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7 ジャカルタ(旧バタビア)

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日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン






7 ジャカルタ(旧バタビア)


1946年から始まったバタビアBC級戦犯裁判の
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初期に、1人の日本人男性の裁判があった。彼は戦前の1920年から1941年11月までバタビアに住み57)、1942年6月に曙倶楽部というレストランを、そして1943年9月にはバタビア市長の命を受け58)、桜倶楽部、別称ガン・ホーニング[Gang Horning]慰安所という一般邦人向けの慰安所を開業した。この日本人経営者には、行政側から強い圧力がかかり、慰安所を開業することになったが、本人は日々の事業経営から遠のき、この男性のヨーロッパ人愛人が大抵の事を一手に引き受けていた。大勢の印欧混血人を含むヨーロッパ人が雇われていたが、通常、女性の募集は最初にレストランで働くということで雇用し、その後強要し慰安所に移動させた。BC級バタビア戦犯裁判では、愛人兼支配人のヨーロッパ人女性が、憲兵隊が懲らしめに来ると女性を脅していたことと、女性たちが慰安所にいることがその経営者の利益に大きく関わっていたという理由から、彼の責任が追及され、結局、「強制売春の戦争犯罪」59)で有罪の判決が言い渡された。この曙・桜倶楽部事件は、バタビアBC級戦犯裁判のなかでも数少ない「強制」売春裁判の1つであるが、その少ない中でも軍があまり関与していなかった事件は、このケースだけであった。

 プールヘイストは報告書の中で、ヨーロッパ人「マダム」の記述があるものの、日常の事業経営や女性の募集、女性への脅しを行ったこの「マダム」の役割の記述は避けながら、日本人経営者を「ひも」と言い切っている。国立戦争資料研究所所蔵のこの資料は、公式な裁判記録で、数点の被告人尋問調書と判決文からなる。資料はこの男性を有罪判決に導き出すために作成されたものであるが、それぞれの資料は豊富な情報を含んでいるため、次にあげる7項目のような調査に関しては有意義な資料であると思われる。①曙倶楽部と桜倶楽部の関係、②慰安所の開設にあたりバタビア市長とその秘書の役割、③慰安所の管理での憲兵隊の役割(1ヶ月に1度管理検査が実施されていたという)、④ヨーロッパ人(含む印欧混血人)慰安婦の始まりとヨーロッパ人慰安婦募集の形態と状況、⑤多数のヨーロッパ人によるレストランと慰安所の運営、⑥慰安所を辞めると憲兵から罰を受けるという決まり文句とその影響力、⑦慰安所の日常的機能等。

 曙・桜倶楽部のバタビア(特に民間抑留所から)と中部ジャワでの慰安婦募集は、数人のヨーロッパ人仲介人の手助けで、この愛人兼支配人の主導で行われていたが、日本人経営者も何度となく中部ジャワの慰安婦「募集旅行」に参加していた。女性たちは、「自分たちの自由意志」で慰安所の仕事に加わる事を条件とし、身体検査は必須、公式には17歳以下の女性は慰安所で働けない(だが最低でも、2つの事例でこの規則は歪曲されていたが)、女性たちは月給の他に客からの花代の歩合を受け取るような条件であった。結局のところ、バタビア抑留所から集められた女性たちのうち何人かは戦前から娼婦だったといわれていたので、比較的広範囲に(戦前から)ヨーロッパ人娼婦が存在していたと思われる。しかし、それでも何人かの女性はウェイトレスになるか1人の特定の男性とだけ性的関係を持つものと信じていたようである。極度な貧困状態が、慰安所で働く1つの引き金になっていたことは明らかである。一度慰安所へ入ると、女性たちはそこへ止まるように強硬に圧力をかけられ、慰安所を離れる許可は決してもらえず、逃げ出そうとした女性たちは直ちに官警に逮捕され短期拘置された後、慰安所に一度戻されてから慰安所を解雇された。

 重要な事として、バタビア曙・桜倶楽部の裁判記録が、公娼制度と慰安婦制度の境界がいかに曖昧なものであるか示していることである。確かに、当時ジャワは軍政下ということもあって、軍は設
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置や規則に関与していたが、慰安所は、軍が組織として設置したり、将兵たちの使用目的の為に設置されたわけではなかったようだ。また、強制売春と「自由意志売春」(真の自由意志の売春がこの世に存在するかどうかも疑問であるが)の違いも曖昧であり、女性たちは、少なくとも時にはだまされ、慰安所に止まらせるために脅されてもいた。

表2
バタビア慰安所等 人 数 「慰安婦」年齢等(順序不同)
チョコ・クラブ・マンガライ[Choko Club Manggarai] 4人 27歳、40歳、21歳、28歳。
テロッ・ベテン(軍司令部)[Telok Beteng] 9人 24歳、23歳、32歳、28歳、30歳、25歳、22歳、25歳。
シリカワ[Shirikawa] 7人 33歳、34歳、30歳、35歳、27歳、29歳、39歳。
サクラバー[Sakurabar] 10人 32歳、28歳、33歳、51歳、37歳、25歳、34歳、23歳、29歳、1名年齢不詳。内2名はインドネシア出身。

 国立公文書館[ARA]で調査した他の公文書からは、少しではあるもののジャカルタにいた慰安婦に関する更なる情報を得られた。例えば、ガン・ホーニング慰安所(別称:桜バー。前述の桜倶楽部の事)、そしてあまり知名度の高くないペトジョ[Petodjo]にあったハンヴェグ[Hanweg]慰安所60)へ女性を調達、補充、また支配人のような仕事に従事していた2人のヨーロッパ人女性の記述もあった。どのような方法でいつ頃集められた情報か不明であったが、4軒の慰安所にいた女性の人数から年齢等の記述も見つかった(表2 参照)。


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