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秋口のこと - (2009/04/10 (金) 18:53:17) の1つ前との変更点

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<ul><li>「秋口のこと」<br /><br /> 一 夢みたこと<br /><br /> 朝日が差し込んでいる。その眩しさで真紅は目を覚ました。随分と眠っていたような気がするけれど、よく思い出せなかった。<br /> 頭が酷くぼうっとしている。そもそもなぜ自分は座りながら眠っていたのか。<br /> 真紅の席と向かい側には大きな空の食器。何かが乗っていた様子も無い。<br /> 真紅は見た事も無い場所だった。<br /> 「なんなのここは…?」<br /> 狐につままれたような気持ちで真紅は席から降りた。椅子は足がつかないほど大きく、飛び降りるような形になる。服の揺れる衣擦れの音が大きい。<br /> 真紅は自分の服を確かめた。<br /> 人形展の時にも着ていった紅いドレスだ。いつの間に着替えたのか。<br /> 自分の指が関節ごとに丸く膨らんでいた。まるで球体関節人形のように。いや、球体関節人形そのものだ。<br /> 真紅は人形になっていた。<br /> 椅子も食器も大きいのではなくて、自分が縮んでいたのだ。<br /> 慌てて真紅は鏡を探した。ちょうど部屋の隅に薔薇の彫刻に縁取られた姿見があった。<br /> 駆け寄り、自分の姿を写しだす。考え通りそこには気品にあふれる紅い人形が一体立っていた。<br /> その姿はまさに。<br /> 「…ローゼンメイデン…」<br /> 震えた声で呟く。自分の頬に触れる。そのまま自分を抱きしめる。<br /> この異常な事態に真紅はなんの疑問も持たなかった。<br /> 「やっと、やっと…ここまで」<br /> ただただ真紅の胸は感動で打ち震えていた。無意識に流れ出た喜びの涙が真紅の頬をつたう。<br /> そうだ、これこそが正しい。やっと収まるべき場所に収まったという気すらする。<br /> いままでの人としての生活のほうが間違いだったのだ。この姿こそが正しい。<br /> 真紅の赤熱した頭脳は次の考えを紡ぎだす。<br /> 自分が人形ならば、この場所はなんなのか。そんなもの、決まっている。<br /> (お父様の家だわ)<br /> その考えは天啓のように真紅の脳裏に閃いた。<br /> 「お父様!お父様!どこにいらっしゃるのですか!」<br /> 真紅の声に答えるように微かにコーヒーとふんわりとしたパンの焼ける香りがし始めた。<br /> ここがお父様の家ならば、食器を用意したのはお父様だろう。<br /> 待っているべきかしら。真紅は一瞬そう考えたが、けれど近くにお父様が居るとわかっただけで、もう真紅は走るような勢いで歩き出していた。<br /> 早くお父様に会いたかった。話を聞いてほしかった。この姿を見てもらって抱き上げてもらいたかった。<br /><br /> 香りに誘導されて真紅は扉を開けた。ドアノブは真紅にも手の届く場所にも着いていた。やはりこの家はローゼンメイデンのためにある。<br /> けれど扉の開いた先は、まだお父様のいる部屋ではなかった。<br /> 通路のような場所。小さな丸い天窓が3つはまっていて、柔らかい朝日はここにもある。<br /> 右手側に真紅の背より高い棚が作られていて、たくさんお人形が陳列されている。みんな腰を下ろし壁に背を預け、朝日を浴びて眠っていた。<br /> 一番手前に白い人形。それから桃、蒼、翠、黄、黒そこで人形は途切れて、扉があった。<br /> ちらりと桃の人形の笑顔を見る。けれど他の人形に興味はなかった。真紅は小走りに次の扉に向かい、ドアノブを捻る。<br /> がちゃり。<br /> 扉は開かない。扉には鍵がかかっていた。何度も扉をあけようとする。開かない。<br /> 「なんで…!」<br /> 真紅は呻いた。心の中の喜びと期待がそのまま焦りと失意に塗り替えられて行く。<br /> 真紅は絶叫した。<br /> 「お父様、どうか開けて下さい。貴方の娘の真紅です、会いに来たんです!お父様!」<br /> ドアを叩く。分厚い一枚板でできたドアはびくともしない。<br /> 真紅はさらに激しくドアを叩き続けた。<br /> 「お父様!私はここにいます!気づいて!」<br /> ドアの向こうから返事は無い。<br /> 「お願いです、お父様、おとうさま…」<br /> だんだんとドアを叩く力が弱まっていく。力なく腕が垂れる。<br /> 「どうか…」<br /> もう言葉にもならなかった。涙がぼろぼろと足の間に落ちていく。<br /><br /> 「当たり前じゃなぁい」<br /> 右を振り向くと、眠っていたはずの黒い人形が笑っていた。<br /> チェシャ猫のような三日月の笑み。嘲る笑いで真紅を見下ろしている。<br /> 「お父様が貴女みたいなブサイクを愛するわけないじゃない。お父様が愛しているのは私、一番最初に作られたこの私よ」<br /> 真紅は一目でこの黒い人形が自分の天敵である事を理解した。<br /> それにさっきの姿を見られていたのだとしたら最悪だ。<br /> 「順番なんてたいした問題じゃないでしょ」<br /> 「そうかしらぁ?」<br /> 黒い人形は音も無く羽ばたき、真紅の上空をゆらゆらと漂い始めた。<br /> 「私達って随分似てないわよねぇ。つまり一つ前の作品を発展させる形で作られた訳じゃないのよ。おわかり?」<br /> 黒い人形はにやにや笑っている。真紅は黒い人形をにらみながら慎重に答える。<br /> 「それが?」<br /> 「つまりお父様は私たちを同時期に構想されていたのよ。なら、制作順番はお父様が少しでも早く世に生み出したかった順と言えるでしょ」<br /> 「くだらない妄想よ。根拠がないわ」<br /> もっと他に言い返した方がよかったが、うまく頭が回らない。<br /> 「じゃあ、なんで貴女のためにお父様は扉を開けて下さらないの」<br /> 「…」<br /> 真紅は答えられなかった。<br /> 「かわいそうな五番目ちゃん。貴方は誰にも愛されてない」<br /> 黒い人形は歌うように言って、手を広げた。空に浮かび、朝日を受けて優雅に手を広げる黒い人形は、美しかった。真紅でも認めざるを得ないほどに。こんなに憎らしいのに。<br /> 「そしてお父様に最も愛されるのはこの私。お父様に最も近しいのは私。お父様の棺に蓋をするのもこの私なの」<br /> 黒い人形は優しく真紅の頭に手を置いた。そして女王の高圧さで告げる。<br /> 「さ、五番目ちゃん貴女の席はあそこよ」<br /> 蒼の人形と桃の人形の間を指差す。<br /><br /> 真紅は黒い人形の手を払いのけた。<br /> 真紅の胸の内に溜まった黒い油のような感情に火がついた。激怒だった。<br /> 「うるさい、うるさいのよ!」<br /> 「こんな、こんな連中と私は違う!私は真紅、ただ一人真紅なのだわ」<br /> 知らず知らずのうちに握りしめていた右腕を振った。真紅はただ後ろで眠る人形達を示そうとしただけだった。<br /> けれど、その手の先に陶器の感触が伝わった。<br /> ガシャン<br /> 黄色い人形の顔が壊れた。<br /> まるで酸で溶かされたように顔面だけがえぐれとれていた。<br /> 口がないから、くぐもった悲鳴を上げて、うつぶせに倒れ、二回痙攣すると、動かなくなった。<br /> 黄色い人形は死んでいた。<br /> 「それが貴女のしたい事だったのね」<br /> 黒い人形は蔑んだ目で、こちらを見ていた。<br /> 「ちが」<br /> 真紅の右腕に激痛が走った。見ると、右腕がなくなっていた。<br /> 震える左手で、右腕の袖を掴んだ。<br /> 真紅は膝をつく。全身が瘧のように小刻みに震えていた。<br /> 上から黒い人形の笑い声が降ってくる。<br /> 「よかったわねぇ。これではっきりしたわ。壊れたお人形がお父様のお気に入りな訳ないでしょう」<br /> そして黒い人形は笑い続けていた。体をのけぞらせるほどの大笑いだった。<br /> 「あはは、なんて不格好なの」<br /> 「真紅ぅ!」<br /><br /> 二 夢の顛末<br /><br /> 有栖川病院の飾り気の無いベッドの上で真紅は跳ね起きた。<br /> 「あぁあっ…」<br /> 右腕が、もはや無い腕が痛くて痛くてたまらなかった。<br /> また血が流れ出したのかと思った。出血を止めようとする左腕が空中を掴む。<br /> 「いっ…た」<br /> 呻く。脂汗が止めどなく流れた。<br /> 痛みに朦朧となりながら真紅は思う。<br /> (ああそうか。無くした腕はあの人形を砕いた腕だった)<br /> 人形展の金糸雀人形。どこか遠くを見るような眼差しをしていた。あの目は遠くにいるお父様を見ようとしているように思えたっけ。<br /> 真紅自身何を考えているのかよくわかっていない。ただの痛みからの現実逃避だった。<br /> どれだけそうしていただろうか。やがて痛みの波は小さくなってきた。<br /> 真紅は荒い息を吐いた。<br /> その瞬間、控えめなノックの音が響く。<br /> 「真紅、入ってもいいかしら?カナかしら」<br /> おずおずとした金糸雀の声。<br /> 最悪のタイミングだったと言っていい。<br /> けれども。<br /> 「ちょっと待って頂戴」<br /> 鉄の自制心で、真紅はいつもの平然とした声を出した。<br /> 手早くハンカチで汗を拭き、髪を整えた。<br /> 痛みが引いて来たとはいえ、酷く体が熱っぽいのを我慢して平気な顔を取り繕う。<br /> 「いいわよ」<br /> 「こんにちわ、真紅」<br /> 声音の通り、おずおずとした調子で金糸雀が入って来た。右手に不死屋の紙箱、左手にヴァイオリンケースを持っている。<br /> 真紅はただ無関心な一瞥をくれた。<br /> 「貴女が来るとは意外ね」<br /> 「そうかしら」<br /> 「何しにきたの?」<br /> 金糸雀は不意にぶたれたような、少し驚いた顔をした。<br /> 「その…体の調子はどうかしら?」<br /> 「おかげさまで調子がいいわ」<br /> 「…あぅ」<br /> 気まずい沈黙。<br /> (ど、どうしたらいいのかしら…)<br /> 金糸雀は人に邪険にされるのは、これが初めてだった。少なくとも自覚している限りでは。<br /> 自分が嫌がられているのはわかるが、目の前の真紅はなんだかいつもと様子が違うし、ジュンとお見舞いに行ったときよりも調子が悪そうなので、さっさと帰る事もしたくない。<br /> 「えっと、その…」<br /> 金糸雀の心配そうな表情に真紅は内心苛ついた。<br /> (この前、ジュンと一緒に来て、義理は果たしたと思うけれど)<br /> 金糸雀にわからないようにそっとため息をつく。別に相手を気遣っての事ではなく、金糸雀に感情を乱されていると思われるのが嫌 なだけだ。<br /><br /> 真紅の視線がさらに冷たく重くなった気がして、金糸雀は内心慌てた。<br /> そこで気がつくのは手に持った不死屋のケーキの紙箱の重みである。<br /> 今日買ってきた紅茶と苺のロールケーキはかなり場を和ませてくれる気がする。紅茶のスポンジに包まれた生クリームの中で苺が半分に分かれていて、まるでリスザルの目みたいにくりっとしているのだ。<br /> いきなりこんなに気まずくなるとは思っていなかったが、そういう和み効果を期待して金糸雀が一生懸命選んだ一品だった。<br /> (ととと、とりあえず不死屋のケーキで場を繋ぐかしら!?)<br /><br /> 「と、とりあ」<br /> 「金糸雀」<br /> 「へ?」<br /> 不死屋の紅茶のロールケーキを取り出そうとし始めた金糸雀はきょとんとした。<br /> 「貴女が心配するような事は何もないわ」<br /> 改めて、真紅はそう切り出した。<br /> 「貴女は私が打ちのめされて、酷く落ち込んでいると思ったんでしょうけれど、そんなことはないわ」<br /> 真紅は襟の第一ボタンを止めてみせた。<br /> 「ほらこのとおり。腕が一本なくなったくらい私にはどうってことないのだわ。少なくとも貴女が責任を感じるような事じゃなかったのよ、アレは」<br /> 真紅の右腕が飛んだ時、目の前にいたのは金糸雀だった。<br /> 「そうかもだけど…」<br /> 金糸雀は申し訳なさそうにしている。 <br /> 金糸雀に、真紅に慰められたと思われるとお見舞いに頻繁に来るようになりそうだ。それはごめん被りたかった。<br /> だから駄目押しをしておく。<br /> 「だからわたしは貴女の哀れみなんていらないのよ」<br /> 金糸雀は病室に立っているが、あごを引き、上目遣い気味に言った。<br /> 「カナは哀れんだりなんてしてないかしら」<br /> 「筋合いのない心配は哀れみと同じだわ」<br /> 「カナと真紅は姉妹でしょ」<br /> 真紅は今度こそ大きくため息をついた。話が面倒くさい方向に転がりだしているし、腕の痛みもぶり返し気味だ。<br /> ちくり、じわりと痛みが増していく。腕の切断面に一本づつ針を刺していくような痛み。<br /> ほうっておいてほしかった。『貴女の顔なんて見たくもないからさっさと出て行って頂戴!』と叫べたらどれだけいいだろう。<br /> けれど、そんな人前で取り乱すなどという振る舞いは真紅の美意識が許さない。<br /> あくまで落ち着いて金糸雀を追い出しにかかる。刃物のような冷笑が真紅の顔に浮かび始めていた。<br /> 「姉妹ね…私たちにとって、姉妹という関係はどれほどの物なの?」<br /> 「…」<br /> 金糸雀は言葉に詰まった。真紅の予想通り、金糸雀はそのことについて深く考えた事はなかったようだった。<br /> 水銀燈が他の姉妹は全員敵だと吹き込んでいるかと思っていたが、その様子もなさそうだ。<br /> 「私はそもそも貴女に興味がなかったわよ。貴女が桜田さんの家に押し掛けてこなければ関わりあう事もなかったでしょうし」<br /> 「でもその前に夏にみんなと知り合うって決めたのは真紅かしら。真紅は欠席だってできたでしょ」<br /> 「あの時は少しは意味があるかもと思っていたわ。けれど貴女達と知り合ったこの数ヶ月間はなんの収穫もなかったわね。貴女達はローゼンの娘としての自覚があまりにも足りないのだもの」<br /> 既に真紅は常人なら涙を流してもおかしくない痛みを感じていたが、それに加えて今までの針で刺される痛みではなく、突然斧を肩口に叩き込まれるような発作的な痛みが真紅の腕の中で跳ねた。<br /> さすがの真紅も一瞬視線を右腕の付け根に視線を走らせた。当然異常はない。<br /><br /> そして真紅は他の事に気がついた。<br /> さっき止めて見せた服のボタンが外れている。半端に穴に通す事しかできなかったため、簡単に外れたらしい。<br /> 一瞬痛みを忘れるほどの感情が真紅の胸の内に吹き荒れた。<br /> それは自分への激怒であり悲鳴であり、なにより失望だった。<br /> 「ローゼンの娘としての自覚ってなんのことかしら?」<br /> 金糸雀が不思議そうに問うてくる。<br /> 激痛は止まない。むしろ斧を二度、三度と傷口に繰り返し叩き付けられているかのようだ。そして失望も消えない。<br /> でもここで返事がなければ不自然だ。<br /> 「アリスを目指すということよ」<br /> 金糸雀はその答えがあまりに意外で、理解できなかった。<br /> 返事がなくても真紅は続ける。真紅の言葉はすでにうわ言のようになっており、それ自体が異常な熱に浮かされていた。<br /> 「そうよ。私は違う。愚かな貴女、目をそらす翠星石、卑屈な蒼星石、甘ったれの雛苺そのどれとも違う」<br /> 真紅はきつく自分の右腕の付け根、もうそこから先はない付け根を左手できつく掴んだ。<br /> 「真摯にアリスを目指しているのは私だけだったわ」<br /> 「おねえちゃんがいるかしら」<br /> 金糸雀が水銀燈の事を口走ったのは、反射のようなものである。<br /> むしろ水銀燈を一番酷く嘲うために、真紅がこういう話し方をしたことに金糸雀は気がつかない。<br /> 「ははっ。水銀燈が一番おかしいのよ。壊れているわ」<br /> 「壊れ…?」<br /> 「そう。ジャンクよ」<br /> 真紅の胸にある感情は自分に向けられたものだ。けれど、それを噴出させる方向まで自分に照準を会わせる必要はない。目の前には金糸雀がいる。こいつが一番大事にしてるものが何かはわかってる。<br /> 現実逃避であることは薄々分かっていた。でもどうでもよかった。<br /> どうせ現実に大事な物は戻ってこない。なくなった腕。完全な自分。お父様との唯一の絆。<br /> 「教えてあげるわ、水銀燈が」<br /> ガゴン!<br /> 金糸雀が床にヴァイオリンケースを叩き付ける鈍い音が響いた。微かに内部の弦が振動する音がその後に続く。<br /> 「いらない。取り消して」<br /> 金糸雀は迷いのない口調で言った。その視線は鋭い。<br /> 「おねえちゃんだけじゃない。みんなに言った酷い事全部取り消すかしら!」<br /> 「答えはノーよ」<br /> しばらく二人はにらみ合った。が、真紅には限界がある。<br /> 「っ…あ」<br /> ついに目覚めた時と同じくらいに膨れ上がった腕の痛みに真紅はおもわず背中を丸め、かがみ込んだ。<br /> 金糸雀は自分の怒りを忘れて、真紅に駆け寄った。<br /><br /> 金糸雀がにやにやと笑っているような気がする。目線を上に戻せない。<br /> 「痛いの!?真紅、真紅!」<br /> 金糸雀の手が真紅の背中に触れた。<br /> 真紅は背中の手を払いのけようとしたが、それは激しい痛みのせいで加減がきかなかった。<br /> 左腕に鈍い感触がして、それから不意に感触がなくなる。振り上げた左腕は勢い良く金糸雀のあごを打っていた。<br /> 金糸雀はたたらを踏むように2、3歩後ろに下がった。それから膝が床に落ちる。その姿勢は足を崩した正座のようだったが、すぐに上半身が足を抱え込むようにして前のめりに倒れた。<br /><br /> さっき見た夢みたいに。<br /> ごん。頭をそのまま床に打ち付けた音がする。<br /><br /> 嫌な予感がする。さすがの真紅の声も震え始めていた。<br /> 「金糸雀、腕が当ったみたいね?悪かったわ」<br /> 「…」<br /> 金糸雀は何も答えない。妙な姿勢もそのままだ。<br /> 心臓が激しく打っているのに、真紅は体が冷えるのを感じた。腕の痛みさえも壁を隔てた遠い事のように感じられる。<br /> にじみ出た汗が冷えて気持ち悪い。<br /> 「早く起きて頂戴」<br /> 言い終わる前に真紅はベッドを滑り降りた。金糸雀の背中を揺らす。<br /> 真紅のされるがままに金糸雀は揺れた。自分では指一本も動かさない。<br /> (死んでる)<br /> そんな発想が頭に浮かんだ。理性は否定する。人が腕があたったくらいで死ぬ訳がない。そんなわけはない。血だって出てない。<br /> うつぶせの金糸雀をひっくり返せば、すぐに確認できる事だった。<br /> けれど人形展の事が、今の状況に重なる。<br /> あの時も腕に少しの感触を感じただけだった。けれどあの人形は終わってしまった。<br /> 生気すら感じた物が全ての意味を失ってしまう、理不尽な終わり。人形の壊れた顔に現れた空洞。まるで操り人形の糸が全て切れてしまったような、突然の終わり。<br /> 今、金糸雀がうつぶせたその顔はどうなっているのか。おそらくなんの外傷もない。けれど顔があったところで、もう魂は抜け出てしまっているのではないか。<br /><br /> 初めて真紅の頬を痛みのためでない汗が伝った。<br /> 恐い。<br /> 「なんなの…一体これはなんなの…?」<br /> 腕をなくして入院して目の前で金糸雀が死んでいる。<br /> 自分のなす術無くなにもかもが崩れて行く。まるで自分の座っている床すら砂になって落ちて行くようだ。<br /> 暗い。<br /> 寒い。<br /> 生まれて初めて、真紅は気絶した。<br /><br /> ※<br /><br /> さてどうしよう。<br /> メグは真紅の病室に一人立ちながら考える。<br /> 病室のお隣さんに挨拶しようと思ったら、先客に金糸雀がいて、しばらく覗いていたらこの有様だった。<br /><br /> いきなり医者を呼ぶのはやめておこう。<br /> この状況をみれば治療だけではすまない。<br /> 原因が追及されて、お互いの保護者に連絡がいけばもうアウトだ。<br /> ただでさえ両家の関係はこじれているのだから、もう入院中にお見舞いに行く事も出来ないだろう。<br /> それどころか警察がしゃしゃり出てきて、真紅の腕が失われた事件との関連を追求するかも知れない。<br /> 「せぇの…っと」<br /> なんとか真紅を抱え上げる。<br /> 片腕になってしまった事を差し引いても、真紅はメグでも持ち上げられるほど軽かった。<br /> とはいえ真紅をベッドに戻すと、メグの両腕は震えていたし、酷くむせたが。<br /> (ちゃんと食べてるのかしら、この娘)<br /> ぜぇはぁと息をつきながら、メグは自分の事を棚に上げて考えた。<br /><br /> 実は昨日めぐはのりと出会って、少し話をしていた。<br /> その時『真紅ちゃん』のことを口にするのりの顔には見覚えがあった。<br /> 一昔前に自分のお見舞いに来た自分の父親の顔だ。<br /> 頑に心を閉ざす相手にどう接していいのか分からない、途方に暮れた顔。<br /> (こういうのを同病相哀れむって言うのかしら)<br /> 真紅をなんとかしてあげたいと、めぐは思う。<br /> 真紅のような子供はほうっておけば自分で築き上げた城壁の中から出てこれなくなるだろう。<br /> 自分は水銀燈との出会いによって、そうならずにすんだ。<br /> 金糸雀と真紅の関係がそれと同じになってくれればそれが一番良いのだが、それは正直無理だろう。<br /> 「どうしたものかしらねー」<br /> 次に、侍が切腹してから前のめりに倒れたみたいになっている金糸雀をひっくり返す。<br /> 「ぷ」<br /> メグは思わず吹き出した。<br /> 倒れた時にケーキの箱を下敷きにしたようで、クリームが髭のように口の周りについていた。<br /> まるで季節外れのサンタクロースだ。<br /> 「カナちゃんらしいわ」<br /> ハンカチを取り出しながら、メグはそんなことを呟く。<br /><br /> ぐにぐにと口周りを触られる感触で金糸雀は目が覚めた。<br /> 「うー…?」<br /> 口の中で消えるごく小さな声を発しながら、金糸雀がうっすらと目を開けると目の前には真紅の顔があった。<br /> 金糸雀は脳しんとうの影響で少し記憶を失い、残った記憶も混濁していたため、なぜ真紅に触れられているのかさっぱりわからなかった。<br /> けれど真紅はとても真剣な表情で自分の顔を触っているので、金糸雀はしばらく真紅のさせたいようにさせてあげることにする。<br /> 真紅の手つきは盲人が人の顔を確かめるような柔らかさで、金糸雀には心地いい。<br /> (まるで卵になったみたいかしらー)<br /> 本当のところビスクドールを触るかのような慎重さで触っていたのだが、金糸雀が知るはずもない。<br /> 下まつ毛をくすぐる真紅の指がくすぐったい。<br /> 「…よかった」<br /> と、真紅は安心して息をついた。金糸雀は真紅が今にも泣き出しそうな表情をしている事に気がつく。<br /> 「だいじょーぶ、かしら」<br /> 何が問題なのかも把握しなていないのに生来の能天気さで金糸雀はそう言った。<br /> そのままひょいと手を伸ばして、真紅の目尻に光る涙を拭う。<br /> 真紅を元気づけるために金糸雀はにこにこと笑ってみせた。<br /> 真紅は二度、目を瞬かせた。金糸雀が起きていることに気がついていなかったため、驚いているらしい。真紅があっけにとら<br /> れている間も、金糸雀は田舎のひまわりの様なのどかさで笑いかけ続ける。<br /><br /> しばらくの間。<br /><br /> 真紅はむにっといきなり頬を引っ張った。<br /> 「ふぎっ!?」<br /> それも一瞬で済まさず延々と引っ張り続ける。横にいるメグは全く助けない。というか、金糸雀の頬が人一倍伸びるのを<br /> ひっそりとおもしろがっていた。<br /> 結局、金糸雀が真紅の指を振り払えたのは5秒ほど立った頃で、すっかり金糸雀の方が涙目になっていた。<br /> 「なな、なんでこういうことするのかしら!」<br /> 怒る金糸雀に対して、真紅はもう一度毒を吐く。<br /> 「貴女が面白い顔してるからよ」<br /> 「なー!?」<br /> これから口喧嘩が始まりそうな雰囲気になったが、真紅は急にツンと冷たい表情になって言い捨てる。<br /> 「これに懲りたら二度と来ないで頂戴」<br /> そして、真紅は言うべき事は言ったとばかりに、金糸雀に背を向けてベッドの中に潜り込んだ。<br /> それからしばらくは怒りの収まらない金糸雀が色々言うが、もはや真紅は無視し続ける。<br /> 「あ、貴女みたいなわがままな人は初めて見たかしら!ぶっちゃけカナがとっといたヤクルトを1パック全部飲むおねえちゃんの2.18倍くらいわがままかしらー!?」<br /> 「あーカナちゃん家庭の事情をぶっちゃけるのもそのくらいにして、ね?」<br /> 錯乱気味の金糸雀にメグは遅まきの仲裁に入った。<br /><br /> 「な、なんなのかしら、真紅ったらなんなのかしら!」<br /> 涙目で顔を真っ赤にして怒る金糸雀にメグは悲しそうに言ってみせた。<br /> 「真紅ちゃんも怪我で大変なのよ」<br /> 「う…」<br /> さっきのやり取りを見ていて、メグは少し希望を感じていた。<br /> 気絶から回復した真紅は真っ先に金糸雀がどうなったのかを気にしていた。<br /> 真紅は冷酷な性格ではないのだ。<br /> (水銀燈を見てればこの家系に色々あるのはわかってたけれど…真紅ちゃんはなんていうか、複雑な娘ね)<br /> シュンとして、すでに怒りが去りかけている金糸雀のほうが姉妹の例外なのだろう。<br /> 「…今日は来ない方が良かったのかしら」<br /> 「うーん、少なくとも今日はもうおしまいね。真紅ちゃん寝ちゃったし」<br /> 「かしら…」<br /> 「なに。また明日出直せばいいのよ。何があったのかも本人から聞けば良いんだし」<br /> しばらく金糸雀は悩んでいたが、結局の所そうするしかないとわかったらしい。<br /> 「そうするかしらー」<br /> 金糸雀は千鳥足気味に真紅の部屋から出て行った。<br /> 金糸雀が部屋から出てから、ふう。とメグは息をつく。<br /> とにかく真紅を一人にしないで済みそうだとメグは胸を撫で下ろす。<br /> 「また明日も来るって。金糸雀を追い払うのに失敗したわね真紅ちゃん」<br /> あいかわらず真紅はこちらに背を向けたままだ。けれど、一瞬怒ったように背中を震わせた。<br /><br /> 三 入院の日々/見舞い客達<br /><br /> その日は一睡も出来なかった。<br /> そのせいで目が赤い。だから、今日は誰にも会いたくないと思った。<br /> 真紅はベッドの上で三角座りをしながら、ドアに背を向け続けている。<br /> ノックの音は無視する。ドア越しに声をかけられても「帰って」とだけ返す。<br /> ジュンはそれで引っこんだ。<br /> 次に先生が来た。ただただ無視するとドアの前でジュンが先生に謝っていた。<br /> まだジュンはドアの前にいたらしい。ジュンの必死で取り繕う声音は案外のりに似ていた。<br /> のりが来るには時間がある。次に来たのは金糸雀だった。<br /> ジュンと挨拶をかわす高い声、ココンカンココン、変にリズミカルなノックの音。無視する。<br /> 「真紅ー寝てるのかし」<br /> 「帰って」<br /> ジュンがとりなして謝るような声。金糸雀の物凄くわざとらしいため息。<br /> 「はぁー、しかたないかしら。じゃあ帰るわ…と見せかけてえいっ」<br /> 「あっ」<br /> ジュンの慌てた声。ガチャリというドアノブを握る音。ノブを回す音はしない。<br /> ここまで無理にドアを開けようと人間はいない。なので、ドアノブに塗り付けた接着剤を握ったのは金糸雀だった。<br /> 「本当にひっかかるとはね…」<br /> 真紅としては誰にも入ってほしくないという意思表示だったのだけれど。<br /> 「ドアの下に接着剤はがしが落ちてるわ。負けを認めて帰るなら使っても良いわよ」 まるで勝負みたいな風に言ったのは、金糸雀と七月に勝負をした事があったからだ。<br /> 金糸雀は勝負に関しては潔いので、これですんなり引き下がるだろう。<br /> しばらくドアががちゃがちゃと音を立てる。けれど、やっぱり手がはがれなかったらしい。諦めたような沈黙。<br /> 「これがホントの門前払い。って上手くもないかしらー!」<br /> 走り去る軽い足音。あきれかえったジュンの声。<br /> 「おまえなぁ…涙目だったぞ金糸雀」<br /> 不謹慎だけれど、ほんの少し笑えてしまった。<br /><br /><br /> のりは水銀燈と一緒に現れた。<br /> 「水銀燈さん」<br /> 「こんにちわ、ジュン君」<br /> ジュンがまず真紅の態度を二人に説明していた。<br /> ジュンが水銀燈と話をしているだけでも、胸がざわついた。自分の弱みを水銀燈に見せるなんてありえない。<br /> 「真紅ちゃん、あのぅ…」<br /> のりの困り声。<br /> 「今は誰にも会いたくないの。のり、わかって頂戴」<br /> ジュンが一時期のりに向けていたのと同じような態度だとは真紅は気がつかない。<br /> そして割り込むような、落ち着いたノックの音。<br /> 「真紅、開けてもらえないかしら?」<br /> 水銀燈の言葉にも真紅は冷静な声で返事をしようとした。けれど失敗した。<br /> 「入ってこないで!」<br /> この日真紅は初めて声を荒げた。声を荒げるつもりなんて無かったのに自分でも驚くほど大声が出た。<br /> 金糸雀の時にはいくらでも取り繕う余裕があった真紅が、最初から余裕の無い敵意ばかりの言葉を向けていた。<br /> 少しの沈黙。 ジュンとのりが面食らったような顔をしているのは簡単に想像できた。けれど、水銀燈はどんな顔をしているのか。<br /> 静かな水銀燈の声がした。その感情は真紅には読み取れなかった。<br /> 「そう…しかたないわね。扉越しで悪いけれど、あの日の事は謝るわ。ごめんなさいね」<br /> それでも真紅は無言でい続ける。何が何でも、水銀燈とだけは話さないつもりだった。<br /> 扉の前では水銀燈はのりとジュンにも謝り、のりとジュンが何度も水銀燈に謝っていた。<br /> 水銀燈がいなくなってから、真紅は枕を思い切り殴りつけた。何に怒っているのかなんて自分でも分からない。<br /> ただ苛立ちと怒りと屈辱感で真紅の胸は一杯だった。荒々しく涙を拭う。<br /><br /> 結局ジュンは面会時間が終わるまで、ドアの前にいた。<br /><br /> ※<br /><br /> 腕を無くしてしまったにしても、真紅は全くいつも通りに見えた。<br /> 昨日は面会拒否状態だったと翠星石がジュンに聞いていたのに、顔色も良さそうだ。<br /> 「廊下で君の同級生達に会ったよ」<br /> 「ふうん、そう」<br /> 「また、気のない返事ですねぇ」<br /> 「まぁね」<br /> 翠星石のあきれた声。真紅と苦笑いを向け合う。<br /> 真紅の冷たい言い方に蒼星石は『おやおや』とでも言いたげに眉を上げた。<br /> まぁでも、真紅の反応も仕方ないかなと蒼星石は思う。<br /> さっき話した同級生達は、真紅の事を『お姫様』というあだ名で呼んでいた。おそらく真紅の知らないところで。<br /> 陰口ではないのだろうけれど、面白がっているような調子。<br /> 翠星石と真紅の話が盛り上がり始めるのを横目に蒼星石はお見舞いの品を取り出し始めた。<br /><br /><br /> 真紅の部屋を出た後、翠星石はほんの少し俯き加減で、早足に歩いた。押し殺していた怒りが込み上げて来たのだろう。この情の濃さが翠星石の良さだと蒼星石は思っている。蒼星石にそこまでの熱さは無い。<br /> 「おかしいですよ真紅も、あの同級生達も」<br /> 「そうだね。でも、僕たちもあの同級生達と同じだよ」<br /> 「翠星石が真紅を面白がってたっていうんですか?」<br /> 「そうじゃなくって、ただのお見舞いしか出来なかったところ」<br /> 小さく、あぁ。と翠星石は呟く。<br /> 「そうですね」<br /> 結局翠星石も蒼星石も普通の見舞いしかできなかった。<br /> 真紅の心は開かなかった。翠星石のはげましは上滑りし、そのうち会話は他愛のない方向に逸れて行った。<br /> 「結局さ、真紅が僕たちに傷ついた姿を見せたくはないみたいだから」<br /> 表面上は翠星石の気持ちに同調してる風を装いながら、蒼星石は言った。<br /> 「私たちにはどうしようもない、ですか。でも…」<br /> 翠星石は簡単には割り切れないようだった。<br /> 「うん」<br /> 翠星石の気持ちに同調するように蒼星石は深く頷いた。<br /> (翠星石と真紅って、本当は気が合うんだろうな)<br /> なんてったって、好きな人が同じ人になるくらいだ。<br /> 翠星石と真紅の間には桜田ジュンという対立点がある。<br /> もしも翠星石がジュンに恋する前に真紅と合っていれば仲良くなっていたのだろうが、現実はそうはならなかった。<br /> 今となっては、翠星石は真紅への思い入れを深めるべきじゃない。<br /> 翠星石が真紅を気遣ってジュンを遠慮してしまう可能性の枝は断ち切るべきだ。<br /> 表面化していないだけで、二人は恋敵なのだから。<br /> 「僕たちは真紅の誇りを尊重するべきなんだよ」<br /> 言いながら、蒼星石はとある映像を思い出した。<br /> 祖父一葉のツテを使って、真紅が主演する予定だった映画『未来のイヴ』の資料を見せてもらったことがある。ま<br /> だその映像はイメージショットでしかなかったが、すでに真紅は恐ろしいほど美しかった。<br /> 翠星石がアリスに最もふさわしいと考える蒼星石ですら、美しいと認めざるを得ないほどに。<br /><br /><br /> だから。<br /> この墜落は幸運だ。<br /><br /><br /> 真紅は傷ついたときほど一人になりたがる。それは誇り高さなのだろうけれど、そればかりでは気遣う方もやがて疲れて諦める。<br /> (このまま、真紅が失意のうちに頑なになってくれれば、ジュン君が翠星石の物になる可能性は上がるよね…)<br /> 「そっとしてあげるのが一番だよ。僕たちが騒ぎ立てることが真紅にとっても一番辛いんじゃないかな」<br /> 「そう、ですよね」<br /> 悲しそうな翠星石に蒼星石は手を出す。翠星石と指を絡めて手を握る。<br /> しばらく、無言のまま歩いた。<br /> 真紅よりも翠星石の幸せが優先する。<br /> これでいいはずだ。<br /> なによりもジュン君の心を射止めることが翠星石の幸せのはずだ。<br /> 翠星石がぽつりと言う。<br /> 「蒼星石と翠星石だけはいつだって一緒ですよ」<br /> 蒼星石もそれに続く。<br /> 「うん。翠星石と僕はいつまでも一緒だよ」<br /> お父様が亡くなった時に二人で泣きながら交わした約束を二人はもう一度繰り返した。<br /><br /> 病院の駐車場から送迎の車が発進するころ、蒼星石の視界に緑色の髪の毛が入り込んだ。<br /> あの髪の色をしているのはこの街では金糸雀一人しかいない。用件はやっぱり真紅だろう。<br /> (金糸雀は僕を軽蔑するかな?)<br /> ふと、心にそんな言葉が湧いた。言い訳気味に付け加える。<br /> (僕が真紅を傷つける訳じゃない)<br /><br /> ※<br /><br /> なにも、金糸雀は毎日門前払いを食らっている訳ではない。<br /> 真紅はこの入院生活の中でも平然と落ち着いている姿を見せたいのだから、誰でも丁重に扱うのは当然と言えば当然だけれども。<br /> たいていの日ではちゃんと部屋まで通してあげたし、淹れた紅茶も飲んであげた。<br /> 世間話だって少しはするし、チェスで負かしてやる時もあるし、くんくん探偵の凄さを教えて上げないでも無い。<br /> それでも眠れない夜を過ごした後は、目が赤いから誰にも顔を見せたくないだけだ。<br /><br /> ただ、部屋に入れてもらえないときの方が、金糸雀が嬉しそうなのは気のせいではないと思う。<br /> 扉越しに金糸雀が声をかけてくる。<br /> 「急に部屋に入れてくれないとか…あなたって本当に気まぐれな猫みたいかしら」<br /> もちろん金糸雀は真紅が扉を開けない理由など知らない。<br /> ついでに自分が真紅を猫扱いするという地雷を踏んだ事にも気づいていない。<br /> 最初の接着剤をドアノブにつけた時に勝ち負けを持ち出した事から、単純に真紅がちょっとした勝負を仕掛けて来たのだと思っているようだった。<br /> 「三度目の挑戦、受けてもらうかしら真紅。『序曲』!」<br /> 今回はヴァイオリンの音色で真紅に自分から扉を開けさせる作戦らしい。<br /><br /> 一曲目の時の拍手は二つ。ジュンと、よく金糸雀にくっついてくる小さな薔薇水晶。<br /> 「ほら、真紅も見に来てみろよ、指の動きとか凄いぞ。参考になる」<br /> ジュンが本当に感心したような声を上げていた。<br /> 「なんの参考よ」<br /> そのせいでついつい言い返してしまった。<br /> 「野ばらのプレリュード!」<br /> 確かに金糸雀の弾くヴァイオリンの音色はすばらしかった。その証拠に、一曲ごとに拍手の数と音が多くなって行く。<br /> 自由に歩ける患者がだんだんと集まりだしているらしい。中には小児科の患者だろう子供の声も聞こえる。<br /> 「お客さんも集まり始めていよいよ盛り上がって来たかしらー。次、うなだれ兵士のマーチ!」<br /> 三曲目が終わる頃には、金糸雀はすっかり上機嫌だった。聴衆の評判がいいと、素直にテンションが上がるらしい。<br /> 「くんくん探偵歴代OPEDメドレー!さぁ真紅さくさく出てこないと聞き逃しちゃうかしらー!」<br /> 「そこでなにをしているの!」<br /> 厳しい中年女性の声。確か佐原とかいう看護師だ。<br /> 病院の廊下で人だかりを作れば、何事かと駆けつけた病院関係者にしょっぴかれるのは当然だろうに。<br /><br /> こんこん。<br /> ドアをノックする控えめな音。<br /> 「誰?」<br /> 聞き取るのも難しい、たどたどしい声。<br /> 「か、カナお姉さまの…ヴァイオリン…気に入りません…か?」<br /> 「演奏会を開けるくらい上手いわよ」<br /> 「…じゃあ…出てきても…」<br /> 「ヴァイオリンの音なんて扉越しでもはっきり聞こえるわ」<br /> 微かに『あ…』と呟く声が聞こえた気がした。<br /> 最後にジュンがぼやいた。<br /> 「そりゃそうだよな」<br /> 「ほんと…お間抜けね」<br /> その日初めて真紅は笑った。<br /> 「ジュン、金糸雀に伝えて頂戴」<br /><br /> ※<br /><br /> ジュンが見つけた時金糸雀は病院内の喫茶店でめぐと薔薇水晶と一緒にいた。<br /> 「あ、ジュンかしら」<br /> 自分に気がついて笑顔で挨拶してくる金糸雀の目が少し赤いので、ジュンはよけい申し訳ない気持ちになった。<br /> 「真紅から伝言なんだけど…」<br /><br /> 「貴女なんかが一生かかっても私に勝てる訳無いでしょこのばかばかばかばか。わかったらさっさとあきらめなさいな」<br /> 「かしらー!」<br /> 喜怒哀楽のあらゆる表現が「かしら」で表現できるのはある意味うらやましいな、とジュンは思った。<br /> 激怒する金糸雀は駆け出して行った。行き先は当然真紅の部屋だろう。<br /> あわあわした顔で薔薇水晶がその後ろを追いかけて行く。<br /> 「真紅ちゃんって本気でカナちゃんに来てほしくないの?」<br /> 「そうですけど」<br /> 「だとしたら結構子供っぽいのね」<br /> どう考えても今の言葉は逆効果でしょう。とメグの顔が言っている。<br /> ジュンとしては<br /> 「ええまぁ…」<br /> と言葉を濁すしかなかった。<br /><br /> ※<br /><br /> 塞ぎ込み立ち尽くすものにとって、日々はあっというまに過ぎてゆく。<br /> 誰に対しても丁寧で気丈に振るまい、そして心を開かない真紅の対応は当然のように見舞客を減らした。<br /> それでも金糸雀は毎日放課後に顔を出し、菓子を持参しては食べながらしゃべった。<br /> 部屋に入れてもらえない日も無謀な作戦で玉砕を繰り返した。<br /> そしてジュンはその倍、静かに真紅の傍にいた。<br /><br /> 毎日来る見舞客は二人だけになった。<br /><br /> ※<br /><br /> 今日は珍しく金糸雀が来なかった。<br /> そしてジュンから微かに漂う程度、翠星石の花のような香りがした。今までもジュンがスコーンを持ってくる事はあったし、別に翠星石がジュンを好きな事くらい知ってるから別にどうという事も無い。<br /> 金糸雀には金糸雀のジュンにはジュンの生活があるのだから、当然の事だし、というかなぜ自分がわざわざこんな事を考えないといけないのか。<br /> 喫茶店の紅茶を一息に飲み干す。ちょうど背後を歩いてくる気配があったので、店員に向かって言う。<br /> 「紅茶を」<br /> 「ずいぶん不機嫌そうね」<br /> 近づいて来ていたのは店員ではなくて、メグだった。<br /> そのまま許可も取らずに真紅の向かいに座る。<br /> 「ちょっと」<br /> 真紅が抗議の声を上げた時、メグは手を挙げた。<br /> 「店員さん紅茶二つ、あとフィナンシェも一つ」<br /> しかめ面でメグを軽くにらむ真紅に対して、メグは平然と<br /> 「まぁまぁ、おごるわよ」<br /> と言った。<br /><br /> メグはじっくりと話したそうだったが、真紅にそんな気はない。<br /> 「金糸雀の事なら、からかってれば面白いだけよ」<br /> 「なんのこと?」<br /> 「貴女が金糸雀を気にかけてる事くらいわかるわよ。おそらく水銀燈の頼みでしょうけど」<br /> メグは困ったような表情をしたが、真紅の性急さにつきあう事にしたようだった。<br /> 「あの娘に哀れみとか悪意は無かったでしょう」<br /> 「たしかにそうだわ」<br /> 「怪我人にだろうと怒れるのはあの娘くらいのものよ」<br /> メグはそういうと少し笑った。<br /> 紅茶とフィナンシェが届き、真紅はフィナンシェを一口食べる。<br /> 「カナちゃんにローゼンの記憶は無いわよ」<br /> 「まぁ、あの調子じゃ記憶に残っていないでしょう」<br /> 「ひどい言い様ね」<br /> メグは意外そうな顔をした。<br /> 「べつに今の事を評したんじゃないわ」<br /><br /> メグも知らないだろう、ローゼンを偲ぶ会に出席した時のこと。<br /> あの時、一日中堂々としていた水銀燈の表情が崩れたのは一度だけ。<br /> 会も終わって、出口に向かっている時、金糸雀が不思議そうに言った言葉。<br /> 「なんでおとうさまおきないのかしら?」<br /> 水銀燈の顔が歪むのを見たのはあの時だけだ。<br /> 知らない子に見つめられている事に気がついた水銀燈は、すぐに表情を繕い直したけれど。<br /><br /> 真紅は紅茶の水面だけを見ていた。<br /> 「貴女は仲直りさせたいようだけれど、それは無駄よ。私たちが仲良くすることなんて誰も望んでないもの」<br /> 「そんなことはないでしょ。現にカナちゃんもジュンくんだって貴女と仲良くしたいでしょうに」<br /> 「じゃあ、なんでお父様は私たちを一つ屋根の下に住まわせなかったの?」<br /> 真紅の声は異常なまでに押し殺されていて本当に真紅の声なのか、メグは一瞬耳を疑った。<br /> 誰も、ではなく本当のところはお父様。<br /> 「私たちは知り合えば知り合うほど戦いは避けられないでしょう。あの一番のん気な金糸雀だって私と相対するときは勝負を持ち出さずにはいられないのだから。今の関係だから、あの程度の遊びで済んでいるのだわ」<br /><br /> 「関係が深くなればなるほど、思いが強くなればなるほど、私たちの戦いは深さを増して、やがては大事なものを傷つけるのよ。そうじゃなかった時なんて無いもの」<br /> 真紅がメグを見た。その上目遣いの視線は年上のメグをたじろがせるほど鬼気迫っていた。<br /> メグは自分の肌が火であぶられるような錯覚を感じた。反射的に身が竦む。メグは紅茶のカップに指をかけていたので、皿とぶつかって耳障りな音を立てた。<br /> 「…だから貴女と話なんてしたくなかったのよ」<br /> 言葉ではメグを攻めていたが、そのうなだれた様子は度を失った自分を恥じているようだった。<br /> 真紅は席を立ち、メグもあえて止めなかった。<br /> 「何かあるとは思ってたけど…」<br /> 独り言を言って、喉が渇いている事に気がついた。メグはひどく冷や汗をかいていた。<br /> 色々と金糸雀が真紅のところに来るように最初の暴力沙汰をごまかしたり、ひそかに金糸雀を応援して来たのは失敗だったかもしれない。<br /> あの目つきの裏にある異様な怒りと絶望。<br /> 暗く複雑なそれの大きさに思いを巡らして、メグはため息をついた。<br /><br /> 「あの塞ぎようをなんとかしたかったけれどね」<br /> もう真紅の入院生活も一月近くなる。退院の日が近づいて来ていた。</li> </ul>
<p>「秋口のこと」<br /><br /> 一 夢みたこと<br /><br /> 朝日が差し込んでいる。その眩しさで真紅は目を覚ました。随分と眠っていたような気がするけれど、よく思い出せなかった。<br /> 頭が酷くぼうっとしている。そもそもなぜ自分は座りながら眠っていたのか。<br /> 真紅の席と向かい側には大きな空の食器。何かが乗っていた様子も無い。<br /> 真紅は見た事も無い場所だった。<br /> 「なんなのここは…?」<br /> 狐につままれたような気持ちで真紅は席から降りた。椅子は足がつかないほど大きく、飛び降りるような形になる。服の揺れる衣擦れの音が大きい。<br /> 真紅は自分の服を確かめた。<br /> 人形展の時にも着ていった紅いドレスだ。いつの間に着替えたのか。<br /> 自分の指が関節ごとに丸く膨らんでいた。まるで球体関節人形のように。いや、球体関節人形そのものだ。<br /> 真紅は人形になっていた。<br /> 椅子も食器も大きいのではなくて、自分が縮んでいたのだ。<br /> 慌てて真紅は鏡を探した。ちょうど部屋の隅に薔薇の彫刻に縁取られた姿見があった。<br /> 駆け寄り、自分の姿を写しだす。考え通りそこには気品にあふれる紅い人形が一体立っていた。<br /> その姿はまさに。<br /> 「…ローゼンメイデン…」<br /> 震えた声で呟く。自分の頬に触れる。そのまま自分を抱きしめる。<br /> この異常な事態に真紅はなんの疑問も持たなかった。<br /> 「やっと、やっと…ここまで」<br /> ただただ真紅の胸は感動で打ち震えていた。無意識に流れ出た喜びの涙が真紅の頬をつたう。<br /> そうだ、これこそが正しい。やっと収まるべき場所に収まったという気すらする。<br /> いままでの人としての生活のほうが間違いだったのだ。この姿こそが正しい。<br /> 真紅の赤熱した頭脳は次の考えを紡ぎだす。<br /> 自分が人形ならば、この場所はなんなのか。そんなもの、決まっている。<br /> (お父様の家だわ)<br /> その考えは天啓のように真紅の脳裏に閃いた。<br /> 「お父様!お父様!どこにいらっしゃるのですか!」<br /> 真紅の声に答えるように微かにコーヒーとふんわりとしたパンの焼ける香りがし始めた。<br /> ここがお父様の家ならば、食器を用意したのはお父様だろう。<br /> 待っているべきかしら。真紅は一瞬そう考えたが、けれど近くにお父様が居るとわかっただけで、もう真紅は走るような勢いで歩き出していた。<br /> 早くお父様に会いたかった。話を聞いてほしかった。この姿を見てもらって抱き上げてもらいたかった。<br /><br /> 香りに誘導されて真紅は扉を開けた。ドアノブは真紅にも手の届く場所にも着いていた。やはりこの家はローゼンメイデンのためにある。<br /> けれど扉の開いた先は、まだお父様のいる部屋ではなかった。<br /> 通路のような場所。小さな丸い天窓が3つはまっていて、柔らかい朝日はここにもある。<br /> 右手側に真紅の背より高い棚が作られていて、たくさんお人形が陳列されている。みんな腰を下ろし壁に背を預け、朝日を浴びて眠っていた。<br /> 一番手前に白い人形。それから桃、蒼、翠、黄、黒そこで人形は途切れて、扉があった。<br /> ちらりと桃の人形の笑顔を見る。けれど他の人形に興味はなかった。真紅は小走りに次の扉に向かい、ドアノブを捻る。<br /> がちゃり。<br /> 扉は開かない。扉には鍵がかかっていた。何度も扉をあけようとする。開かない。<br /> 「なんで…!」<br /> 真紅は呻いた。心の中の喜びと期待がそのまま焦りと失意に塗り替えられて行く。<br /> 真紅は絶叫した。<br /> 「お父様、どうか開けて下さい。貴方の娘の真紅です、会いに来たんです!お父様!」<br /> ドアを叩く。分厚い一枚板でできたドアはびくともしない。<br /> 真紅はさらに激しくドアを叩き続けた。<br /> 「お父様!私はここにいます!気づいて!」<br /> ドアの向こうから返事は無い。<br /> 「お願いです、お父様、おとうさま…」<br /> だんだんとドアを叩く力が弱まっていく。力なく腕が垂れる。<br /> 「どうか…」<br /> もう言葉にもならなかった。涙がぼろぼろと足の間に落ちていく。<br /><br /> 「当たり前じゃなぁい」<br /> 右を振り向くと、眠っていたはずの黒い人形が笑っていた。<br /> チェシャ猫のような三日月の笑み。嘲る笑いで真紅を見下ろしている。<br /> 「お父様が貴女みたいなブサイクを愛するわけないじゃない。お父様が愛しているのは私、一番最初に作られたこの私よ」<br /> 真紅は一目でこの黒い人形が自分の天敵である事を理解した。<br /> それにさっきの姿を見られていたのだとしたら最悪だ。<br /> 「順番なんてたいした問題じゃないでしょ」<br /> 「そうかしらぁ?」<br /> 黒い人形は音も無く羽ばたき、真紅の上空をゆらゆらと漂い始めた。<br /> 「私達って随分似てないわよねぇ。つまり一つ前の作品を発展させる形で作られた訳じゃないのよ。おわかり?」<br /> 黒い人形はにやにや笑っている。真紅は黒い人形をにらみながら慎重に答える。<br /> 「それが?」<br /> 「つまりお父様は私たちを同時期に構想されていたのよ。なら、制作順番はお父様が少しでも早く世に生み出したかった順と言えるでしょ」<br /> 「くだらない妄想よ。根拠がないわ」<br /> もっと他に言い返した方がよかったが、うまく頭が回らない。<br /> 「じゃあ、なんで貴女のためにお父様は扉を開けて下さらないの」<br /> 「…」<br /> 真紅は答えられなかった。<br /> 「かわいそうな五番目ちゃん。貴方は誰にも愛されてない」<br /> 黒い人形は歌うように言って、手を広げた。空に浮かび、朝日を受けて優雅に手を広げる黒い人形は、美しかった。真紅でも認めざるを得ないほどに。こんなに憎らしいのに。<br /> 「そしてお父様に最も愛されるのはこの私。お父様に最も近しいのは私。お父様の棺に蓋をするのもこの私なの」<br /> 黒い人形は優しく真紅の頭に手を置いた。そして女王の高圧さで告げる。<br /> 「さ、五番目ちゃん貴女の席はあそこよ」<br /> 蒼の人形と桃の人形の間を指差す。<br /><br /> 真紅は黒い人形の手を払いのけた。<br /> 真紅の胸の内に溜まった黒い油のような感情に火がついた。激怒だった。<br /> 「うるさい、うるさいのよ!」<br /> 「こんな、こんな連中と私は違う!私は真紅、ただ一人真紅なのだわ」<br /> 知らず知らずのうちに握りしめていた右腕を振った。真紅はただ後ろで眠る人形達を示そうとしただけだった。<br /> けれど、その手の先に陶器の感触が伝わった。<br /> ガシャン<br /> 黄色い人形の顔が壊れた。<br /> まるで酸で溶かされたように顔面だけがえぐれとれていた。<br /> 口がないから、くぐもった悲鳴を上げて、うつぶせに倒れ、二回痙攣すると、動かなくなった。<br /> 黄色い人形は死んでいた。<br /> 「それが貴女のしたい事だったのね」<br /> 黒い人形は蔑んだ目で、こちらを見ていた。<br /> 「ちが」<br /> 真紅の右腕に激痛が走った。見ると、右腕がなくなっていた。<br /> 震える左手で、右腕の袖を掴んだ。<br /> 真紅は膝をつく。全身が瘧のように小刻みに震えていた。<br /> 上から黒い人形の笑い声が降ってくる。<br /> 「よかったわねぇ。これではっきりしたわ。壊れたお人形がお父様のお気に入りな訳ないでしょう」<br /> そして黒い人形は笑い続けていた。体をのけぞらせるほどの大笑いだった。<br /> 「あはは、なんて不格好なの」<br /> 「真紅ぅ!」<br /><br /> 二 夢の顛末<br /><br /> 有栖川病院の飾り気の無いベッドの上で真紅は跳ね起きた。<br /> 「あぁあっ…」<br /> 右腕が、もはや無い腕が痛くて痛くてたまらなかった。<br /> また血が流れ出したのかと思った。出血を止めようとする左腕が空中を掴む。<br /> 「いっ…た」<br /> 呻く。脂汗が止めどなく流れた。<br /> 痛みに朦朧となりながら真紅は思う。<br /> (ああそうか。無くした腕はあの人形を砕いた腕だった)<br /> 人形展の金糸雀人形。どこか遠くを見るような眼差しをしていた。あの目は遠くにいるお父様を見ようとしているように思えたっけ。<br /> 真紅自身何を考えているのかよくわかっていない。ただの痛みからの現実逃避だった。<br /> どれだけそうしていただろうか。やがて痛みの波は小さくなってきた。<br /> 真紅は荒い息を吐いた。<br /> その瞬間、控えめなノックの音が響く。<br /> 「真紅、入ってもいいかしら?カナかしら」<br /> おずおずとした金糸雀の声。<br /> 最悪のタイミングだったと言っていい。<br /> けれども。<br /> 「ちょっと待って頂戴」<br /> 鉄の自制心で、真紅はいつもの平然とした声を出した。<br /> 手早くハンカチで汗を拭き、髪を整えた。<br /> 痛みが引いて来たとはいえ、酷く体が熱っぽいのを我慢して平気な顔を取り繕う。<br /> 「いいわよ」<br /> 「こんにちわ、真紅」<br /> 声音の通り、おずおずとした調子で金糸雀が入って来た。右手に不死屋の紙箱、左手にヴァイオリンケースを持っている。<br /> 真紅はただ無関心な一瞥をくれた。<br /> 「貴女が来るとは意外ね」<br /> 「そうかしら」<br /> 「何しにきたの?」<br /> 金糸雀は不意にぶたれたような、少し驚いた顔をした。<br /> 「その…体の調子はどうかしら?」<br /> 「おかげさまで調子がいいわ」<br /> 「…あぅ」<br /> 気まずい沈黙。<br /> (ど、どうしたらいいのかしら…)<br /> 金糸雀は人に邪険にされるのは、これが初めてだった。少なくとも自覚している限りでは。<br /> 自分が嫌がられているのはわかるが、目の前の真紅はなんだかいつもと様子が違うし、ジュンとお見舞いに行ったときよりも調子が悪そうなので、さっさと帰る事もしたくない。<br /> 「えっと、その…」<br /> 金糸雀の心配そうな表情に真紅は内心苛ついた。<br /> (この前、ジュンと一緒に来て、義理は果たしたと思うけれど)<br /> 金糸雀にわからないようにそっとため息をつく。別に相手を気遣っての事ではなく、金糸雀に感情を乱されていると思われるのが嫌 なだけだ。<br /><br /> 真紅の視線がさらに冷たく重くなった気がして、金糸雀は内心慌てた。<br /> そこで気がつくのは手に持った不死屋のケーキの紙箱の重みである。<br /> 今日買ってきた紅茶と苺のロールケーキはかなり場を和ませてくれる気がする。紅茶のスポンジに包まれた生クリームの中で苺が半分に分かれていて、まるでリスザルの目みたいにくりっとしているのだ。<br /> いきなりこんなに気まずくなるとは思っていなかったが、そういう和み効果を期待して金糸雀が一生懸命選んだ一品だった。<br /> (ととと、とりあえず不死屋のケーキで場を繋ぐかしら!?)<br /><br /> 「と、とりあ」<br /> 「金糸雀」<br /> 「へ?」<br /> 不死屋の紅茶のロールケーキを取り出そうとし始めた金糸雀はきょとんとした。<br /> 「貴女が心配するような事は何もないわ」<br /> 改めて、真紅はそう切り出した。<br /> 「貴女は私が打ちのめされて、酷く落ち込んでいると思ったんでしょうけれど、そんなことはないわ」<br /> 真紅は襟の第一ボタンを止めてみせた。<br /> 「ほらこのとおり。腕が一本なくなったくらい私にはどうってことないのだわ。少なくとも貴女が責任を感じるような事じゃなかったのよ、アレは」<br /> 真紅の右腕が飛んだ時、目の前にいたのは金糸雀だった。<br /> 「そうかもだけど…」<br /> 金糸雀は申し訳なさそうにしている。 <br /> 金糸雀に、真紅に慰められたと思われるとお見舞いに頻繁に来るようになりそうだ。それはごめん被りたかった。<br /> だから駄目押しをしておく。<br /> 「だからわたしは貴女の哀れみなんていらないのよ」<br /> 金糸雀は病室に立っているが、あごを引き、上目遣い気味に言った。<br /> 「カナは哀れんだりなんてしてないかしら」<br /> 「筋合いのない心配は哀れみと同じだわ」<br /> 「カナと真紅は姉妹でしょ」<br /> 真紅は今度こそ大きくため息をついた。話が面倒くさい方向に転がりだしているし、腕の痛みもぶり返し気味だ。<br /> ちくり、じわりと痛みが増していく。腕の切断面に一本づつ針を刺していくような痛み。<br /> ほうっておいてほしかった。『貴女の顔なんて見たくもないからさっさと出て行って頂戴!』と叫べたらどれだけいいだろう。<br /> けれど、そんな人前で取り乱すなどという振る舞いは真紅の美意識が許さない。<br /> あくまで落ち着いて金糸雀を追い出しにかかる。刃物のような冷笑が真紅の顔に浮かび始めていた。<br /> 「姉妹ね…私たちにとって、姉妹という関係はどれほどの物なの?」<br /> 「…」<br /> 金糸雀は言葉に詰まった。真紅の予想通り、金糸雀はそのことについて深く考えた事はなかったようだった。<br /> 水銀燈が他の姉妹は全員敵だと吹き込んでいるかと思っていたが、その様子もなさそうだ。<br /> 「私はそもそも貴女に興味がなかったわよ。貴女が桜田さんの家に押し掛けてこなければ関わりあう事もなかったでしょうし」<br /> 「でもその前に夏にみんなと知り合うって決めたのは真紅かしら。真紅は欠席だってできたでしょ」<br /> 「あの時は少しは意味があるかもと思っていたわ。けれど貴女達と知り合ったこの数ヶ月間はなんの収穫もなかったわね。貴女達はローゼンの娘としての自覚があまりにも足りないのだもの」<br /> 既に真紅は常人なら涙を流してもおかしくない痛みを感じていたが、それに加えて今までの針で刺される痛みではなく、突然斧を肩口に叩き込まれるような発作的な痛みが真紅の腕の中で跳ねた。<br /> さすがの真紅も一瞬視線を右腕の付け根に視線を走らせた。当然異常はない。<br /><br /> そして真紅は他の事に気がついた。<br /> さっき止めて見せた服のボタンが外れている。半端に穴に通す事しかできなかったため、簡単に外れたらしい。<br /> 一瞬痛みを忘れるほどの感情が真紅の胸の内に吹き荒れた。<br /> それは自分への激怒であり悲鳴であり、なにより失望だった。<br /> 「ローゼンの娘としての自覚ってなんのことかしら?」<br /> 金糸雀が不思議そうに問うてくる。<br /> 激痛は止まない。むしろ斧を二度、三度と傷口に繰り返し叩き付けられているかのようだ。そして失望も消えない。<br /> でもここで返事がなければ不自然だ。<br /> 「アリスを目指すということよ」<br /> 金糸雀はその答えがあまりに意外で、理解できなかった。<br /> 返事がなくても真紅は続ける。真紅の言葉はすでにうわ言のようになっており、それ自体が異常な熱に浮かされていた。<br /> 「そうよ。私は違う。愚かな貴女、目をそらす翠星石、卑屈な蒼星石、甘ったれの雛苺そのどれとも違う」<br /> 真紅はきつく自分の右腕の付け根、もうそこから先はない付け根を左手できつく掴んだ。<br /> 「真摯にアリスを目指しているのは私だけだったわ」<br /> 「おねえちゃんがいるかしら」<br /> 金糸雀が水銀燈の事を口走ったのは、反射のようなものである。<br /> むしろ水銀燈を一番酷く嘲うために、真紅がこういう話し方をしたことに金糸雀は気がつかない。<br /> 「ははっ。水銀燈が一番おかしいのよ。壊れているわ」<br /> 「壊れ…?」<br /> 「そう。ジャンクよ」<br /> 真紅の胸にある感情は自分に向けられたものだ。けれど、それを噴出させる方向まで自分に照準を会わせる必要はない。目の前には金糸雀がいる。こいつが一番大事にしてるものが何かはわかってる。<br /> 現実逃避であることは薄々分かっていた。でもどうでもよかった。<br /> どうせ現実に大事な物は戻ってこない。なくなった腕。完全な自分。お父様との唯一の絆。<br /> 「教えてあげるわ、水銀燈が」<br /> ガゴン!<br /> 金糸雀が床にヴァイオリンケースを叩き付ける鈍い音が響いた。微かに内部の弦が振動する音がその後に続く。<br /> 「いらない。取り消して」<br /> 金糸雀は迷いのない口調で言った。その視線は鋭い。<br /> 「おねえちゃんだけじゃない。みんなに言った酷い事全部取り消すかしら!」<br /> 「答えはノーよ」<br /> しばらく二人はにらみ合った。が、真紅には限界がある。<br /> 「っ…あ」<br /> ついに目覚めた時と同じくらいに膨れ上がった腕の痛みに真紅はおもわず背中を丸め、かがみ込んだ。<br /> 金糸雀は自分の怒りを忘れて、真紅に駆け寄った。<br /><br /> 金糸雀がにやにやと笑っているような気がする。目線を上に戻せない。<br /> 「痛いの!?真紅、真紅!」<br /> 金糸雀の手が真紅の背中に触れた。<br /> 真紅は背中の手を払いのけようとしたが、それは激しい痛みのせいで加減がきかなかった。<br /> 左腕に鈍い感触がして、それから不意に感触がなくなる。振り上げた左腕は勢い良く金糸雀のあごを打っていた。<br /> 金糸雀はたたらを踏むように2、3歩後ろに下がった。それから膝が床に落ちる。その姿勢は足を崩した正座のようだったが、すぐに上半身が足を抱え込むようにして前のめりに倒れた。<br /><br /> さっき見た夢みたいに。<br /> ごん。頭をそのまま床に打ち付けた音がする。<br /><br /> 嫌な予感がする。さすがの真紅の声も震え始めていた。<br /> 「金糸雀、腕が当ったみたいね?悪かったわ」<br /> 「…」<br /> 金糸雀は何も答えない。妙な姿勢もそのままだ。<br /> 心臓が激しく打っているのに、真紅は体が冷えるのを感じた。腕の痛みさえも壁を隔てた遠い事のように感じられる。<br /> にじみ出た汗が冷えて気持ち悪い。<br /> 「早く起きて頂戴」<br /> 言い終わる前に真紅はベッドを滑り降りた。金糸雀の背中を揺らす。<br /> 真紅のされるがままに金糸雀は揺れた。自分では指一本も動かさない。<br /> (死んでる)<br /> そんな発想が頭に浮かんだ。理性は否定する。人が腕があたったくらいで死ぬ訳がない。そんなわけはない。血だって出てない。<br /> うつぶせの金糸雀をひっくり返せば、すぐに確認できる事だった。<br /> けれど人形展の事が、今の状況に重なる。<br /> あの時も腕に少しの感触を感じただけだった。けれどあの人形は終わってしまった。<br /> 生気すら感じた物が全ての意味を失ってしまう、理不尽な終わり。人形の壊れた顔に現れた空洞。まるで操り人形の糸が全て切れてしまったような、突然の終わり。<br /> 今、金糸雀がうつぶせたその顔はどうなっているのか。おそらくなんの外傷もない。けれど顔があったところで、もう魂は抜け出てしまっているのではないか。<br /><br /> 初めて真紅の頬を痛みのためでない汗が伝った。<br /> 恐い。<br /> 「なんなの…一体これはなんなの…?」<br /> 腕をなくして入院して目の前で金糸雀が死んでいる。<br /> 自分のなす術無くなにもかもが崩れて行く。まるで自分の座っている床すら砂になって落ちて行くようだ。<br /> 暗い。<br /> 寒い。<br /> 生まれて初めて、真紅は気絶した。<br /><br /> ※<br /><br /> さてどうしよう。<br /> メグは真紅の病室に一人立ちながら考える。<br /> 病室のお隣さんに挨拶しようと思ったら、先客に金糸雀がいて、しばらく覗いていたらこの有様だった。<br /><br /> いきなり医者を呼ぶのはやめておこう。<br /> この状況をみれば治療だけではすまない。<br /> 原因が追及されて、お互いの保護者に連絡がいけばもうアウトだ。<br /> ただでさえ両家の関係はこじれているのだから、もう入院中にお見舞いに行く事も出来ないだろう。<br /> それどころか警察がしゃしゃり出てきて、真紅の腕が失われた事件との関連を追求するかも知れない。<br /> 「せぇの…っと」<br /> なんとか真紅を抱え上げる。<br /> 片腕になってしまった事を差し引いても、真紅はメグでも持ち上げられるほど軽かった。<br /> とはいえ真紅をベッドに戻すと、メグの両腕は震えていたし、酷くむせたが。<br /> (ちゃんと食べてるのかしら、この娘)<br /> ぜぇはぁと息をつきながら、メグは自分の事を棚に上げて考えた。<br /><br /> 実は昨日めぐはのりと出会って、少し話をしていた。<br /> その時『真紅ちゃん』のことを口にするのりの顔には見覚えがあった。<br /> 一昔前に自分のお見舞いに来た自分の父親の顔だ。<br /> 頑に心を閉ざす相手にどう接していいのか分からない、途方に暮れた顔。<br /> (こういうのを同病相哀れむって言うのかしら)<br /> 真紅をなんとかしてあげたいと、めぐは思う。<br /> 真紅のような子供はほうっておけば自分で築き上げた城壁の中から出てこれなくなるだろう。<br /> 自分は水銀燈との出会いによって、そうならずにすんだ。<br /> 金糸雀と真紅の関係がそれと同じになってくれればそれが一番良いのだが、それは正直無理だろう。<br /> 「どうしたものかしらねー」<br /> 次に、侍が切腹してから前のめりに倒れたみたいになっている金糸雀をひっくり返す。<br /> 「ぷ」<br /> メグは思わず吹き出した。<br /> 倒れた時にケーキの箱を下敷きにしたようで、クリームが髭のように口の周りについていた。<br /> まるで季節外れのサンタクロースだ。<br /> 「カナちゃんらしいわ」<br /> ハンカチを取り出しながら、メグはそんなことを呟く。<br /><br /> ぐにぐにと口周りを触られる感触で金糸雀は目が覚めた。<br /> 「うー…?」<br /> 口の中で消えるごく小さな声を発しながら、金糸雀がうっすらと目を開けると目の前には真紅の顔があった。<br /> 金糸雀は脳しんとうの影響で少し記憶を失い、残った記憶も混濁していたため、なぜ真紅に触れられているのかさっぱりわからなかった。<br /> けれど真紅はとても真剣な表情で自分の顔を触っているので、金糸雀はしばらく真紅のさせたいようにさせてあげることにする。<br /> 真紅の手つきは盲人が人の顔を確かめるような柔らかさで、金糸雀には心地いい。<br /> (まるで卵になったみたいかしらー)<br /> 本当のところビスクドールを触るかのような慎重さで触っていたのだが、金糸雀が知るはずもない。<br /> 下まつ毛をくすぐる真紅の指がくすぐったい。<br /> 「…よかった」<br /> と、真紅は安心して息をついた。金糸雀は真紅が今にも泣き出しそうな表情をしている事に気がつく。<br /> 「だいじょーぶ、かしら」<br /> 何が問題なのかも把握しなていないのに生来の能天気さで金糸雀はそう言った。<br /> そのままひょいと手を伸ばして、真紅の目尻に光る涙を拭う。<br /> 真紅を元気づけるために金糸雀はにこにこと笑ってみせた。<br /> 真紅は二度、目を瞬かせた。金糸雀が起きていることに気がついていなかったため、驚いているらしい。真紅があっけにとら<br /> れている間も、金糸雀は田舎のひまわりの様なのどかさで笑いかけ続ける。<br /><br /> しばらくの間。<br /><br /> 真紅はむにっといきなり頬を引っ張った。<br /> 「ふぎっ!?」<br /> それも一瞬で済まさず延々と引っ張り続ける。横にいるメグは全く助けない。というか、金糸雀の頬が人一倍伸びるのを<br /> ひっそりとおもしろがっていた。<br /> 結局、金糸雀が真紅の指を振り払えたのは5秒ほど立った頃で、すっかり金糸雀の方が涙目になっていた。<br /> 「なな、なんでこういうことするのかしら!」<br /> 怒る金糸雀に対して、真紅はもう一度毒を吐く。<br /> 「貴女が面白い顔してるからよ」<br /> 「なー!?」<br /> これから口喧嘩が始まりそうな雰囲気になったが、真紅は急にツンと冷たい表情になって言い捨てる。<br /> 「これに懲りたら二度と来ないで頂戴」<br /> そして、真紅は言うべき事は言ったとばかりに、金糸雀に背を向けてベッドの中に潜り込んだ。<br /> それからしばらくは怒りの収まらない金糸雀が色々言うが、もはや真紅は無視し続ける。<br /> 「あ、貴女みたいなわがままな人は初めて見たかしら!ぶっちゃけカナがとっといたヤクルトを1パック全部飲むおねえちゃんの2.18倍くらいわがままかしらー!?」<br /> 「あーカナちゃん家庭の事情をぶっちゃけるのもそのくらいにして、ね?」<br /> 錯乱気味の金糸雀にメグは遅まきの仲裁に入った。<br /><br /> 「な、なんなのかしら、真紅ったらなんなのかしら!」<br /> 涙目で顔を真っ赤にして怒る金糸雀にメグは悲しそうに言ってみせた。<br /> 「真紅ちゃんも怪我で大変なのよ」<br /> 「う…」<br /> さっきのやり取りを見ていて、メグは少し希望を感じていた。<br /> 気絶から回復した真紅は真っ先に金糸雀がどうなったのかを気にしていた。<br /> 真紅は冷酷な性格ではないのだ。<br /> (水銀燈を見てればこの家系に色々あるのはわかってたけれど…真紅ちゃんはなんていうか、複雑な娘ね)<br /> シュンとして、すでに怒りが去りかけている金糸雀のほうが姉妹の例外なのだろう。<br /> 「…今日は来ない方が良かったのかしら」<br /> 「うーん、少なくとも今日はもうおしまいね。真紅ちゃん寝ちゃったし」<br /> 「かしら…」<br /> 「なに。また明日出直せばいいのよ。何があったのかも本人から聞けば良いんだし」<br /> しばらく金糸雀は悩んでいたが、結局の所そうするしかないとわかったらしい。<br /> 「そうするかしらー」<br /> 金糸雀は千鳥足気味に真紅の部屋から出て行った。<br /> 金糸雀が部屋から出てから、ふう。とメグは息をつく。<br /> とにかく真紅を一人にしないで済みそうだとメグは胸を撫で下ろす。<br /> 「また明日も来るって。金糸雀を追い払うのに失敗したわね真紅ちゃん」<br /> あいかわらず真紅はこちらに背を向けたままだ。けれど、一瞬怒ったように背中を震わせた。<br /><br /> 三 入院の日々/見舞い客達<br /><br /> その日は一睡も出来なかった。<br /> そのせいで目が赤い。だから、今日は誰にも会いたくないと思った。<br /> 真紅はベッドの上で三角座りをしながら、ドアに背を向け続けている。<br /> ノックの音は無視する。ドア越しに声をかけられても「帰って」とだけ返す。<br /> ジュンはそれで引っこんだ。<br /> 次に先生が来た。ただただ無視するとドアの前でジュンが先生に謝っていた。<br /> まだジュンはドアの前にいたらしい。ジュンの必死で取り繕う声音は案外のりに似ていた。<br /> のりが来るには時間がある。次に来たのは金糸雀だった。<br /> ジュンと挨拶をかわす高い声、ココンカンココン、変にリズミカルなノックの音。無視する。<br /> 「真紅ー寝てるのかし」<br /> 「帰って」<br /> ジュンがとりなして謝るような声。金糸雀の物凄くわざとらしいため息。<br /> 「はぁー、しかたないかしら。じゃあ帰るわ…と見せかけてえいっ」<br /> 「あっ」<br /> ジュンの慌てた声。ガチャリというドアノブを握る音。ノブを回す音はしない。<br /> ここまで無理にドアを開けようと人間はいない。なので、ドアノブに塗り付けた接着剤を握ったのは金糸雀だった。<br /> 「本当にひっかかるとはね…」<br /> 真紅としては誰にも入ってほしくないという意思表示だったのだけれど。<br /> 「ドアの下に接着剤はがしが落ちてるわ。負けを認めて帰るなら使っても良いわよ」 まるで勝負みたいな風に言ったのは、金糸雀と七月に勝負をした事があったからだ。<br /> 金糸雀は勝負に関しては潔いので、これですんなり引き下がるだろう。<br /> しばらくドアががちゃがちゃと音を立てる。けれど、やっぱり手がはがれなかったらしい。諦めたような沈黙。<br /> 「これがホントの門前払い。って上手くもないかしらー!」<br /> 走り去る軽い足音。あきれかえったジュンの声。<br /> 「おまえなぁ…涙目だったぞ金糸雀」<br /> 不謹慎だけれど、ほんの少し笑えてしまった。<br /><br /><br /> のりは水銀燈と一緒に現れた。<br /> 「水銀燈さん」<br /> 「こんにちわ、ジュン君」<br /> ジュンがまず真紅の態度を二人に説明していた。<br /> ジュンが水銀燈と話をしているだけでも、胸がざわついた。自分の弱みを水銀燈に見せるなんてありえない。<br /> 「真紅ちゃん、あのぅ…」<br /> のりの困り声。<br /> 「今は誰にも会いたくないの。のり、わかって頂戴」<br /> ジュンが一時期のりに向けていたのと同じような態度だとは真紅は気がつかない。<br /> そして割り込むような、落ち着いたノックの音。<br /> 「真紅、開けてもらえないかしら?」<br /> 水銀燈の言葉にも真紅は冷静な声で返事をしようとした。けれど失敗した。<br /> 「入ってこないで!」<br /> この日真紅は初めて声を荒げた。声を荒げるつもりなんて無かったのに自分でも驚くほど大声が出た。<br /> 金糸雀の時にはいくらでも取り繕う余裕があった真紅が、最初から余裕の無い敵意ばかりの言葉を向けていた。<br /> 少しの沈黙。 ジュンとのりが面食らったような顔をしているのは簡単に想像できた。けれど、水銀燈はどんな顔をしているのか。<br /> 静かな水銀燈の声がした。その感情は真紅には読み取れなかった。<br /> 「そう…しかたないわね。扉越しで悪いけれど、あの日の事は謝るわ。ごめんなさいね」<br /> それでも真紅は無言でい続ける。何が何でも、水銀燈とだけは話さないつもりだった。<br /> 扉の前では水銀燈はのりとジュンにも謝り、のりとジュンが何度も水銀燈に謝っていた。<br /> 水銀燈がいなくなってから、真紅は枕を思い切り殴りつけた。何に怒っているのかなんて自分でも分からない。<br /> ただ苛立ちと怒りと屈辱感で真紅の胸は一杯だった。荒々しく涙を拭う。<br /><br /> 結局ジュンは面会時間が終わるまで、ドアの前にいた。<br /><br /> ※<br /><br /> 腕を無くしてしまったにしても、真紅は全くいつも通りに見えた。<br /> 昨日は面会拒否状態だったと翠星石がジュンに聞いていたのに、顔色も良さそうだ。<br /> 「廊下で君の同級生達に会ったよ」<br /> 「ふうん、そう」<br /> 「また、気のない返事ですねぇ」<br /> 「まぁね」<br /> 翠星石のあきれた声。真紅と苦笑いを向け合う。<br /> 真紅の冷たい言い方に蒼星石は『おやおや』とでも言いたげに眉を上げた。<br /> まぁでも、真紅の反応も仕方ないかなと蒼星石は思う。<br /> さっき話した同級生達は、真紅の事を『お姫様』というあだ名で呼んでいた。おそらく真紅の知らないところで。<br /> 陰口ではないのだろうけれど、面白がっているような調子。<br /> 翠星石と真紅の話が盛り上がり始めるのを横目に蒼星石はお見舞いの品を取り出し始めた。<br /><br /><br /> 真紅の部屋を出た後、翠星石はほんの少し俯き加減で、早足に歩いた。押し殺していた怒りが込み上げて来たのだろう。この情の濃さが翠星石の良さだと蒼星石は思っている。蒼星石にそこまでの熱さは無い。<br /> 「おかしいですよ真紅も、あの同級生達も」<br /> 「そうだね。でも、僕たちもあの同級生達と同じだよ」<br /> 「翠星石が真紅を面白がってたっていうんですか?」<br /> 「そうじゃなくって、ただのお見舞いしか出来なかったところ」<br /> 小さく、あぁ。と翠星石は呟く。<br /> 「そうですね」<br /> 結局翠星石も蒼星石も普通の見舞いしかできなかった。<br /> 真紅の心は開かなかった。翠星石のはげましは上滑りし、そのうち会話は他愛のない方向に逸れて行った。<br /> 「結局さ、真紅が僕たちに傷ついた姿を見せたくはないみたいだから」<br /> 表面上は翠星石の気持ちに同調してる風を装いながら、蒼星石は言った。<br /> 「私たちにはどうしようもない、ですか。でも…」<br /> 翠星石は簡単には割り切れないようだった。<br /> 「うん」<br /> 翠星石の気持ちに同調するように蒼星石は深く頷いた。<br /> (翠星石と真紅って、本当は気が合うんだろうな)<br /> なんてったって、好きな人が同じ人になるくらいだ。<br /> 翠星石と真紅の間には桜田ジュンという対立点がある。<br /> もしも翠星石がジュンに恋する前に真紅と合っていれば仲良くなっていたのだろうが、現実はそうはならなかった。<br /> 今となっては、翠星石は真紅への思い入れを深めるべきじゃない。<br /> 翠星石が真紅を気遣ってジュンを遠慮してしまう可能性の枝は断ち切るべきだ。<br /> 表面化していないだけで、二人は恋敵なのだから。<br /> 「僕たちは真紅の誇りを尊重するべきなんだよ」<br /> 言いながら、蒼星石はとある映像を思い出した。<br /> 祖父一葉のツテを使って、真紅が主演する予定だった映画『未来のイヴ』の資料を見せてもらったことがある。ま<br /> だその映像はイメージショットでしかなかったが、すでに真紅は恐ろしいほど美しかった。<br /> 翠星石がアリスに最もふさわしいと考える蒼星石ですら、美しいと認めざるを得ないほどに。<br /><br /><br /> だから。<br /> この墜落は幸運だ。<br /><br /><br /> 真紅は傷ついたときほど一人になりたがる。それは誇り高さなのだろうけれど、そればかりでは気遣う方もやがて疲れて諦める。<br /> (このまま、真紅が失意のうちに頑なになってくれれば、ジュン君が翠星石の物になる可能性は上がるよね…)<br /> 「そっとしてあげるのが一番だよ。僕たちが騒ぎ立てることが真紅にとっても一番辛いんじゃないかな」<br /> 「そう、ですよね」<br /> 悲しそうな翠星石に蒼星石は手を出す。翠星石と指を絡めて手を握る。<br /> しばらく、無言のまま歩いた。<br /> 真紅よりも翠星石の幸せが優先する。<br /> これでいいはずだ。<br /> なによりもジュン君の心を射止めることが翠星石の幸せのはずだ。<br /> 翠星石がぽつりと言う。<br /> 「蒼星石と翠星石だけはいつだって一緒ですよ」<br /> 蒼星石もそれに続く。<br /> 「うん。翠星石と僕はいつまでも一緒だよ」<br /> お父様が亡くなった時に二人で泣きながら交わした約束を二人はもう一度繰り返した。<br /><br /> 病院の駐車場から送迎の車が発進するころ、蒼星石の視界に緑色の髪の毛が入り込んだ。<br /> あの髪の色をしているのはこの街では金糸雀一人しかいない。用件はやっぱり真紅だろう。<br /> (金糸雀は僕を軽蔑するかな?)<br /> ふと、心にそんな言葉が湧いた。言い訳気味に付け加える。<br /> (僕が真紅を傷つける訳じゃない)<br /><br /> ※<br /><br /> なにも、金糸雀は毎日門前払いを食らっている訳ではない。<br /> 真紅はこの入院生活の中でも平然と落ち着いている姿を見せたいのだから、誰でも丁重に扱うのは当然と言えば当然だけれども。<br /> たいていの日ではちゃんと部屋まで通してあげたし、淹れた紅茶も飲んであげた。<br /> 世間話だって少しはするし、チェスで負かしてやる時もあるし、くんくん探偵の凄さを教えて上げないでも無い。<br /> それでも眠れない夜を過ごした後は、目が赤いから誰にも顔を見せたくないだけだ。<br /><br /> ただ、部屋に入れてもらえないときの方が、金糸雀が嬉しそうなのは気のせいではないと思う。<br /> 扉越しに金糸雀が声をかけてくる。<br /> 「急に部屋に入れてくれないとか…あなたって本当に気まぐれな猫みたいかしら」<br /> もちろん金糸雀は真紅が扉を開けない理由など知らない。<br /> ついでに自分が真紅を猫扱いするという地雷を踏んだ事にも気づいていない。<br /> 最初の接着剤をドアノブにつけた時に勝ち負けを持ち出した事から、単純に真紅がちょっとした勝負を仕掛けて来たのだと思っているようだった。<br /> 「三度目の挑戦、受けてもらうかしら真紅。『序曲』!」<br /> 今回はヴァイオリンの音色で真紅に自分から扉を開けさせる作戦らしい。<br /><br /> 一曲目の時の拍手は二つ。ジュンと、よく金糸雀にくっついてくる小さな薔薇水晶。<br /> 「ほら、真紅も見に来てみろよ、指の動きとか凄いぞ。参考になる」<br /> ジュンが本当に感心したような声を上げていた。<br /> 「なんの参考よ」<br /> そのせいでついつい言い返してしまった。<br /> 「野ばらのプレリュード!」<br /> 確かに金糸雀の弾くヴァイオリンの音色はすばらしかった。その証拠に、一曲ごとに拍手の数と音が多くなって行く。<br /> 自由に歩ける患者がだんだんと集まりだしているらしい。中には小児科の患者だろう子供の声も聞こえる。<br /> 「お客さんも集まり始めていよいよ盛り上がって来たかしらー。次、うなだれ兵士のマーチ!」<br /> 三曲目が終わる頃には、金糸雀はすっかり上機嫌だった。聴衆の評判がいいと、素直にテンションが上がるらしい。<br /> 「くんくん探偵歴代OPEDメドレー!さぁ真紅さくさく出てこないと聞き逃しちゃうかしらー!」<br /> 「そこでなにをしているの!」<br /> 厳しい中年女性の声。確か佐原とかいう看護師だ。<br /> 病院の廊下で人だかりを作れば、何事かと駆けつけた病院関係者にしょっぴかれるのは当然だろうに。<br /><br /> こんこん。<br /> ドアをノックする控えめな音。<br /> 「誰?」<br /> 聞き取るのも難しい、たどたどしい声。<br /> 「か、カナお姉さまの…ヴァイオリン…気に入りません…か?」<br /> 「演奏会を開けるくらい上手いわよ」<br /> 「…じゃあ…出てきても…」<br /> 「ヴァイオリンの音なんて扉越しでもはっきり聞こえるわ」<br /> 微かに『あ…』と呟く声が聞こえた気がした。<br /> 最後にジュンがぼやいた。<br /> 「そりゃそうだよな」<br /> 「ほんと…お間抜けね」<br /> その日初めて真紅は笑った。<br /> 「ジュン、金糸雀に伝えて頂戴」<br /><br /> ※<br /><br /> ジュンが見つけた時金糸雀は病院内の喫茶店でめぐと薔薇水晶と一緒にいた。<br /> 「あ、ジュンかしら」<br /> 自分に気がついて笑顔で挨拶してくる金糸雀の目が少し赤いので、ジュンはよけい申し訳ない気持ちになった。<br /> 「真紅から伝言なんだけど…」<br /><br /> 「貴女なんかが一生かかっても私に勝てる訳無いでしょこのばかばかばかばか。わかったらさっさとあきらめなさいな」<br /> 「かしらー!」<br /> 喜怒哀楽のあらゆる表現が「かしら」で表現できるのはある意味うらやましいな、とジュンは思った。<br /> 激怒する金糸雀は駆け出して行った。行き先は当然真紅の部屋だろう。<br /> あわあわした顔で薔薇水晶がその後ろを追いかけて行く。<br /> 「真紅ちゃんって本気でカナちゃんに来てほしくないの?」<br /> 「そうですけど」<br /> 「だとしたら結構子供っぽいのね」<br /> どう考えても今の言葉は逆効果でしょう。とメグの顔が言っている。<br /> ジュンとしては<br /> 「ええまぁ…」<br /> と言葉を濁すしかなかった。<br /><br /> ※<br /><br /> 塞ぎ込み立ち尽くすものにとって、日々はあっというまに過ぎてゆく。<br /> 誰に対しても丁寧で気丈に振るまい、そして心を開かない真紅の対応は当然のように見舞客を減らした。<br /> それでも金糸雀は毎日放課後に顔を出し、菓子を持参しては食べながらしゃべった。<br /> 部屋に入れてもらえない日も無謀な作戦で玉砕を繰り返した。<br /> そしてジュンはその倍、静かに真紅の傍にいた。<br /><br /> 毎日来る見舞客は二人だけになった。<br /><br /> ※<br /><br /> 今日は珍しく金糸雀が来なかった。<br /> そしてジュンから微かに漂う程度、翠星石の花のような香りがした。今までもジュンがスコーンを持ってくる事はあったし、別に翠星石がジュンを好きな事くらい知ってるから別にどうという事も無い。<br /> 金糸雀には金糸雀のジュンにはジュンの生活があるのだから、当然の事だし、というかなぜ自分がわざわざこんな事を考えないといけないのか。<br /> 喫茶店の紅茶を一息に飲み干す。ちょうど背後を歩いてくる気配があったので、店員に向かって言う。<br /> 「紅茶を」<br /> 「ずいぶん不機嫌そうね」<br /> 近づいて来ていたのは店員ではなくて、メグだった。<br /> そのまま許可も取らずに真紅の向かいに座る。<br /> 「ちょっと」<br /> 真紅が抗議の声を上げた時、メグは手を挙げた。<br /> 「店員さん紅茶二つ、あとフィナンシェも一つ」<br /> しかめ面でメグを軽くにらむ真紅に対して、メグは平然と<br /> 「まぁまぁ、おごるわよ」<br /> と言った。<br /><br /> メグはじっくりと話したそうだったが、真紅にそんな気はない。<br /> 「金糸雀の事なら、からかってれば面白いだけよ」<br /> 「なんのこと?」<br /> 「貴女が金糸雀を気にかけてる事くらいわかるわよ。おそらく水銀燈の頼みでしょうけど」<br /> メグは困ったような表情をしたが、真紅の性急さにつきあう事にしたようだった。<br /> 「あの娘に哀れみとか悪意は無かったでしょう」<br /> 「たしかにそうだわ」<br /> 「怪我人にだろうと怒れるのはあの娘くらいのものよ」<br /> メグはそういうと少し笑った。<br /> 紅茶とフィナンシェが届き、真紅はフィナンシェを一口食べる。<br /> 「カナちゃんにローゼンの記憶は無いわよ」<br /> 「まぁ、あの調子じゃ記憶に残っていないでしょう」<br /> 「ひどい言い様ね」<br /> メグは意外そうな顔をした。<br /> 「べつに今の事を評したんじゃないわ」<br /><br /> メグも知らないだろう、ローゼンを偲ぶ会に出席した時のこと。<br /> あの時、一日中堂々としていた水銀燈の表情が崩れたのは一度だけ。<br /> 会も終わって、出口に向かっている時、金糸雀が不思議そうに言った言葉。<br /> 「なんでおとうさまおきないのかしら?」<br /> 水銀燈の顔が歪むのを見たのはあの時だけだ。<br /> 知らない子に見つめられている事に気がついた水銀燈は、すぐに表情を繕い直したけれど。<br /><br /> 真紅は紅茶の水面だけを見ていた。<br /> 「貴女は仲直りさせたいようだけれど、それは無駄よ。私たちが仲良くすることなんて誰も望んでないもの」<br /> 「そんなことはないでしょ。現にカナちゃんもジュンくんだって貴女と仲良くしたいでしょうに」<br /> 「じゃあ、なんでお父様は私たちを一つ屋根の下に住まわせなかったの?」<br /> 真紅の声は異常なまでに押し殺されていて本当に真紅の声なのか、メグは一瞬耳を疑った。<br /> 誰も、ではなく本当のところはお父様。<br /> 「私たちは知り合えば知り合うほど戦いは避けられないでしょう。あの一番のん気な金糸雀だって私と相対するときは勝負を持ち出さずにはいられないのだから。今の関係だから、あの程度の遊びで済んでいるのだわ」<br /><br /> 「関係が深くなればなるほど、思いが強くなればなるほど、私たちの戦いは深さを増して、やがては大事なものを傷つけるのよ。そうじゃなかった時なんて無いもの」<br /> 真紅がメグを見た。その上目遣いの視線は年上のメグをたじろがせるほど鬼気迫っていた。<br /> メグは自分の肌が火であぶられるような錯覚を感じた。反射的に身が竦む。メグは紅茶のカップに指をかけていたので、皿とぶつかって耳障りな音を立てた。<br /> 「…だから貴女と話なんてしたくなかったのよ」<br /> 言葉ではメグを攻めていたが、そのうなだれた様子は度を失った自分を恥じているようだった。<br /> 真紅は席を立ち、メグもあえて止めなかった。<br /> 「何かあるとは思ってたけど…」<br /> 独り言を言って、喉が渇いている事に気がついた。メグはひどく冷や汗をかいていた。<br /> 色々と金糸雀が真紅のところに来るように最初の暴力沙汰をごまかしたり、ひそかに金糸雀を応援して来たのは失敗だったかもしれない。<br /> あの目つきの裏にある異様な怒りと絶望。<br /> 暗く複雑なそれの大きさに思いを巡らして、メグはため息をついた。<br /><br /> 「あの塞ぎようをなんとかしたかったけれどね」<br /> もう真紅の入院生活も一月近くなる。退院の日が近づいて来ていた。</p>

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