心の哲学まとめWiki
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『反実在論の極限』(未熟な部分があるので販売停止にしました)
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このサイトについて
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2023-10-03T23:52:07+09:00
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還元・創発・汎経験説
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**概説
クオリアというものが一体どこから、どのようにして生じているのかは全くの謎である。現代の科学においても、脳の神経細胞の作用に対応して存在していることだけが事実として認められている。言い換えると脳科学が明らかにしたのは、心的現象と脳の作用に因果的な隣接関係が見出せるということのみであり、脳の作用は心的現象を生じさせる十分条件であると論証できないどころか、必要条件の一つであるとも論証できないのである。多数の哲学者や科学者たちを取材した[[スーザン・ブラックモア>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%82%A2]]は、学者たちの間では旧来の「脳が意識を生み出す」という表現から、「脳と意識は相関する」という表現に変えるのが流行しているという。
歴史的には心的現象は「魂」の作用であるとする二元論的な立場と、心的現象は物質の運動に還元されるとする原子論的な立場に分かれていた。しかしこの二つの立場はともに素朴であり、クオリアの生成を説明するものではない。仮に魂なるものの存在があったとしても、その魂がどのようにして個別のクオリアを生成しているのかと問うことが出来るし、原子論の立場に対しても同様に、原子がどのようにしてクオリアを生成しているのかと問うことが出来る。
現代の心の哲学では、クオリアがどのように生成されているのかという問題については、「還元説」「創発説」「汎経験説」という三つの主要な仮説がある。ただしそれらは、科学的[[実在論]]、つまり物質というものが[[実在]]していることを前提にして考えられているものであり、[[現象主義]]や[[観念論]]といった実在論に反対する立場では全く異なったアプローチを取ることになる。
以下は上述の実在論を前提にした三つの仮説について解説する。
**還元説
還元説、または[[還元主義]]とは、一般的にはクオリアなど心的なものは、存在論的に物質的なものに還元されるという主張である。世界の全ての事物は物理学によって説明できるとする「物理学の完全性」を前提に主張される。[[心脳同一説]]は弱い還元主義であり、意識は脳の過程であるとみなす。英語では「Mind is Brain」と、心と脳の同一性を表現する。 具体的には「痛みという心的状態は、ある特定のニューロンの発火である」というように考える。
[[消去主義的唯物論]]は強い還元主義であり、認識論的にも還元が可能であると考える。たとえば10キログラムの物体があり、それは1キログラムの部分を10個持っているとする。この場合全体は部分の総和であり、部分は全体に還元でき、また部分の性質から部分の合成物を予測することができる。心的なものはそのような還元ができないと思われているが、それは現在の科学が未熟だからであり、かつて科学的に存在が仮定されていたエーテルやフロギストン理論が消去されたように、「信念」や「欲求」といった心的なものもまた、科学が発展すれば消去可能であり、物理学の用語に還元可能であると考える。
なお[[ダニエル・デネット]]やケヴィン・オレーガンなど、最も唯物論的傾向が強い立場では、知覚やクオリアも消去可能であると考える。例えば「赤」や「痛み」といったクオリアは、体験を反省した際に見出せる一種の意味論的なものであり、実際には体験していない、とするものである。
**創発説
創発(emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が全体として現れることであり、科学と哲学の双方で用いられる重要な用語である。心の哲学においては、物質がある巨視的なレベルで特定の配置を取ったとき、すなわち脳を構築したときに初めて[[現象的意識]]や[[クオリア]]といった心的なものが創発すると考える。この創発概念を前提とした心身関係論が[[創発的唯物論>http://en.wikipedia.org/wiki/Emergent_materialism]]、または[[創発主義>http://en.wikipedia.org/wiki/Emergentism]]である。
創発説は還元主義的な唯物論に対するアンチテーゼとして主張されたものであり、意識という創発特性は物質の性質に還元できないとする。しかし[[心的因果]]を認めず、物理領域の[[因果的閉包性]]も否定しない。クオリアは脳の作用に随伴して生じるだけのものであると考える。つまり創発説は、全ての事物は物理学に還元可能だとする物理学の完全性を否定しながらも、[[物理主義]]的な[[一元論]]を擁護しようとする立場から主張される。すなわち創発とは、還元主義と[[実体二元論]]の双方を否定する概念である。
創発は、創発物の出現が事物の部分についての知識からは予測できないとされる。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いに還元できないようなシステムが構成されると考える。全体は部分の総和を越えるという考えはアリストテレスにまで遡る。この世界の大半のもの、生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を前提にしたとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は予測困難だということであり、下層には元々なかった性質が、上層に現れることがあるという考えである。
発現、または[[付随性]]は創発に近い概念であり、心的なものは物理的なものを基礎にして、その上に発現すると考える。これは、心的状態はそれに対応する神経生理学的状態に完全に依存しているというものである。この付随性を前提にした心身関係論に[[ドナルド・デイヴィッドソン]]の非還元的物理主義がある。創発主義との違いは[[心的因果]]を認める点である。
***デイヴィッド・チャーマーズによる解説
D.チャーマーズによる解説では、「創発」とは陽子や電子などの構成要素から予測できない特性が分子や細胞などの全体に現れることである。創発は弱いものと強いものの二種類に分けられる。「弱い創発」とは物理学では説明できないが化学や生物学で説明できるもの。「強い創発」とは自然科学では説明できないもの、つまり意識であり、この説明には自然科学の拡張を要する。
創発は「下方因果」の問題を含む。つまり陽子や電子など根源的な要素が集まって、それら要素から予測できなかった特性が全体から創発した場合、その創発したものが根源的な要素に因果的に作用するということである。この下方因果の問題も「強い下方因果」と「弱い下方因果」に分けられる。後者の因果作用は最終的には根源的要素に還元可能である。しかし前者の因果作用(心的因果)は還元不可能である。
最も興味深い強い下方因果の問題は、量子力学における観測問題である。二重スリットの実験では観測した場合と観測しなかった場合では粒子の振る舞いが変わることが知られている。この場合、人間の意識が粒子の振る舞いに因果的に作用した可能性があるということである。
https://consc.net/papers/emergence.pdf(チャーマーズの論文)
**汎経験説
汎経験説とは[[中立一元論]]の一種であり、[[現象的意識]]や[[クオリア]]といった心的な性質が、脳や神経細胞といったレベルの構成においてはじめて生まれるのでなく、宇宙の根本的レベル、つまりクォークやプランク長といったレベルにおいて[[原意識]]という形で存在しているとする説である。[[自然主義的二元論]]を提唱する[[デイヴィッド・チャーマーズ]]、[[量子脳理論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%84%B3%E7%90%86%E8%AB%96]]を提唱するロジャー・ペンローズやスチュワート・ハメロフらがこの立場である。
世界を構成する基本要素として心的な性質が遍く存在しているという考え方は真新しいものではなく、歴史的には[[汎心論]]と呼ばれてきた。原始宗教ともいえるアニミズムでは、生物・無機物を問ず、全てのものの中に霊魂や心的な何かが宿っていると考えられていた。近代の哲学者である[[スピノザ]]や[[ライプニッツ]]の形而上学においても、そうした世界観が提示されている。
チャーマーズらが原意識を想定する理由は、現象的意識やクオリアがどのように生成しているのかという、[[意識のハードプロブレム]]の核心問題が還元主義や創発説では説明困難だからであり、従ってクオリアなど心的性質を物理的ではない何かに還元し、それらの組み合わせによってクオリアなどの生成を説明しようとするものである。
**諸説への批判
(以下は管理者の見解)
還元主義は、クオリアなどの心的現象がどのように生じるかの説明を放棄する立場である。心的な用語と科学用語には[[説明のギャップ]]がある。還元主義では、たとえば「痛みとはニューロンCの発火である」というように心的現象を科学用語に置き換える。しかし「ニューロンCの発火」と「痛み」という言葉は論理的に結合できず、つまり両者を同一のものと論証することはできない。これが[[哲学的ゾンビ]]が思考可能である理由とされる。[[ダニエル・デネット]]は還元主義の説明は失敗しているとみなして「貪欲な還元主義([[greedy reductionism>http://en.wikipedia.org/wiki/Greedy_reductionism]])」と批判し、行動主義的な立場からクオリアの説明を試みている。また「ニューロン・グループCの発火」はプロセスを説明することが出来るが、「痛み」の出現はそのプロセスを説明できない。結局、還元主義を主張する学者の多くは、クオリアなどの心的現象は科学の研究対象とすべきではないという立場となる。
創発説は、[[性質二元論]]の一部論者から「野蛮な創発(brute emergence)」と批判される。「全体は部分の総和を越える」という主張は意味論的・認識論的には正しくても、存在論的に正しいとはいえない。つまり物理的なあらゆるものは、下層の状態から上層を予測できなくても、「全体」の質量やエネルギー量は一定であり、決して「部分の総和」を超えることはないからだ。これは現象的意識やクオリアなど心的性質にはあてはまらない。そもそも心的現象と物理的現象はカテゴリーとして論理的に異なることが前提とされているため、「物質から精神が生まれる」という主張は、決して「1プラス2は3である」というような論理的整合性を確保できない。このことを端的に指摘しているのがソウル・クリプキによる[[固定指示子]]の概念である。彼の概念を援用して創発説の主張をたとえるなら、「1に2をプラスする過程で愛情が生まれる」と言っているようなものであり、これは単純にナンセンスである。
汎経験説は意識についての原子論的還元主義である。この立場ではトースターやサーモスタットにも意識のようなものを認めざるを得ないため、[[意識に相関した脳活動]]を前提にした脳科学や神経科学からは批判があり、また[[組み合わせ問題]]や[[意識の境界問題]]がアポリアとなる。汎経験説の主張をたとえるなら、「赤4つに甘さ3つを加えると愛情になる」というようなものであり、創発説同様の単純なナンセンスである。
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・参考文献
河村次郎『自我と生命』萌書房 2007年
スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』山形浩生 森岡桜 訳 NTT出版 2009年
ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年
立木教夫「[[現代「心-脳理論」の鍵概念である「創発」をめぐる一考察>http://rc.moralogy.jp/ronbun/24%E7%AB%8B%E6%9C%A8.pdf]]」『モラロジー研究』No.24 1988/03/25
・参考サイト
創発
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
創発主義
http://en.wikipedia.org/wiki/Emergentism
汎心論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E5%BF%83%E8%AB%96
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2023-07-21T13:12:41+09:00
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言語的批判
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**概説
[[心身問題]]を解決しようとする試みは、[[物理主義]]であっても[[性質二元論]]であっても、大きな難問を抱え込むことになる。[[ウィトゲンシュタイン]]の言語的哲学の影響を受けた[[ギルバート・ライル]]などの人々は、そうなってしまうのは概念的な混乱――[[カテゴリー錯誤]]が背後にあるからだとして、心身問題を消去しようとする。
ライルによれば、心的状態を記述する言語のカテゴリーは、物理的な脳を記述する言語のカテゴリーとは異なっている。従って心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いである。脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリー錯誤、つまり推論の誤謬なのである。
ウィトゲンシュタインは「私的言語」や、意識の「私秘性」について語ることに反対している。彼にとって言葉の意味とは使用法であり、心の中にあるものではない。心的状態は公的な言語では表せない。表そうとしても、表れたものは公共的なものであって、私秘的なものではないのである。私秘的な性質は「言語ゲーム」に参加できない。このウィトゲンシュタインの思想は、意識の私秘性をブラックボックスとして扱う[[行動主義]]や[[機能主義]]に影響を与えた。
**拡張解釈
ウィトゲンシュタインの私的言語批判と言語ゲーム論を拡張解釈し、[[逆転クオリア]](逆転スペクトル)や[[哲学的ゾンビ]] などの「想像可能性論法」を、「想像不可能」だと批判する学者もいる。
たとえば[[野矢茂樹>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%9F%A2%E8%8C%82%E6%A8%B9]]は、『哲学航海日誌Ⅰ』で以下のように述べている。
>「赤」や「痛み」といった語は、そうした語を用いて為されるさまざまな実践連関と結びついてのみ、その言葉遣いの適切さが評価されるのである。
>だとすれば、逆転スペクトルの懐疑を通常の日本語で表現することは原理的に不可能なこととなるだろう。(p.60)
>実践連関上にはまったく姿を現さない異なりの可能性を表現するには、実践連関から切り離され、実践連関とは独立に意味を与えられる言語でなければならない。純粋にこの感覚を指し示すことで意味を獲得している言語、それこそがこの懐疑を表現するには必要なのである。(p.61)
もちろん、野矢のいう「純粋にこの感覚を指し示すことで意味を獲得している言語」とは「私的言語」のことである。
ウィトゲンシュタインによれば、ある対象を名づけるとは、昨日のXと今日のXを、同じXとしてまとめあげること、つまり同一性の基準を与えるということが、その対象に名前を与えるということである。他者との実践連関から切り離された私的言語は、対象に同一性の基準を与えることが出来ないゆえに、言語ではない。
そして野矢は、逆転スペクトルは「私的言語」でなければ表現できないとし、私的言語が不可能であるゆえに、逆転スペクトルの懐疑を「表現不可能」なものとして、以下のように述べる。
>私秘的言語が実はいささかも言語ではなかったということは、すなわち「私秘的対象」なるものも、実はいささかも対象ではなかったということを意味している。そこには対象が対象として成立しているために要求される同一性が決定的に欠けている。
>私秘的対象など存在しない。
>ふつうの日本語の使用がいったん中断され、前理論的にせよ、言語についてある描像が形成される。そしてその側面だけが肥大し、私的言語のような領域がその幻影を浮かび上がらせる。そうして、逆転スペクトルの懐疑をあたかも理解可能であるよう思わせてしまったのである。(pp.68-69)
[[永井均]]も野矢に近い考えであり、意識は物理特性に論理的に付随しないとする[[デイヴィッド・チャーマーズ]]による[[哲学的ゾンビ]]の思考実験を批判し、『なぜ意識は実在しないのか』で以下のように述べる。
>ゾンビは文字通りまったく不可能なのです。理由は簡単で、われわれの「意識」概念は、(中略)たとえば「意識を失う―意識を回復する」ゲームに参加できるか否かによって、客観的に規定されているし、そうであるほかはないからです。(p.79)
上の「ゲーム」とは、もちろんウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を指している。言語ゲーム論では、言葉の意味をチェスの駒の役割のように考える。言葉の意味とは、用法あるいは機能であり、意識の私秘的側面は言葉の意味に関わらないとされる。
永井は『翔太と猫のインサイトの夏休み』でも以下のように述べている。
>転んで膝を擦り剥いて泣いているる子供がいたとするね、その時子供が膝に感じている感覚を定義によって『痛み』と呼ぶんだよ。(中略)痛み以外の感覚を感じている可能性は0.001パーセントもないんだ。なぜなら、そのときその子が感じているものが定義によって『痛み』なんだから、『痛み』という言葉の意味の源泉はそこにしかないんだから
>色に関しても同じだよ。消防自動車やトマトや血のような色を、他の色から区別別して『赤』と呼ぶんだ。それが各人にどう見えてるかってことは、もともと考慮に入れられていないんだ。(中略)『赤』が『青』く見えてる人など存在しえないことになるんだよ。
>『たとえ赤が青く見えていても……』なんて仮定じたい成り立たないって話なんだから。(pp.79-80)。
ただし永井の場合は野矢と異なり、私的言語は可能であるとする立場であり、逆転クオリアや[[マリーの部屋]]の思考実験に対しては、「[[独在性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_9be9d4d1]]」の立場から「想像可能性」を批判している。
**ウィトゲンシュタインの誤用
(以下は管理者の見解)
野矢茂樹や永井均による想像可能性論法に対する批判は、ウィトゲンシュタインによる私的言語批判と言語ゲーム論の観点から行われているものであるが、これは想像可能性論法に対する無理解か、またはウィトゲンシュタイン哲学の誤読に基づいている。たとえば「赤」という場合、「赤」という言葉の機能と、「赤」という感覚(クオリア)は区別して考えなければならない。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』272節で以下のように述べている。
>私的な体験について本質的なことは、本来、各人が自分固有の標本をもっているということなのではなくて、他人も〔これ〕をもっているのか、それとも何か別のものをもっているのか、誰も知らない、ということなのである。それゆえ、一部の人間にはある赤さの感覚があり、他の一部の人間には別な赤さの感覚がある、と仮定することが――検証不可能ではあるけれども――可能なのであろう。
続く273節で、以下のように述べる。
>では、「赤」という語についてはどうか――わたくしは、この語が何か〈われわれ全てに対峙しているもの〉を表記しており、各人とも本来この語のほかに自分固有の赤さの感覚を表記するための、もう一つ別の言語をもっているはずだ、と言うべきなのか。それとも「赤」という語は何かわれわれが共通に認知しているものを表記しており、そのうえ、各人に対しては、何かその人だけが認知しているものを表記している、ということなのか。(あるいは、それは何かその人だけが認知しているものを指しているのか、といったほうがいいのかもしれない)
以上のように、ウィトゲンシュタインは他者の「赤」の感覚が異なっている「想像可能性」を認めた上で、「赤」という語の意味が個人の感覚を指しているのではない、という主張(心理主義批判)を行っている。想像不可能性までを主張しているのではない。
事実として、逆転クオリアなどは私的言語を用いずとも、言語ゲーム内で「想像可能」である。[[ネド・ブロック>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF]]が[[表象主義]]を批判するために考案した「逆転地球」の思考実験は、クオリアが言葉の機能と意味に論理的に付随しないことを論証している。
ブロックによる思考実験は以下のようなものである。
>宇宙のどこかに地球とそっくりな星――逆転地球がある。逆転地球では、われわれの住む地球と二つの点だけが違っている。一つは事物の色が逆転しており、澄んだ空や海の色が「赤」であり、血や消防車の色が「青」である。もう一つは逆転地球の人たちが使う言葉で、彼らは「赤」を「青」と呼び、「青」を「赤」と呼ぶ。
この思考実験を拡張して考えてみよう。もし時空間の異常などで、逆転地球の人々とわれわれとが、電話など「音声のみ」で通信可能になったとしたらどうだろう。
双方の地球の人々は同じ言語によって、双方の地球がそっくり同じ状態にあることを知るはずだ。同じ名の国に、同じ名の人々が住む。人々の身長体重までも同じである。そして澄んだ海の色を同じように「青い」と表現し、また同じように「赤」と呼ぶ色の信号で車を停める。そして戦争で赤い血が流れることに同じように胸を痛め、バカンスでは南洋の青い海を見たいと同じように思っていることを、互いに知り合う。
逆転地球の人々とわれわれとは、何の不自由も無く会話ができる。彼らの「赤」や「青」という言語はわれわれの言語と同じ「機能」と「意味」をもち、彼らは言語ゲームに参加している。しかし、われわれは彼らの色彩感覚が逆転しているのではないかと想像できるし、その想像は私的言語を用いずとも、言語ゲーム内で容易に可能である。
野矢と永井は、使用される語の機能と意味が同じである場合、クオリアの逆転など想像できないという。彼らの主張が間違っていることは、逆転地球の人々とわれわれが、音声通信だけでなく、映像で通信できるようになった所を想像すれば明らかである。
※参考までに、[[バーチャルリアリティーを応用した思考実験>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/41.html#id_219ee2f3]]ならば、クオリアの逆転は容易に想像可能であり、むしろ「語の意味」と「クオリア」を区別して考えない方が不自然である。
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永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫 2007年
永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店 2007年
野矢茂樹『哲学航海日誌Ⅰ』中公文庫 2010年
ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年
L.ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究』藤本隆志 訳 大修館書店 1976年
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2022-08-25T18:19:28+09:00
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カテゴリー錯誤(カテゴリー・ミステイク,英:category mistake, category error)とは、ある対象に固有の属性を、その属性を持つことのできないものに帰すという誤りである。[[ギルバート・ライル]]が著書『心の概念』(1949年)で、[[心身問題]]解決の鍵として提起したものである。
例えばケンブリッジ市のハーバードを訪れ、さまざまな学部や実験室などの各施設、そして教員や生徒を見たある人物が、最後に「それで、肝心のハーバード大学はどこなんです?」と聞くとする。その人は自分が見てきたものの他に「大学」そのものがあると思い込んでいる。しかしその人は実感していないものの、既にハーバード大学を見知っていることになる。大学という用語はそれぞれの学部や各施設、構成員を指示する言葉だからである。その人の思い込みこそがカテゴリー錯誤である。大学という言葉は学部や教員という言葉とは同じカテゴリーに属さないのである。
ライルはデカルトを批判し、[[実体二元論]]を日常言語の誤用によって生み出された幻想だとする。カテゴリー錯誤という概念は、デカルト主義的な形而上学によって生まれた心の本質についての混乱を取り除くために用いられる。心身を分離し、身体を機械的なものとみなし、その身体に魂が宿るとするデカルト的な実体二元論を、ライルは「機械の中の幽霊」のドグマと批判した。
心の働きは身体の動きと切り離せず、心身は不可分である。[[実体]]という術語で心身を定義しようとするのは、ライルにとってはカテゴリー錯誤なのである。
あらゆる論述の誤りは、ある文をそれが属していないクラスに帰属させることであるから、すべての誤りはカテゴリー錯誤であると言える。しかし哲学的な意味でのカテゴリー錯誤は、最も厳密な形態の帰属の誤り、すなわち論理的に不可能なものを是認することである。例えば「海のビジネスは黄色い」という文章は統語論的に正しいが、意味論的に間違っている。この文では「ビジネス」や「黄色い」という語の帰属先を間違えているから意味を成さないのである。
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・参考文献
ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 2008年
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2022-04-19T14:30:16+09:00
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形而上学
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/156.html
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形而上学(metaphysics)とは世界の実在や原理についての仮説である。形而上学はmeta-physicsの字義通り物理学(physics)の制約に囚われず、思弁的方法によって世界の真理を探求する。しかし物理学に反するものではなく、形而上学は物理学の知見を包括するものである。
形而上学の多くを占めるのは存在論であるが、認識論も一部含まれる。存在の認識は人の認識能力に制限されるからである。とりわけカント哲学においては存在論と認識論は一致する。カントによれば人の認識はアプリオリな形式によって制限され、現象世界はその形式に従って現れる。しかし物自体(実在)は人間理性が到達できない不可知の存在である。
カント哲学に限らず、形而上学とは認識論と存在論が重心を異にしながらも重なり合った構図となる。ただし近年の認識論は独自に発展して多くの問題領域を持ち、それら問題は個別に議論されている。形而上学にかかわる認識論はあくまで一部である。
以下に形而上学の主要問題を図解する。
#image(https://img.atwikiimg.com/www21.atwiki.jp/p_mind/pub/Image2.jpg)
上図では赤い円で表した認識論と青い円で表した存在論が重なり合い、緑の円で表した時空の哲学が存在論の円とほぼ一致し、存在論の問題全てを包括する大問題であることを表している。それぞれの破線の部分は問題が繋がっていることを表している。
実在の問題は認識論と存在論の交差点にある。「実在」と「現象」を峻別するのは哲学の基本である。人が認識できるのは意識への現れ=現象であり、意識外部に存在するもの=実在ではない。実在とは何であるかという問題は、哲学の歴史と同じだけ古く、形而上学の根本問題である。ジョージ・バークリーは意識外部の実在というものを否定し、実在するのは現象だけで意識外部の世界は存在しないという観念論を主張した。逆に意識外部に現象と同じものが存在するという主張が実在論である。
なお近年科学哲学の分野において「科学的実在論」として論じられているものは科学における理論対象の実在性を問題とするものであり、古典的な実在論論争とは歴史的断絶がある。しかし現象と実在の二分法を受け継いで、現象から実在を考えるという方法は同じであり、古典的実在論の論争と無関係なわけではない。
人は五感によって存在を認識するが、五感で認識した現象が実在と正確に対応しているか否かは論点の一つである。正確に対応しているという説は「真理対応説」と呼ばれる。カントはアンチノミーの論証によって、時空は直観の形式であり物自体に属するものではないことを証明しようとした。これは真理対応説を反駁したものである。カントの超越論的観念論とは、意識外部の実在を認めるものの、真理対応説を否定するという観念論の一種である。
実在論とは意識外部の実在と真理対応説の双方を認める立場である。
なお「クオリア」という用語は「現象」と同じ対象を指すものである。実在と対比させる場合は現象と呼ばれ、心脳問題で脳と対比させる場合はクオリアと呼ばれる。
存在論の問題に無限論(無限の物事は実在するか否かという問題)を入れることもできる。ただし無限の問題は時空の哲学そのものであるとみなすこともできる。カントのアンチノミーは無限の実在が不可能であることを前提とした論証である。
時間の哲学では静的宇宙論(永久主義)と動的宇宙論の対立がある。静的宇宙論とは相対性理論の記述様式であるミンコフスキー時空(四次元時空)を実体的なものとみなし、過去の物事も未来の物事も四次元の実体に永久的に存在するとみなす。したがって相対性理論が記述する「時間」は実在的なものとして認めるが、「変化」は実在しないとする。逆に動的宇宙論ではミンコフスキー時空を単なる記述の道具とし、時間と変化の双方の実在を認める。近年の分析形而上学では静的宇宙論を支持する論者が多い。これは相対性理論が静的宇宙論と親和的だからであり、かつ静的宇宙論はアンチノミーの問題を回避しているからである。
仮に静的宇宙論が正しければ因果関係は実在的ではないということになる。因果とは、何かを原因として結果としての何かが「生じる」という変化の実在を含意した概念だからだ。
仮に因果関係が実在的でないならば、それは心脳問題にも大きな影響を及ぼすことになる。心脳問題の課題はクオリアの位置づけである。多くの論者は特定のクオリアは特定の脳の物理状態と同一だとみなしているのだが、それでは物的なものと異なる観測のされ方をする心的なクオリアがなぜ存在しているかわからない。しかしクオリアが物的なものと異なる存在だとすると、心的なものがどのように物的なものに因果的に作用しているかがわからなくなる。これが心的因果の問題である。しかし因果関係が実在的でないとすると心的因果の問題そのものを根本的に見直す必要がある。
そして心脳問題は実在の問題ともかかわる。心脳問題を心的なクオリアと物的な脳との関係だと考えるのは正確ではない。「物的な脳」というのも実は視覚や触覚で知覚されたもの、つまり心に現れたクオリアなのだから、心脳問題の実質は、心的なクオリアと「物的な脳の実在」との関係なのである。したがって「現象の脳」と「実在の脳」の関係も考えなければならない。
独在性の問題とは、なぜこの私から比類のない唯一のこの世界が開闢されているのかという問題である。この場合の「世界」とは実在世界のことではなく現象世界のことである。独在性とはその世界の唯一性のことである。もちろん他の人々も固有の世界を開闢しているだろう。しかし私の世界は唯一である。その唯一性は現象世界の内容には関係がない。なぜなら他の人々も同じ内容を持てるからである。ウィトゲンシュタインはその唯一の世界をミクロコスモスと呼んでいる(『論理哲学論考』)。永井均はそのミクロコスモスを〈私〉と表記する。
人格の同一性問題とは、その〈私〉の持続の問題である。還元主義では〈私〉というような物的でも心的でもない主体を否定するので、「今この私」は一個の瞬間的なクオリアだということになる。逆に〈私〉のような非還元主義的主体を認めるならば、主体内部のクオリアは生成消滅するが、主体は時間を通じて存在し続けると考えることができる。
なお「死」は形而上学の重要問題であるが、これは時間の存在論と人格の同一性問題の枠内にある。人格の同一性における還元主義が正しいならば、前述のように通時的同一性を維持する主体が否定されるので、「今この私」は瞬間的な存在者になる。つまり還元主義ではクオリアが変化するごとに新たな「私」が生じ、以前の「私」は死ぬとみなす。しかし時間の存在論における静的宇宙論が正しいならば、各時点の「私」は永久に存在することになる。ただその場合でも静的宇宙論では「2秒前の私」や「3秒後の私」は「今この私」と対等に存在するとみなすので、「今この私」は時間的幅がほとんどない瞬間的な存在者になる。逆に人格の同一性問題における非還元主義が正しく、かつ時間の存在論における動的宇宙論が正しいならば、生まれてから死ぬまで通時的に同一の「私」が存在し続けると考えることができる。
心の哲学の問題領域は幅広く、心脳問題やクオリアの存在論だけでなく、人格の同一性や自由意志の問題も含まれる。そして独在性の問題ともかかわっている。心の哲学とは「心」を研究するものであるが、「心」に対置される「物」は物理学によって研究され解明が進んでいる。物理学が研究対象としない「心」は哲学における最重要の研究対象である。
運命論(決定論)は排中律に基づく論理的問題とされることもあるが、時間の哲学の枠内に入れることもできる。静的宇宙論が正しければ未来の物事も既に存在しているので、運命論も正しいということになるからだ。自由意志の問題は運命論と不可分である。
可能世界の問題とは、この宇宙と異なる別の宇宙が存在するか否かというものである。これは物理学で言う多元宇宙論ともかかわる。物理学者のマックス・テグマークや哲学者のデイヴィド・ルイスは数学的・論理的に可能な世界は全て実在すると考える。しかしこのような論者は極めて少数派であり、多くの論者は可能世界の実在性を棚上げし、単に思考の検証装置として用いている。たとえば私の身長が5センチ高い世界は存在可能と思われる。では人々がクオリアを有さない哲学的ゾンビの世界は存在可能だろうか? このような思考の検証装置としての可能世界は存在論の多くの分野で用いられており、言語哲学でも用いられている。
なお時空の存在論は物理学と哲学の学際領域である。静的宇宙論と動的宇宙論の対立は相対性理論の解釈を巡る対立でもある。なお物理学者でも静的宇宙論や動的宇宙論という形而上学を主張している者は多いが、彼らの主張は相対性理論の解釈を巡るものであり、カントのアンチノミーに言及する者は少ない。哲学では相対性理論とアンチノミーの双方を考慮して時空を論じなければならない。
科学は存在論の多くに関わるが、全てではない。前述のように科学は「心」を研究対象としない。しかし哲学の方法論には自然主義というものがある。この方法論は論者によってかなり定義が異なるが、自然主義のミニマルな条件は、自然科学に反した主張はしないというものである。
そのミニマルな条件を自然主義の定義とした場合は、クオリアは物質と異なるという二元論の主張も自然主義に反しない。「自然科学に反した主張」と「自然科学にない主張」は全く異なるからである。極端なたとえだが、魂は存在すると主張しても、その魂が未知の物理法則によって存在していると前提するならば依然として自然主義的である。
上のミニマルな自然主義とは逆に、ラディカルな自然主義では存在論を物理学と一致させるので、物理主義や唯物論と呼ばれる。唯物論は二元論を否定し、心脳問題は脳科学によって解決されるとみなす。独在性の問題は問題自体を否定することになる。
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2021-02-01T14:40:53+09:00
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意識の統一性
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/155.html
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**概説
人間には五感がある。しかし同時に複数の感覚があった場合、それらは独立して存在しているのでなく統一された意識の内部にある。たとえば繁華街を歩いていると様々なものが見え、同時に様々な音が聞こえ、同時に様々な匂いがある。それらの感覚は統一的な意識の内部にあり、意識は全一的なものとして存在している。これが意識の統一性である。
ジョン・サールは次のように論じている。
>いま私は、指先の感覚や首まわりのシャツの圧迫感、落葉の風景だけを経験しているわけではない。これらすべてを単一の統合された意識野の一部として経験している。病理的なところのない通常の意識は、統合された構造とともにある。カントはこの意識野の統合を「統覚の超越論的統一」と呼び、そこから多くのことを引き出した。そして彼は正しかった。これから見ていくように、それは非常に重要なことだからである。
>私はかつて、質的であること、主観性、統合性という三つの特徴は、意識の個別の性質として説明できると考えていた。しかしいまやそう考えるのはまちがいであるよう思える。この三つはいずれも同一の意識の諸側面なのだ。意識はまさにその本性からして質的であり、主観的、統合的である。(ジョン・サール『MiND 心の哲学』pp.181-2)
このサールの洞察は正鵠を得たものだと思える。意識とは一つのものとして統一され、それこそが「私」であると考えてよいだろう。そして、その「私」が人格の同一性問題における主体となるはずである。
**人格の同一性問題との関連
デレク・パーフィットは論文「divided minds and the nature of persons」で、人格の同一性問題にかんして単一理論(Ego Theory)を強く否定している。単一理論は通時的に人格の数的同一性を成立させる単一の実体(デカルト的なエゴ)を想定する。この理論によれば未来の或る人物は「私」であるか「私」でないかのいずれかだということになる。これを全か無(all or nothing)の要件と呼ぶ。これは素朴心理学的な理論である。
単一理論と反対の立場が複合理論(Bundle Theory)である。これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解できると考えた。パーフィットはヒュームの考えを継承しているのである。彼らによれば「私」とは「国家」のようなものであり、エゴという単一の実体ではなく複数の意識要素の集合だということになるので、全か無の要件は否定される。
意識の統一性の観点からすると、パーフィットとヒュームの理論は誤謬であると思える。個別の感覚は単に束のように集まっているだけでなく、サールが言うように一つの意識内にあり、私秘性を持ち、一つの主観的なものとして存在しているからだ。
ただし複合理論でも意識の統一性が説明できないわけでもない。意識はその内部に多様な感覚を含む場合があるが、パーフィットは「多様な感覚を意識する」という一つのものがあれば意識の統一性は説明できると考えている。たとえば鐘が三回鳴った場合、個別の鐘の音は異なる感覚だが、「鐘が三回鳴った」という一つの記憶があれば、その一つの記憶こそが人が感じている意識の統一性の実態だということである(Reasons and Persons, pp.250-1)。
しかしその「多様な感覚を意識する」というもの、あるいは「一つの記憶」が、まさに人格の数的同一性を問われる対象となる「私」であると考えることができ、全か無の要件が成立するので、パーフィットの説明には不足があるように思える。
**意識の時間的統一の問題
意識の統一性の観点からすると単一理論は妥当だと思える。ただしこの場合の単一のものは必ずしもデカルト的なエゴである必要はなく、全か無の要件を成立させる単一の意識であれば十分である。すると、そこから意識というものは単に同時的な感覚が統一されたものではなく、時間的に乖離した感覚も統一されたものであると考えたくなる。仮に時間的な統一性がないとすると、「私」は意識内容(クオリア)が少しでも変化したら消滅してしまうからだ。
ところが時間的に乖離した感覚の統合には、大きな困難が伴うことになる。時間とは意識を「断絶」するものであるからだ。
意識には持続感がある。ベルクソンはメロディーを例に挙げ意識の持続的性質を論じている。確かにメロディーの個別の音がそれぞれ独立した感覚ならば、人はそれぞれの音が繊細に融合した(たとえばショパンのエチュード 10-3のような)メロディーを感じることはできないはずであり、持続が意識の本質的性格であるとみなしたベルクソンは正しいように思える。そして意識の統一性とは同時的な感覚の統一だけでなく時間的に離れた感覚の統一のことでもあり、人が感じる持続感とは単一意識の持続に由来すると思いたくなる。
しかし時間変化とは意識を断絶するものであることは事実である。たとえば私が交差点で「青→黄→赤」という信号変化を観察した場合、赤になった時点で青は完全に消えている。赤と青には完全な断絶があるので、その断絶によって意識の時間的統一性は成立しないと考えられる。赤になった時点で青が完全に消えているということは、赤と青が同一の存在者であることはできないということである。
意識の時間的統一の問題=人格の同一性問題において、単一理論と複合理論を図にすれば以下のようになる。
#image(https://img.atwikiimg.com/www21.atwiki.jp/p_mind/pub/M_T_U.jpg)
上図の単一理論の方では意識が持続的なものとして繋がり、時間を通じて数的に同一であることを表している。逆に複合理論の方ではヒュームやパーフィットが考えた通り、異なるクオリアは別の存在者だとして表している。
なお「変化」と書いている部分は、実際にクオリアが変化しているということではなく、「変化を感じている」というクオリアがあることを表している。たとえば「痛みが消えた」という変化の感覚があることと、実際に痛みが消えることは全く別のことである。前者の事実から後者が事実だと推論することは動的宇宙論という一種の形而上学になる。
人は自分の意識を持続的なものとして感じているので、一見単一理論の方が正しいように思える。しかし単一理論の図でも、赤の時点になれば青は完全に存在していないので、青と赤の間には断絶があることになる。断絶があるならば意識は時間を通じて単一であると考えることはできない。青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということである。
もちろんパーフィットが否定した単一の実体であるデカルト的エゴを認めるならば、それは身体からも精神からも離存するものなので、意識の断続にかかわりなく持続していると想定することはできる。
しかし時間の形而上学で静的宇宙論が妥当だとすると、各時点のエゴは永久的に、かつ対等に存在していることになるので、やはり青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということになる。
現在の物理学では宇宙を三次元の空間に時間を加えた四次元として扱っている。四次元時空は相対論を記述するための道具としかみなさない学者もいるが、四次元時空こそが実体であるみなす学者もいる。前者の世界観は変化の実在を肯定するので動的宇宙論と呼ばれ、後者の世界観は変化の実在を否定するので静的宇宙論と呼ばれる。静的宇宙論が実体とみなす四次元時空はブロック宇宙とも呼ばれる。時間は空間と融合して空間が消えないように時間も消えず、宇宙はコンクリートブロックのような塊として永久的に存在するとみなしているのである。
時間の形而上学と人格の同一性問題の組み合わせには以下の四つが考えられる。
>①: 動的宇宙論+単一理論
>②: 動的宇宙論+複合理論
>③: 静的宇宙論+単一理論
>④: 静的宇宙論+複合理論
ここでは時間の形而上学について詳述しないが、①を前提するならデカルトが信じた通り身体からも精神からも離存するエゴの存在によって、全人生を通じて同一の「私」が持続していると素朴心理学的に考えればよいことになる(「私」の死後にもそのエゴは存在するかという問題であるが、ここでは論じない)
人格の同一性が厄介な問題となるのは、②、③、④の三つのケースである。以降ではその三つのケースを前提に人格の同一性を論じることにする。
私は自らの意識を持続的なものとして感じているので、交差点で青を見る私が、次に黄や赤を見る私と数的同一性がない、つまり別人であるというのは信じ難いことである。
ここで「青が黄になり黄が赤になる」というものが単一のクオリアなのだと考える方法があるだろう。それならば静的宇宙論を前提にしても時間を通じた意識の数的同一性を説明できるように思える。だがよく考えるとこの考えにも欠点がある。赤の時点になればやはり青は完全に存在していないので、赤と青の間に断絶を認めるしかない。赤と青は単一のクオリアとして存在することはできないのだ。
ベルクソンの持続の哲学においては、現前する意識には過去の意識が浸透しているので完全な断絶はないと考えることもできる。これは魅力的な哲学であるが、過去の意識が現在に浸透するということを人は具体的にイメージすることはできない。潜在意識や無意識というものを想定することはできるが、それらによって上図で明らかにされた青と赤との断絶を回避できるだろうか? この断絶はあまりにも明白なので難しいように思える。ベルクソンの持続の哲学は未完成である。
複合理論では図解したように、青や、青が黄になるという変化の感覚や、赤をそれぞれ独立したクオリアとして考える。この考えでは「今この私」が仮に青のクオリアだとするならば、その他のクオリアは「他人」になる。これは反直観的な結論であるが、反直観的であることは不可能であることにはならない。私が感じている意識の持続感というのも特定の時点にある一つの独立したクオリアだと説明できるだろう。したがって複合理論は可能な理論であり、意識の時間的統一の問題において致命的な欠点がないのである。
要するに意識の統一性問題において、単一理論VS複合理論という枠組みで考えるなば、意識は確かに同時的感覚を統一しており単一理論が正しいように思えるのだが、意識は時間的に離れた感覚を統一できないので、時間的統一性の問題では複合理論が正しいように思えるのだ。即ち人格の同一性問題においては、現在の「私」から時間的に離れたクオリアは「他人」だと考えるのが妥当に思えるのである。
人は僅か1秒の間にも青→黄→赤という色の変化を認識することができるだろう。異なるクオリアは異なる存在者だとすると「今この私」は僅か1秒未満の存在だということになる。
私はそのような理論がどうしても信じ難い。
人の意識が脳の活動と相関していることは明らかである。その人の意識をripples of light in brain(脳内の光の波紋)と表現した人がいる。これは神経細胞の連続的・協働的な発火活動を上手くたとえたものだが、波紋とは空間的広がりを持つだけでなく時間的広がりを持つということが重要だ。人間の意識とは四次元時空に広がる複雑な光の波紋なのである。ところが波紋とは時間的に持続する滑らかな広がりなのに、複合理論によれば人の意識は僅か1秒弱で完全な断絶が生じることになる。ここに不整合があるように思える。
ただ個別のクオリアたちには数的同一性がなく全て異なる存在者だとし、それらクオリアが持続的な脳の活動と相関して断続(コンマ数秒間隔)的に存在すると考えることに厳密な不整合があるか否かは難しい問題である。これは心脳問題の難しさそのものでもあるからだ。おそらく二元論の立場ならば不整合はないだろう。
少なくとも脳内の光の波紋は純粋に持続的なものなのに、それと相関しているクオリアたちは完全に断絶してると言うならば、二つの事柄には認識上の大きなギャップがあると言うことができる。
そのギャップは以下のような図で表現できる。
#image(https://img.atwikiimg.com/www21.atwiki.jp/p_mind/pub/Brain%20wave.jpg)
脳波(あるいは神経細胞の複雑な光の波紋)は滑らかに持続し、人が感じる意識の持続感と一致している。しかし複合理論が正しければ脳の活動と相関する意識には瞬間ごとの完全な断絶がる。仮に青が「今この私」なら別の時点に存在する黄や赤には青の要素が全くないので「他人」である。脳の持続的な活動と意識の瞬間ごとの断絶に不自然なギャップがあるのは明らかだと思える。
先に論じたように静的宇宙論+単一理論には問題がある。しかし複合理論にも問題があるのだ。確かに複合理論は論理的にも形而上学的にも物理学的にも可能であり、それらの観点からは問題がない。しかしあまりに反直観すぎて信じられないので、問題がないということが問題なのだ。
あるいはどちらの理論も間違っているのかもしれない。しかし単一理論でも複合理論でもない別の理論があり得るのだろうか?
意識の時間的統一性問題の図を見直してみよう。意識の滑らかな持続を表している単一理論の図は直観的に正しいように思われるが、実際の意識経験は図のようにはなっていない。図では過去と現在の経験を一挙に表しているが、人はあくまで現在しか経験できない。図は過去の経験を想起によって再構成し、現在経験に加えたものだ。
人の意識の正体は図のようになっていないのかもしれない。
ベルクソンが観たように意識と時間は不可分である。しかし時間の正体はわからない。私は図で意識を空間的に描いたが、静的宇宙論が妥当なら実体的な四次元時空は空間的なものではない。
人は空間と時間が融合した四次元のブロック宇宙というものをイメージすることはできないのだ。人が認識できるのは空間的な三次元の対象と、それが変化することによって認識できる時間だけである。空間と時間が融合した永久的なブロック宇宙とは人の認識の枠組を超えた存在であり、イメージ不可能である。カントが言う通り人の認識はアプリオリな形式によって制限されている。その形式は「超越論的」なものである。ブロック宇宙とは「超越的」なものかも知れないということである。
ここで重要なのは、人の意識もまたブロック宇宙に含まれていることである。時空の正体がわからないならば意識の正体もわからない。人は自分の意識の正体をイメージすることも語ることもできないということになる。
だが「意識の正体がわからない」という言葉の意味がわからない人は多いだろう。一般に人は自分の意識ほど確実に理解できるものはないと信じているからだ。
経験主義という哲学は自分が経験できないものの確実性を否定する方法である。一見合理的なこの方法が、やがて原理的に経験不可能な物質的実在を否定する観念論へと到達したのは必然的だった。しかし経験主義者たちが見落としたのは「経験」そのものの確実性だった。
人は物事を合理的に考えて判断するが、感覚は判断とともに現れてしまうので、感覚による判断は合理的判断ではない。痛みは「痛い」という判断そのものなのであり、人は感覚それ自体を合理的思考で分析することができない。感覚は合理性の外部にある。カントも感覚の形式を抽出するに留まった。
静的宇宙論が正しければ意識そのものも合理性の外部にあるということになる。
私には、「今この私」を僅か1秒未満の存在だとみなす複合理論が信じ難い。しかし単一理論は不可能に思える。この解決不可能に思えるジレンマは、意識の正体を理解していないことに由来するのかもしれない。人間知性が到達し得ない時空の正体にこそ意識の真理はあり、その真理のみがジレンマを解決できるのかもしれない。
・参考文献
ジョン・サール 著 山本貴光・吉川浩満 訳(2006)『MiND 心の哲学』朝日出版社
Derek Parfit(1986), 'Reasons and Persons', OXFORD UNIVERSITY PRESS
Derek Parfit(1987), 'divided minds and the nature of persons'
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2020-11-30T17:06:37+09:00
1606723597
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時間の哲学の未解決問題
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/154.html
#contents
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本論は森田邦久編著『〈現在〉という謎―時間の空間化批判』と、それに関連した谷村省吾氏の補足ノート『一物理学者が観た哲学』を批判的に検証することによって時間の哲学の未解決問題が何であるかを析出しようとする試みである。
[[時間の哲学の未解決問題 第2版 pdf>https://img.atwikiimg.com/www21.atwiki.jp/p_mind/attach/149/3/%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%9C%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E5%95%8F%E9%A1%8C2.pdf]]
[[Google Booksにもpdfを置いてます>https://books.google.co.jp/books/about?id=z6HBDwAAQBAJ&redir_esc=y]]が、Google Booksの仕様でハイパーリンクが無効になっています。ハイパーリンクを利用されたい方は上のpdfをご利用ください。
2019年12月5日公開
2019年12月20日第2版公開(第6章を谷村氏への反論として加筆)
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2019-12-22T12:49:48+09:00
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