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***101年 ハミード軍滅亡直後の勢力図 #ref(ostland101-2.jpg) 3月 ハミードを滅ぼしたラベンツラフ軍は、ヤースィーン軍との直接対決に向けて準備を進めていた。 そして、この月アーケイゲルント中将率いる3万1千の軍勢がミュールハイトへ侵攻。敵はルクン中将率いる4万3千。 参謀であるエーツェ少将の指揮はお世辞にもうまいとは言えなかった。 敵が三列に陣形を整えていたのに対し、エーツェは右翼に騎兵を集中投入した。 これはそれほどおかしなやり方ではない。だが、いかんせん左翼や本隊が手薄になりすぎた。 そしてさらに悪いことに、案の定敵の猛攻を受けた我々本隊が必死に耐えているにもかかわらず、 敵軍と交戦すらしていないエーツェはそれ以上の戦闘は無益と判断し、独断で撤退命令を出したのだ。 アーケイゲルントは撤退など考えてもおらず、部隊に引き続き抗戦するよう命じたため、指揮系統には深刻な混乱が生じた。 我々にも退却と攻撃の命令が交互に届き、混乱の中多くの犠牲者と逃亡者が出た。 結局我が軍は7千の損害を出して潰走した。 アーケイゲルントは「エーツェは戦のやり方も知らぬのか」とこぼしていたが、 自分の党派に属するエーツェを参謀に任じたのは彼自身であったため、表立って叱責することはなかった。 6月 ルクセンドル公率いる2万の軍勢がミュールハイトを再度攻撃。 途中3万の援軍を得たルクセンドル公は迎撃に出たクラドディー太守イスマート率いる2万2千を撃破、ミュールハイトを占領する。 しかしルクセンドル公はこの戦いで負傷し、危篤に陥った。 この月、サビーフ・アンワル連合軍4万がモンベシチに侵攻。ケンプディー元帥の4万がこれを迎撃する。アーケイゲルント中将は参謀として随軍した。 両軍はそれぞれ丘の斜面に布陣した。接敵した我々の部隊は後退しながら戦うことで常に高さの優位を保とうとしていた。 しかし敵軍はしぶとく攻撃を続け、我々のほうが疲弊しはじめていた。他の前線においても右翼の騎兵隊が敗退するなど、全体的に押され気味であった。 押される我が軍に痺れを切らしたケンプディー元帥は自ら突撃を敢行、敵の本陣に迫ったものの損耗が激しく、本隊は壊滅。 ケンプディー元帥は少数の部下とともに血路を開いて離脱した。 なお、この戦いで部下のガスト・シュピーラーが敵の騎士を討ち取り、賞金を受け取った。 フィッチツェに戻った我々を待っていたのは弔旗であった。ルクセンドル公が息を引き取ったのだった。 彼には後継者がなかったため、フィッチツェ公の位はセオドロ・オフェンディー上級大将に受け継がれた。 #ref(セレスバーン・ルクセンドル公c.png) &bold(){名声103} ---- #ref(セオドロ・オフェンディー公a.png) ▲若いオフェンディーは才能こそあったが、経験が乏しかった。そのため老将たちからは兵書そのままの生兵法とけなされることもあった。 ---- 7月 カリムメッツに侵攻したローエンリンゲン軍2万8千をオフェンディー公の2万3千が撃退。 ヤースィーン軍がレイムケルンを奪回すべく侵攻し、迎撃軍は篭城を決定。レイムケルン城は包囲される。 8月 ヤースィーン軍に包囲されていたレイムケルン城が陥落。 ローエンリンゲン軍2万4千がルーベディーに侵攻するも、ケンプディー元帥率いる1万6千が撃退。 11月 ヤースィーン軍がミュールハイトとハノフェルトに侵攻、ケンプディー元帥とワーシー宰相率いる迎撃軍はそれぞれ敗北し、両都市は占領される。 ***102年 #ref(ostland102-1.png) ▲度重なる敗戦でヤースィーン軍とラベンツラフ軍の国力にはいつしか大きな差が開いていた。 2月 クラドトラスにヤースィーン軍6万1千が侵攻。各地に戦線を広げたラベンツラフ軍は2万6千しか兵力を動員できず、敗北。この敗戦により、フィッチツェは孤立した。 ルクセンドル公が亡くなったこともあって我々はこの機会に落ち目のラベンツラフ軍を離れ、オストラント東部のブラウグラム軍に仕えることにした。
***101年 ハミード軍滅亡直後の勢力図 &ref(ostland101-2.jpg) 3月 ハミードを滅ぼしたラベンツラフ軍は、ヤースィーン軍との直接対決に向けて準備を進めていた。 そして、この月アーケイゲルント中将率いる3万1千の軍勢がミュールハイトへ侵攻。敵はルクン中将率いる4万3千。 参謀であるエーツェ少将の指揮はお世辞にもうまいとは言えなかった。 敵が三列に陣形を整えていたのに対し、エーツェは右翼に騎兵を集中投入した。 これはそれほどおかしなやり方ではない。だが、いかんせん左翼や本隊が手薄になりすぎた。 そしてさらに悪いことに、案の定敵の猛攻を受けた我々本隊が必死に耐えているにもかかわらず、 敵軍と交戦すらしていないエーツェはそれ以上の戦闘は無益と判断し、独断で撤退命令を出したのだ。 アーケイゲルントは撤退など考えてもおらず、部隊に引き続き抗戦するよう命じたため、指揮系統には深刻な混乱が生じた。 我々にも退却と攻撃の命令が交互に届き、混乱の中多くの犠牲者と逃亡者が出た。 結局我が軍は7千の損害を出して潰走した。 アーケイゲルントは「エーツェは戦のやり方も知らぬのか」とこぼしていたが、 自分の党派に属するエーツェを参謀に任じたのは彼自身であったため、表立って叱責することはなかった。 6月 ルクセンドル公率いる2万の軍勢がミュールハイトを再度攻撃。 途中3万の援軍を得たルクセンドル公は迎撃に出たクラドディー太守イスマート率いる2万2千を撃破、ミュールハイトを占領する。 しかしルクセンドル公はこの戦いで負傷し、危篤に陥った。 この月、サビーフ・アンワル連合軍4万がモンベシチに侵攻。ケンプディー元帥の4万がこれを迎撃する。アーケイゲルント中将は参謀として随軍した。 両軍はそれぞれ丘の斜面に布陣した。接敵した我々の部隊は後退しながら戦うことで常に高さの優位を保とうとしていた。 しかし敵軍はしぶとく攻撃を続け、我々のほうが疲弊しはじめていた。他の前線においても右翼の騎兵隊が敗退するなど、全体的に押され気味であった。 押される我が軍に痺れを切らしたケンプディー元帥は自ら突撃を敢行、敵の本陣に迫ったものの損耗が激しく、本隊は壊滅。 ケンプディー元帥は少数の部下とともに血路を開いて離脱した。 なお、この戦いで部下のガスト・シュピーラーが敵の騎士を討ち取り、賞金を受け取った。 フィッチツェに戻った我々を待っていたのは弔旗であった。ルクセンドル公が息を引き取ったのだった。 彼には後継者がなかったため、フィッチツェ公の位はセオドロ・オフェンディー上級大将に受け継がれた。 &ref(セレスバーン・ルクセンドル公c.png) &bold(){名声103} 7月 カリムメッツに侵攻したローエンリンゲン軍2万8千をオフェンディー公の2万3千が撃退。 ヤースィーン軍がレイムケルンを奪回すべく侵攻し、迎撃軍は篭城を決定。レイムケルン城は包囲される。 8月 ヤースィーン軍に包囲されていたレイムケルン城が陥落。 ローエンリンゲン軍2万4千がルーベディーに侵攻するも、ケンプディー元帥率いる1万6千が撃退。 11月 ヤースィーン軍がミュールハイトとハノフェルトに侵攻、ケンプディー元帥とワーシー宰相率いる迎撃軍はそれぞれ敗北し、両都市は占領される。 ***102年 &ref(ostland102-1a.png) ▲度重なる敗戦でヤースィーン軍とラベンツラフ軍の国力にはいつしか大きな差が開いていた。 2月 クラドトラスにヤースィーン軍6万1千が侵攻。各地に戦線を広げたラベンツラフ軍は2万6千しか兵力を動員できず、敗北。この敗戦により、フィッチツェは孤立した。 ルクセンドル公が亡くなったこともあって我々はこの機会に落ち目のラベンツラフ軍を離れ、オストラント東部のブラウグラム軍に仕えることにした。 私たちが宿屋でフィッチツェ陥落の報せを受けたのはフィッチツェを去った数日後であった。

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