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 『ひょひょいの憑依っ!』Act.5 - (2007/02/04 (日) 16:04:26) の1つ前との変更点

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<p> 『ひょひょいの憑依っ!』Act.5<br> <br> <br> 夕闇が迫る下町の風景は、どうして、奇妙な胸騒ぎを運んでくるのでしょう?<br> どこからか漂ってくる、夕飯の匂い。お風呂で遊ぶ子供の、はしゃぎ声。<br> 車のエンジン音と、クラクション。遠く聞こえる電車の警笛。その他、様々な雑音――<br> 闇が世界を塗りつぶしていく中、人影の群は黒い川となって、足早に流れてゆきます。<br> <br> 毎日、繰り返される平穏な日常の、何の変哲もないワンシーン。<br> なのに、ジュンはそれらを見る度に、家路を急ぎたい衝動に駆られるのでした。<br> 黄昏時は、逢魔が刻。<br> そんな迷信じみた畏れが、連綿と魂に受け継がれているのかも知れません。<br> <br> <br> ――などと、しっとりとした雰囲気に包まれながら、ジュンは、ある場所を目指していました。<br> それは……ズバリ、近所の銭湯です。<br> タオルやボディソープ、シャンプーなど、入浴に必要な物はバッグに詰めて、背負っています。<br> にしても、自宅に浴室があるにも拘わらず、何故わざわざ銭湯なのでしょうか。<br> <br> キッカケは、金糸雀の「銭湯って中華風スープのコトかしら?」という爆弾発言でした。<br> <br> <br> 「ちょ、おま……広ーい風呂のことだよ。開放感たっぷりで、けっこう気分いいものだぞ。<br>  なんだったら、連れてってやろうか?」<br> <br> ボロアパートから、徒歩で5分くらいの場所にありましたので、ジュンが提案したのです。<br> 金糸雀は、ジュンの親切さに感激して、ぜひ連れてってとせがみました。<br> しかし、ただの親切心から誘ったワケではありません。<br> 全ては、金糸雀に意趣返しをする作戦なのでした。<br></p> <br> <p> 銭湯と言えば、当然の事ながら、男湯と女湯に別れています。<br> そして、金糸雀はジュンにくっ憑いていないと、自由に外を出歩けません。<br> つまり――<br> <br> そうです。このままでは、ジュンと一緒に男湯に入らねばならないのです。<br> もしも金糸雀が銭湯というものを熟知していたなら、絶対に憑いてこなかったでしょう。<br> その場合には、真紅や笹塚くんと連絡とりホーダイになる予定でした。<br> しかし、金糸雀は「みんな水着きてるから大丈夫」というジュンのウソを信じ切っていたのです。<br> <br> 「おっ! 金糸雀よ、あれがフロ屋の煙突だ……って、語呂が悪いな」<br> 『わぁお♪ あれが銭湯なのね。露天風呂とか、あるのかしら~』<br> 「無いだろ普通。お前、この町に住んでたくせして、本当に知らなかったのか?」<br> 『だってぇ……家にお風呂が有るんだもの。わざわざ行く必要なんて、ないかしら』<br> <br> などと、和やかに語らいながら、銭湯の入り口に辿り着きました。<br> いよいよ、スーパーおいなりさんタイムまでの秒読みが、開始されます。<br> ここまで来てしまえば、もう押しの一手。引き返すつもりは、毛頭なし。<br> <br> お金を払って、脱衣所へ……。<br> ここに至り、金糸雀もやっと異変に気付き慌てましたが、聞く耳など持ちません。<br> <br> 『ちょ、ちょ、ちょっ! ちょーっと待つかしらぁーっ!』<br> 「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。風呂に入れと僕を呼ぶ」<br> 『呼んでないっ! 誰も呼んでないから、考え直すかしらっ! あっ――!』<br> <br> メガネを外したジュンは、電光石火の早業で、広い浴場へ踏み込みます。<br> 夕方という時間帯のせいか、老若男男で、たいそう賑わっておりました。<br> <br> 『は……はわ……はわわわわっ』<br></p> <br> <p>金糸雀が奇妙な声を発し始めましたが、キニシナイ。<br> ジュンはナニ食わぬ顔で、身体を洗うのでした。<br> <br> <br> <br> 30分ほど、ゆっくりと入浴した帰り道。<br> 少しばかり、のぼせ気味の肌を、弥生の夜風が心地よく撫でていきます。<br> <br> 『キノコの山~は食べざかり~……かしら~』<br> <br> ジュンの頭の中に流れる、音程ハズレのCMソング。<br> さっきから、金糸雀は壊れたステレオのように、繰り返し歌い続けているのでした。<br> 幽霊と言っても、うら若い女の子。メテオ級のショックを受けて、茫然メイデンになったようです。<br> 真紅を傷つけた仕返しのつもりでしたが……<br> こうなると、ジュンもさすがに、可哀相になってしまいました。<br> <br> 「おい、大丈夫なのかよ」<br> 『あへぁ? き……キノコの……』<br> 「ダメだ、こりゃ」<br> <br> ジュンは肩を竦めて、アパートに急ぐのでした。<br> <br> <br> 部屋に着くなり、金糸雀は気分転換と称して、浴室に閉じこもってしまいました。<br> あの調子では、暫く出てこないかも知れません。<br> 来月のガス代と水道代の請求額が、そこはかとなく恐ろしげです。<br> <br> (しかし、待てよ……これって、チャンスじゃないか)<br></p> <br> <p>いま、金糸雀はジュンの身体から離れています。<br> つまり、誰かに連絡を取ってもバレないし、独りで出かけることも可能です。<br> となれば、千載一遇の好機を、ボサッと見過ごす理由はありません。<br> ジュンは浴室の様子を窺いながら、携帯電話を操作しました。<br> <br> 「……あ、もしもし」<br> 『やあ、桜田くん。どうしたんだい』<br> <br> 1コールで電話に出た相手は、モゴモゴとくぐもった声で喋りました。<br> <br> 「すまん、笹塚。晩飯の最中だったのか。もう少し後にかけ直すよ」<br> 『気にしないでいいよ。どうせ、独り暮らしの侘びしい食卓だからね~。<br>  それで……用件は、なんだい?』<br> 「実はさ、霊能者の知り合いとか居ないか、訊きたかったんだ」<br> <br> 笹塚くんは、ジュンと一緒に下宿先を探した経緯から、即座に事情を察したようです。<br> 『……なるほど。その部屋、やっぱり出たんだね?』<br> 「ああ。とんでもなく姦しい自爆霊がな。なんでか、真紅を目の敵にしてさ。悪さするんだ。<br>  それで、どうだろう。居るのか? 居ないのか?」<br> 『答えは……どっちとも言えないな』<br> 「どういう意味だ、そりゃ?」<br> <br> てっきり、ジュンは「No!」という返事を予想していました。それが普通です。<br> それなのに、どちらとも言えない――とは?<br> 訝るジュンに、笹塚くんが話しかけてきます。<br> <br> 『柿崎さんを憶えてるかい? 昨日の歓迎会に来てくれた、女の子なんだけど』<br> 「えぇっと……黒髪の人だったか」<br> 『そうそう。彼女、彼女』<br></p> <br> <p> ここで、ジュンは一旦、浴室に目を向けました。ドアが開く気配はありません。<br> 再び、声を潜めて、笹塚くんとの会話に集中します。<br> <br> 「柿崎さんが、霊能者なのか?」<br> 『いや、そこまでじゃあ、ないらしいんだけどね。<br>  彼女さぁ、子供の頃、かなり長いこと入院生活してたんだって。<br>  ……で、何度か幽霊を見てる内に、霊感体質になっちゃったらしいんだな、これが』<br> 「なるほど。つまり、彼女に相談してみたらって言うんだな?」<br> 『ご明察。今から出てこれるかい? 柿崎さんには、僕が連絡しておこう』<br> 「え? でも……夜だぞ。いいのかなあ」<br> 『急を要するんだろ? だったら、遠慮なんか、してられないよね』<br> <br> 笹塚くんの言い分は、至極もっともです。<br> ジュンは彼に謝意を述べると、落ち合う場所を決めて、通話を切りました。<br> そして、金糸雀に悟られないよう注意しながら、アパートを脱出したのです。<br> <br> <br> <br> 駅前の居酒屋『きらき屋』にジュンが到着した時には、みんな揃っておりました。<br> 笹塚くんと、めぐ、水銀燈の三人です。各自、料理を頬張りながら、飲酒しています。<br> 食事の手を止めた笹塚くんが、お座敷席に、ジュンを手招きしました。<br> <br> 「やあ、来たね。先に、いただいてるよ」<br> 「お待たせ。いいさ、別に。晩飯どきに約束したのが悪いんだし」<br> <br> めぐと水銀燈に軽く会釈して、ジュンは席に着き、料理を注文しました。もう腹ペコです。<br> その際、なにげなく、あの眼帯娘を探しましたが、シフトに入っていないのか見当たりません。<br> 元々、彼女に会いに来たワケでもないので、ジュンは早速、本題を切り出しました。<br> </p> <br> <p> 「いきなりで申し訳ないんですけど……柿崎さん。真剣に、僕の話を聞いて欲しいんです」<br> 「え~? 改まって、な~にぃ。ひょっとしてぇ……私をぉ、口説くつもりぃ?」<br> 「あらぁ、聞き捨てならないわね。私のめぐに、ちょっかい出そうってのぉ、ボウヤ」<br> 「……違います。真面目な話なんだから、茶化さないでください」<br> <br> 急に、ジュンは心配になりました。彼女たち、かなり酔っています。水銀燈も赤ら顔。<br> 二人とも、既に相当量のアルコールを摂取しているようです。<br> こんな状態で、真っ当な返答を期待できるのでしょうか?<br> 笹塚くんに目配せしましたが、彼もまた、すっかり出来あがっているご様子。<br> ジュンは顰めっ面を浮かべ、こめかみを指でグリグリしながら、口を開きました。<br> <br> 「実はですね、僕がいま住んでる部屋……事故物件なんですよ。<br>  それで、その…………アレが出ちゃいましてね。どうしようかなーと」<br> 「引っ越しちゃえばぁ? あ”ー、焼酎うめぇ」<br> <br> アッサリ言って、グラスを呷るめぐ。キャハハと笑いだす水銀燈。笹塚くんは食べてばかり。<br> とてもではありませんが、まともに取り合ってもらえなさそうです。<br> やはり、最後に頼れるのは自分、ということなのでしょう。<br> ジュンは諦めの溜息を吐いて、運ばれてきた料理をヤケ食いするのでした。<br> <br> <br> <br> 駅前から、アパートまでの帰り道。閑散とした商店街を歩くのは、ジュンだけです。<br> それほど遅い時間でもないのですが、殆どの店はシャッターを降ろしていました。<br> そんな中、一軒だけ明かりが漏れている店が……。<br> <br> 店構えはクラシックな雰囲気で、感じのいい喫茶店を思わせます。<br> 廂の『Enju Doll』の白文字が、柔らかい照明を受けて、夜闇に浮かび上がっていました。</p> <br> <p> 「ドール……人形を売ってるのか。こんな店があるなんて、知らなかったな」<br> <br> 知ったからと言って、興味がなければ、何の意味もありません。<br> ジュンは、足早に店の前を通り過ぎようとしました。<br> ――しかしっ! 次の瞬間っ!<br> <br> 「? うぉわぁっ?!」<br> <br> ドアの隙間から飛び出してきた白い腕が、ジュンの襟首を掴みました。<br> しかも、もの凄い力で、店に引きずりこもうとするじゃあーりませんか。<br> まったくの不意打ちでしたので、ジュンは抗うことも出来なかったのです。<br> <br> 「おひとりさま……ごあんなーい」<br> <br> 自分の身に何が起きたのか解らず、尻餅をついたまま、キョトンとするジュン。<br> そんな彼の頭上から、降ってくる声。<br> 声のした方を見上げたジュンの目に飛び込んできたのは、あの――眼帯娘でした。<br> 毎度のことながら、神出鬼没です。<br> <br> 「ま、またかよっ! なんで、こんなとこに居るんだっ」<br> 「ここ…………お父さまの……お店。私の、お父さま……人形師」<br> 「人形師? それって、人間国宝とか、重要無形文化財みたいな?」<br> 「そこまで……偉くない。せいぜい……おいなりさんに、毛が生えた……程度」<br> 「どういう喩えだよ、そりゃ」<br> <br> どの程度なのか、さっぱり見当がつきません。<br> あるいは、この娘のことです。故意に、はぐらかしているのかも――<br> <br> 「まあいい。とりあえず、僕を連れ込んだワケを聞かせてもらおうか」<br> </p> <br> <p> ジュンに強い語調で詰め寄られても、眼帯娘は顔色ひとつ変えず、商品棚を指差しました。<br> <br> 「お人形……買って」<br> 「やだよ。飾っとく場所もないし、要らない」<br> <br> 訪問販売は、キッパリと断ること――ジュンは、のり姉ちゃんの教えを忠実に守ります。<br> すると、眼帯娘は両手で顔を覆って、シクシクと泣き出してしまいました。<br> <br> 「お人形……売れないと……生活できない」<br> 「泣き落としか? そんなこと言われたって、買わないからな」<br> 「うぇーん……もう……一家心中するしかない。そしたら…………化けて出てやる」<br> 「はあぁ? 冗談じゃないぞ」<br> <br> 幽霊は、金糸雀だけで充分です。「解った! 買うよ。買えばいいんだろっ」<br> それを聞いて、眼帯娘はケロリと泣き止み、ニコニコ顔になりました。<br> なんとまあ、変わり身の早い。現金なものです。<br> <br> 「でもさぁ、こういう人形って高いんだろ? 僕は、クレジットカード持ってないんだけど」<br> 「心配……いらない。今なら決算セール中で……どれも1万円ポッキリ。<br>  イイ娘が……揃ってますぜ……ダ・ン・ナ」<br> 「なんなんだよ、そのアヤシイ売り文句は」<br> <br> やっぱりワケ解らないです。ジュンは会話を諦めて、ぐるりと店内を見回しました。<br> どの人形も可愛らしい女の子で、精巧な造形が、目を惹きつけて離しません。<br> その中に、おしゃれなパラソルを手にする、快活そうな人形がありました。<br> 利発そうな広いオデコと、ハートを象った髪飾りが、妙に印象的です。<br> なんとな~くココロ惹かれるものがあって、ジュンはその人形に決めたのでした。<br> 他にも、レジの脇に並べられた、人形用の素敵なブローチが目に留まります。<br> 人が身に着けても不自然ではなさそうなので、プレゼント用に、ひとつ購入しました。<br> </p> <br> <p> 「これ、プレゼントしたら、あいつも機嫌を直してくれるかなぁ」<br> <br> 思いがけず良い買い物ができたと、ホクホク顔で店を出て歩き始めたところに、<br> 眼帯娘の唄うような調子の声が、追いかけてきました。<br> <br> 「恋は錯覚……愛はまやかし。眠れる稚児を……起こさぬように。<br>  ねんねんころりよ、おころりよ……」<br> <br> 「どういう意味だ?」と、ジュンが振り返った時にはもう――<br> 店のシャッターは降ろされ、眼帯娘も姿を消した後でした。<br> <br> <br> ビスクドールを納めた専用カバンを携えて、ジュンは、とある場所を目指していました。<br> 期せずして手に入れたプレゼントを、一刻も早く、渡したかったからです。<br> カバンは軽めでしたが、大きいのでかさばり、歩きづらくさせます。<br> ですから、やっとの思いで目的地に到着した時には、小一時間が過ぎておりました。<br> <br> 「あいつ、居るかな」<br> <br> 荒い呼吸を整えながら、ブザーを押して待つこと、暫し。<br> カチャリとロックの外れる軽快な音がして、ドアが僅かに開かれました。<br> <br> 「はい、どちら様――って、ジュン?」<br> 「よ、よお……真紅」<br> 「……何の用なの? こんな時間に、連絡も無しに来るなんて、失礼じゃないかしら」<br> <br> 来訪者がジュンと判って、真紅の表情が、少し堅くなりました。<br> 彼女はツンと澄ました態度で、前髪に指を通しながら、ジュンの顔を見つめてきます。<br> ちょっと前までシャワーを浴びていたのか、艶やかな金糸は、ほんのり湿っていました。</p> <br> <p> 臆することない真紅に影響され、ジュンも意を決して、正面から向き合いました。<br> そして、さっき買ったプレゼントの小箱を、差し出したのです。<br> <br> 「あのさ……これ、受け取ってくれないか。ブローチなんだけど」<br> 「なぜ急に? プレゼントされる理由がないわ」<br> 「僕が、そうしたいんだ。それだって立派な理由だろ」<br> 「……理由と言うより、屁理屈ね。強引だわ」<br> <br> 真紅は、真意を探るように、ジュンの瞳を真っ直ぐに覗き込んできます。<br> <br> 「これって……昼間のコトの、お詫びって意味なの?<br>  物で釣って、仲直りして、いつまでも良い友達でいましょう――と?<br>  ……ねえ、ジュン。私は、そこまで都合のいい女じゃないつもりよ」<br> 「別に、そんなつもりじゃない。僕は――」<br> <br> ちょっと躊躇いましたが、伝えたい意気込みの方が勝ちました。<br> 「僕は、お前が好きだから」<br> <br> 言って、ジュンは声を失い固まっている真紅の手に、小箱を握らせました。<br> 「いらないなら、捨ててくれて構わないよ。じゃあな」<br> 「待って! その……来客をもてなさずに帰すのは、礼儀に反するわ。紅茶でも……どう?」<br> 「……いや。今日はもう遅いし、気持ちだけ頂いとくよ。じゃ、また明日な」<br> <br> ジュンは、精一杯の冷静を装って別れを告げ、足早に立ち去りました。<br> 本当は、すごく嬉しかったのです。それはもう、ギュッと彼女を抱き締めたくなるほどに。<br> ただ……だらしなく赤面した姿を、彼女に見られるのが恥ずかしかったから……。<br> <br> 恋は錯覚……愛はまやかし。ふと、眼帯娘の言葉が甦ります。<br> ですが、それは温かく幸せな気持ちに溶かされ、どこかへと流れていくのでした。<br> </p>
<p> 『ひょひょいの憑依っ!』Act.5<br /> <br /> <br /> 夕闇が迫る下町の風景は、どうして、奇妙な胸騒ぎを運んでくるのでしょう?<br /> どこからか漂ってくる、夕飯の匂い。お風呂で遊ぶ子供の、はしゃぎ声。<br /> 車のエンジン音と、クラクション。遠く聞こえる電車の警笛。その他、様々な雑音――<br /> 闇が世界を塗りつぶしていく中、人影の群は黒い川となって、足早に流れてゆきます。<br /> <br /> 毎日、繰り返される平穏な日常の、何の変哲もないワンシーン。<br /> なのに、ジュンはそれらを見る度に、家路を急ぎたい衝動に駆られるのでした。<br /> 黄昏時は、逢魔が刻。<br /> そんな迷信じみた畏れが、連綿と魂に受け継がれているのかも知れません。<br /> <br /> <br /> ――などと、しっとりとした雰囲気に包まれながら、ジュンは、ある場所を目指していました。<br /> それは……ズバリ、近所の銭湯です。<br /> タオルやボディソープ、シャンプーなど、入浴に必要な物はバッグに詰めて、背負っています。<br /> にしても、自宅に浴室があるにも拘わらず、何故わざわざ銭湯なのでしょうか。<br /> <br /> キッカケは、金糸雀の「銭湯って中華風スープのコトかしら?」という爆弾発言でした。<br /> <br /> <br /> 「ちょ、おま……広ーい風呂のことだよ。開放感たっぷりで、けっこう気分いいものだぞ。<br />  なんだったら、連れてってやろうか?」<br /> <br /> ボロアパートから、徒歩で5分くらいの場所にありましたので、ジュンが提案したのです。<br /> 金糸雀は、ジュンの親切さに感激して、ぜひ連れてってとせがみました。<br /> しかし、ただの親切心から誘ったワケではありません。<br /> 全ては、金糸雀に意趣返しをする作戦なのでした。</p> <p> </p> <p>銭湯と言えば、当然の事ながら、男湯と女湯に別れています。<br /> そして、金糸雀はジュンにくっ憑いていないと、自由に外を出歩けません。<br /> つまり――<br /> <br /> そうです。このままでは、ジュンと一緒に男湯に入らねばならないのです。<br /> もしも金糸雀が銭湯というものを熟知していたなら、絶対に憑いてこなかったでしょう。<br /> その場合には、真紅や笹塚くんと連絡とりホーダイになる予定でした。<br /> しかし、金糸雀は「みんな水着きてるから大丈夫」というジュンのウソを信じ切っていたのです。<br /> <br /> 「おっ! 金糸雀よ、あれがフロ屋の煙突だ……って、語呂が悪いな」<br /> 『わぁお♪ あれが銭湯なのね。露天風呂とか、あるのかしら~』<br /> 「無いだろ普通。お前、この町に住んでたくせして、本当に知らなかったのか?」<br /> 『だってぇ……家にお風呂が有るんだもの。わざわざ行く必要なんて、ないかしら』<br /> <br /> などと、和やかに語らいながら、銭湯の入り口に辿り着きました。<br /> いよいよ、スーパーおいなりさんタイムまでの秒読みが、開始されます。<br /> ここまで来てしまえば、もう押しの一手。引き返すつもりは、毛頭なし。<br /> <br /> お金を払って、脱衣所へ……。<br /> ここに至り、金糸雀もやっと異変に気付き慌てましたが、聞く耳など持ちません。<br /> <br /> 『ちょ、ちょ、ちょっ! ちょーっと待つかしらぁーっ!』<br /> 「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。風呂に入れと僕を呼ぶ」<br /> 『呼んでないっ! 誰も呼んでないから、考え直すかしらっ! あっ――!』<br /> <br /> メガネを外したジュンは、電光石火の早業で、広い浴場へ踏み込みます。<br /> 夕方という時間帯のせいか、老若男男で、たいそう賑わっておりました。<br /> <br /> 『は……はわ……はわわわわっ』</p> <p> </p> <p> </p> <p>金糸雀が奇妙な声を発し始めましたが、キニシナイ。<br /> ジュンはナニ食わぬ顔で、身体を洗うのでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 30分ほど、ゆっくりと入浴した帰り道。<br /> 少しばかり、のぼせ気味の肌を、弥生の夜風が心地よく撫でていきます。<br /> <br /> 『キノコの山~は食べざかり~……かしら~』<br /> <br /> ジュンの頭の中に流れる、音程ハズレのCMソング。<br /> さっきから、金糸雀は壊れたステレオのように、繰り返し歌い続けているのでした。<br /> 幽霊と言っても、うら若い女の子。メテオ級のショックを受けて、茫然メイデンになったようです。<br /> 真紅を傷つけた仕返しのつもりでしたが……<br /> こうなると、ジュンもさすがに、可哀相になってしまいました。<br /> <br /> 「おい、大丈夫なのかよ」<br /> 『あへぁ? き……キノコの……』<br /> 「ダメだ、こりゃ」<br /> <br /> ジュンは肩を竦めて、アパートに急ぐのでした。<br /> <br /> <br /> 部屋に着くなり、金糸雀は気分転換と称して、浴室に閉じこもってしまいました。<br /> あの調子では、暫く出てこないかも知れません。<br /> 来月のガス代と水道代の請求額が、そこはかとなく恐ろしげです。<br /> <br /> (しかし、待てよ……これって、チャンスじゃないか)</p> <p> </p> <p> </p> <p>いま、金糸雀はジュンの身体から離れています。<br /> つまり、誰かに連絡を取ってもバレないし、独りで出かけることも可能です。<br /> となれば、千載一遇の好機を、ボサッと見過ごす理由はありません。<br /> ジュンは浴室の様子を窺いながら、携帯電話を操作しました。<br /> <br /> 「……あ、もしもし」<br /> 『やあ、桜田くん。どうしたんだい』<br /> <br /> 1コールで電話に出た相手は、モゴモゴとくぐもった声で喋りました。<br /> <br /> 「すまん、笹塚。晩飯の最中だったのか。もう少し後にかけ直すよ」<br /> 『気にしないでいいよ。どうせ、独り暮らしの侘びしい食卓だからね~。<br />  それで……用件は、なんだい?』<br /> 「実はさ、霊能者の知り合いとか居ないか、訊きたかったんだ」<br /> <br /> 笹塚くんは、ジュンと一緒に下宿先を探した経緯から、即座に事情を察したようです。<br /> 『……なるほど。その部屋、やっぱり出たんだね?』<br /> 「ああ。とんでもなく姦しい自爆霊がな。なんでか、真紅を目の敵にしてさ。悪さするんだ。<br />  それで、どうだろう。居るのか? 居ないのか?」<br /> 『答えは……どっちとも言えないな』<br /> 「どういう意味だ、そりゃ?」<br /> <br /> てっきり、ジュンは「No!」という返事を予想していました。それが普通です。<br /> それなのに、どちらとも言えない――とは?<br /> 訝るジュンに、笹塚くんが話しかけてきます。<br /> <br /> 『柿崎さんを憶えてるかい? 昨日の歓迎会に来てくれた、女の子なんだけど』<br /> 「えぇっと……黒髪の人だったか」<br /> 『そうそう。彼女、彼女』</p> <p> </p> <p> </p> <p>ここで、ジュンは一旦、浴室に目を向けました。ドアが開く気配はありません。<br /> 再び、声を潜めて、笹塚くんとの会話に集中します。<br /> <br /> 「柿崎さんが、霊能者なのか?」<br /> 『いや、そこまでじゃあ、ないらしいんだけどね。<br />  彼女さぁ、子供の頃、かなり長いこと入院生活してたんだって。<br />  ……で、何度か幽霊を見てる内に、霊感体質になっちゃったらしいんだな、これが』<br /> 「なるほど。つまり、彼女に相談してみたらって言うんだな?」<br /> 『ご明察。今から出てこれるかい? 柿崎さんには、僕が連絡しておこう』<br /> 「え? でも……夜だぞ。いいのかなあ」<br /> 『急を要するんだろ? だったら、遠慮なんか、してられないよね』<br /> <br /> 笹塚くんの言い分は、至極もっともです。<br /> ジュンは彼に謝意を述べると、落ち合う場所を決めて、通話を切りました。<br /> そして、金糸雀に悟られないよう注意しながら、アパートを脱出したのです。<br /> <br /> <br /> <br /> 駅前の居酒屋『きらき屋』にジュンが到着した時には、みんな揃っておりました。<br /> 笹塚くんと、めぐ、水銀燈の三人です。各自、料理を頬張りながら、飲酒しています。<br /> 食事の手を止めた笹塚くんが、お座敷席に、ジュンを手招きしました。<br /> <br /> 「やあ、来たね。先に、いただいてるよ」<br /> 「お待たせ。いいさ、別に。晩飯どきに約束したのが悪いんだし」<br /> <br /> めぐと水銀燈に軽く会釈して、ジュンは席に着き、料理を注文しました。もう腹ペコです。<br /> その際、なにげなく、あの眼帯娘を探しましたが、シフトに入っていないのか見当たりません。<br /> 元々、彼女に会いに来たワケでもないので、ジュンは早速、本題を切り出しました。</p> <p> </p> <p> </p> <p>「いきなりで申し訳ないんですけど……柿崎さん。真剣に、僕の話を聞いて欲しいんです」<br /> 「え~? 改まって、な~にぃ。ひょっとしてぇ……私をぉ、口説くつもりぃ?」<br /> 「あらぁ、聞き捨てならないわね。私のめぐに、ちょっかい出そうってのぉ、ボウヤ」<br /> 「……違います。真面目な話なんだから、茶化さないでください」<br /> <br /> 急に、ジュンは心配になりました。彼女たち、かなり酔っています。水銀燈も赤ら顔。<br /> 二人とも、既に相当量のアルコールを摂取しているようです。<br /> こんな状態で、真っ当な返答を期待できるのでしょうか?<br /> 笹塚くんに目配せしましたが、彼もまた、すっかり出来あがっているご様子。<br /> ジュンは顰めっ面を浮かべ、こめかみを指でグリグリしながら、口を開きました。<br /> <br /> 「実はですね、僕がいま住んでる部屋……事故物件なんですよ。<br />  それで、その…………アレが出ちゃいましてね。どうしようかなーと」<br /> 「引っ越しちゃえばぁ? あ”ー、焼酎うめぇ」<br /> <br /> アッサリ言って、グラスを呷るめぐ。キャハハと笑いだす水銀燈。笹塚くんは食べてばかり。<br /> とてもではありませんが、まともに取り合ってもらえなさそうです。<br /> やはり、最後に頼れるのは自分、ということなのでしょう。<br /> ジュンは諦めの溜息を吐いて、運ばれてきた料理をヤケ食いするのでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 駅前から、アパートまでの帰り道。閑散とした商店街を歩くのは、ジュンだけです。<br /> それほど遅い時間でもないのですが、殆どの店はシャッターを降ろしていました。<br /> そんな中、一軒だけ明かりが漏れている店が……。<br /> <br /> 店構えはクラシックな雰囲気で、感じのいい喫茶店を思わせます。<br /> 廂の『Enju Doll』の白文字が、柔らかい照明を受けて、夜闇に浮かび上がっていました。</p> <p> </p> <p> </p> <p>「ドール……人形を売ってるのか。こんな店があるなんて、知らなかったな」<br /> <br /> 知ったからと言って、興味がなければ、何の意味もありません。<br /> ジュンは、足早に店の前を通り過ぎようとしました。<br /> ――しかしっ! 次の瞬間っ!<br /> <br /> 「? うぉわぁっ?!」<br /> <br /> ドアの隙間から飛び出してきた白い腕が、ジュンの襟首を掴みました。<br /> しかも、もの凄い力で、店に引きずりこもうとするじゃあーりませんか。<br /> まったくの不意打ちでしたので、ジュンは抗うことも出来なかったのです。<br /> <br /> 「おひとりさま……ごあんなーい」<br /> <br /> 自分の身に何が起きたのか解らず、尻餅をついたまま、キョトンとするジュン。<br /> そんな彼の頭上から、降ってくる声。<br /> 声のした方を見上げたジュンの目に飛び込んできたのは、あの――眼帯娘でした。<br /> 毎度のことながら、神出鬼没です。<br /> <br /> 「ま、またかよっ! なんで、こんなとこに居るんだっ」<br /> 「ここ…………お父さまの……お店。私の、お父さま……人形師」<br /> 「人形師? それって、人間国宝とか、重要無形文化財みたいな?」<br /> 「そこまで……偉くない。せいぜい……おいなりさんに、毛が生えた……程度」<br /> 「どういう喩えだよ、そりゃ」<br /> <br /> どの程度なのか、さっぱり見当がつきません。<br /> あるいは、この娘のことです。故意に、はぐらかしているのかも――<br /> <br /> 「まあいい。とりあえず、僕を連れ込んだワケを聞かせてもらおうか」</p> <p> </p> <p> </p> <p>ジュンに強い語調で詰め寄られても、眼帯娘は顔色ひとつ変えず、商品棚を指差しました。<br /> <br /> 「お人形……買って」<br /> 「やだよ。飾っとく場所もないし、要らない」<br /> <br /> 訪問販売は、キッパリと断ること――ジュンは、のり姉ちゃんの教えを忠実に守ります。<br /> すると、眼帯娘は両手で顔を覆って、シクシクと泣き出してしまいました。<br /> <br /> 「お人形……売れないと……生活できない」<br /> 「泣き落としか? そんなこと言われたって、買わないからな」<br /> 「うぇーん……もう……一家心中するしかない。そしたら…………化けて出てやる」<br /> 「はあぁ? 冗談じゃないぞ」<br /> <br /> 幽霊は、金糸雀だけで充分です。「解った! 買うよ。買えばいいんだろっ」<br /> それを聞いて、眼帯娘はケロリと泣き止み、ニコニコ顔になりました。<br /> なんとまあ、変わり身の早い。現金なものです。<br /> <br /> 「でもさぁ、こういう人形って高いんだろ? 僕は、クレジットカード持ってないんだけど」<br /> 「心配……いらない。今なら決算セール中で……どれも1万円ポッキリ。<br />  イイ娘が……揃ってますぜ……ダ・ン・ナ」<br /> 「なんなんだよ、そのアヤシイ売り文句は」<br /> <br /> やっぱりワケ解らないです。ジュンは会話を諦めて、ぐるりと店内を見回しました。<br /> どの人形も可愛らしい女の子で、精巧な造形が、目を惹きつけて離しません。<br /> その中に、おしゃれなパラソルを手にする、快活そうな人形がありました。<br /> 利発そうな広いオデコと、ハートを象った髪飾りが、妙に印象的です。<br /> なんとな~くココロ惹かれるものがあって、ジュンはその人形に決めたのでした。<br /> 他にも、レジの脇に並べられた、人形用の素敵なブローチが目に留まります。<br /> 人が身に着けても不自然ではなさそうなので、プレゼント用に、ひとつ購入しました。</p> <p> </p> <p> </p> <p>「これ、プレゼントしたら、あいつも機嫌を直してくれるかなぁ」<br /> <br /> 思いがけず良い買い物ができたと、ホクホク顔で店を出て歩き始めたところに、<br /> 眼帯娘の唄うような調子の声が、追いかけてきました。<br /> <br /> 「恋は錯覚……愛はまやかし。眠れる稚児を……起こさぬように。<br />  ねんねんころりよ、おころりよ……」<br /> <br /> 「どういう意味だ?」と、ジュンが振り返った時にはもう――<br /> 店のシャッターは降ろされ、眼帯娘も姿を消した後でした。<br /> <br /> <br /> ビスクドールを納めた専用カバンを携えて、ジュンは、とある場所を目指していました。<br /> 期せずして手に入れたプレゼントを、一刻も早く、渡したかったからです。<br /> カバンは軽めでしたが、大きいのでかさばり、歩きづらくさせます。<br /> ですから、やっとの思いで目的地に到着した時には、小一時間が過ぎておりました。<br /> <br /> 「あいつ、居るかな」<br /> <br /> 荒い呼吸を整えながら、ブザーを押して待つこと、暫し。<br /> カチャリとロックの外れる軽快な音がして、ドアが僅かに開かれました。<br /> <br /> 「はい、どちら様――って、ジュン?」<br /> 「よ、よお……真紅」<br /> 「……何の用なの? こんな時間に、連絡も無しに来るなんて、失礼じゃないかしら」<br /> <br /> 来訪者がジュンと判って、真紅の表情が、少し堅くなりました。<br /> 彼女はツンと澄ました態度で、前髪に指を通しながら、ジュンの顔を見つめてきます。<br /> ちょっと前までシャワーを浴びていたのか、艶やかな金糸は、ほんのり湿っていました。</p> <p> </p> <p> </p> <p>臆することない真紅に影響され、ジュンも意を決して、正面から向き合いました。<br /> そして、さっき買ったプレゼントの小箱を、差し出したのです。<br /> <br /> 「あのさ……これ、受け取ってくれないか。ブローチなんだけど」<br /> 「なぜ急に? プレゼントされる理由がないわ」<br /> 「僕が、そうしたいんだ。それだって立派な理由だろ」<br /> 「……理由と言うより、屁理屈ね。強引だわ」<br /> <br /> 真紅は、真意を探るように、ジュンの瞳を真っ直ぐに覗き込んできます。<br /> <br /> 「これって……昼間のコトの、お詫びって意味なの?<br />  物で釣って、仲直りして、いつまでも良い友達でいましょう――と?<br />  ……ねえ、ジュン。私は、そこまで都合のいい女じゃないつもりよ」<br /> 「別に、そんなつもりじゃない。僕は――」<br /> <br /> ちょっと躊躇いましたが、伝えたい意気込みの方が勝ちました。<br /> 「僕は、お前が好きだから」<br /> <br /> 言って、ジュンは声を失い固まっている真紅の手に、小箱を握らせました。<br /> 「いらないなら、捨ててくれて構わないよ。じゃあな」<br /> 「待って! その……来客をもてなさずに帰すのは、礼儀に反するわ。紅茶でも……どう?」<br /> 「……いや。今日はもう遅いし、気持ちだけ頂いとくよ。じゃ、また明日な」<br /> <br /> ジュンは、精一杯の冷静を装って別れを告げ、足早に立ち去りました。<br /> 本当は、すごく嬉しかったのです。それはもう、ギュッと彼女を抱き締めたくなるほどに。<br /> ただ……だらしなく赤面した姿を、彼女に見られるのが恥ずかしかったから……。<br /> <br /> 恋は錯覚……愛はまやかし。ふと、眼帯娘の言葉が甦ります。<br /> ですが、それは温かく幸せな気持ちに溶かされ、どこかへと流れていくのでした。</p> <p> </p>

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