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薔薇乙女家族 その六之四 - (2008/02/03 (日) 19:17:12) の1つ前との変更点

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<p>薔薇乙女家族 その六之四<br> <br> 時間は何時如何なる場所、場合でも等しく流れていると思われがちだ。だが実際はそうではない。時間は常に変動し、等しい流れは存在しないのだ。皆、それぞれの固有の時間があり、それぞれの時間が流れている。その時間の中で、人は生きていく。<br> <br> 時間の差というのは自分では分からない。別の時間の流れを生きた他人や物と接触して初めて分かる。一日という時間は誰にでも流れるのだが、あっという間に過ぎる一日もあれば、なかなか終わらない一日もあるという事で、それは人によって時間の感じ方が違うという事だ。<br> 皮肉な話だ。自分の娘である雛苺、彼女はこの日を待ち望んでいたとの事だ。授業中の自分の姿を見せられるから…という随分自信を持っているみたいで、朝から張り切っていた。<br> <br> 憂鬱だ。どうしようどうしようと悩み悩んでたら今日になってしまった。娘の明るい笑顔が嫌みに見えて仕方なかったのだから、嗚呼やはり私は追い込まれているのかと知ってしまう。<br> カレンダーに振り向く。今日は赤丸でマークされた、雛苺のクラスの授業参観日。つまり、学校に行く日…柏葉巴がいる学校に顔を見せなければならない日なのだ。それで何時終わるのか分からない悩みに頭をかき回されてしまっている。</p> <p><br> 学校には私だけが行く事になっている。ジュンは仕事で学校に間に合わないからだ。おそらく他の家庭でも母親だけ出席する授業参観になるのではないかと思う。それが僅かな救いになったかもしれない。<br> と言うのも実は、ジュンには巴の事は伝えていないのだ。娘達にも口を塞がせたし、プリントもビリビリに破って捨てた。手がかりになりそうな物は思いつき次第消していった。隠蔽工作というやつだ。<br> <br> 彼は巴の事を気にかけているのは知っている。だったら伝えれば良いではないかと思うが、結局私の心がそれをさせなかった。隠せるのなら隠し通したいと思ってしまったのだ。<br> それに、伝えたら伝えたで彼は動揺するかもしれない。彼は心の奥にそれをしまい込んで今は落ち着いている。下手に心を揺さぶる様な事をする必要も無いはずだ。<br> この様に考えてはいる。しかし後者は真か虚かの判断はできないでいた。彼を思ってというよりも、自分が怖いから隠しているのではないか。そう考えて一瞬体が震える。落ち着いて、間違ってないはずだと頭に刷り込んでいるが風が吹けば簡単に倒れてしまいそうだった。<br> <br> カッチコッチと時を刻む時計の秒針は、私にいちいち時間というものを知らせようとする。まるで、早く腹を決めろと急かしている様に聞こえる。<br> まあ逃げても仕方ないのは分かっているのだから答えは決まっている。これだけ工作しといて最後に逃げて一体どうするか。娘達の前に醜態晒しといて、極めつけに無様な姿を見せてしまう程、私は恥知らずではないつもりだ。<br> <br> …行こう。<br> <br> 私は席から重い腰を上げて時計を見上げた。時計は12時半を指していた。<br> <br> -----<br> <br> 校門を抜けて、銀色の道をしっかと踏んで滑らない様に気をつける。今日は朝から雪が降り、そのなごりは溶ける事なく今も残っている。雛苺の母親が、校庭で滑って転んで痛い目にあっただなんて情けない笑い話の種にされるのは御免だ。<br> <br> 銀色の道にはいくつもの足跡が残っている。他の親御さんのものだろうかと窺えるのは、それが小学校生徒のものにしては一回りも二回りもでかいからだ。車のタイヤの軌跡も何本か刻まれているのを見て分かったのは、要するに私は少し出遅れたらしい事だった。</p> <dl> <dt> 校舎の外壁にある時計は一時を過ぎていてた。間的にはすでに五時限目は始まっているはずだ。考え事に時間を取られすぎて遅刻したと私は少しペースを上げた。誰かが尻餅ついたらしい跡があったが、それを見て笑っている暇なんか無かった。<br> <br> 校舎の中に入ると、風が無くなったおかげで少し暖かく感じた。マフラーを取って事務室に寄り、案内を受けた後に階段に足を向ける。自然と心臓の鼓動が大きくなっていくのを胸に手を当てて感じた。<br> <br> 階段を登ると、いくつかある教室の一室からはみ出す様に何人かの人影が見えた。その人影に紛れ込んで中を覗いてみて、まず担任に目を奪われた。そして私は思わずホッとした。男の先生だったからだ。<br> 別に、何の教科の授業参観かを知らなかったわけではないし、巴が何の授業の担任をしているのかも雛苺から聞いていた。だから今日の雛苺の授業参観で教室内で巴とご対面するわけではないというのは分かってはいたが、体が強張って仕方なかった。<br> <br> 私は、自分が臆病であるのを自ずと示してしまっていたのだ。巴が怖いわけではないのにこの恐怖は何だろう、それを自分が一番分かっているからである。<br> <br> 私のこの憂鬱を知るわけがない娘、雛苺は私の気配に感づいたのかこちらを振り向いた。ようやく来てくれたとその顔には書かれていた。<br> <br> 前を向きなさぁい、お馬鹿さぁん。<br> <br> 口パクで雛苺にそう伝えたが、周りにその様子を見られたのかクスクスと笑われているのが分かると、ただ私は苦笑いでごまかすしかなかった。<br> <br> 黒板にはいくつもの式が書かれている。図形の面積の求め方等、最近聞かなかった話を久しぶりに耳に入れては懐かしさを覚えた。だが算数がよく出来た試しはあまりなかったから、苦みをもった思い出も少し浮かんでくる。<br> 雛苺はこの参観日を自信満々で迎えていたが、なるほど、よくできていると感心した。進んで手を上げているその姿勢は普段の彼女しか知らない私としては、少し意外な様な気もした。新鮮だった。<br> <br> ~♪~♪~♪<br> <br> チャイムが響き、授業は終わった。周りの親御さん達が娘、息子達と話をしていて、私の所にも雛苺がとてとて駆け寄って来た。<br> <br> 「ママ遅かったの~」<br> <br> 彼女が頬を膨らませ、私が遅刻したのを怒っている。ごめんごめんとあやすが、キーキーと怒ってばかりだ。<br> <br> 「許してちょうだい。帰りにうにゅーをたくさん買ってきてあげるからぁ」 <br> <br> 「わ~い、ママ大好きなの~」<br> <br> もう少しこの単純っぽさはどうにかすべきかと思いつつも雛苺と別れた。この後は保護者と教員との懇談会があり、生徒を先に帰宅させる予定になっているのだ。<br> <br> -----<br> <br> その日の予定を全て終え、ようやく帰れるかと思った時の事であった。出会いは唐突なものだと知り、頭の中にひっぱたかれた様な刺激が走った。<br> <br> 人が行き来する廊下の真ん中に彼女がいた。向こうはハッとしたような顔をしてこちらを見つめている。私を知っている反応である。そして私も彼女と同じような顔をしているだろう。<br> <br> 立ちふさがる様に立ち尽くす彼女を見て、過去の記憶が瞬間的に再生された。<br> <br> 十数年前、学校の廊下で私はジュンと一緒に歩いていた。彼が自宅にひきこもっていたのを私が連れ出して、色々な面倒事も片付けてさぁ復学だ、といった所に彼女とバッタリ会った。狭い廊下に二人と一人が向かい合わせになったのだ。<br> <br> 彼女は、彼に対してはどうすべきかと迷いながらの、複雑な作り物の笑顔を向けていた。そして「復学できてよかったね」とだけ言っていた。私に対しては何も言わなかったが、そのチラリと一瞬だけ見せた目は一言では言い表せない様なものだった。<br> 嫉妬か寂しさか、憎しみか悲しみか…人の負の感情が混ざり混ざった様な眼をしていた。その眼は「何故あなたがそこにいるの」と言いたげだった様に見えた。私は何も彼女に言葉を投げかける様な事はしなかったし、できなかった。<br> <br> 彼女との会話は感情が裏で渦巻き過ぎて、その場の空気に飲み込まれていた。言葉は少なくとも、心に宿る感情が互いを睨みつけ合っていたのだ。彼…ジュンにとって、その空気が酷く重荷だっただろうのは想像に難くない。<br> <br> そしてそのまま、二人と一人はその廊下ですれ違い、今まで互いが結びつく事はなかった。それが、所を違えても廊下という線の上でまた結びついたのだ。無数の「点」が散らばる中、私と柏葉巴という「点」と「点」が今、一本線でつながったのだ。<br> <br> 「水銀燈…」<br> 「お久しぶり、ねぇ…巴」<br> 「今日は…授業参観に?」<br> 「ええ、雛苺のね。そうそう、この間は雛苺が迷惑かけたみたいねぇ、ごめんなさいねぇ」<br> 「…別に。ただ、下校の時は気をつけてと言っておいてね。私からも言ったけれど…」 <br> <br> 話をしていて、私と雛苺が親子であるのを何時感づいたのかと思いはしたが、それは大した問題ではないので私は気にせずに話を進めた。<br> <br> 「分かったわぁ。よぉく言い聞かせておくわぁ」<br> <br> 口調こそは平静を保つ様にしているが、この場の空気がピリピリと肌を刺激してきて、心臓が緊張してくる。<br> <br> 「………水銀燈、結婚してたんだね」<br> 「ええ、高校を卒業した辺りに…ねぇ」<br> <br> 「…旦那さんは…」<br> <br> やはり切り出してきた。今更あれこれ隠そうとしたって無駄なのは分かっているので正直に話す。<br> <br> 「ジュンよ、桜田ジュン。中学生の時からずっと関係が続いてるのぉ」<br> <br> 「そう…やっぱり」<br> <br> 巴の目はまっすぐ私を見ている。瞳が私の瞳を確かに捉えている。<br> その横を何人か通り過ぎて行ったが私達には目もくれない。ただの、教師と保護者の何てことはない会話だとしか思わなかったのかもしれない。<br> <br> 「…ねぇ」<br> 「なぁに?」<br> 「桜田君は…元気?」<br> 「元気よぉ、毎日娘達に振り回されっぱなしだけどねぇ」<br> 「…そう」<br> <br> 巴は元々おとなしい性格ではあったが、決して気弱とかそんなのではなかったはずだ。それは今も相変わらずみたいだったが、何を考えているのかを窺わせないそのたたずまいは一体何なのだろうと思ってしまう。<br> 私は腕を組んで、また近くを通り過ぎていく何人かの談笑を耳に、彼女を見つめかえした。<br> <br></dt> </dl>
<p>薔薇乙女家族 その六之四<br> <br> 時間は何時如何なる場所、場合でも等しく流れていると思われがちだ。だが実際はそうではない。時間は常に変動し、等しい流れは存在しないのだ。皆、それぞれの固有の時間があり、それぞれの時間が流れている。その時間の中で、人は生きていく。<br> <br> 時間の差というのは自分では分からない。別の時間の流れを生きた他人や物と接触して初めて分かる。一日という時間は誰にでも流れるのだが、あっという間に過ぎる一日もあれば、なかなか終わらない一日もあるという事で、それは人によって時間の感じ方が違うという事だ。<br> 皮肉な話だ。自分の娘である雛苺、彼女はこの日を待ち望んでいたとの事だ。授業中の自分の姿を見せられるから…という随分自信を持っているみたいで、朝から張り切っていた。<br> <br> 憂鬱だ。どうしようどうしようと悩み悩んでたら今日になってしまった。娘の明るい笑顔が嫌みに見えて仕方なかったのだから、嗚呼やはり私は追い込まれているのかと知ってしまう。<br> カレンダーに振り向く。今日は赤丸でマークされた、雛苺のクラスの授業参観日。つまり、学校に行く日…柏葉巴がいる学校に顔を見せなければならない日なのだ。それで何時終わるのか分からない悩みに頭をかき回されてしまっている。</p> <p><br> 学校には私だけが行く事になっている。ジュンは仕事で学校に間に合わないからだ。おそらく他の家庭でも母親だけ出席する授業参観になるのではないかと思う。それが僅かな救いになったかもしれない。<br> と言うのも実は、ジュンには巴の事は伝えていないのだ。娘達にも口を塞がせたし、プリントもビリビリに破って捨てた。手がかりになりそうな物は思いつき次第消していった。隠蔽工作というやつだ。<br> <br> 彼は巴の事を気にかけているのは知っている。だったら伝えれば良いではないかと思うが、結局私の心がそれをさせなかった。隠せるのなら隠し通したいと思ってしまったのだ。<br> それに、伝えたら伝えたで彼は動揺するかもしれない。彼は心の奥にそれをしまい込んで今は落ち着いている。下手に心を揺さぶる様な事をする必要も無いはずだ。<br> この様に考えてはいる。しかし後者は真か虚かの判断はできないでいた。彼を思ってというよりも、自分が怖いから隠しているのではないか。そう考えて一瞬体が震える。落ち着いて、間違ってないはずだと頭に刷り込んでいるが風が吹けば簡単に倒れてしまいそうだった。<br> <br> カッチコッチと時を刻む時計の秒針は、私にいちいち時間というものを知らせようとする。まるで、早く腹を決めろと急かしている様に聞こえる。<br> まあ逃げても仕方ないのは分かっているのだから答えは決まっている。これだけ工作しといて最後に逃げて一体どうするか。娘達の前に醜態晒しといて、極めつけに無様な姿を見せてしまう程、私は恥知らずではないつもりだ。<br> <br> …行こう。<br> <br> 私は席から重い腰を上げて時計を見上げた。時計は12時半を指していた。<br> <br> -----<br> <br> 校門を抜けて、銀色の道をしっかと踏んで滑らない様に気をつける。今日は朝から雪が降り、そのなごりは溶ける事なく今も残っている。雛苺の母親が、校庭で滑って転んで痛い目にあっただなんて情けない笑い話の種にされるのは御免だ。<br> <br> 銀色の道にはいくつもの足跡が残っている。他の親御さんのものだろうかと窺えるのは、それが小学校生徒のものにしては一回りも二回りもでかいからだ。車のタイヤの軌跡も何本か刻まれているのを見て分かったのは、要するに私は少し出遅れたらしい事だった。</p> 校舎の外壁にある時計は一時を過ぎていてた。間的にはすでに五時限目は始まっているはずだ。考え事に時間を取られすぎて遅刻したと私は少しペースを上げた。誰かが尻餅ついたらしい跡があったが、それを見て笑っている暇なんか無かった。<br> <br> 校舎の中に入ると、風が無くなったおかげで少し暖かく感じた。マフラーを取って事務室に寄り、案内を受けた後に階段に足を向ける。自然と心臓の鼓動が大きくなっていくのを胸に手を当てて感じた。<br> <br> 階段を登ると、いくつかある教室の一室からはみ出す様に何人かの人影が見えた。その人影に紛れ込んで中を覗いてみて、まず担任に目を奪われた。そして私は思わずホッとした。男の先生だったからだ。<br> 別に、何の教科の授業参観かを知らなかったわけではないし、巴が何の授業の担任をしているのかも雛苺から聞いていた。だから今日の雛苺の授業参観で教室内で巴とご対面するわけではないというのは分かってはいたが、体が強張って仕方なかった。<br> <br> 私は、自分が臆病であるのを自ずと示してしまっていたのだ。巴が怖いわけではないのにこの恐怖は何だろう、それを自分が一番分かっているからである。<br> <br> 私のこの憂鬱を知るわけがない娘、雛苺は私の気配に感づいたのかこちらを振り向いた。ようやく来てくれたとその顔には書かれていた。<br> <br> 前を向きなさぁい、お馬鹿さぁん。<br> <br> 口パクで雛苺にそう伝えたが、周りにその様子を見られたのかクスクスと笑われているのが分かると、ただ私は苦笑いでごまかすしかなかった。<br> <br> 黒板にはいくつもの式が書かれている。図形の面積の求め方等、最近聞かなかった話を久しぶりに耳に入れては懐かしさを覚えた。だが算数がよく出来た試しはあまりなかったから、苦みをもった思い出も少し浮かんでくる。<br> 雛苺はこの参観日を自信満々で迎えていたが、なるほど、よくできていると感心した。進んで手を上げているその姿勢は普段の彼女しか知らない私としては、少し意外な様な気もした。新鮮だった。<br> <br> ~♪~♪~♪<br> <br> チャイムが響き、授業は終わった。周りの親御さん達が娘、息子達と話をしていて、私の所にも雛苺がとてとて駆け寄って来た。<br> <br> 「ママ遅かったの~」<br> <br> 彼女が頬を膨らませ、私が遅刻したのを怒っている。ごめんごめんとあやすが、キーキーと怒ってばかりだ。<br> <br> 「許してちょうだい。帰りにうにゅーをたくさん買ってきてあげるからぁ」<br> <br> 「わ~い、ママ大好きなの~」<br> <br> もう少しこの単純っぽさはどうにかすべきかと思いつつも雛苺と別れた。この後は保護者と教員との懇談会があり、生徒を先に帰宅させる予定になっているのだ。<br> <br> -----<br> <br> その日の予定を全て終え、ようやく帰れるかと思った時の事であった。出会いは唐突なものだと知り、頭の中にひっぱたかれた様な刺激が走った。<br> <br> 人が行き来する廊下の真ん中に彼女がいた。向こうはハッとしたような顔をしてこちらを見つめている。私を知っている反応である。そして私も彼女と同じような顔をしているだろう。<br> <br> 立ちふさがる様に立ち尽くす彼女を見て、過去の記憶が瞬間的に再生された。<br> <br> 十数年前、学校の廊下で私はジュンと一緒に歩いていた。彼が自宅にひきこもっていたのを私が連れ出して、色々な面倒事も片付けてさぁ復学だ、といった所に彼女とバッタリ会った。狭い廊下に二人と一人が向かい合わせになったのだ。<br> <br> 彼女は、彼に対してはどうすべきかと迷いながらの、複雑な作り物の笑顔を向けていた。そして「復学できてよかったね」とだけ言っていた。私に対しては何も言わなかったが、そのチラリと一瞬だけ見せた目は一言では言い表せない様なものだった。<br> 嫉妬か寂しさか、憎しみか悲しみか…人の負の感情が混ざり混ざった様な眼をしていた。その眼は「何故あなたがそこにいるの」と言いたげだった様に見えた。私は何も彼女に言葉を投げかける様な事はしなかったし、できなかった。<br> <br> 彼女との会話は感情が裏で渦巻き過ぎて、その場の空気に飲み込まれていた。言葉は少なくとも、心に宿る感情が互いを睨みつけ合っていたのだ。彼…ジュンにとって、その空気が酷く重荷だっただろうのは想像に難くない。<br> <br> そしてそのまま、二人と一人はその廊下ですれ違い、今まで互いが結びつく事はなかった。それが、所を違えても廊下という線の上でまた結びついたのだ。無数の「点」が散らばる中、私と柏葉巴という「点」と「点」が今、一本線でつながったのだ。<br> <br> 「水銀燈…」<br> 「お久しぶり、ねぇ…巴」<br> 「今日は…授業参観に?」<br> 「ええ、雛苺のね。そうそう、この間は雛苺が迷惑かけたみたいねぇ、ごめんなさいねぇ」<br> 「…別に。ただ、下校の時は気をつけてと言っておいてね。私からも言ったけれど…」<br> <br> 話をしていて、私と雛苺が親子であるのを何時感づいたのかと思いはしたが、それは大した問題ではないので私は気にせずに話を進めた。<br> <br> 「分かったわぁ。よぉく言い聞かせておくわぁ」<br> <br> 口調こそは平静を保つ様にしているが、この場の空気がピリピリと肌を刺激してきて、心臓が緊張してくる。<br> <br> 「………水銀燈、結婚してたんだね」<br> 「ええ、高校を卒業した辺りに…ねぇ」<br> <br> 「…旦那さんは…」<br> <br> やはり切り出してきた。今更あれこれ隠そうとしたって無駄なのは分かっているので正直に話す。<br> <br> 「ジュンよ、桜田ジュン。中学生の時からずっと関係が続いてるのぉ」<br> <br> 「そう…やっぱり」<br> <br> 巴の目はまっすぐ私を見ている。瞳が私の瞳を確かに捉えている。<br> その横を何人か通り過ぎて行ったが私達には目もくれない。ただの、教師と保護者の何てことはない会話だとしか思わなかったのかもしれない。<br> <br> 「…ねぇ」<br> 「なぁに?」<br> 「桜田君は…元気?」<br> 「元気よぉ、毎日娘達に振り回されっぱなしだけどねぇ」<br> 「…そう」<br> <br> 巴は元々おとなしい性格ではあったが、決して気弱とかそんなのではなかったはずだ。それは今も相変わらずみたいだったが、何を考えているのかを窺わせないそのたたずまいは一体何なのだろうと思ってしまう。<br> 私は腕を組んで、また近くを通り過ぎていく何人かの談笑を耳に、彼女を見つめかえした。<br> <br>

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