随伴現象説

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#contents ---- **概説 随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、英:Epiphenomenalism)とは、物質的な脳と[[現象的意識]]や[[クオリア]]といった心的なものとの因果関係([[心的因果]])についての仮説で、心的なものは物質的な脳の作用に還元できないが、脳の作用に付随して生じるだけの現象にすぎず、物質的な脳に対して何の作用ももたらさない、とするものである。物理領域の[[因果的閉包性]]を前提にして主張される。 随伴現象説は[[還元主義]]的な[[物理主義]]と対立し、物質と意識は別の存在であるとする[[二元論]]の一種である。しかし同時に物理領域の[[因果的閉包性]]を認めており、従って[[現象的意識]]や[[クオリア]]の存在については、随伴現象という立場を選択する以外ないということになる。 **工場と煙の比喩 S・プリーストは随伴現象説のセオリーを「工場と煙」の例えで説明している。工場の機械類が稼動を始めると煙突からは煙が昇り、稼動を止めてしまえば煙も止まる。しかし逆に煙が出てきた事が原因となって工場の機械が動き始めたり、煙がなくなったことが原因となって機械が止まるなどということはありえない。 随伴現象説は「工場と煙」を「物質と意識」に置き換えて、同様の主張をする。つまり、 >心的なものの状態は脳の物理的な状態によって決まるが、心的なものは脳の物理的な状態に対して何の影響も及ぼさない。 これが随伴現象説の主張である。 **利点と問題点 随伴現象説は、物理世界は物理世界だけで因果的に閉じていると考える「物理領域の[[因果的閉包性]]」を前提としているため、物理学との相性が良い。随伴現象説を採用するならば、今の物理学を改変したり否定したりする必要は基本的になく、そのため自然主義的な人々からは受け入れやすい考え方となっており、[[茂木健一郎]]や[[フランク・ジャクソン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3]]などが随伴現象説の立場を取っている。 随伴現象説には[[現象判断のパラドックス]]と呼ばれる重大な難点がある。まず、クオリアなど心的なものが物理現象にたいして何の因果的影響も及ぼさないなら、物理現象にぶら下がっているだけの「因果的提灯(いんがてきちょうちん)」であると指摘される。そしてクオリアが因果的提灯であるならば、なぜ私達はクオリアについて語れているのか? という問題がある。物理的存在としての脳細胞に「赤」や「痛み」といったクオリアの情報が現実にあるわけであるが、随伴現象説によると、クオリアからこういう情報はインプットされるはずがない。にも関わらずわれわれはクオリアについて語れているのである。また進化論的に考えれば、「赤」や「痛み」を経験できない生物が、それらを経験できる神経構造をDNAに保存することは不可能であるよう思える。 ---- ・参考文献 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E8%AA%AC http://en.wikipedia.org/wiki/Epiphenomenalism ----
#contents ---- **概説 随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、英:Epiphenomenalism)とは、物質的な脳と[[現象的意識]]や[[クオリア]]といった心的なものとの因果関係([[心的因果]])についての仮説で、心的なものは物質的な脳の作用に還元できないが、脳の作用に付随して生じるだけの現象にすぎず、物質的な脳に対して何の作用ももたらさない、とするものである。物理領域の[[因果的閉包性]]を前提にして主張される。 [[T.H.ハクスリー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC]]は随伴現象説のセオリーを「警笛と機関車」の例えで説明している。機関車は警笛を鳴らすことができるが、警笛は機関車を動かすことはできない。「警笛と機関車」を「物質と意識」に置き換えればわかりやすい。 >心的なものの状態は脳の物理的な状態によって決まるが、心的なものは脳の物理的な状態に対して何の影響も及ぼさない。 これが随伴現象説の主張である。 随伴現象説は[[還元主義]]的な[[物理主義]]と対立し、物質と意識は別の存在であるとする[[二元論]]の一種である。哲学の歴史では、[[ルネ・デカルト]]の[[実体二元論]]を解消しようとした18世紀の唯物論者、[[ラ・メトリー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC]]に随伴現象説の原型がある。そして19世紀後半から生物学と神経科学の発展により、唯物論と[[知覚因果説]]が支配的になるのを受け、T.H.ハクスリーが今日的な意味での随伴現象説を主張した。 19世紀以前は神秘的とされていた「心」の問題も、神経科学の発展で科学的に説明できるとする考えが広まり、世界の出来事全ては科学によって説明され、科学の説明以外の原因によってはどんな出来事も生じないとする「物理領域の[[因果的閉包性]]」が常識となっていく。しかし物質的な性質と心的な性質はあまりに異なる。物理的な性質とは全て数量化可能なものであり、心的な性質は数量化不可能なものである。従って[[現象的意識]]や[[クオリア]]は物理的な存在ではないとするなら、随伴現象という立場を選択する以外ないということになる。19世紀末から20世紀初頭では、心的なものについて観察可能な人の行動だけを研究対象とする[[行動主義]]心理学に反対する立場として、随伴現象説は広く受け入れられていた。 **利点と問題点 随伴現象説は、物理世界は物理世界だけで因果的に閉じていると考える「物理領域の[[因果的閉包性]]」を前提としているため、物理学との相性が良い。随伴現象説を採用するならば、今の物理学を改変したり否定したりする必要は基本的にない。 しかし随伴現象説には[[現象判断のパラドックス]]と呼ばれる重大な難点がある。まず、クオリアなど心的なものが物理現象にたいして何の因果的影響も及ぼさないなら、物理現象にぶら下がっているだけの「因果的提灯(いんがてきちょうちん)」であると指摘される。そしてクオリアが因果的提灯であるならば、なぜ私達はクオリアについて語れているのか? という問題がある。物理的存在としての脳細胞に「赤」や「痛み」といったクオリアの情報が現実にあるわけであるが、随伴現象説によると、クオリアからこういう情報はインプットされるはずがない。にも関わらずわれわれはクオリアについて語れているのである。また進化論的に考えれば、「赤」や「痛み」を経験できない生物が、それらを経験できる神経構造をDNAに保存することは不可能であるよう思える。 以上の難点があるため、今日の心の哲学では「随伴現象説」という言葉はネガティブな意味しかもっていない。たとえば「……という考え方は随伴現象説が帰結するので不合理だ」という風に使われる。 現代の心の哲学者で随伴現象説を主張している者はほとんどいない。[[デイヴィッド・チャーマーズ]]は随伴現象説には好意的な見方をしているが、自身は[[中立一元論]]の立場から[[自然主義的二元論]]を主張している。[[マリーの部屋]]の思考実験で知られるフランク・ジャクソンは、以前は随伴現象説を主張していたが、後に[[表象主義]]]に転向した。茂木健一郎は1998年には随伴現象説を主張していたが、現在は不明である。 ---- ・参考文献 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E8%AA%AC http://en.wikipedia.org/wiki/Epiphenomenalism ----

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