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***100年 #ref(ehinlans100-1.bmp) 大陸はまさに群雄割拠となっていた。各地の反乱軍同士の抗争、統合により地方ではまとまった勢力が確立されつつある。 特に危険なのは東方のラスケルン家と北辺のタスクベルク家である。両家は帝国の権力の届かない辺境で兵力を増やし、帝国以上の勢力を築こうとしている。 この状況を打開すべく、帝国軍司令官コンエンナ・ヒンデンディーは帝国宰相に任命される。 この人事は軍の暴走を恐れる一部の文官からの反感を買ったが、帝国最大派閥の領袖であるティレイオス・ビュベルク大将が賛同したことにより反対意見も抑えられた。 ビュベルク大将の父は軍の前司令官であり、彼自身参謀長としてその権力基盤を維持していた。 3月 テッセソン侯領に反乱軍が侵攻する。帝国は侯の帝位継承権を認める条件でテッセソン侯と不戦条約を結んでおり、互いが攻められた場合援軍か物資を送ることになっていた。 今回帝国は宰相の提案により、援軍として宰相の子飼いであるレイムビアウ中将を派遣。 敵軍は6万、わが連合軍は3万と劣勢であったが、レイムビアウ率いる長槍兵が敵の騎兵を食い止め、みごと勝利する。 本来なら大将に昇進しても不思議はない戦功だが、功をあせって退路を断たれたことなどが咎められ、昇進には至らなかった。 7月 反乱軍の指導者の一人、アルナワル・ワーツェが病死。養子のヘヴィンが後を継ぐ。 8月 テッセソン侯が反乱鎮圧への協力を求めてくる。ビュベルク参謀長がテッセソン侯の動向を探る目的も兼ねて出陣を志願し、戦地へ赴いた。 この戦いは山上に陣取った敵に本陣を衝かれて敗退したものの、ビュベルクは重要な情報をつかんだ。 反乱軍がテッセソン侯に和平を打診し、テッセソン侯が独断でこれを受諾したというのだ。 ところが侯から帝国にはこれについて公式な説明が一切なされず、帝国はこれに抗議した。 その際、愚かなテッセソン侯はそのような事実はないと白をきり、両国の関係は一気に悪化した。 ヒンデンディー宰相とビュベルクはこれを口実にテッセソン侯領の討伐を主張、強硬派の支持を得て南征が決定される。 この戦役に際し、宰相自ら率いる第一軍とレイムビアウ中将率いる第二軍が編成された。両軍の連携でテッセソン侯の居城ブルタンを電撃的に攻略する作戦であった。 #ref(ブルタン攻撃作戦1.bmp) 宣戦布告と同時に第一軍はブルタンを南から、第二軍は北から攻撃すべく行動を開始する。 第一軍はマニツェイル城を陥落させ、第二軍はブルタンの北バイエツェで敵軍と交戦し、勝利。 この戦いで我が軍はプルフェン少将を失ったが、一月に二つの城を占領されたテッセソン侯は大きな痛手をこうむった。 9月 南征を開始したのは帝国だけではなかった。北方のタスクベルク軍が西進してさらに勢力を伸ばし、国境付近のゲリクハウゼンに侵攻したのだ。 帝国はほぼ全軍を南征に向けていて北辺の防備をを手薄にしていたため、ゲリクハウゼン城はすぐに陥落した。 レイムビアウ中将の第二軍は北へ転進し、タスクベルク軍に備えることとなった。 10月 タスクベルク軍と交戦状態に入った帝国軍は反攻作戦に出る。第二軍がタスクベルク領ベスガルトにて敵軍と交戦。 平原に敵を誘導した上で騎兵の機動力を利用して本隊に集中攻撃をかけ、敵の援軍が到着する前に本隊を撃破、ベスガルトを占領した。 //この戦いで敵本陣への突撃を担当したパトテルク准将はその功績を認められ、少将に昇進する。 12月 この月、ラスケルン軍の圧倒的な兵力により、ファレンビアウ公領が滅亡する。 北部での戦いにより作戦に遅滞をきたしたテッセソン侯との戦いは、ビュベルク参謀長が2万5千の兵を率いて敵領オーバランスを攻撃したが、 良将レトゥス・ケルンブルク元帥率いる3万6千による包囲攻撃を受けて准将2名と2万の兵を失い、参謀長自身も負傷する大敗を喫した。 敵軍の準備が整わないうちに首都を攻略するという宰相の作戦はこの敗戦により頓挫した。 ***101年 #ref(ehinlans101-1.bmp) 2月 タスクベルク軍3万7千が、10月に帝国軍が占領したベスガルトへ侵攻。ビュベルク参謀長率いる3万2千がこれを迎撃し、敵の側面を衝いて勝利。 この勝利を機に講和条約が結ばれ、タスクベルク軍との戦争は引き分けに終わった。 //9月にタスクベルク軍に占領されていたゲリクハウゼンの住民が反乱を起こす。 5月 タスクベルク軍との講和により後顧の憂いを断った帝国は再びテッセソン侯領を攻撃する。 今度こそオーバランスを占領すべくビュベルクが2万7千を率いて出陣し、ケルンブルクの養子のフィラデルジヤ率いる4万5千の敵軍と対陣した。 ビュベルクは中央に騎兵隊を集中投入し、両翼の歩兵隊が敵の攻撃を持ちこたえている間に本隊を突破する戦術に出た。 騎兵隊は見事に本隊を撃破、フィラデルジヤ自身も捕えられたが、身代金と引き換えに釈放された。 6月 ベスガルトの城主がタスクベルク軍に城を明け渡し、タスクベルク軍との講和条約が破棄された。 何者かの工作によってゲッテンバーク軍と周辺国との関係が悪化しているとの情報が入り、帝国軍はゲッテンバーク領ロスリンを奇襲し、占領した。 これにより帝国はゲッテンバーク領を南北に分断することに成功した。 #ref(分断1.bmp) ▲北側の広大な地域が孤立。帝国や周辺国の軍は孤立したゲッテンバーク領の接収に入る。 9月 タスクベルク軍1万3千がラインツラフに侵入。ビュベルク参謀長が3万6千の兵力をもってこれを包囲、撃退。 //この戦いの功績により、バルトロマイオス・クウェベルク准将が少将に昇進。 12月 領土を分断されたゲッテンバーク軍を完全に殲滅すべく、陛下が全土に勅令を発する。 ゲッテンバーク軍を逆賊とし、その討伐を命じたのだ。周辺の反乱軍はこの勅令に従い、帝国の権威が健在であることが証明された。 タスクベルク軍が3万の兵力で再びラインツラフへ侵攻。ビュベルクは野戦をあきらめ、1万9千の兵とともにラインツラフ城に篭城した。 ***画像、能力値 #ref(アンス・ミットダン陛下a.bmp) ▲陛下は人をのせるのがうまいお方で、普段から我々臣下と談笑なさるのがお好きである。幼い頃から書物に親しんでおられ、教養もお持ちであった。  宰相とは特に親密で、古い兵書の解釈についてよく議論を交わしておられた。 #ref(ヒンデンディー宰相a.bmp) ▲ヒンデンディー宰相は戦場において一歩も退かない不屈の将として名が通っており、忠臣としても有名であった。 #ref(ティレイオス・ビュベルクa.bmp) ▲ビュベルク大将は参謀長の職にあって権力を振るっているが、諸将を彼の元に引きつけているのは彼自身ではなく、その父の人望である。 #ref(レトゥス・ケルンブルク元帥a.bmp) ▲テッセソン侯の片腕として東部方面軍をつかさどる。戦績の良いビュベルクを難なく破る歴戦の騎士。
***100年 #ref(ehinlans100-1.bmp) 大陸はまさに群雄割拠となっていた。各地の反乱軍同士の抗争、統合により地方ではまとまった勢力が確立されつつある。 特に危険なのは東方のラスケルン家と北辺のタスクベルク家である。両家は帝国の権力の届かない辺境で兵力を増やし、帝国以上の勢力を築こうとしている。 この状況を打開すべく、帝国軍司令官コンエンナ・ヒンデンディーは帝国宰相に任命される。 この人事は軍の暴走を恐れる一部の文官からの反感を買ったが、帝国最大派閥の領袖であるティレイオス・ビュベルク大将が賛同したことにより反対意見も抑えられた。 ビュベルク大将の父は軍の前司令官であり、彼自身参謀長としてその権力基盤を維持していた。 3月 テッセソン侯領に反乱軍が侵攻する。帝国は侯の帝位継承権を認める条件でテッセソン侯と不戦条約を結んでおり、互いが攻められた場合援軍か物資を送ることになっていた。 今回帝国は宰相の提案により、援軍として宰相の子飼いであるレイムビアウ中将を派遣。 敵軍は6万、わが連合軍は3万と劣勢であったが、レイムビアウ率いる長槍兵が敵の騎兵を食い止め、みごと勝利する。 本来なら大将に昇進しても不思議はない戦功だが、功をあせって退路を断たれたことなどが咎められ、昇進には至らなかった。 7月 反乱軍の指導者の一人、アルナワル・ワーツェが病死。養子のヘヴィンが後を継ぐ。 8月 テッセソン侯が反乱鎮圧への協力を求めてくる。ビュベルク参謀長がテッセソン侯の動向を探る目的も兼ねて出陣を志願し、戦地へ赴いた。 この戦いは山上に陣取った敵に本陣を衝かれて敗退したものの、ビュベルクは重要な情報をつかんだ。 反乱軍がテッセソン侯に和平を打診し、テッセソン侯が独断でこれを受諾したというのだ。 ところが侯から帝国にはこれについて公式な説明が一切なされず、帝国はこれに抗議した。 その際、愚かなテッセソン侯はそのような事実はないと白をきり、両国の関係は一気に悪化した。 ヒンデンディー宰相とビュベルクはこれを口実にテッセソン侯領の討伐を主張、強硬派の支持を得て南征が決定される。 この戦役に際し、宰相自ら率いる第一軍とレイムビアウ中将率いる第二軍が編成された。両軍の連携でテッセソン侯の居城ブルタンを電撃的に攻略する作戦であった。 #ref(ブルタン攻撃作戦1.bmp) 宣戦布告と同時に第一軍はブルタンを南から、第二軍は北から攻撃すべく行動を開始する。 第一軍はマニツェイル城を陥落させ、第二軍はブルタンの北バイエツェで敵軍と交戦し、勝利。 この戦いで我が軍はプルフェン少将を失ったが、一月に二つの城を占領されたテッセソン侯は大きな痛手をこうむった。 9月 南征を開始したのは帝国だけではなかった。北方のタスクベルク軍が西進してさらに勢力を伸ばし、国境付近のゲリクハウゼンに侵攻したのだ。 帝国はほぼ全軍を南征に向けていて北辺の防備をを手薄にしていたため、ゲリクハウゼン城はすぐに陥落した。 レイムビアウ中将の第二軍は北へ転進し、タスクベルク軍に備えることとなった。 10月 タスクベルク軍と交戦状態に入った帝国軍は反攻作戦に出る。第二軍がタスクベルク領ベスガルトにて敵軍と交戦。 平原に敵を誘導した上で騎兵の機動力を利用して本隊に集中攻撃をかけ、敵の援軍が到着する前に本隊を撃破、ベスガルトを占領した。 //この戦いで敵本陣への突撃を担当したパトテルク准将はその功績を認められ、少将に昇進する。 12月 この月、ラスケルン軍の圧倒的な兵力により、ファレンビアウ公領が滅亡する。 北部での戦いにより作戦に遅滞をきたしたテッセソン侯との戦いは、ビュベルク参謀長が2万5千の兵を率いて敵領オーバランスを攻撃したが、 良将レトゥス・ケルンブルク元帥率いる3万6千による包囲攻撃を受けて准将2名と2万の兵を失い、参謀長自身も負傷する大敗を喫した。 敵軍の準備が整わないうちに首都を攻略するという宰相の作戦はこの敗戦により頓挫した。 ***101年 #ref(ehinlans101-1.bmp) 2月 タスクベルク軍3万7千が、10月に帝国軍が占領したベスガルトへ侵攻。ビュベルク参謀長率いる3万2千がこれを迎撃し、敵の側面を衝いて勝利。 この勝利を機に講和条約が結ばれ、タスクベルク軍との戦争は引き分けに終わった。 //9月にタスクベルク軍に占領されていたゲリクハウゼンの住民が反乱を起こす。 5月 タスクベルク軍との講和により後顧の憂いを断った帝国は再びテッセソン侯領を攻撃する。 今度こそオーバランスを占領すべくビュベルクが2万7千を率いて出陣し、ケルンブルクの養子のフィラデルジヤ率いる4万5千の敵軍と対陣した。 ビュベルクは中央に騎兵隊を集中投入し、両翼の歩兵隊が敵の攻撃を持ちこたえている間に本隊を突破する戦術に出た。 騎兵隊は見事に本隊を撃破、フィラデルジヤ自身も捕えられたが、身代金と引き換えに釈放された。 6月 ベスガルトの城主がタスクベルク軍に城を明け渡し、タスクベルク軍との講和条約が破棄された。 何者かの工作によってゲッテンバーク軍と周辺国との関係が悪化しているとの情報が入り、帝国軍はゲッテンバーク領ロスリンを奇襲し、占領した。 これにより帝国はゲッテンバーク領を南北に分断することに成功した。 #ref(分断1.bmp) ▲北側の広大な地域が孤立。帝国や周辺国の軍は孤立したゲッテンバーク領の接収に入る。 9月 タスクベルク軍1万3千がラインツラフに侵入。ビュベルク参謀長が3万6千の兵力をもってこれを包囲、撃退。 //この戦いの功績により、バルトロマイオス・クウェベルク准将が少将に昇進。 12月 領土を分断されたゲッテンバーク軍を完全に殲滅すべく、陛下が全土に勅令を発する。 ゲッテンバーク軍を逆賊とし、その討伐を命じたのだ。周辺の反乱軍はこの勅令に従い、帝国の権威が健在であることが証明された。 タスクベルク軍が3万の兵力で再びラインツラフへ侵攻。ビュベルクは野戦をあきらめ、1万9千の兵とともにラインツラフ城に篭城した。 ***画像、能力値 #ref(アンス・ミットダン陛下a.bmp) ▲陛下は人をのせるのがうまいお方で、普段から我々臣下と談笑なさるのがお好きである。幼い頃から書物に親しんでおられ、教養もお持ちであった。  宰相とは特に親密で、古い兵書の解釈についてよく議論を交わしておられた。 #ref(ヒンデンディー宰相a.bmp) ▲ヒンデンディー宰相は戦場において一歩も退かない不屈の将として名が通っており、忠臣としても有名であった。 #ref(ティレイオス・ビュベルクa.bmp) ▲ビュベルク大将は参謀長の職にあって権力を振るっているが、諸将を彼の元に引きつけているのは彼自身ではなく、その父の人望である。 #ref(レトゥス・ケルンブルク元帥a.bmp) ▲テッセソン侯の片腕として東部方面軍をつかさどる。戦績の良いビュベルクを難なく破る歴戦の騎士。

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