• スレッド_レス番号 01_508-509
  • 作者
  • 備考 長編,醒めぬ夢


浮世の悩みをみな忘れ
夢に世にこそ遊びぬる


 闇の中ひそやかにくちづけの濡れる音がした。合間に洩れるかすかな吐息と囁きが、
ほつりほつりと立ちのぼっては消えてゆく。そうして数えること幾ばくか、くったりと
力の抜けた身体を凭せかけ、女は愛おしげに男の胸板へ頬を寄せた。
 が、男はそっけなく無抵抗の肢体を押しやると、情感のこもらぬ手つきで寝具の上へ
横たえる。
「今宵はもうよい。休め」
 男の言葉に潤んだ瞳がまたたいた。投げ出された腕がゆるりと動いて、黒々と渦を
巻く乱れ髪を撫でつける。
「この頃とんとお見限り。どこぞに可愛い娘でも囲いましたかえ?」
 滲むように甘いかすれ声が力なく男を詰った。ぐったりと弛緩した身体に男はかすかに
眉を寄せたが、暗い閨の影のうち、女の目にはそれと見えない。
「抱かれたくばもう少し真面目に養生しろ。人形の如き有様では興が削げる」
「ほんに。お見苦しゅうて申し訳もございませぬ。なれど、口づけひとつでは幾らも
足しになりますまい。旦那様を餓えさせては囲われ者の名折れにございます。
さ、喰ろうてくださいませ」
 肌を合わせて精気を啜る、化生の男に女はねだる。男がこぼした溜息に、ひっそりと
笑った。
 この屋敷について、女は多くを知らない。連れてこられたのは三月(みつき)前、
人柱として川に沈められた夜だった。以来、女は男のために飼われている。
 喰われる恐怖はない。精気の代償に男は女に夢を見せる。心底愛されているかの
ような甘い夢。目覚めればそこもまた夢の如き御殿、山海の美味に綾錦、金銀もあれば
玉もある。寝ても醒めても夢ならば、何の恐ろしいことがあろう。
「……旦那様」
「何度も言わせるな。今宵は休め」
 冷たい物言いとは裏腹に、男は丁寧に女の姿勢を整えると上掛けをひっぱりあげた。
武骨な指が額を滑って前髪を梳く。女はうっとりと目を閉じて、男の手に頬をすり寄せた。
「この身はもう幾らも保ちませぬ。旦那様とておわかりのはず。夢見たまま逝かせて
くださるとのお約束でございます。あとほんの一啜り、そうして眠らせてくださいませ」

「……眠りたいか」
「はい」
「身体が辛いか」
「いいえ」
「ここの生活が不満か」
「とんでもございませぬ」
「では何故そう死にたがる」
 女はそっと男の手に自分のそれを重ねた。
「夢から醒めるのが恐ろしいのでございます」
 顔すら定かでない両親が、何をしたのか正確には知らない。世間様に後ろ指を
指される類であることだけは確実で、現実の世は常に苦痛に満ちていた。
 男にとって自分がエサであることはわかっている。惜しみなく注がれる甘い蜜も、
所詮はすべて偽りごと。それでもいいと女は思う。人生最初で最後の安楽にまどろんで、
誰かの糧になるならばそれもいい。
「……おまえが望むなら、永久に醒めない夢をやろう」
「また、そのような。何を仰せです」
「戯言ではない。……我が眷属になれ。この屋敷はおまえにやろう。そうして、ずっと
我が隣にいるがいい」
 女の欠落を惜しむかのような言葉に、笑みがこぼれた。ゆっくりと首を振る。
「そのお言葉だけで十分でございます」
 男の指がぴくりと揺れた。女は歌うように続ける。
「夢は長くは続かぬもの。いずれ飽きられ現世へ戻るくらいなら、短き夢を存分に
味わいとうございます」
「我が言葉を疑うか。おまえが望む限り夢を見せてやると言うに」
 ええ、と女は頷く。与えられる夢はこんなにも優しい。
「嬉しゅうございます」
「信じていないな」
「これもすべて夢でございますれば」
 男は深く息を吐いた。止まっていた手がまた女の髪を撫で始める。
「……早く起き上がれるようになれ。ちょうど山の紅葉が美しい」
「はい」
 甘い夢を噛みしめて、女は静かに目を閉じた。


   ~終~




バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は?
お手数ですが、メールでお問い合わせください。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年02月14日 00:35