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    <title>つながり</title>
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    <description>つながり</description>

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    <title>伊坂幸太郎『砂漠』</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;伊坂幸太郎『砂漠』&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;
　「みんな必死だな」と思う僕を、鳥井は「学生は近視眼型と鳥瞰型に分類できる、北村は鳥瞰型だ」と断定する。「近視眼型は目の前のことしか見えない、鳥瞰型は上から全体を眺めて周囲を見下している」。仙台の繁華街にある、全国チェーンの２階だ。法学部の学生が八十人、集まっていた。鳥井は「よし行くか。女の子と親交を深めないで、何が、大学生だよ」と僕の肩をたたき、立ち上がった。南はちょっとした超能力が使える。東堂は誰が見ても美人だった。そして遅れてきた西嶋は「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と演説した。何事にもさめている僕とその大学生活が、もしかすると彼らによって、劇的なものになるのかもしれない。そんな予感とも期待ともつかない気配を、その時の僕は感じていた。なんてことは、まるでない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　僕はできる限り講義には出席しようとしていたから、朝一番の講義室に空席が増えていく様を見ながら、なかなか興味深いな、と思っていた。西嶋に「四者会談。確率と中国語の勉強」に誘われる。平和を築くのを止めない西嶋が４位で麻雀は終わり、帰り道、東堂が西嶋に惹かれていると告白。東堂は、新入生歓迎のボウリング大会で、下手なのに臆さない、自分を信じる西嶋を見る。翌々日、本を見ながら練習する西嶋も見る。悔しかったのだ。ボウリングが出来なかった自身を。自分を信じているから。「北村だったら絶対やらないでしょ。わたしもそう。でも、じゃあ何の事なら必死にやるのか、って思わない？　結局さ、いざという時はやる、なんて豪語している人は、いざという時が来てもやらない。西嶋はさ、どんなことも真剣勝負なんだよ、言い訳しないで、逃げずに、克服しようとする」。&lt;/p&gt;
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    <dc:date>2014-12-21T15:49:18+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/16.html">
    <title>ひとりでは生きられないのも芸のうち</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;
 日韓両国に共通するのは、一言で言えば「原子化」と「グローバル化」ということだと思います。「原子化」というのは市民たちがさまざまな伝統的紐帯を失って、ばらばらになってしまうことです。人々が「自立」して、「自己実現」をめざして「自己決定」をくだし、その成否についてはすべて「自己責任」を負う。そういう生き方のことです。誰にも依存しない。誰からも依存されない。誰にも迷惑をかけない。誰からも迷惑をかけられない。自分の失敗の責任は誰にも転嫁しない。その代わり自分が獲得したものは誰ともわかちあわない。相互扶助・相互支援の仕組みは要らない。親族も地域社会も要らない。自分に必要なものがあれば貨幣を出して市場で商品
として買えばいい。そういう考え方です。家事労働も、医療も、教育も、介護も、慰安も、快楽も、すべては商品として市場に並んでいる。誰でも金さえ出せば買えるのだから、ひとりひとりはただ「で
きるだけ多くの貨幣をできるだけ効率よく稼ぐこと」だけに集中すればよい。十分な貨幣を稼げない人間は、人間として必要な最低限のサービスを受けられず、
ついには路上生活に転落して窮死するしかないが、それは「自己責任」である。それが「原子化した市民」の生き方です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
 一方、「グローバル化」というのは、商品、資本、人間、情報が国境を越えて超高速で移動することです。「世界のフラット化」という言い方をすることもあります。国民国家はそれぞれが固有の言語、固有の通貨、固有の度量衡、固有の法制度、固有の文化を持っていますが、グローバル化というのは、そういうものは「はっきり言って、邪魔」という立場のことです。国境のボーダーコントロールを廃し、国語をやめて英語を公用語にし、通貨も度量衡も経済法制も世界同一にし、消費者の価値観や欲望やライフスタイルも世界同一にし、労働者の規格も賃金も世界同一にする。それがグローバル化ということです。つまりは「国民国家を解体して、世界市場に組み込む」ということなのですが、その目標に向かって日本も韓国もまっしぐらに進んでいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、どうして「そんなこと」をしなければならないのか、それについてのきちんとした説明を僕は聞いたことがない。政治家も官僚もビジネスマンも学
者もメディアも「国の仕組みをすべてグローバル化に最適化しないと、われわ    </description>
    <dc:date>2014-12-23T12:03:46+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/15.html">
    <title>『評価と贈与の経済学』</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/15.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;評価と贈与の経済学&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;　自分の気持ち至上主義&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
&lt;span&gt;岡田氏によれば、私たちは戦後民主主義のもと、「自分の気持ちを大切に」、「自分らしく生きなさい」と教わり続け、障害を乗り越えて自分の気持ちや自分らしさを貫き通す生き方を「カッコいい」、「美しい」と感じる価値観を刷り込まれて育ってきた。&lt;/span&gt;つまり、&lt;strong&gt;行為を「自己決定」するに際して、「自分の気持ち」を至上の判断基準とするような、生きる上での態度（エートス）&lt;/strong&gt;のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
情報社会の現代では、この世界にはたくさんの人がいて自分はその中のちっぽけな一個人にすぎないんだということに、誰もが嫌でも気づかされる。そしてそのことによってかえって唯一無二の自分の個性を、気持ちを大切にしようという「自分の気持ち至上主義」が立ちあがってくる、というのだ。これは自
分の気持ちに現実を妥協しないということであり、ひと言で言ってしまえば、みんなわがままになってしまったってことを意味する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
昔は貧しかったから、自分が「何が好きだ」とか「やりたいことを探す」よりも、生きるためにさっさと一人前になることが大事だった。豊かになると、やりたいことをやるのが幸せなことだと考えられるようになって、それで「自分の気持ち至上主義」になってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
「気持ち」というのは常に変化を続けながら、苦痛を避けて快楽を求めようと動くものなので、それを満足させ続けようとするのであれば、「気持ち」を喜ばせる新鮮な「刺激」を、不断に与え続けるしかありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
要するに、&lt;strong&gt;「自分の気持ち至上主義者」は、最終的には「刺激ジャンキー」になるほかはない&lt;/strong&gt;わ
けですが、それで一生を満足して過ごすことができるのは、「気持ち」に（刺激という）「ドラッグ」を与え続けることに成功した、ごく一部の人たちだけなの
であって、多くの人たちは、「気持ちいいことが幸福であり、よいことである」という意識だけはもちながらも、実際にはそれが達成できないことも多いですか
ら、    </description>
    <dc:date>2014-12-21T09:40:54+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/14.html">
    <title>一般常識</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:20px;&quot;&gt;美術・建築&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルネサンス期　1400-1600&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モナ・リザ」「最後の晩餐」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最後の審判」「ダビデ像」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ヴィーナスの誕生」「春」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アテナイの学堂」「ベルヴェデーレの聖母」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バロック期　1600-1700&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キリスト降架」「キリスト昇架」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「真珠の耳飾りの少女」「牛乳を注ぐ女」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夜警」「風車」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ラス＝メリーナス（女官たち）」「教皇インノケンティウス10世」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「無原罪の御宿り」「聖母子」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロマン主義&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;写実主義&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;印象派&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ポスト印象派&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現代美術&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ゲルニカ」「アビニヨンの娘たち」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「笛を吹く少年」「草上の昼食」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「睡蓮」「印象・日の出」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「タヒチの女たち」「黄色いキリスト」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひまわり」「アルルの跳ね橋」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「民衆を率いる自由の女神」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「落穂拾い」「晩鐘」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「記憶の固執」「チュッパチャップスロゴ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「カレーの市民」「考える人」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「グランドジャット島の日曜日の午後」&lt;/p&gt;
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    <dc:date>2014-12-18T17:49:49+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/13.html">
    <title>東大オタク学講座</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;
　「ファン」というのは、対象が好きでたまらないという、主観的な状態。「マニア」というのは、対象そのものよりもそれに対する研究や収集にのめり込んでいる、客観的な状態。「オタク」とは、対象が自分にとってどういうものなのか、対象と自分との関係を考えて再配列できるところまで振り切った状態である。「オタク」は茶道や華道のような「道」に近く、絶対的な正解はない。独自の視点から導き出した「通の目」を整理し発展させていく、自己求道のような修行の過程である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
「オタク」にとって、作品とは語るものである。自分にとって対象とはいったいなんなんだろうと考えることだ。その評価基準を形成しているのは、観察者が属している文化的バックグラウンドである。自分が対象とであったときに、どう感じたのか。対象と自分の間に横たわる、感じ方を決定するバイアスについて探っていくことが批評である。音楽や映画などの作品インタビューにおいて、僕らはついつい正解を求めてしまう。つまり作者と作品の関係の中に僕らが理解すべきメッセージが詰まっていると思いがちであるが、それは違う。正解というのは、「対象と観察者」の間に存在するのだ。映画にしろゲームにしろマンガにしろ、もともと何かを体験するというのは大変孤独なことだ。その作品と自分との間に発生した感動は誰とも共有できない。年代や性別や家庭環境や経験によって、人それぞれ受け取るメッセージは違うからだ。批評というのは、この耐えられない孤独を解消するために感動を言語化し、他人に情理を尽くして共有しようという行為なのだ。　&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマートノート&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;　私は大学のときからメモをつけていました。議論の際はポケットからメモを取り出して書きながら話をしていました。&lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2014-12-19T00:24:07+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/12.html">
    <title>マルク・レビンソン『コンテナ物語』</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/12.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;岡田斗司夫『フロン』&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;
　男は家庭問題を軽く見ています。頭がいい男は「天下国家を語り、家庭や子育てをないがしろに」し、残りの男は「天下国家も、家庭や教育も、考えたこともない。頭の中は、車とセックスとギャンブルだけ」という人たちなのです。なぜそう思うかといえば、「朝まで生テレビ！」の出演で感じたことだからです。そこで行われる討論は、他人の言うことは聞かず、自分の論を主張するだけの場なのですが、そこで感じた違和感どうやら有識者の皆さんは「国家のことを語ってナンボ」だと思っているフシがあるということです。「日本はこうあるべき」と滔々と語り倒す半面、家族と自分という足元がスカスカで、無理やり大層なことを言ってバランスを取ろうとしているようにしか見えませんでした。一方、朝のワイドショーでは、浮気・離婚・セックスレス・専業主婦……。べったりと地面に張り付いた下世話な話題が続きます。たとえば家庭観の変遷の歴史、各国の家庭観といった比較で議論は一層深まります。が、そんな理性的な議論はなく、良い・悪い、好き・嫌い、当然そうするべき・するしないは個人の自由、といった不毛な口論に偏ってしまいます。視聴者も、自分の人生を顧みるよりは、他人の不幸を見てまだマシと慰める。じゃあ、自分はどうするのか。自分の生活と無関係と言う意味では、朝生の討論と変わらないのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもが生まれた&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　これが人生の転機になったようです。ＳＦチックで非現実な夢物語を考えている場合ではない、という気分になってきました。子どもが生まれてからずっと、自分が父親になるということは、どういうことなのか、自分がどうあるべきか、考え続けました。「どうして世の中はこうなっちゃってるの？」「これって間違っているんじゃない」「大人って汚い」……。こういう質問を投げかけられる立場にいるのだという事実を受け入れるのにずいぶん時間がかかりました。でも、子どもに「間違っている！」と言われたときに、「本当はこうしたかったので、こういうふうにがんばった。だけど、結局こうなってしまった」という説明くらいはできるようになっておきたい、と思いました。私は、それまでの仲間から離れ、社会について考えたことを本にする仕事を始めました。考えてみると、それまで私は、この世    </description>
    <dc:date>2014-12-21T07:54:04+09:00</dc:date>
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  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/11.html">
    <title>内田樹『街場の大学論』</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/11.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;内田樹『街場の大学論』&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;ニッポンの教育はどこへ行く&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　「誰が日本の教育をこんなにしてしまったか」という議論は不毛である。教育問題には被害者しかいないからだ。そこから脱却して、「誰がしたのか分からないが、たまたま現場に居合わせた以上は私がなんとかするしかない」と考える人たちを糾合して、手持ちの使える限りのリソースを動員して、できる限りのことをするしかない。「学ぶ」ことができない、「学ぶ」意味が分からない子どもたちがいま組織的に作り出されている。そんな大量の元・子どもを抱え込むコストは国民全体にとっても不幸なことである。彼らを学びへと動機付けるのは大人の責務である。「損か得か」という基準がいまの日本人たちの行動を決定する支配的なモチベーションになっている。この子どもでも分かる価値観から、どう学びを動機付ければよいか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　なぜ学力が低下するか。それは学力低下が主観的には利益を得ているように錯覚するからである。人間は利益のないことはしない。これがすべての社会問題を考える時の前提である。子どもたちは同学齢集団の中で競争する。偏差値と言うのは、その中の相対的な学力指数であって、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。相対的な学力を上げるのであれば方法は２通りある。自分の学力を上げること、そして他人の学力を下げることである。だから閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」に努力を優先的に向けるようになる。学生の学力低下の原因は「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。その暗黙の合意に基づいてお互い「他人の学力を低下させること」に努めてきた、その結果「こんな世の中」になってしまったのである。誰が悪いわけでもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　学ぶというのは情報を増やすことではない。「自分が何を知らないか」について知ることである。学校と言うのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。一方、受験勉強は自分が知っていることに特化することを子どもたちに強いる。「自分の知らない/できないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っている/できること」は共同体的に意味を持つ。    </description>
    <dc:date>2014-12-13T13:21:00+09:00</dc:date>
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  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/10.html">
    <title>機嫌良く生きる</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/10.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;「ご機嫌」に生きよう(提案)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;なぜ「ご機嫌」か&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(34,34,34);font-family:arial, sans-serif;font-style:normal;font-variant:normal;font-weight:normal;letter-spacing:normal;line-height:normal;text-indent:0px;text-transform:none;word-spacing:0px;float:none;background-color:rgb(255,255,255);&quot;&gt;
　ご機嫌でいるのは難しい。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(34,34,34);font-family:arial, sans-serif;font-style:normal;font-variant:normal;font-weight:normal;letter-spacing:normal;line-height:normal;text-indent:0px;text-transform:none;word-spacing:0px;float:none;background-color:rgb(255,255,255);&quot;&gt;人間なら嫌な事は常に起こるし、体調が悪い時だってある。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(34,34,34);font-family:arial, sans-serif;font-style:normal;font-variant:normal;font-weight:normal;letter-spacing:normal;line-height:normal;text-indent:0px;text-transform:none;word-spacing:0px;float:none;background-color:rgb(255,255,255);&quot;&gt;そんなにいつも機嫌良    </description>
    <dc:date>2014-12-10T16:37:55+09:00</dc:date>
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  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/8.html">
    <title>内田樹「呪いの時代」</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/8.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:18px;&quot;&gt;内田樹　『呪いの時代』&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;呪いとはなにか　&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;　「弱者」は救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」は償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義」は公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。それが他者のみならず自身へ向かう呪いとしても機能していることにはあまりに無自覚です。ネット上ではもっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視されます。その「呪い」の言説が際だってきたのは、1980年代の半ば、「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」や「辛口」、「毒舌」と同義になってきた頃からでした。「呪い」とは破壊することを目指します。それは破壊することがはるかに簡単だからです。身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、何かを破壊する生き方を選択します。破壊する者の側に回れば、創造した側と対等、あるいは上位に立つことさえ可能だからです。新しいものを創り出すことは、個人的であり具体的なことです。創造する側は匿名性にも忘却にも逃れられずに自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。何も作品を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;自己評価と外部評価&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;　「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。高い自己評価と低い外部評価の落差を埋めるためには、ふつうの人は外部評価を高めるために努力します。けれども中には違う努力で高い自己評価を維持しようと試みる人たちがいます。たとえば「引きこもり」は、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して評価されない    </description>
    <dc:date>2014-12-07T19:04:11+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/produce/pages/7.html">
    <title>古市憲寿「僕たちの前途」</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/produce/pages/7.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:16px;&quot;&gt;古市憲寿『働き方は「自分」で決める』&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;p&gt;つながりの力&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14px;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0,0,0);&quot;&gt;　大企業に所属しないで働く人にとって決定的に大事なのは、「つながり」の力だ。あるアメリカのミュージシャンは、「成功」のためには「大勢の友人をもつこと」が大切だと答えている。&lt;span style=&quot;font-size:18px;&quot;&gt;「いい演奏をやらなくちゃいけないが、いろんなバンドに友だちをつくっておかなければならない」&lt;/span&gt;というのだ。「友だち」というのはただ相談に乗ってくれるような存在ではない。ある時は新しい仕事を紹介してくれ、ある時は「彼の演奏は確かだよ」と保証人になってくれる。組織に属することのないフリーミュージシャンたちは、人間関係の数と質によって職業を安定させているのだ。ここでいう「友だち」というのは、何も本当に親しい友人である必要はない。社会学者のグラノヴェターが言うには、強い絆で結ばれた親しい友人同士は同じような業界で、似たような仕事をしていることが多い。一方で、「弱いつながり」の相手は自分と異なる世界で暮らしている可能性が高い。だからこそ、「強い絆」の世界では決して見つからないような、新しいチャンスを提示してくれるのだ。「つながり」のことを社会学では「社会関係資本」と呼ぶ。この社会関係資本は「ブジッジ型」と「ボンド型」の二種類に分けることができる。ブリッジ型というのは、架け橋のように異質な者同士の関係を指す。一方で、ボンド型というのは同質的で親しいもの同士のつながりのことだ。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
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&lt;p&gt;〔スケッチ０〕&lt;/p&gt;
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「起業した方がいいと思いますか？」よく相談される。でも、僕のこたえは「一〇〇％絶対に起業はやめた方がいい」に決まっている。どんなに成功の要素が詰まっていようと成功する保証なんてないし、成功し続けない限りそれは失敗と同義の起業は確率論で言えばかなり分が悪い。そのことを知りながら、人生を賭ける判断を相談された時に、起業した方がいいなんて無責任なことは言えない。そもそも、「    </description>
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