• スレッド_レス番号 02_073-077
  • 作者 51
  • 備考 長編,鬼籍の夫


 薄墨が溶け込んだような、ぼんやりと正体のない闇だった。

 白無垢の裾を捌きながら、私は俯きがちなままそっと辺りに目をやる。
建物から出た覚えなどないのに、頬を撫でる大気の流れは野外のよう、
さりとて視界に入るのは、霧が立ち込めたような、やわやわとした闇だけだ。
背後でふらりと青火が揺れた。

「後ほどお迎えに参ります」
 私をここまで連れてきた禿頭の老人がくぐもった口調でそう言うと、
ひたひたと足音が遠ざかっていった。灯りがなくなっても見えるものは
変わらない。

 ……見えないことに変わりはない、というべきか。
 ただ、己の身が備えた輪郭だけが、幼い頃見た不安な夢の中のように、
不思議にくっきりと浮かんでいる。

 角隠しの陰で、私は微かに息を吐いた。花嫁衣装は死に装束に似ている。
かろうじて慶事であることを示すように、白無垢の下から金糸を縫い取った
紅襦袢が覗いていたけれど、これが人から祝福を受けるものでないことは、
私にも十分わかっていた。むしろ忌み事の類だろう。

 闇は徐々に深くなっていく。襟を大きく抜いたうなじが、冷気に触れてぞくりとした。
 ちょーん、とどこかで水滴の落ちる音がする。幾重にも残響がこだまする
様からすると、洞窟のような場所だろうか。粟立った腕を押さえ、私はしきりに
右手に握った数珠をたぐった。怖じ気づいている場合ではない、と自分に言い
聞かせる。
 ここから今逃げ出したら、一体何のためにやってきたのだかわからなくなる。

 ―――この先、どうやって生きていけばよいのかも……。

 溢れそうになった涙をこらえて目をつむり、唇を噛みしめると、不意にそこへ
冷たい指が触れた。

「紅が剥げてしまうよ」

 私は慌てて声の方をふり仰ぐ。優しい、困ったような声の主は、間違いなく
期待していた通りの人だった。
「裕一郎さん……!」
 涙の絡んだ喉で呼びかけ両手を投げる。彼はしっかりと受け止めてくれた。
あまりに願い続けたことだから、確かな手応えがかえって夢のようだ。私は
うわごとのように彼の名前を繰り返した。
「裕一郎さん、裕一郎さん……!」
 彼は宥めるように私の背中を撫で、美緒子、と私を呼んだ。

 ―――これが聞きたかった。

 彼の声で、彼の抑揚で呼ばれる私の名を、私はどれほど嬉しく聞いていた
だろう。堪えきれなくなった涙が次々に頬をつたう。会いたかった。嫁いだ時には
すでに鬼籍の人となっていた私の夫。


 ひとしきり泣いて、私はようよう目的を思い出した。それまでずっと、何を問う
こともせず抱きしめていてくれた裕一郎さんの肩に顔を寄せたまま、まだ震えの
残った声を絞り出す。

「……妻にしていただきに参りました」

 密着した肌のすべてを通して、彼の体が強張ったのがわかった。

「……美緒子」
 否定の響きを感じて、私は必死に彼を見上げる。
「厭です、拒まないでください。どうしても否とおっしゃるならば、いっそこの場で
殺してください!」
 悲鳴のようになった訴えに、彼が顔を歪める。
「……どうして、そんな」

「……父が……」
 私は袖で目元を押さえる。絹の感触も、今はなんら私の心を慰めなかった。
「え、縁談を、もってきたのです」
 一度は落ち着いた感情が再び高ぶって、私はしゃくりあげながら事情を話した。

 花嫁行列の途中、世話役の家で一泊していた夜、裕一郎さんが子供を
助けるため馬車にはねられたと連絡が入ったこと。
 急ぎ駆けつけたが間に合わなかったこと。
 花嫁衣装を喪服に替え、泣き暮らしたこと。
 四十九日が過ぎて、父が新たに縁談をもってきたこと……。

 切れ切れの言葉を黙って聞いていた裕一郎さんは、いっそ穏やかな物言いで
私に訊いた。
「……やはり、ご実家の事業が思わしくない?」
 いたたまれない思いを抱えながら、私は小さく頷く。私たちの結婚が成った
あかつきには、裕一郎さんの家から相応の援助があるはずだった。当ての
外れた父の怒りようは、彼の前ではとても口にできない。

 一生を添い遂げるつもりで嫁いだものを、誰もかれもがなかったことにしろ
と言う。確かに直接言葉を交わしたのは片手で足りるほど、ともに過ごした
時間はけして多くはない。だが言葉もなく見交わした視線が、幾度も取り交わした
文の墨の匂いが、結婚をお受けしたときの笑顔が。ひとつひとつの思い出が、
もはや私にくっきりと刻まれているものを。

 これを消そうというのなら、私ごと焼くか壊すかするしかない。

「……それで、どうして此処に」
「私の嘆きを見かねた妹が、寺社にお参りするうちに、親しくなったご老人から
冥婚譚をお聞きして。人伝に尋ね歩いて、ようやくここに」
「そうですか……」
 彼は深く息をつく。

「あなたの妻でいさせて欲しいのです。今更他の誰かに嫁ぐなど、私には
考えられません。たとえそれが――」
「……それが?」

 口を滑らせたことに気づいて、私は慌てて首を振る。だがその動揺こそが、
彼に真実を伝えることになった。

「そうか……。相手は伸次だね?」
 見透かされて、私はきゅっと目をつむる。伸次さんは裕一郎さんの弟だ。
悪い人ではない、悪い人ではないけれど、裕一郎さんに似た面差しが、
かえって私の心を追いつめた。

「裕一郎さん……」
「ああ、泣かないでおくれ。悪いのは美緒子、貴女じゃない。貴女を遺して逝った
僕の落ち度だ」
「貴方も悪くなどありません! 貴方は子供を助けようとしただけではありませんか!
責められるべきは私の父で―――」

 裕一郎さんは私の唇を指で押さえると、表情を改め、首を振った。

「お父上をそんな風に言うものではないよ。……私は、青くさい若造だけれど、
死んでわかったこともある。誰もが皆、自分の命だけを生きているのだとね。
誰も何も悪くない。ただ生きているだけなんだ」

「……でも」
 納得のいかない私に、裕一郎さんはそっと笑った。
「もっと早くにわかっていれば、貴女をこんな風に悲しませることもなかった
ろうけど―――死んでようやくわかったのだから仕方がない。己の不明を
恥じるだけだ。苦しませてすまなかったね」

「そんなこと」

 首を振ると身体が離れて、ただ両手だけが包まれる。

「……この数珠は? とても綺麗だ」
「祖母が、持たせてくれたのです……」

 何を話したわけでもないが、家を飛び出す前日に『持ってお行き』と包んで
くれた風呂敷包みの中に入っていた。……妹から、話を聞いていたのかもしれない。

「いい護りだね」
「そう、なのですか?」
「うん。安心した。貴女の花嫁姿も見られたし―――もう、心残りはないな」

 え、と訊き返す前に、彼は数珠を私の手からむしりとる。じゅ、と、何かが
焦げるような嫌な臭いがした。同時に何か途方もないものが上から―――否、
八方から押し寄せて、私の身体を引き倒した。己の身を押しつぶすかのような
重圧に、視界が暗くなる。何が起こったのかわからない。

「―――美緒子」

 裕一郎さんの声が聞こえる。聞こえるけれど、顔をあげることも、助けも求める
こともままならなかった。


 愛していたよ。


 その言葉を最後に、私の意識は暗転した。



 美緒子、と叫んで飛び出してきた男を、裕一郎は晴れ晴れとした顔で迎えた。
焼かれて感覚のなくなった腕で、なんとか数珠を放る。

「兄貴! 何をしたんだ!?」
「白無垢など着てこんなところへ来たから、依り代と間違った邪気に当てられ
たんだろう。……大丈夫。数珠をはめておやり。お前も護り刀を離してはいけないよ」

 真っ青な顔で伸次が―――弟が水晶の数珠を取り上げるのを、彼は眩しいような
思いで見つめた。
 美緒子がなんと思おうと、彼我の距離はこれほどまでに大きい。

「夢じゃ……なかったんだな」
 ぐったりとした彼女の身体を抱き起こして、伸次がぽつりと言う。裕一郎は首を
振った。
「夢だよ。夢枕、というやつだね。私は死んだんだ」

 彼女を失いたくなければここへ来い、と告げた。成功したのは僥倖だった。
機会を与えてくれた何かに、心から感謝したい。

 強ばった弟の顔に、裕一郎は苦笑する。
「言っておくけれど、お前を恨んでなどいないよ。私は自分から馬車に飛び込んだ
のだし、これで楽になると思ったのも本当だ。お前の想いを知りながら、美緒子を
愛したのも、それで苦しんだのも、全部私の人生だ。お前のものじゃない」

 時期で言うなら、先に美緒子に恋をしたのは弟の方だ。姓だけでやりとりした
文は数回、先方の勘違いと裕一郎自身の恋が重なって、事態はこじれにこじれて
しまった。嘘を塗り固めるのに、その後どれほどの嘘を重ねたことか。

「けれど、謝ることもしないからね」
 ―――これは罪滅ぼしなどではない。だから、後ろめたく思ってくれるな。

 伸次が何かを言いかけて、結局口を閉じる。何を言っていいのかわからない
のか。思えば昔から口下手な弟だった。―――自分は、そこにつけこんだの
だけれど。

「彼女と私の思い出は、私が冥府へ抱えていくよ。それくらい土産にくれても
いいだろう? 記憶をなくして彼女は混乱するだろうけど……せいぜい骨を
折るんだね」
 ちりちりと、焼けた腕が灰になっていく。苦いばかりだった生涯ただ一度の
恋を抱いて、土へと還っていく。
「幸せにおなり。人の命は儚いものだ。明日にも私の祟りで死ぬかもしれないと
覚悟するんだよ。腹が括れるだろう?」

 裕一郎は笑って、音もなく闇の中へと溶けていった。



 さようなら、愛しい者たち。
 最後に泣いてくれた君の涙が、何よりの手向けだ。




  END




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最終更新:2008年02月14日 00:47