栗林写真工業・ペトリカメラの歴史

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栗林写真工業・ペトリカメラの歴史」を以下のとおり復元します。
|西暦|栗林写真工業・ペトリカメラの沿革|カメラ発売|できごと|
|1907|栗林庸二により栗林製作所創立、東京下谷区仲御徒町に本店。従業員20名|||
|1918|栗林写真機械製作所に名称変更、カメラ製造開始|||
|1923|栗林敏夫(庸二の長男)誕生||関東大震災|
|1926|第一号カメラ、スピードレフレックスが神田三栄堂本店より発売、栗林庸夫(庸二の次男)誕生|スピードレフレックス|大正から昭和へ改元|
|1927||スピードベビーレフレックス||
|1928|スピードレフレックスを含む三栄堂販売カメラが、大礼記念国産振興東京博覧会で第一位優良国産賞受賞|ミクニカメラ||
|1929||ファーストカメラ(木製ボディ)||
|1930||イーグルハンドカメラ||
|1931||トキワカメラ|満州事変勃発|
|1932|栗林庸二死去、妻繁代事業継承|ファーストカメラ(金属ボディ)||
|1933||コッカカメラ、ファーストロールカメラ||
|1934|この頃、皆川商店(皆川義郎)とファーストカメラワークス設立か?|スペシャルファーストカメラ、コッカカメラ改良型、ファーストエツイ||
|1935|合資会社栗林写真機械製作所となる、資本金19万円、従業員150名に拡大|セミファースト||
|1936|足立区梅島に分工場設立|ファーストシックス、スピードポケット||
|1937||ベビーセミファースト、ファーストセンター|日中戦争勃発|
|1938||ファーストレフレックス||
|1939|メッキ処理工場を開設、ファーストシャッター内製開始|||
|1940||BBセミファースト、オートセミファースト||
|1941|戦時中、海軍の指定工場として、航空機用エンジン部品、船舶用品や軍事用光学機器等を製造||太平洋戦争勃発|
|1942|ファーストレンズ内製開始|||
|1945|東京大空襲で下谷工場全焼||太平洋戦争終結|
|1946|梅島工場にて生産再開|クリ―||
|1947||ロルビー||
|1948|カメラの名前を使徒聖ペトロに因み「ペトリ」と命名|ペトリー||
|1949|株式会社栗林写真機械製作所となる。社長は栗林繁代、専務栗林敏夫、常務栗林庸夫、資本金100万円千代田区神田錦町に本店を置く|カロロン||
|1950|警察の要請により被疑者撮影カメラを製作||朝鮮戦争勃発|
|1951||カロロンS||
|1952|警察の要請により連続速射自動カメラを製作|カロロンRF、ペトリフレックス||
|1953||ペトリスーパー|朝鮮戦争終結|
|1954|ユーザー会ペトリカメラクラブ発足、会報「PETRI」を創刊|ペトリRF、ペトリスーパーV||
|1955||ペトリRF120、ペトリ35F3.5||
|1956|11月栗林写真工業株式会社となる。社長は栗林繁代。資本金900万円、従業員数400名以上、工場一号館完成、ベルトコンベア導入月産1万台|ペトリオートメイト、ペトリ35F2.8||
|1957||ペトリF2||
|1958|1月ニューヨークにペトリカメラコーポレーション設立|ペトリ2.8||
|1959|工場二号館完成|ペトリ1.8、ペトリペンタ||
|1960|売上高十五億七千万円、経常利益二億八千万円、輸出比率53%|ペトリ1.9、ペトリEB1.9、ペトリハーフ|所得倍増計画策定|
|1961|東京営業センターを九段に開設、本社を足立区梅島工場に移転、大阪営業所開設、工場三号館完成、沖縄ペトリカメラ株式会社を設立し沖縄でのカメラ生産開始、資本金2340万円、従業員数1500名、売上高30億円|ペトリコンパクトE、ペトリ7F1.8、ペトリ7F2.8、ペトリペンタV2、ペトリペンタジュニア||
|1962|7月ペトリカメラ株式会社となる。初代社長は栗林繁代。名古屋センター開設、オランダハーグに現地法人ペトリカメラ(BV)、ロサンゼルスに現地駐在員事務所を開設、警察庁より感謝状受領(キヤノンとともに盗難カメラ捜査協力)、輸出比率70%|ペトリ8、ペトリタッチ、ペトリプレスト、ペトリハーフ7||
|1963|九州センター開設|ペトリ7s||
|1964|埼玉県杉戸にプレス工場を建設、レンズ設計のため電子計算機導入、北海道センター開設|ペトリプロ7、ペトリフレックスV3、ペトリフレックス7、ペトリハイライト|東京オリンピック|
|1965|輸出比率85%|ペトリV6、ペトリオートラピッド、フォトクロームカラーカメラ|米、ベトナム北爆開始|
|1966|従業員数2000名、栗林繁代紺綬褒章授与|ペトリレーサー||
|1967|9月新宿伊勢丹で「ペトリカメラ60年の歩み」開催、資本金4000万円、経常利益最高の三億三千万円|ペトリFT||
|1968|6月栗林繁代総理大臣表彰(貿易振興の功)、11月栗林繁代勲四等瑞宝章授与、仙台センター開設|ペトリカラー35||
|1969|栗林繁代が会長、栗林敏夫が社長、栗林庸夫が副社長に|ペトリカラー35D、ペトリFTEE||
|1970|沖縄のカメラ生産終了、売上高三十億二千万円、経常利益一億二千万円。輸出比率90%|ペトリカラー35E、ペトリV6II、ペトリFTII|大阪万博|
|1971|製造コストの上昇を売上で回収できず、この年から赤字経営が続く|ペトリコンピュータ35||
|1972||ニューペトリコンピュータ35|沖縄返還|
|1973||ペトリFTE、ペトリM35|円変動相場制移行、オイルショック|
|1974|経常赤字最高の七億四千万円に|ペトリFTX、ペトリTTL、ペトリESオート||
|1975||ペトリFA-1、ペトリPF-1、ペトリPF-2|ベトナム戦争終結|
|1976||ペトリFT1000、ペトリMFT1000|キャノンAE-1発売|
|1977|10月ペトリカメラ倒産。組合による自主生産開始。ペトリカメラの商標がスイスFINカメラに売られる。輸出比率92%|ペトリSD200、ペトリSD300、ペトリMF-1||
|1978|1月ペトリカメラ破産。栗林家を組合が告発|ペトリMF-2(コシナ製)、ペトリTTL-2(コシナ製)||
|1980|栗林家と組合が和解。ペトリ工業株式会社発足|ペトリMF-10、ペトリCF-35||

参考文献
-日本の労働者自主管理
-Collectors Guide to Kuribayashi-Petri Cameras
-日本写真機工業会編 戦後カメラ発展史 
-全金ペトリカメラ支部闘争年表 
-2015年5月全日本クラシックカメラクラブにおける小林昭夫会員の研究講演(http://www.ajcc.gr.jp/sub1.114.html)
-昭和10-40年 広告にみる国産カメラの歴史
-当時の雑誌等広告(アサヒカメラ、アルスカメラ、日本カメラ編カメラ年鑑等)
-菅原博「ペトリカメラ顛末記(1),(5)」カメラコレクターズニュース2001年2月号、9月号
-週刊カメラタイムズ 1967年10月10日号記事「創立60周年を迎えたペトリ」

※文献により年代にずれが多数見られるため、検証を随時進めています(2016.7.25)

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