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  • 備考 長編,荒野の悪魔1の続き


 教会の朝は早い。未だ夜も明けやらぬ、一日で最も気温が下がる刻限に、
マリアはいつものとおり床を離れた。そのまま自身が暮らす小屋の中、慎ましく
膝をつき頭を垂れると、朝の祈りを捧げる。常ならばこの時間、隣に建つ礼拝堂では
神父が同じように祈っているはずだが、今日は一人きりだ。
 ―――神父様の道行きが平らかなものでありますように。
 ―――教区会議が平穏の内に終わりますように。
 ここ数日と同じに祈りをそう締めくくると、マリアは手早く身支度を整え、角灯を
手に表へ出る。マリアと神父が二人で暮らすこの教会は、さして大きいものでは
ない―――どころか、かなりこぢんまりとしたものだったが、家畜の世話や薬草園の
手入れなど、日々の仕事はけして少なくなかった。
 まずは山羊の乳を搾ろうと、桶を下げて家畜小屋へと向かう。
 が。
 礼拝堂の角を曲がったところで、ふと、闇の底に何か異質な気配を感じた。
マリアは足を止めて角灯を掲げる。
「もし……?」
 小首を傾げての問いかけに、闇が動いた。
「おはようございます。随分早いですね」
 若い男の声だった。光源は手にした角灯と星明りのみ、手元ばかりが明るくて
詳細は伺えない。だが、頭から外套を被った人影は、教会の外壁に向かい跪いて
いたようだった。こんな時間に、とマリアは少し驚く。
「おはようございます。……旅の方ですか?」
「ええ。到着が閉門ぎりぎりで……宿にあぶれてしまいました」
 なめらかな声は少しだけ震えている。その意味するところに、マリアはまぁ、と
小さく息をこぼす。
「では昨夜からここに? さぞ冷えたでしょう。起こしてくださればよかったのに……。
どうぞ、こちらへ。火が焚いてありますから」
 人影が荷物を拾ったのを確認し、元来た道を先導する。時折振り返れば、
影は静かについてきていた。小屋の入り口を押さえ、再度どうぞ、と差し招く。
「ありがとうございます」
 頭巾に覆われた頭が小さく会釈して、小屋の中へ足を踏み入れる。マリアは
手桶を置くと、ぱたぱたとその前をよぎって暖炉に薪を足した。
「どうぞ、火の傍へ」
 椅子の上で開きっぱなしだった聖書を棚に戻し、火の前に座る場所を作る。
背後から深い声がした。
「助かりました。私はアゼルといいます」
「私はマリアで―――」
 半分振り返りながら答えた声が途切れた。マリアはそのまま唖然と動きを
止めていた。
 外套の下から現れた顔は、それほど美しかった。
 柔和で穏やかな顔立ち。すっきりした額は知性を感じさせた。透き通るように
白い肌と、艶のある漆黒の髪が見事な対比をみせている。薄めの唇はあるか
なしかの笑みの形、それでいてどこか憂いを帯びた眼差し。細身の体は、外套を
脱ぐだけでも流れるように優美な所作をみせた。

 美しい。まるで天使のように。あるいは―――悪魔のように。
 危険だ、という気がする。これは近づいてはならないモノだ。それでいて、
強烈に惹きつけられる。どうしても目が離せない。
 凝然と見つめるマリアに、アゼルは不思議そうに首を傾げた。
「……どうかしましたか?」
 その一言ではっと我に返る。
「あ……すみません、不躾にじろじろと。あんまりお綺麗なものだから、つい……」
 青年は苦笑する。
「褒めていただいてるようですが……男としては、いささか複雑なものがありますね」
 困ったような気配と途方にくれたような声音が混ざって、途端に人くささが
増した。気を取り直して眺めると、確かに美しい青年だが、何をそんなに警戒
しなくてはならないのかわからない。暴漢でもなければ酔漢でもない。知性と
礼儀を兼ね備えた人物に見えた。
「そ、そうですね。すみません、私ったら」
 マリアは自分が更に無礼を重ねたようだと頬を染める。謝罪して大きく息を
吐くと、微笑を浮かべた。
「改めまして、私はマリアと申します。この教会をお手伝いしている者です。
どうぞ、温まっていらしてくださいな。すぐに山羊の乳を搾ってきますから」
「お気遣いなく」
「いいえ、遠慮なさらないで。うちの山羊の乳は美味しいと評判なんですよ」
 客人はもてなすものだ。
 教会は神の家、すなわちすべての人の家である。神父が留守の今、彼を
兄弟として迎え入れるのはマリアの役目だった。
 外套を受け取って壁にかけると、代わりに膝掛けを渡し、マリアは再び外へ
出る。寒空の下を足早に急ぎながら、朝食の献立をあれこれと思案した。
もてなしは務めでもあるが、一人きりでない食事は数日ぶりで、純粋に嬉しく
もある。一人の食事はどうしても味気ない。それに―――思い出したくない
過去を思い起こさせる。
 マリアは一瞬足を止めると、わずかに黒から紺へと色を変え始めた空を
見上げる。胸元で小さく感謝の印を切った。




 黒パンに、とろりとなるまで火で炙ったチーズがのせられる。銀の食器とは
いきませんが、と出された客用の真新しい木の椀には、温められた山羊の乳。
塩漬けの野菜と腸詰め肉を煮込んだスープには、産みたての卵がふんわりと
溶き入れられている。
 食前の祈りを捧げると、アゼルはマリアの心づくしに手を伸ばした。
「……美味しい」
「よかった。お口にあいましたか」
 輝くような笑顔で喜ぶマリアを見るのが苦しくて、アゼルは食卓の上へ視線を
落とした。並べられた料理の下、卓にかけられた布は質素だったが、清潔に
洗われている。それはマリアの服も同様で、ひいては小屋全体の雰囲気に
通じるものだった。
 たいした広さのない部屋に、調度はいくらもない。暖炉兼かまどの火代、
自在鉤の鍋、粗末な卓に椅子がいくつか、水がめ、籠、作りつけの棚がひとつ。
どこも丁寧に掃除され、整頓されていた。入り口の扉とは反対方向に、洗い
ざらした布が一枚かけられている。おそらく向こうは寝室だろう。他にあるものと
いえば、天井から吊るされたおびただしい量の乾燥植物だろうか。すべて薬草で、
独特のにおいを放っているが、なかなかよく種類が揃っていた。状態も悪くない。
 神に従い、人を癒し、慎ましく毎日を送る者の家だった。
 けれど―――彼女はそこに、悪魔を招き入れたのだ。
 喉の奥にせり上がる苦々しさを誤魔化すように、アゼルは木の椀に口をつける。
今朝搾られたばかりの山羊の乳は、マリアの言ったとおり口あたりの優しいもの
だった。味だけではない。よく世話されているのだろう、宿る精気もよいものだ。
 本当に、この食事だけで自身を賄えるならば、どんなにかいいだろう。
 心底そう願うのに、目の前の娘の精気に体の奥に巣食った飢餓を思い知る。
喉が鳴りそうになるのを、食物の精気で何とかなだめていた。
 本当は、小屋に入れられた時点でさっさと終わらせるつもりだったのだ。名前を
呼んで誘惑して。性の快楽に溺れさせてしまえばそれで済む。正直なところ、
地上に長く留まりたくはなかった。
 下界に比べ、地上の風は甘い。無論天上のものとは比べようもなかったが、
それでも主の息吹を感じるものだ。本来であればアゼルにとって、地上の方が
まだ過ごしやすい。
 だが、そこに住まう人々が―――アゼルには、恐ろしかった。
 バアルなどは人間に呼び出され契約を交わす代償で魂を得ることがあったが、
アゼルがその方法を使うことはない。
 強い願いを持つものほど、彼が昔天上から愛した『人間』から乖離している
ことが多く、欲望に支配された姿は悪魔と同じほどにおぞましく―――そして、
おぞましいと感じる己を思い知る。
 主の子らを愛せない。
 その自覚は堕ちた夜の記憶と結びついて、分かちがたく彼の心を苛んだ。
 故に自ら地上に出ては、まだ親しみを感じる者を探すのだ。
 だがそれすらも―――彼に別の苦痛を与える。

 君も難儀なものだねぇ、とバアルは言った。
 とっくに堕ちているのに、七つの大罪に身を委ねきれない。聖職者や敬虔な
信者の方がまだ身近に感じられて、心情として安心し、精気を得る相手に選ぶ。
結果アゼルは自分と同じ苦しみを、相手に与えることになる。
 初めての『食事』をしたとき、下界に戻ったアゼルを、悪魔達はやんやの喝采で
迎えた。
 英雄扱いされたが、臆病で、卑怯で、罪深いだけであることを、おそらく彼らも
知っている。褒め言葉の裏には嘲笑と揶揄があった。それがわかっても―――
アゼルは他に、どうすることもできない。
 祈り、懺悔し、許されず……罪は日々重なり続け、幾重にも彼を縛りあげている。
 バアルに言われるまでもなく、祈ったとて無駄だと思うこともある。どれほどに
祈ろうと、神の声が応えたことはない。己の姿を見るたびに、許されざる現実が
否応なく目に入る。
 それでも、諦めきれなかった。
 もしかしたらと思ってしまう。かつての幸福な記憶。彼を生み育ててくれた
かけがえのない存在。今でも愛している。もう一度愛されたい。
 主よ、主よ。
 どうしたらいいのですか。
 どうすれば、私は―――
「アゼルさん」
 呼びかけに、彼ははっと顔を上げた。マリアが心配そうに彼を覗き込んでいる。
何かを問いたげにしていたが、口にしたのは
「おかわり、いかがですか?」
 という言葉だった。安心させるかのように微笑んでくる。よほど酷い顔をして
いたらしい。
「……ありがとうございます」
「いいえ。主のご加護がありますように」
 そんなものはない、と言いたかった。けれど、言えなかった。
 あの夢を映したかのような鮮やかな緑の瞳が慕わしい。今朝がた更なる罪を
重ねようとしたアゼルを押しとどめたのは、間違いなくこの瞳だった。
 もっとこの目を見ていたい。
 飢餓とは別の欲求が浮かんで、彼はしばし戸惑った。
 見逃すか。そうして、別の相手を探そうか。
 けれどそれでは、ここを出ていかなくてはならない。結局、緑の眼差しを
見つめることができなくなる。
 それに正直、マリアの精気はとても魅力的だ。
 どうしよう。どうすればいい。
 アゼルはしばらく逡巡する。
 考えて、考えて……どちらの道を選ぶにせよ、もう少しここに留まる必要が
ある、と気づいて、少しほっとする。
 まずは、マリアに近づくことだ。
 アゼルは、朝食の礼に、と薪割りと水汲みを申し出た。







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最終更新:2008年02月14日 00:37