりと体を運んで床の上に寝かせる。
そうして、文字の書かれた手の甲を見せた。
「これ、見えるか?」
「はい。何ですか?」
「お経」
「……へぇ」
「これと、同じじゃないけど似たようなものを斎藤さんの体に書く。やることは
それだけだ」
「なんか……耳なし芳一みたいなんですけど……」
「うん、まぁイメージとしてはそんな感じだ」
「……あたし、お経なんか書かれて大丈夫なんですか。なんか苦しんじゃいそう」
祐はぽんぽん、と少女の頭を撫でた。
「うん、なんかオカルトっぽいマンガとかだとそんなイメージだよな。でも、仏さん
はこの世のすべてのもんが幸せになるよう願ってる人……いやヒトじゃないけど、
願ってるんだ。その仏さんの言葉が、苦しいようなことは絶対にない。
……信じられるか?」
「えぇと……あたし、仏教徒でもないんですけど……」
「問題ない。大丈夫だ」
言い切った祐に、少女はしばらく迷ったようだったが、頷いた。
「お医者さん、なんですよね? じゃあ、お任せします」
「任された。……でな?」
「はい」
「若い娘さんには言いにくいんだが、服、脱がさせてもらう」
少女は言葉に詰まったようだった。
「俺は医者だ。人間の場合も手術衣に着替えるだろう? 変な意図はない。
斎藤さんは俺にとって……なんつーか、女じゃなくて患者なんだ」
少女は顔をうつむけて、恥じらいながら小さく、お任せします……と呟いた。
はいよ、と返して、祐はなるべく優しく着衣を剥いでいく。
「恥ずかしかったら、目をつぶってるといい」
囁いて、前ボタンをはずすと、背中を支え、腕を抜いた。そのままブラのホック
を外し、これも取り去る。優しい手つきで寝かせた。
「ちょっと辛抱してくれな」
腰に手を伸ばし、なるべく傷に触らないよう、血に染まった腰周りの布も外した。
少女の白い裸身が、ロウソクの赤みを帯びた光に浮かびあがる。
祐は筆をとりあげた。
まずは少女の額に、ゆっくりと筆先を下ろす。ひやりとしたのか、少女は一瞬
体を強ばらせた。
「なるだけ楽に。力を抜いて」
続いて頬に穂先を滑らせる。
「……あ。痛くなくなった……」
「そうか、よかった」
首に筆が下りると、くすぐったそうに肩をすくめた。
「はいはい動かないでねー。字が崩れるから」
右腕から右の手の甲まで。左腕も同じように。筆を硯に戻して、再度書き始める
ときに、ぴくんと少女の体が震える。冷たいのだろう。
鎖骨から胸元へ。徐々に少女の体に熱が戻ってくる。
胸を筆が撫ぜたとき、あっ、と小さく少女の唇から言葉が零れた。ぎゅっと強く
目をつぶる。
「なんか苦しいか?」
「いえ……大丈夫です……。もっと……続けてください……」
恍惚を帯び始めた口調に、祐は心の中でだけ、やっぱこの方法にはいささか
問題があるよなぁ、と呟く。だが表面上は何も気づかぬふりで筆を進めた。
わき腹、臍の上。
そうして丹田に最後まで経文を書ききる。筆を置いて、静かに合掌した。
と、すぅっと文字が薄くなる。白い肌に吸い込まれるように消えて、よし、と祐は呟いた。
「斎藤さん、目を開けて」
「……?……」
少女はうっとりとした表情で目を開く。
「どこか痛いところはないか? 大丈夫? ……じゃ、ゆっくり起き上がってみな」
少女が体を起こす。拍子に、脚がわずかに動いた。
「あたしの脚……!」
「おうよ。お疲れさん。……治ったから言うが、自分の脚がないからって、他人の
脚をとろうとするのは感心しないぞ」
感激したように瞳を潤ませていた少女が、その言葉にしゅんと肩を落とした。
「ごめんなさい……どうしても、痛くて。耐えられなくて……」
「あぁ。でもやっぱ他人の脚じゃ治らなかったろ?」
「うん。ごめんなさい……」
「わかりゃいい。一応、合わないとわかったら返してたみたいだしな。でも、それで
迷惑したり悲しんだりした人がたくさんいたってことは、ちゃんと覚えておいてくれ」
「……はい」
「いい子だ。さて、そいじゃ斎藤さん」
「……あの、亜紀って呼んでください、先生」
「……亜紀ちゃん。もう心残りはないな?」
言う祐に、少女は頬を染める。いつの間にか、少女の肌には血の気が戻って
いた。もじもじとうつむいて、やがて思い切ったように顔を上げる。
「……あの」
「ん?」
「その……あ、あたし……先生に、抱いてほしい、です」
いまやすっかり生前の姿を取り戻した少女は、揺れるロウソクの火影に美しい
裸身を照らされていた。まだ少し青さの残る、けれど十分に丸みを帯びた体。
まろい胸の形から腰がくびれて、なだらかにのびやかに脚へと続く芸術的なライン。
大きな瞳は零れそうに潤んで、ぽってりとした赤い唇をしている。取り戻した脚が、
もじもじと擦りあわされていた。
「こ……こんなこと言うなんてはしたないけど、でもきっともう、あたしに残された
時間って多くないし。その……このまま、色々経験しないで消えちゃうのって、
すごく悲しい気がして……。それに、なんだかさっきから、すごく体が熱くて」
恥らってうつむく首筋から、におやかに立ち上るものがある。祐は天井を仰いだ。
「亜紀ちゃんは、魅力的な女の子だよ」
なるべく優しく囁く。
「でもな、亜紀ちゃんの言うとおり、体を取り戻した以上、亜紀ちゃんに残された
時間はもうそんなにない。それを、知り合ったばっかの、いわば行きずりの男の
ために使っちまうのは、俺は賛成できない」
「先生はあたしの恩人です!」
「うん、そう言ってもらえるのは嬉しいけどな」
祐は荷物からバスタオルを取り出して、少女の肩にふんわりとかける。
「俺ぁ医者だ。亜紀ちゃんを助けるのが仕事だった。だから助けた。そんだけなんだよ」
「でも」
「それよりも、会いたい人がいるだろう? 家族とか、友達とか……恋人とか。
思い出せるか?」
肩に手を置いて覗き込むと、少女は大きく目をみはった。
「お母さん……お父さん……」
「うん。今まで亜紀ちゃんを愛してくれた人たちに、最後の別れをしておいで。
きっと皆、すごく悲しい思いをしていると思う。亜紀ちゃんが今まで、とても
辛かったように。亜紀ちゃんが望めば、夢枕に立てるから」
少女の目から涙が零れる。
「そっか……あたし、本当に死んだんだ……」
「うん。とても残念で、悲しいことだけどな」
祐は少女の頭を撫でた。
「亜紀ちゃんはよく頑張った。よく痛みに負けず、辛さに耐えて、正気を手放さず
にいたな。それはとてもすごいことだ。だから、皆に会っておいで。それが、
神様がくれたご褒美だ」
少女は泣きながら笑う。
「お経を使ったのに、神様なの……?」
「いやまぁ、なんかそんな感じで」
「いいかげんだなぁ……」
少女は笑って、次々に涙を溢れさせながら、祐に腕を伸ばした。祐が逆らわず
にいると、ぎゅっと腕に力を込めて、額に口づける。
「……これで我慢する」
祐は笑った。
「うん。いい子だ」
「……あたし、もう行きます。次は絶対、もっと幸せになる……」
「あぁ」
「先生、本当にありがとう」
頬を滑り落ちる涙が零れてはじけて、そうして少女は姿を消した。
静寂を取り戻した部屋で、祐は大きく伸びをする。
「……やれやれ、サービス業も楽じゃないぜ」
そううそぶいて、ベランダに出る。煙草に火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。
明日には理恵―――五十嵐の姪も、脚の自由を取り戻しているだろう。
この空の下、どこかである両親が、涙に暮れることだろう。
祐は目を細めて、静かに紫煙を吐き出した。
END
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最終更新:2008年02月14日 00:45