放課後、帰り支度をしていた穂村厚志のところへ、担任の荒川秀男がやってきて言った。
「明日の遠足のバスの席な、穂村の隣に久住小春が座る事になったから」
一週間前、遠足のバスの座席を決めたとき、暗く、無口な性格の穂村厚志は「余り者」だった。
荒川が言う。
「久住の撮影のスケジュールが変わってな。急遽、遠足に参加することになったんだ。
それでな、穂村に久住の分の遠足のしおり等々、渡しておくから、明日バスの中で……」
穂村はその晩、眠りに就けずにいた。
穂村は別段、久住に恋焦がれている訳では無かったが、
他の男子生徒がそうであるように、久住の美しさに魅力を感じていることは確かだった。
人とコミュニケーションを取ること自体が苦手な穂村は、
ほとんど話をした事の無い久住と、上手くやれる自信が無かった。
万が一、久住が気を使って話し掛けてくれたとしても、
不器用に会話を終わらせて、気まずい空気を作り出す自分が、簡単に想像できた。
そんな事を、一々考えていると目は益々冴え、気が付くと鳥がさえずり、祖母が起き出してバタバタと歩き回る音が聞こえた。
穂村は幼い頃、母親を亡くしている。
祖母は母親代わりとして、身の回りの世話をしてくれていた。
今朝もはりきって、遠足のお弁当をこしらえてくれている。
穂村は眠るのを諦め、(おはようの挨拶だけは、自分から久住にきちんとしよう)と心に決め、
何度か「おはよう」と声に出して練習してみた。
すると、いきなり襖が開いて、祖母が顔を出し「はい、おはよう……楽しみで、眠むれなかったんだろ?」と優しげに笑った。
その朝、集合時間に少し遅れて現われた久住は、バスに乗り込むと、担任の荒川に促がされて穂村の横に座った。
「ぎりぎり間に合った」息を切らしながら久住がつぶやく。
穂村は緊張のあまり、声を掛けることも、久住の方を見る事さえも出来ずにいた。
沈黙。
「穂村君……穂村君」久住の呼びかけに穂村は一瞬、気付かなかった。
「ハッ!……えっ?な、何?」
「窓側の座席と、代わってもらってもいい?私さあ、バス、酔うんだ」
「ああ……い、いいけど」
狭い座席の間で身体を入れ替える時、久住の髪の毛が穂村の鼻先を触り、甘いリンスの香りがした。
暫くするとバスの中で、お菓子の交換会が始まった。
穂村はこういう時間が苦手だったので、寝たふりをしていた。
「穂村君……穂村君」久住が話しかける。
「何?」穂村はわざと気の無い素振りで言った。
「よかったら、食べない?」久住が【種抜き梅干】と書かれた袋を差し出す。
穂村はそれを受け取り「それじゃあ、俺もお返しに……」と言い、リュックを網棚から下し、
昨晩、祖母が詰めて置いてくれた、お菓子袋を開け、愕然とした。
らくがん、甘納豆、すあま、芋けんぴ、鈴カステラ、丸ぼうろ、黒棒、袋の中は見事に老人向けのお菓子ばかりであった。
「おばあちゃんが、詰めてくれたんだ……」穂村がそう言い訳をして苦笑いをした。
久住は「ちょっと、いい?」と言って穂村からお菓子の袋を取り上げると、中を物色した。
すると久住は大げさにがっかりした芝居をして、
「シベリアと甘食が入って無いじゃん!おばあちゃん、何やってんの?」
と独特の甲高い声で言って穂村の方を見ると、悪戯っぽく微笑んだ。
穂村も、笑って「万が一、食べたい物があれば……」と言った。
久住はすあまを選んだ。
後ろの座席から、賑やかな笑い声が聞こえる。どうやらゲーム大会になって盛り上がってるようだ。
久住が穂村の方を見て言う。
「うちらもクイズでもやろうよ?」
「ああ、いいけど……」
「じゃあ、小春から出すよ。えーと、何にしようかな……あ!そうだ!ちょっと、これ持ってってくれる?」
そう言って、久住は歯形の付いたすあまを穂村に持たせて、両手で握りこぶしを作り、自分のまぶたに強く押し当てた。
「ジャジャーン!問題です。今、小春のまぶたの裏にはどのような模様が点滅しているでしょうか?」
戸惑う穂村。
「い、いや……それは……分らないけど……」
久住のカウントダウンが始まる。「10、9、8、7・・・」
仕方なく答える穂村。
「何か、市松模様みたいなやつ?」
まぶたから拳を外して、驚いた様子で久住が言った。
「ピンポン!何で分ったの?」
穂村が言う。
「別のゲームにしない?」
「いいよ。じゃあねぇ、朝ご飯、何を食べてきたか当てるゲームをやろう!」
「ああ、いいよ」
「じゃあ、穂村君から、小春の顔にハァ~ってやって」
「えぇっ!口臭を嗅いで当てるの?……嫌だよ」
「じゃあ、小春がハァ~ってするから、何を食べて来たか当ててよ」
「え?」
「いくよ、ハァ~」久住は穂村の鼻先に息を吹きかける。
穂村は顔が触れそうになる程、近づく久住にドギマギして、後ずさる。
「な~んだ?」久住は期待で爛々と輝く表情を、穂村に向け答えを待つ。
穂村は打ち解けるごとに、テンションが上がって行く久住に圧倒された。
しかし、クラスと言う集団の中で、誰かと話しながら過ごす事が、こんなにも楽しく、心が安らぐものだと知り、嬉しかった。
穂村はその後も、久住に食べかけのすあまを持たされたまま、様々なオリジナルクイズに翻弄された。
やがて、遠足のバスは最初の目的地である、自然公園に到着し昼食となる。
皆、気の合う仲間と緑の上にシートを広げ、お弁当を食べ始める。
穂村は一人でベンチに座り、祖母の作ってくれた握り飯を食べていた。
いつもの事なので、別に淋しいとも思わなかったが、久住の事が気に掛かり目で探した。
久住は女子のグループの真ん中で談笑しながら、お弁当の太巻きを食べていた。
ちょうどその時、久住の視線が流れて穂村と目が合った。
すると久住は手にしていた太巻きを受話器に見立てて、耳にあてがい穂村に喋りかけた。
久住の甲高い声は周囲の注目を集めた。
「もしも~し。穂村く~ん。お弁当美味しいですかぁ?あれぇ?出ないなあ~。もしも~し!」
穂村は赤面し、(こりゃ、出るまでやられるな)と思い、弁当を抱えてバスの中に逃げていった。
穂村が弁当を食べ終わり、一人でバスの中に座っていると、水嶋研二が入って来た。
久住と同じくタレント活動をしている水嶋は、クラスのリーダー的存在でもある。
「穂村ってさぁ、口が聞けたんだ?」
「……え?」
「普段一言も口聞かないくせに、ベラベラ喋ってたじゃん、小春と」
「……そう?」
「お前さぁ、調子に乗るなよ。みっともないぜ、モテナイ男の勘違いは。
キモかったぁ、さっき。顔を赤くしてバスに走って行った時。ゾッとしたわ」
押し黙る、穂村。
「今、小春と話したんだけど、あいつ、俺達の方に座る事になったから。
お前も来たっていいけど、業界の話がほとんどだから、着いて来れないだろ?
あんま、穂村に背伸びさせて、カッコ悪い思いさせてもアレだから……そこ、座ってろ。 なっ。」
ニヤニヤ笑いながら水嶋は立ち去った。
穂村は自分の胸の奥が騒いでいるのが分ったので、わざと(悔しくない。これは、当然の事だ)と思い込むようにした。
久住と自分では人種が違いすぎるし、釣り合いも取れない。
久住は、水嶋のようなヤツとクラスの中心に居た方が自然だと。
確かに先程までの久住との会話は最高に楽しかったが、遠足のいい思い出が出来たと、自分の中で折り合いを着け、心を閉じた。
昼食の時間が終わり、生徒達がバスに戻ってくる。その中に久住の姿を見つけると、水嶋が後ろの座席から声を掛けた。
「小春!こっちに座れよ!」
久住は手を振り、穂村の座席の横をすり抜け後部座席へと行く。
穂村は窓側の座席に移り、窓の外を見た。
先程、自分が弁当を食べていたベンチが見え、久住が太巻きを受話器代わりに、話しかけてきた場所も見えた。
穂村は一つ深呼吸をして、リュックから文庫本を取り出し、視線を落とした。
担任が点呼を取る。
やがて、バスのエンジンが掛かる。
文庫本をめくる手は、動いていない。
すると、ふわりと甘いリンスの香りがした。
(まさか)穂村が振り向くと、久住が立っていた。
「ジャジャーン……窓側の席。いい?」
席に戻ると久住はまた、落ち着き無く喋り出す。
まぁ、そのうるさい事。うるさい事。
「ピザって千回言ってみて」
「嫌だよ」
「古今東西ゲーム!ケンカっぱやい女剣劇師!」
「一人しかいないね。それ」
「穂村君、見て見て!バスの外!今のホームレスの人、カラコン入れてたよ。小春も入れた~い」
「白内障だよ。あの人、そんなモノ入れる余裕が有るんなら、前歯を入れるだろう」
甲高い声。近い顔。爛々と無意味に輝く目。久住は脈絡無く喋りまくる。
穂村はそれが、嬉しくて仕方なかった。
事件は、バスが国道の山岳トンネルに入った時に起こった。
トンネルのほぼ中央付近で、バスがエンストを起こしてしまう。
車内の灯りも消え、生徒達から不安の声が上がる。
バスの運転手はエンジンルームを見てきますと言って外に出た。
すると、開け放たれたドアから、凄まじい冷気が流れ込み車内を冷やした。
「寒い」と発する生徒達の息が白い。
そのトンネルの中には、ただならぬ気配が立ち込めていた。
それは、霊感など無い人間でさえも、感じるほどの濃厚な“何か”だった。
耳鳴りや、悪寒、頭痛を訴える者も出てきて、車内に恐怖が蔓延する。
どんよりとした思念が、生徒達の身体にまとわりつく。
担任の荒川が「後続車に追突されると危険だからバスを降りて歩こう」と言ったが、みんな背中がベットリと重く、動けずに居た。
車内の空気は恐ろしく淀み、窓や床はヌルリと滑った。
穂村も恐くなり、胸のポケットに入れてある母親の形見のお守りを握り締め、隣の久住を見た。
すると、久住は空(くう)を見つめ微動だにせず、先程まで多動性の子供の様に騒いでいた人物とは別人の様であった。
「久住……さん、大丈夫?」穂村が声を掛けるが、応答は無い。
よく見ると久住の唇が僅かに動き、何事か、小声で呟いているのが分った。
「立ち去れ。さもなくば、我が身にとり憑け」
穂村はギョっとして言った。「久住さん。何を言ってるの……」
久住は、前を見据えたままで言った。冷静で低く、静かな声だった。
「穂村君。運転席に行って、クラクションを鳴らし続けて。後続車に、このバスの存在を知らせなきゃ」
穂村は「わかった」と答え運転席に向かう。
その背中に久住が声を掛ける。
「穂村君。そのお守りから手を離さないで。皆の様に、動けなくなる」
穂村は、お守りを握る手に力を込めてクラクションを押した。
久住は自身の幽体を離脱させてバスの周りを浮遊していた。
トンネルの中は、数え切れないほどの霊がうごめいていたが、霊格の違う久住には近づけづにいた。
久住は気絶している運転手の身体に一瞬入り、目を覚まさせ、エンジンルームで悪戯をしている浮遊霊達を追い払った。
数分後バスはトンネルを抜け、その場から一目散に、逃げ去った。
生徒達は徐々に冷静さを取り戻したが、水嶋研二だけは違った。
汗をびっしょりと掻き、自身の指を血が出るほど噛み、目は正気を失っていた。
バスは、高速に入ると最初のパーキングエリアで休憩を取った。
水嶋が憑依されている事は明らかだったので、久住は皆がバスを降りたのを見計らって除霊を行った。
水嶋はようやく落ち着き、静かに寝息を立てた。
久住はバスを降りて深呼吸すると、穂村が心配そうに駆け寄って来て尋ねる。
「水嶋は大丈夫?」
「うん、もう大丈夫」
「久住さんは?」
「小春はへっちゃらだよ」
穂村が久住をまじまじと見つめて言った。
「久住さんって……不思議な力があるんだね」
久住はあっさりと「そうだよ」と答える。
穂村が尋ねる。「あの時、どうして俺だけ動けたの?」
「穂村君のお母さんが、守ってくれていたから……」
「……そうか。やっぱり」
久住が穂村の手を取り、近くに停めてあった黒いワゴン車の前まで連れて行く。
黒光りする車体に、久住と穂村が映った。
「目をつぶって」久住に言われるがまま、穂村は目を閉じる。
穂村の瞼に、久住が軽く手を触れて言う。「目を開けて」
穂村が目を開けると、先程まで久住と自分しか映っていなかった車体にもう一人女性が映っていた。
それは、まぎれも無く穂村が幼い頃に死に別れた母親だった。
穂村は思わず声を上げる「お母さん!」
母親は優しく微笑むと、穂村の身体に重なり消えていった。
穂村の中に暖かなものが通り過ぎて行った。
二人がバスに戻ると、水嶋が目を覚まして皆に囲まれていた。
久住が水嶋に声をかける。
「どう?水嶋君。大丈夫?」
水嶋が久住の方を見て、まるで子供の様に泣きじゃくりながら言った。
「ねぇ、お姉ちゃん。ここは、どこなの? 僕のママは?」
久住は穂村の方を見て、照れくさそうにニヤニヤと、笑いながら言った。
「ヤバッ!水嶋君の方を追い出しちゃった」
揺れるバスの中で、皆に気付かれないように除霊をやり直した久住は、相当に消耗していた。
バスが学校に着く頃には久住の顔は蒼くなり、座席にうずくまっていた。
穂村が心配して「大丈夫?」と声をかける。
久住は、真っ青になった顔を上げ
「このゲロ、全部、穂村君が吐いたって事にしてくれない?お願い!」
そう言って、たわわに膨らんだコンビニ袋を穂村に手渡した。
おわり