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路傍の詩・WEB第141回

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路傍の詩・WEB第141回




464章「鎮魂歌」~ 素朴な情感に希望



心の優しさと平和を歌う喜納昌吉=那覇で

 座間味島からの帰途、那覇の書店で宮城晴美著「母の遺したもの」購入。その第四部「母・初枝の遺言」が目を惹いた。宮城初枝さんは米軍上陸前夜、梅沢少佐に自決用弾薬を要求した役場職員の中で唯一人の生き残り。1957年、厚生省の「戦闘参加(協力)者」調査に「住民集団自決は隊長命令」と証言。以来、梅沢少佐は週刊誌などで始まった。

「自決命令は出していない。僕はひどい目にあった」と梅沢さん。職を失い子息が反抗するなど家庭崩壊の危機に追い込まれたという。20年後の1977年3月26日、初枝さんは初めて娘に「集団自決の命令は、梅沢隊長ではなかった」と真相を告白したのである。

80年、初枝さんは梅沢さんに会ってウソの証言をしたお詫びに加え、「戦争で破壊された住民の生活に援護法適用が必要だったのだ」と、秘めていた苦悩を話したという。

 軍協力者意外の戦死傷へは国の補償がなかったからだ。戦争は戦後数十年間も二人の人生を食い荒らしたのである。

 夜、喜納昌吉のライブへ。「すべての武器を音楽に」の信念で彼が作詩作曲した「花」を聴く。沖縄の心がたゆとう優しい言葉と曲だが、さの唱法には底深い気迫、不屈の力が充ちていた。「泣きなさい、笑いなさい」と呼びかける素朴な情感のなかに、「いつの日か花を咲かそうよ」と希望をやわらかく包みこむ。戦争で喪われたすべての鎮魂歌とも・・・・・                             
毎日新聞 2001.10.18



465章「礼状」~ 喜び『生』あればこそ



風骨は語らず。だが、すべてを知っている。
(座間味島で)

 26回の座間未戦記を書き終えて取材協力の方々に礼状を書いた。「お陰で自分なりの座間味戦記が書けました。内容的にはともあれ、要点を絞れなかったと思います。小説なら様々なアレンジもできるでしょうが、事実はあまりにも悲惨です。その真相と真実は更に残酷非情で冷徹です。『戦争だから仕方ない』で済まされることかどうか・・・・。最近思いがけなく、旧美保海軍航空隊大陸甲飛会(旧満州朝鮮出身の甲種飛行予科練)の同期生らと56年ぶりで連絡がつきました。僕は消息不明のみか特攻戦死との噂もあったそうです。

『勝手に俺を殺すな』と笑いましたが、思想信条や懐旧の情はともかく,自分史の空白部分を埋め得るチャンスにめぐりあえた喜びがあります。『生』あればこそ、です。旧陸海軍上層部の特攻への認識と評価は『花礼で役のつかぬ捨て札』とか『技術未熟の消耗品』。

 この本音と侮辱を特攻死の若者達が知ったら・・・。

 それだけに、生き残った義務はどうあるべきかを考えた戦後56年間の、その答えの一つがこの度の座間味戦記だと思っています。また、元特攻隊員としての最後の意地とも言えるでしょう。

 『戦争を始めるのは国家だが、その災害をもっとも受けるのは個人であり民衆』であることを、あらためて再確認させられた思いがあります。

ご協力有難うございました。お元気で」。                                         

毎日新聞 2001.10.25


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