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「丸山眞男」をひっぱたきたい

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pipopipo555jp

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「丸山眞男」をひっぱたきたい

31歳フリーター。希望は、戦争。


 平和とはいったい、なんなのだろう?
 最近、そんなことを考えることが多くなった。

 夜勤明けの日曜日の朝、家に帰って寝る前に近所のショッピングセンターに出かけると、私と同年代とおぼしきお父さんが、妻と子どもを連れて、仲良さそうにショッピングを楽しんでいる。男も30歳を過ぎると、怒濤の結婚ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に結婚を決めている。

 一方、私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。ニュースを見ると「フリーターがGDPを押し下げている」などと直接的な批判を向けられることがある。「子どもの安全・安心のために街頭にカメラを設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいなオッサンのことか」と打ちのめされることもある。

 しかし、世間は平和だ。

 北朝鮮の核の脅威程度のことはあっても、ほとんどの人は「明日、核戦争が始まるかもしれない」などとは考えていないし、会社員のほとんどが「明日、リストラされるかもしれない」とおびえているわけでもない。平和という言葉の意味は「穏やかで変わりがないこと」、すなわち「今現在の生活がまったく変わらずに続いていくこと」だそうで、多くの人が今日と明日で何ひとつ変わらない生活を続けられれば、それは「平和な社会」ということになる。

 ならば、私から見た「平和な社会」というのはロクなものじゃない。

 夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイト先に行く。この繰り返し。

 月給は10万円強。北関東の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではかなわない。30代の男が、自分の生活する場所すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。

 「就職して働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブルの機会ではない。

 そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。

 バブル崩壊以降に社会に出ざるを得なかった私たち世代(以下、ポストバブル世代)の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくことになるだろう。一方、経済成長著しい時代に生きた世代(以下、経済成長世代)の多くは、我々にバブルの後始末を押しつけ、これからもぬくぬくと生きていくのだろう。なるほど、これが「平和な社会」か、と嫌みのひとつも言いたくなってくる。

NHKスペシャル「ワーキングプア」が見過ごしたもの


 2006年7月に放送された、NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」を見ながら、私はなんとなく違和感を覚えていた。番組では、働いてもそれに見合った給料が得られず、生活もままならない人たちが、ワーキングプアとして並列的に紹介されていた。地方から東京に出てきて仕事を探すが、派遣でさまざまな土地をたらい回しにされたうえに、ホームレスとなってしまった30代の若者。会社をリストラされ、一家を養うためにバイトをいくつもかけ持ちしている元サラリーマン。イチゴの栽培が赤字で、家族全員の収入を合算してなんとか生活する農家。そして、一時は人を雇うほどの町一番の仕立屋だったが、今では小さな直しの仕事しかなくなってしまった職人。年金は妻の入院費に消え、生活保護を受けようにも、「妻の葬儀代に」と手をつけないでいる100万円の貯金の存在が、生活保護を受給するにあたっての障害になっているという。

 一生懸命まじめに働いても、生活が成り立たない社会が正しい状態ではないことは明らかだ。普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会を構築するべきだ。などと、ごく当たり前でなんの面白みもない感想を頭の中で反芻していると、頭のなかにモヤモヤッとしたものがわき上がってきて、どうも釈然としない。このワーキングプアというくくり方は何かがおかしい――その違和感を突き詰めていくと、番組では「元サラリーマン」「イチゴ農家」「仕立屋」といった経済成長世代と、「ホームレスになってしまった30代の若者」「フリーターである私」というポストバブル世代の間にある大きな差違を、見過ごしてしまっていることに気づく。

 前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳をかつて十分に得たことのある人たちである一方、後者は社会人になった時点ですでにバブルが崩壊していて、最初から何も得ることができなかった人たちである。前者には少なくともチャンスはあった。後者は社会に出た時点ですでに労働市場は狭き門になっており、チャンスそのものがなかった。それを同列に弱者であるとする見方には、私はどうも納得がいかない。

 特に、仕立職人が、妻の葬儀のために手をつけずにいる貯金のために、生活保護を得られないことについて、識者が「妻の葬儀の費用を自力でまかないたいというのは人間の尊厳であり、それを捨てないと生活保護を得られないことに問題がある」と述べていたことが気にかかる。それが尊厳だというのなら、結婚して家庭を持つことや100万円の貯金など夢のまた夢でしかない我々フリーターの尊厳は、いったいどこに消えてしまったのか。

 格差問題の是正を主張する人たちは、高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求する一方で、我々若者向けには、せいぜい行政による職業訓練ぐらいしか要求しない。弱者であるはずなのに、彼らが目標とする救済レベルには大きな格差が存在するように思える。

 どうしてこのような不平等が許容されるのか。それはワーキングプアの論理が「平和な社会の実現」に根ざす考え方だからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成するためには、その人の生活レベルを維持することが最大目的となる。だから同じ弱者であっても、これまでにより多く消費してきた高齢者には、豊かな生活を保障し、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でも構わないという考え方に至ってしまうのではないか。

 不況直後、「ワークシェアリング」などという言葉はあったが、いまだにそれが達成される兆しがないのは、誰も仕事を若者に譲らないし、譲らせようともしないからだ。若者に仕事を譲ろうとすれば、誰かの生活レベルを下げなければならないのだが、それは非常な困難を伴う。持ち家で仲良く暮らしている家族に、「家を売ってください。離婚してください」とは言えないだろう。一方で最初からシングルでアパート暮らしの若者に、結婚して家を買えるだけの賃金を与えないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから社会は、それを許容する。


ポストバブル世代に押しつけられる不利益


 思えば私たちは、このような論理に打ちのめされ続けてきた。バブルがはじけた直後の日本社会は、企業も労働者もその影響からどのように逃れるかばかりを考えていた。会社は安直に人件費の削減を画策し、労働組合はベア要求をやめてリストラの阻止を最優先とした。そうした両者の思惑は、新規労働者の採用を極力少なくするという結論で一致した。企業は新卒採用を減らし、新しい事業についても極力人員を正社員として採用しないように、派遣社員やパート、アルバイトでまかなった。

 結局、社会はリストラにおびえる中高年に同情を寄せる一方で、就職がかなわず、低賃金労働に押し込められたフリーターのことなど見向きもしなかった。最初から就職していないのだから、その状態のままであることは問題と考えられなかったのだ。

 それから十数年たった今でも、事態はなんら変わっていない。経団連のまとめによる「2006年春季労使交渉・労使協議に関するトップ・マネジメントのアンケート調査結果」によると、フリーターを正規従業員として積極的に採用しようと考える企業はわずかに1・6%にすぎない。世間はさんざん「フリーターやニートは働こうとしない」などと言うが、この結果を見れば、「企業の側がフリーターやニートを働かせようとしない」のが我々の苦境の原因であると考えるほかはない。ちなみに、64・0%の企業が「経験・能力次第で採用」としているが、そもそも不況という社会の一方的な都合によって、就職という職業訓練の機会を奪われたのがフリーターなのだから、実質的には「採用しない」と意味は同じだ。その一方で、職業訓練の機会と賃金を十分に与えられた高齢者に対しては97・3%の企業がなんらかの継続雇用制度を導入するとしており、その偏りは明白である。

 企業の人件費に限りがある以上、高齢者の再雇用は、我々のような仕事にありつけない若者がまたもや就業機会から排除されることを意味する。しかし、それを問題視する声はまったく聞かれない。これも同じく、経済成長世代の就業状態をキープし、ポストバブル世代の無職状態をキープする考え方だ。

 このような不平等が、また繰り返されようとしている。この繰り返しを断ち切るために必要なことは、現状のみを見るのではなく、過去に遡って、ポストバブル世代に押しつけられた不利益を是正することだろう。近視眼的で情緒的なだけの弱者救済策は、経済成長世代とポストバブル世代間の格差を押し広げるだけである。


戦争が起きれば社会は流動化する


 平和な社会を目指すという、一見きわめて穏当で良識的なスローガンは、その実、社会の歪みをポストバブル世代に押しつけ、経済成長世代にのみ都合のいい社会の達成を目指しているように思えてならない。このようなどうしようもない不平等感が鬱積した結果、ポストバブル世代の弱者、若者たちが向かう先のひとつが、「右傾化」であると見ている。

 「論座」06年11月号で、姜尚中氏がこのようなことを述べている。

 「若者たちは現状に対して何らかの不満があり、被害者意識をもっている。しかし、それを社会に対してどう表現していったらいいのかわからない。社会運動をやろうとは思わないし、やり方も知らない。そんななかで、一部メディアが扇情的に書き立てている対北朝鮮、対韓国、対中国といったテーマが、彼らの集結軸として機能してしまっているように思う」

 このような若者に対する見方は、左右の別なく多くの知識人の共通した現状理解であるように思う。しかし、若者たちはけっして彼らが思い描くような弱々しい存在ではない。「社会運動をやろうとは思わないし、やり方も知らない」と言うが、実際にはその若者たちの声に押される形で、社会全体が右傾化の傾向を見せている。

 ネットウヨクの社会運動は、彼らのブログが人気を集めて検索サイトのトップに表示されたり、マスコミに「ネットにはこのような声がある」と紹介されたりすることによって、インクが混じるとほんのわずかだけ色が変わる水のように、それとなく社会に浸透している。それは彼らのやり方が有効な社会運動として機能しているということだろう。素直に認めなければならない。

 また、彼らが不満や被害者意識を持っているというなら、なぜ左傾勢力は彼らに手を差し伸べないのか。若者にしてみれば、非難の対象はまさに左傾勢力が擁護する労働者だ。だから若者たちはネオリベ政府に「労働者の利権を奪い取って、おれたちに分けてくれ」と期待してしまうのだ。小泉前首相が「郵政職員26万人の既得権を守って、何の改革ができるか!」と叫んで若者の支持を集め、衆院選で圧勝したことは記憶に新しい。

 確かに、右傾化する若者たちの行動と、彼らが得る利益は反しているように見える。たとえば一時期のホリエモンブームなどは、貧困層に属する若者たちが富裕層を支持するという、極めて矛盾に満ちたものだった。小泉政権は改革と称して格差拡大政策を推し進めたし、安倍政権もその路線を継ぐのは間違いない。それでも若者たちは、小泉・安倍政権に好意的だ。韓国、中国、北朝鮮といったアジア諸国を見下し、日本の軍国化を支持することによって、結果的にこのネオコン・ネオリベ政権を下支えしている。

 そこで当然、「それは本当に、当の若者たちを幸せにするのだろうか? 安直な右傾化は、若者たち自身の首を絞めているだけなのではないのか?」という疑問が提示されることとなる。だが私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う。


国民全員が苦しむ平等を


 佐藤俊樹氏は『不平等社会日本 さよなら総中流』の中で、ホワイトカラーとブルーカラーの世代間移動について、戦後の高度経済成長で一時的に開放性が大きくなったものの、団塊世代の時点ですでに開放性は戦前のレベルにまで小さくなったと考察している。すなわち、戦争が流動性を押し広げ、社会が安定するにつれて流動性は失われていった。

 それでも、経済が右肩上がりの時代は問題がなかった。流動性がなくとも、経済さえ右肩上がりであれば、給料は増え続けたのだ。給料が上がるということを通して、すべての労働者が報われていた。

 三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)、それに持ち家や結婚・出産などの家族関係の構築、おまけに憧れのハワイ航路もつけておこう。こうした「庶民の夢」と呼ばれたものを、この時代の人たちは手にすることができたのだ。格差は確かに存在したものの、それは「アイツは3ナンバーに乗っているのに、俺は普通車だ」というレベルのものであり、現在のような、人間が生活するうえで致命的な格差ではなかった。

 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。

 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

 識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。

 そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

 戦争は悲惨だ。

 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。

 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。

 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。

 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。

 しかし、それでも、と思う。

 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。

 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

(赤木智弘)

朝日新聞社 「論座 2007年1月号」