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ラーベの報告書(2)

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季刊戦争責任研究
第16号(1997年夏季号)
p38~54
南京事件・ラーベ報告書
片岡哲史訳(かたおか・てつし/駿河台大学教授)

南京事件・ラーベ報告書

解説

報告書

《なぜ南京に留まったか》

《北戴河から南京に戻る》

《空襲下の南京》

《難民区設置と南京安全区国際委員会委員長就任》


《日記:南京陥落まで》

一二月九日

朝早くから空襲が絶えない。中国機はここにはもういない。しかし高射砲台はまだ砲撃している。多くの爆弾が市南部に落下している。そこで大きな火災が広がっているようだ。われわれはいまなお、郊外から難民のための米を持ち込もうとしている。そうしたおり、車両のクーリー(苦力)の一人が砲弾の破片で片目を失ったので、病院に運ばねばならなくなった。ヨーロッパ人の護衛なしに走っていたもう一台のトラックの乗員は、われわれのチームが通過してから数分もたたぬうちに日本人によって爆撃された南門から叫びながら引き返えして来る。われわれの車が戻ってきたとき、門の番兵四〇人のうち生き残った者はいなかった。

午後二時にベイツ博士、シュペルリング、ミルズ師それに二人の中国人官吏が私と一緒に荒らされた境界、つまり南西の境界を巡視する。丘陵から私たちは、中国人が火をつけた郊外が炎に包まれているのを眼前に見る。市全体が炎と煙の帯に取り囲まれている。

これからは、私がすでに言及した、安全区に接する高射砲台にたいする日本軍の空襲の叙述です。

われわれは、いま一度、唐将軍に近づき、市の内部の防衛を断念させようとする。唐将軍は、われわれが蒋介石総統の許可をとりつけるという条件で了承する。ミルズ、ベイツ博士それに私は、中国人の大佐と兵士各一名を伴ってアメリカの砲艦パナイ号に乗って、しかるべき電報を漢口に送る。パナイ号経由以外の電報通信の手段はもはや存在しない。燃える郊外の下関を通過する帰路の眺めは素晴らしい。私たちは夜七時、記者会見が終わるまえのちょうどよい時問に帰り着く。聞くところによれば、その間に日本人はすでに南京の市の門の直前にまで進出している。南門〔中華門〕と光華門からの砲声と機関銃の銃声がこちらに響いてくるのが聞こえる。夜の闇のなか――街灯は飛行機の危険があるために消されているのだ――負傷者が舗装道路の上を足を引きずって歩くのが見える。だれも彼らを助けない。医師も衛生隊ももういないのだ。ただ二人の勇敢な医師がいるアメリカの鼓楼病院だけがんばり通している。難民区域の道路は重い荷物を背負った難民が溢れかえっている。

一二月一〇日から一一日まで

水道と電灯が止まる。砲撃はいまだに続いている。私のカナリア「ペーター」はこれを好んでいるようだ。鳥は喉から出ようとするものを、砲声に合わせて歌っている。このようなカナリアは、烏〔訳註一著者の名ラーベは「烏」の意味がある〕よりも強い神経を持っているようだ。私は歌う気持ちには到底なれない。私たちの地区の通りは、砲声のやかましさを気にもかけない難民で溢れ、押し合いへし合いである。この人たちは、「安全区」に私より信頼を置いているのだ!

九時に最初の榴散弾が福昌ホテルの前後の難
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民区に落下する。合計二一人の死者と一二人の負傷者。ホテルを管理するシュペルリングはガラスの破片で手に軽い負傷をする。さらにもう一発の榴散弾が、私から約一〇〇メートル離れたところにある中学校に落下し、二二人を殺した。鼓楼病院の前に保塁が築かれる。山西ロータリー(われわれはバイエルン広場と呼んでいる)上でも中国兵士たちが穴を掘って隠れている。市内での戦闘に備えて真剣に準備しているのだ。つまり、城壁の内部での戦闘を回避しようとするわれわれのすべての努力は空しいものになったのだ。

夜六時の記者会見には、プレスの代表の他はわれわれの委員会のメンバーしか出席していない。他のすべての外国人は、ジャーディン社の曳船かアメリカのパナイ号に乗って河をさかのぼったのだ。私の秘書であるスマイス博士が、いま名目上われわれの指揮下に置かれている警察が泥棒を捕まえたが、どうしたらよいか知りたがっている、と私に知らせてくる。この事件は哄笑をまき起こした。というのも、われわれが高等裁判所の役も引き受けることになるなどとは、いままで考えもしなかったからだ。われわれは泥棒に死刑の判決を宣告し、それから恩赦で二四時問の禁固刑に滅刑し、次に拘禁所の不足を理由にさっさと釈放した。

一二月一二日

一一時にL大佐とC大佐が来て、唐将軍の委託を受けて三日間の休戦協定を締結するようわれわれに依頼する。この三日間に〔中国の〕駐留軍は撤退し、市は日本軍に引き渡されるという。われわれは日本大使宛の電報、およびこの電報を発信する前に唐将軍がわれわれに送らねばならない書簡、そして最後に、白旗の保護のもとに前線で日本軍の最高司令官に休戦条件を伝える軍使のための行動基準を起草する。シュペルリングは軍使の役を引き受けると自ら申し出る。われわれが唐将箪に求めた書簡が来ないので、計画はすべて水泡に帰する。そうこうするうちに、そのような交渉をするには時はすでに遅くなる。日本人は市の門のすぐ前にいたのである。

午後六時半

紫金山の大砲は間断なく発砲する。山の周囲は閃光が走り、雷のような轟音がする。突然山全体が燃え上がる。いずれかの家と火薬貯蔵所が炎上したのだ(南京の没落の古くからの象徴だ。紫金山が燃えるとき、南京は失われる、とある諺にいわれているのだ)。南方から来た逃亡中の中国の民間人がわれわれの区の通りをとおって宿泊所へと急ぐのが見える。彼らの後に中国兵が続く。兵士の歩き方で、日本人が彼らのすぐ後を追っていないことが分かる。われわれは、これらの部隊が光華門で強烈な大砲の砲撃を受けてパニック状態で逃走したことを確認する。彼らは市の内部に深く来るほど、それにつれて平静になり、最初は逃走だったのが、ついには北方への静かな移動に変わる。砲撃が激しくなったので、私は委員会の本部を閉鎖させ〔職員を帰宅させ〕た。われわれの中国人同僚の家族たちに、身内がいないことで無用な心配をかけないためである。私自身も、今は「食糧相」をしている私の中国人アシスタントの韓〔音読み〕と一緒に家に帰り、成り行き次第では家を出て安全区の中に逃げるためのすべての準備を整える。

夜八時にドラマの最後の場面、大砲の大連射が始まる! 南方では空全体が炎に包まれている。私の家の庭にある二つの防空壕は端にいたるまで難民がぎっしりつまっている。だれかが家の両方の戸を叩く。婦人と子供たちが右かに入れてくれと懇願している。数人の勇気ある男たちはドイツ人学校の裏で庭の壁に登り、中に入って保護を得ようとする。私は彼らの嘆きをもはや聞くに耐えられなくなったので、二つの門を開き、入りたがるものはすべて入らせる。防空壕にはもはや空いた場所がなかったので、私はこれらの人々を二つの建物の間と家の隅に割り振る。大部分の者は寝具を持参していて、屋外でも横たわって寝る。二、三のずる賢いのが、飛行機による攻撃の危険を避けるために平らに広げられた、大きなドイツ国旗の下にベッドを広げた。この場所は「爆撃にたいして安全!」とされた。榴散弾がうなり、爆弾が落下する。南方の水平線は、一面の火の海だ。地獄
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のような騒音が響きわたる。私は鉄兜を被り、中国人アシスタントで勇敢な韓氏にもそうしたものを髪の毛の上におしつける。私たち二人は防空壕には入らないからである。場所がないのだ。私は猟犬のように庭を駆けめぐる。一グループから別のグループヘと。ここでは罵り、あちらでは気を落ちつかせる、といった具合だったが、結局は皆わたしの言葉に従う。一一時半ごろ友人である、カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガー(われわれの金庫番、つまり区大蔵大臣)が現れる。「おやまあ、クリシャン〔クリスティアン〕、一体何のご用かね?? 元気かどうか一寸顔を見てみよう!」と私がいうと、彼は、「逃亡する中国兵が置き去りにした制服、手榴弾などあらゆる類の兵隊の持ち物でメインストリートの中山路はすでに覆われている。ちょうどいま、まだ充分便える乗合バスさえ二〇ドルで売りこまれたところだ。だれがそんなものを買うと恩うかね?」と報告する。「でもクリシャン、どうしたら売れるかね」と私が言うと、「そう、私はその男に明日ちょっとオフィスに来るように言ったよ」と彼は言う。真夜中ごろ騒音は多少おさまったので私は身を横たえて寝た。北方では交通部の素晴らしい建物が燃えている。体中の骨が痛い。四八時問まえから衣服を脱いでいないのだ。客たちも寝に行く。約三〇人がオフィスで寝ている、三人は石炭の穴の中で、八人の婦人と子供が召使のトイレットで、一〇〇人以上の人たちの残りは地下壕か野外の庭で寝ているのだ!
〔日記終わり〕


私は横たわりながら「やれやれ、最悪の事態は終わった!」と思いました。私は中国人にも繰り返し話してきました――「あんたがたは日本人を恐れる必要はないよ。彼らが市を征服してしまえば、すぐにまた平和と秩序がもどるさ。上海との鉄道連絡も早急に回復するし、そうなれば仕事もまた正常に戻るさ」と。

私はひどく思い違いをすることになった!

《日本軍による略奪、放火、虐殺、婦女暴行》

一二月一三日の朝五時頃日本軍の激しい空襲によって目を覚まされたときに最初はひどく驚かされましたが、逃走する中国軍がまだ完全には掃討されていないのかも知れないと思い気を静めました。なんといっても、われわれは空襲に日常的にすでに慣らされていたので、そんなことであまり煩わされなくなっていました。日本軍の総司令部と連絡をつけ、同時に砲撃が市にどれほどの損害を与えたか、あらまし確かめるために、私は数人のアメリカ人と市の南部に行きました。われわれは総司令部は見つけられませんでした。自転車に乗った日本軍の歩哨が、指揮をとる将軍は三日たたないと着かない、と告げたのでした。われわれは、たくさんの中国の民問人の屍体を見ました。いくつかの遺体を調べた結果、私は彼らが至近距離、おそらく逃走中に背後から射殺されたことが確認されました。中山路と太平路を通って夫子廟まで車で走り、太平路にあるアメリカの布教団の土地を訪ねました。そこで私たちは、一台の自転車を盗もうとした数人の日本兵を追い払いました。彼らは私たちの姿を見るや逃走しました。われわれは通りかかった日本のパトロール隊に事件を報告し、布教団の建物の入口にとりつけられたアメリカの国旗とこれらの家がアメリカの所有物であることが大きく印刷された掲示に彼らの注意を向けさせましたが、彼らは、私たちについて記録もとらずに、笑いながら行進して行ってしまいました。

私はさらに、われわれが走った範囲では市街にはごく僅かな損傷しかないことを確認しました。撤退する中国軍はごく僅かな損害しか加えなかったのでした。われわれは、この事実に満足し、しっかり記憶に留めました。帰路、新街口、いわゆるポツダム広場のすぐ手前で、軍人であることを示す戦闘帽を被り、革製の上着を着た数人の日本人がドイツ・コーヒー店キースリングに侵入するのを目にしました。私は彼らを押し留め、店にかかっているドイツ国旗に注意させ、略奪を非難しました。英語を話す日本人は、「何か用ですか? われわれは空腹なのです、文句があるなら日本大使館に行きなさい、代金を払うでしょう」と答えました。彼らは、「食擾補給隊がまだ到着していないので、給食
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を当てにできない」と言い訳しながら言い添えました(キースリング喫茶店はこのあとで完全に略奪されてから焼き払われました)。

ポツダム広場にある交通銀行の前で、ある日本の民間人がわれわれを呼び止め、日本大使館の書記官福田だと自己紹介し、ごく元気な私に出会った喜びを表しました。

私はすぐにいま見たばかりの略奪を知らせたところ、かれは、言葉どおり再現しますとこう答えました――「日本軍は街をひどい目にあわせるつもりです。しかしわれわれ大使館はそれを阻止しようと思っています」。

その後私は福田氏とその同僚の福井と田中の両氏によく、というよりほとんど毎日会う機会がありました。彼らはいつも丁重で、振る舞いも非のうちどころがありませんでしたが、日本軍にたいしては全く無カで成果をあげられませんでした。われわれの多くの苦情にたいする彼らの口頭の回答――文書による回答は決しておこなわれなかった――は、「われわれは軍当局に通知いたします」だった。しかしそれっきりでした。

そうこうする間に、南方から数千人の日本軍が来てポツダム広場の周辺に勢ぞろいし、南京市の残りの部分を占領するために、扇形をなして北方にさらに前進しようとしました。そこで、私は地区を通る迂回路を走る私の車でのドライブを、急邊北方に向けて継続する気になりました。鼓楼病院の背後でメインストリート中山路に再び出るためです。私はこの通りで、もはや揚子江を渡河して逃げられなくなった、市防衛の中国軍の残存部隊、いわゆる敗残兵に出会えると期待しましたが、それは、まもなく明らかになったように、正しかった。途中で私は外務部にある赤十字病院に寄り道をしましたが、すでに述ベたように、すべての医者も看護婦も立ち去ってしまっていたこの病院が、中国兵の屍体で一杯になっているのを見ました。

そのあとで、ドイツ人がバイエルン広場と呼んでいた山西道路のロータリーのところ、すなわち安全区の北の角で私は、充分に武装した、およそ四〇〇人の中国兵の部隊に最初に出会いました。そのとき私は人道的な気持ちにしたがったのですが、そのことで私はのちにいくばくかの良心の阿責に悩まされることになります。私は遠方から機関銃で武装して進撃してくる日本軍と、その危険性に注意を喚起し、武器を捨て、私に武装解除させてから、安全区のキャンプに入るようにと勧めたのです。彼らはしばし熟考してから同意しました。私にはそんな行動をする権限があったのだろうか? これは正しい行動だったのだろうか?? 現在では私は他に行動しようがなかったことを知っています! ここ安全区の境界で市街戦が起きたならば、逃走中の中国兵たちはきっと自ら進んで安全区に撤退し、その後、非武装ではないので、日本軍によってしたたか撃たれたに違いありません。そのうえ、完全に武装解除されたこれらの兵士たちにとって、たとえば日本軍により戦争捕虜として扱われる以外の危険がなくなることを、私は当然のことながら望んだのでした。

私はまたしても思い違いをすることになりました。

これら武装解除された部隊の各人、またこの日のうちに武器も持たずに安全区に庇護を求めてきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れのなかから分け出されたのでした。手が調ベられました。銃の台尻を手で支えたことがある人ならば、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく短く刈られていないか、なども調ベられました。こうした兆候を示す者は兵士であったと疑われ、縛られ、処刑に連れ去られました。何千人もの人がこうして機関銃射撃又は手榴弾で殺されたのです。恐るベき光景が展開されました。とりわけ、見つけ出された元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎるとおもわれたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。

しかも処刑のやり方も非常にいい加減でした。こうして処刑されたもののうち少なからぬ者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振り掛けられ、生きた
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まま焼かれたのです。これほどひどい目にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な処刑について語ることができました。私自身もこれらの報告を受けました。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮影し、記録として保存しました。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、または多くの小さな沼の岸で行われました。南京に約三〇〇〇の沼がありますが、それらはすベて投げ込まれた屍体によって今日も多かれ少なかれ汚染されています。われわれは、管轄下にあった紅卍字会(仏教の一種の赤十字組織※)に、ある沼から一二四を下らぬ死体を引き上げさせました。それらは、紐または電線によって縛られていたので、すベて処刑されたものとして見分けられました。
 ※民間の宗教的社会慈善団体、必ずしも仏教系とはいえない

結局、私は先に述べた行動によって悪しき運命から安全区を護りはしましたが、そのほかの点では、そうすることによって日本兵の命だけを救うことになりました。なぜなら、もし敵味方が衝突すれば多くの日本兵もきっと死亡していたからです。

ところで、こうした最初の処刑は、明らかにまったく統制を失った日本兵による全面的な狼籍行為開始への合図となるものでした。彼らは脱走した囚人の群れのように見えました。

略奪行為をする三ないし一〇人のグループが、市街と安全区をのし歩き始め、手に入るものは何でも略奪し、婦人と少女を暴行し、なんらかの低抗をする者、逃げ出す者、あるいは彼らを不快にする者すべてを殺しました。その際、大人であるか子供であるかの見境はありませんでした。下は八歳にいたるまでの幼い少女や上は七〇歳を越える女性が暴行され、また多くの辱められた婦人たちが残虐に殺されました。私は婦人の屍体がビールびんや竹棒に突き刺されているのを見ました。私は犠牲者たちを自分の目で見ました。私はまだ生きている犠牲者と、死の寸前に話し合いましたし、鼓楼病院の遺体置場で、すでに亡くなった人の衣服を脱がせ、私に告げられた報告が真実に則していることを自分で確かめたのです。

婦人や少女の暴行が、五〇〇〇から一万人を収容するわれわれの女性キャンプの真只中で行われたことを皆さんは有り得ないことと思われるでしょう。われわれ少数の外国人は、こうした信じがたい狼籍を阻止するために、同じ時間にあらゆる所にいることはできませんでした。充分に武装し、抵抗するものすベてを射殺する、これらの極悪人どもにたいしては、われわれは無力でした。われわれ外国人にたいしてだけは彼らは、いくらか物おじしました。しかしわれわれのほとんどだれもが、数十回以上殺される危険に会いました。われわれは、いつまでこうした「虚勢」を堅持できるのか、と互いに尋ねあったものでした。なぜなら、われわれのいわゆる力は、まったく「虚勢」に過ぎなかったからです。外国の国旗は滅多に、というよりはまったく尊重されませんでした。アメリカの国旗はしばしば名誉を汚されました。だからこそアメリカ人は非常に怒ったのでした。ドイツ人の家六〇軒のうち四〇軒が大なり小なり略奪され、四軒が完全に焼き払われました。アメリカ人の家がどれだけ略奪されたかは忘れました。私は、私の家から一〇〇人以上の日本兵を自分で追い出しました。ときどき命の危険がないわけではありませんでした。私には〔ナチ〕党員章とハーケンクロイツ〔鈎十字〕の腕章以外に防衛手段はなかったのです。私の家への侵入が度重なったとき、私は日本大便館の諸氏に、言葉通りに記すと次のような通知をしました――「私は私の国旗の名誉と私の家を命を賭けて守るつもりです。すベての責任はあなたがたにあります。警告いたします。このメツセージを日本軍当局にお伝え下さい」。

あの一二月の日々、私たちは文字通り屍を乗り越えていました(状況はクリスマスの前後が最悪でした)。私たちは二月一日まで屍体を埋葬することすら許されませんでした。私の家の門から遠くないところに手と足を縛られ、射殺された一人の中国兵の屍体がありました。竹の担架に縛りつけられ、通りに投げ出されていたのです。私は一二月ニニ日から一月末までこの屍体
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を埋葬するか、搬出するか、許可を申請しましたが、無駄でした。二月一日になって屍体はやっと消え失せたのでした。

この種の残忍な行為については何時間でもお話できるのですが、これ以上みなさんを煩わせるのはやめることにします。

《南京での活動と住民被害の総括》

中国の発表によれば総計一〇万入の中国の民間人が殺害されたそうです。これは少し過大な数字でしょう。われわれヨーロッパ人はその数は約五万ないし六万人と推定しています。死体の埋葬を行った紅卍字会の発表では、私が南京を去った二月二二日には、郊外の下関にまだ三万の埋葬できない遺体があったそうです(しかし一日に二〇〇体以上の埋葬は不可能でした)。

キャンプの難民たちは、すでに述ベたように、食料が茶碗一杯の生米で乏しかったにもかかわらず、一般的に従順で自発的に行動しました。私の庭には一二月二一日??の砲撃の際にできた、小さなプライべイトな収容所、いわゆるジーメンス・キャンプがありましたが、ここではそのうちにおよそ六五〇人に人数が増えました。そのうち三〇〇人が婦女で、また総計一二六人の子供がいました。彼らはぎっしりと身を寄せあって小さな藁小屋のなかで生活していました。小屋は、湿気を防ぐために壁石で覆っていました。住人たちは本格的な警備と統制業務をしていました。私自身も、日本兵が庭の壁を乗り越えたときの警笛の合図があったらすぐにその場にいられるように、数週間も着衣したままで寝ました。日中はそれでもまだうまくいき、たいていはすぐに決着をつけられましたが、夜は、とくに闇のなかで同時に数ヵ所で庭壁を乗り越えようとされると、事態はたしかに多少厄介で危険になりました。このプリミティプなキャンプ、庭の泥のなかで、僅かに薄い藁布団に守られて、子供が生まれました。男の子ならば私の名が、女の子ならば妻の名がつけられました。男の子は名親の贈り物一〇ドルを貰い、女の子は九・五ドルだけ貰いました。差をつけなくてはなりませんでした。中国では女の子は男の子ほどの価値はないのです。

地区本部に行く途中で私の車はいつも止められました。自分の妻か、妹、あるいは娘を日本兵の暴行から守るように切迫して頼む者がいつも途中にいたのでした。そうしたときは、私は、一群の中国人を従えながら現場に行き、よく日本兵を現場でとりおさえ、追い払わねばなりませんでした。こうした行動が危険を伴わないわけではなかったことは、いうまでもないほどです。日本兵はモーゼル拳銃と銃剣を持っていたのに、私は、すでに述ベたように、党章とハーケンクロイツの腕章しか持っていなかったのです。雄々しい行動とエネルギーを武器の代わりにしなくてはなりませんでした。実際ふつうはそうしたことが役に立ったのです。

時がたつにつれて私たちの食料も不足してきました。手をまわして日本軍から数千袋の米を買うことに成功しました。しかしほどなく、日本軍は供給を停止しました。彼らは、私たちが安全区委員会を解消し、難民がこの地区を立ち去れば、食料供給を自ら引き受けるか、あるいは、設立された新しい中国自治政府を通して実施させることを約束しました。

もちろんわれわれは委員会を解消しませんでしたが、好意的に名称を南京救済委員会に変えました。われわれは、義務にしたがって、日本人が地区から立ち退くよう要求していることを難民たちに知らせました。その結果は、地区から外に出たかなり多くの婦人が新たに暴行、略奪されたのち、安全区に戻って来たのです。焼き払われた自分の家屋の廃墟の上で殺された者もいました。地区の街頭には「われわれ日本軍を信用しなさい。日本軍が皆さんを守り、食料を与えるでしょう」という文句を書いた美しいポスターが貼られたというのに。

南京の店で破壊され、略奪されないものは一軒もありませんでした。街の三分の一は日本人によって焼き払われ、太平路と娯楽街がある夫子廟は姿を消しました。すでに述ベたように、ばらばらのグループがこっそり略奪したあとで、よく組織された正規略奪部隊がやって来ました。一〇ないし一二台のトラックで乗りつけ、それに家財道具を満載し、それから一軒ごとに、あるいはまた一斉に火がつけられました。フィル
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ムの屑を詰めた缶を木箱に入れて運んで来て家の床の上にまき、火をつけたのでした。家屋のブロックが数分のうちに焼失してしまったのです。

私たち欧米人はほとんど絶望的な気持ちでしたが、さらに仕事を続けました。ここで私は、ドイツとアメリカの協力者にたいしてあらためて賞賛のことばを述ベたいと思います。みなしばしば生命の危険に曝されていたにもかかわらず、諦めたりする者はいませんでした。

《難民区の解消と帰国》

二月初旬のころ、状況は多少好転しました。日本軍が交代したのです。撤退する軍も、新たに到着した軍も、まだかなりの略奪をしましたが、それでもある程度の統制がしだいにとれ始めたかのように思えました。憲兵隊は、通常の軍よりましで、そうした理由で安全区の警察業務も行いました。

われわれは、安全区を力ずくでも無人にすると脅し続ける日本人に屈伏しなくてはなりませんでした。われわれは難民にたいして、なんらかの方法で元の家に戻るように、と繰り返し求めました。大部分が老人と子供からなる、約一〇万人の難民たちは、私が出発する以前に実際、地区から転出しました。しかし、日本人にあらためて虐げられたのでまた戻って来た者もなかにはいました。だが大部分はその後も相変わらず地区の外に留まっていましたので、私は――このころには会社に召還されていました――実際に帰国を考慮できるようになりました。

難民たちは私が帰国することを耳にして、はじめのうちは帰国を思い留まらせようと大挙して頼みにきましたが、結局は彼らも事実を受け入れなくてはなりませんでした。私は、イギリス政府の厚い好意で提供された砲艦ビー号で二月二二日に上海に向けて出発することができました。

ここで私は、精力的にわれわれの世話を引き受けて下さったドイツ大使館のローゼン書記官のことを偲びたいと思います。私はかれと日本の一将軍との間で交わされたやりとりを思いだします。このときローゼン博士は、「あなたの軍は統制を失ったので……」などと述ベられたのでしたが、これを受けた日本の将軍が、「何をおっしゃるのです。わが軍は世界でもっとも規律ある軍隊です」と怒鳴ったので、ローゼン博士は、「ああ、そうですか。彼らは命令であれをやったのですね」とやり返されたのです。損害賠償のことが話されたとき、日本人はドイツ大使館員の請求はすぐに認め、しかも現金で支払うと申し出ました。他方では、その他の補償要求は、まず厳密に調査しなくてはならないというのです。ローゼン博士は、そのような特別扱いの特殊取決めは拒否し、このような請求は均等に取り扱い、できる限り速やかに支払うベきだ、と精力的に要求されたのでした。

(かたおか・てつし/駿河台大学教授)


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