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『パステル』 -10- - (2008/08/16 (土) 02:32:55) の最新版との変更点

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<p align="left"> <br />  <br /> 家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。<br /> それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。<br />  <br /> 話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。<br /> 友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。<br /> 口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。<br />  <br />  <br /> 客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。<br /> 有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、<br /> 雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。<br />  <br />  (うー。2人っきりで、お話したいのにー)<br />  <br /> 薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、<br /> キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。<br /> それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。<br />  <br /> ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。<br /> 明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。<br /> そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。<br /> 単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。<br />  <br />  (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――)<br />  <br /> 天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。<br /> なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。<br />  <br /> ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。<br />  <br />  <br /> 会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。<br /> それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。<br />  <br />  「お片づけくらいは、しないとねっ」<br />  <br />  <br /> あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。<br /> ……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。<br />  <br />  「じゃあ、私も」<br />  <br /> やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。<br /> これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。<br />  <br />  (まさか……ヒナの企み、バレてる?)<br />  <br /> 雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。<br /> 薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。<br /> その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず――<br />  <br /> 連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。<br /> そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。<br />  <br />  「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」<br />  「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」<br />  <br /> 振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。<br /> この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。<br /> 雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。<br />  <br />  「ありがとぉ」<br />  <br /> エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。<br /> その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。<br /> ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。<br /> 炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。<br />  <br /> 雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。<br /> そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。<br />  <br />  「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」<br />  <br /> どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。<br /> 恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。<br />  <br /> あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。<br /> 有栖川の本心は、違ったかも知れない。<br /> だけど、そうであって欲しい――<br /> 雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。<br /> それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。<br />  <br />  「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」<br />  「え? う、うん」<br />  <br /> 誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。<br /> 有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。<br /> ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。<br /> 折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。<br />  <br />  <br />  <br /> 案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。<br /> 淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、<br /> 子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。<br /> ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。<br /> いかにも女の子らしい部屋模様だ。<br />  <br /> 雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。<br /> アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。<br /> ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。<br />  <br />  <br />  「どうかした?」<br />  <br /> やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。<br /> 気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。<br />  <br />  「なにか……変?」<br />  「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」<br />  <br /> 雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。<br />  <br />  「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」<br />  「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。<br />   いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」<br />  「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」<br />  「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」<br />  「おk、把握」<br />  <br /> 淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。<br /> 薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、<br /> 雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。<br /> だからこその、喜色なのだろう。<br />  <br /> ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。<br /> ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。<br />  <br /> ふわり――と。<br /> 薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。<br /> その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。<br /> 強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。<br />  <br />  「ん……と」<br />  <br /> けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。<br /> 雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。<br />  <br />  「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」<br />  「そう? ありがと」<br />  「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」<br />  <br /> 場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。<br /> 「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。<br /> 実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、<br /> そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。<br />  <br /> へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。<br /> だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。<br />  <br /> そして、「そう言えば」と。<br /> 好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。<br />  <br />  「雛苺は、絵を描くのよね」<br />  「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」<br />  <br /> いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。<br /> 過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか?<br /> けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。<br />  <br /> 雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、<br /> スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」<br /> それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。<br />  <br />  「油絵の具で色づけすれば、完成よ」<br />  「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」<br />  「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」<br />  「そう……残念」<br />  <br /> 言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。<br /> けれども、すぐにパッと目を見開いて。<br />  <br />  「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」<br />  「え、と。構図にもよるけど――」<br />  <br /> 描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。<br /> どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。<br /> ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。<br /> 雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。<br />  <br />  「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」<br />  「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」<br />  <br /> 訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。<br /> 雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。<br />  <br />  「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」<br />  「……ああ。そゆこと」<br />  「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」<br />  「解った。これで、いい?」<br />  <br /> 薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。<br /> これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。<br /> 雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して……<br /> 徐に、鉛筆を手にした。<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br />  <br /> ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。<br /> ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。<br /> 最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。<br />  <br />  「気持ちよさそうな寝顔ね」<br />  <br /> 別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。<br /> 雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。<br /> すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。<br />  <br /> 無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。<br />  <br />  <br />  <br /> それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう?<br /> この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。<br />  <br /> ――じゃあ、それを誰に頼もうか。<br /> 思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。<br />  <br />  「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」<br />  <br /> まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。<br /> きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。<br />  <br />  <br /> 階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。<br /> でも、それは意中の人ではなくて――<br />  <br />  「おや、もう帰るのかい?」<br />  <br /> 薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」<br />  <br />  「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」<br />  「やれやれ。困った娘だ」<br />  <br /> 階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。<br /> その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。<br />  <br />  「これからも、仲良くしてやってほしい」<br />  <br /> 薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」<br /> 槐も、目尻を下げた。「ありがとう」<br />  <br />  「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。<br />   母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」<br />  <br /> 言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。<br />  <br /> 雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。<br /> 女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。<br /> 父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。<br /> だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて――<br /> 多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。<br />  <br /> 有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。<br /> 彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。<br />  <br />  「よろしく頼むよ」<br />  「はい、なの」<br />  <br /> 頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。<br /> その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」<br />  <br />  「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」<br />  <br /> だったら、ほどなく会えるだろう。<br /> 槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。<br /> 一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。<br /> そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。<br />  <br />  <br />  <br /> ぱしゃ……ぱしゃ……。<br /> ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。<br /> すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。<br /> 居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。<br />  <br /> ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。<br /> ――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。<br /> なんの前触れもなく、ドアが引き開けらたせいで。<br />  <br />  「きゃぁっ?!」<br />  <br /> 有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。<br /> 黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。<br /> いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。<br />  <br />  「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」<br />  「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」<br />  「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」<br />  「誤解なのよー」<br />  <br /> 雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。<br /> その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。<br />  <br />  「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」<br />  <br /> あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。<br /> 表向きの、帰り道についてのことだけを。<br />  <br /> 『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず……<br /> 喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3993.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>
<p align="left"> <br />  <br /> 家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。<br /> それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。<br />  <br /> 話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。<br /> 友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。<br /> 口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。<br />  <br />  <br /> 客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。<br /> 有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、<br /> 雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。<br />  <br /> (うー。2人っきりで、お話したいのにー)<br />  <br /> 薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、<br /> キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。<br /> それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。<br />  <br /> ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。<br /> 明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。<br /> そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。<br /> 単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。<br />  <br /> (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――)<br />  <br /> 天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。<br /> なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。<br />  <br /> ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。<br /> 会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。<br /> それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。<br />  <br /> 「お片づけくらいは、しないとねっ」<br />  <br />  <br /> あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。<br /> ……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。<br />  <br /> 「じゃあ、私も」<br />  <br /> やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。<br /> これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。<br />  <br /> (まさか……ヒナの企み、バレてる?)<br />  <br /> 雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。<br /> 薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。<br /> その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず――<br />  <br /> 連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。<br /> そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。<br />  <br /> 「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」<br /> 「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」<br />  <br /> 振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。<br /> この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。<br /> 雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。<br />  <br /> 「ありがとぉ」<br />  <br /> エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。<br /> その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。<br /> ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。<br /> 炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。<br />  <br /> 雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。<br /> そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。<br />  <br /> 「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」<br />  <br /> どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。<br /> 恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。<br />  <br /> あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。<br /> 有栖川の本心は、違ったかも知れない。<br /> だけど、そうであって欲しい――<br /> 雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。<br /> それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。<br />  <br /> 「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」<br /> 「え? う、うん」<br />  <br /> 誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。<br /> 有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。<br /> ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。<br /> 折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。<br />  <br />  <br /> 案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。<br /> 淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、<br /> 子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。<br /> ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。<br /> いかにも女の子らしい部屋模様だ。<br />  <br /> 雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。<br /> アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。<br /> ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。<br />  <br />  <br /> 「どうかした?」<br />  <br /> やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。<br /> 気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。<br />  <br /> 「なにか……変?」<br /> 「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」<br />  <br /> 雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。<br />  <br /> 「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」<br /> 「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。<br />  いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」<br /> 「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」<br /> 「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」<br /> 「おk、把握」<br />  <br /> 淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。<br /> 薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、<br /> 雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。<br /> だからこその、喜色なのだろう。<br />  <br /> ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。<br /> ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。<br />  <br /> ふわり――と。<br /> 薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。<br /> その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。<br /> 強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。<br />  <br /> 「ん……と」<br />  <br /> けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。<br /> 雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。<br />  <br /> 「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」<br /> 「そう? ありがと」<br /> 「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」<br />  <br /> 場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。<br /> 「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。<br /> 実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、<br /> そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。<br />  <br /> へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。<br /> だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。<br /> そして、「そう言えば」と。<br /> 好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。<br />  <br /> 「雛苺は、絵を描くのよね」<br /> 「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」<br />  <br /> いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。<br /> 過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか?<br /> けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。<br />  <br /> 雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、<br /> スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」<br /> それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。<br />  <br /> 「油絵の具で色づけすれば、完成よ」<br /> 「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」<br /> 「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」<br /> 「そう……残念」<br />  <br /> 言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。<br /> けれども、すぐにパッと目を見開いて。<br />  <br /> 「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」<br /> 「え、と。構図にもよるけど――」<br />  <br /> 描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。<br /> どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。<br /> ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。<br /> 雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。<br />  <br /> 「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」<br /> 「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」<br />  <br /> 訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。<br /> 雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。<br />  <br /> 「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」<br /> 「……ああ。そゆこと」<br /> 「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」<br /> 「解った。これで、いい?」<br />  <br /> 薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。<br /> これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。<br /> 雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して……<br /> 徐に、鉛筆を手にした。<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br /> ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。<br /> ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。<br /> 最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。<br />  <br /> 「気持ちよさそうな寝顔ね」<br />  <br /> 別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。<br /> 雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。<br /> すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。<br /> 無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。<br />  <br />  <br /> それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう?<br /> この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。<br />  <br /> ――じゃあ、それを誰に頼もうか。<br /> 思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。<br />  <br /> 「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」<br />  <br /> まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。<br /> きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。<br />  <br />  <br /> 階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。<br /> でも、それは意中の人ではなくて――<br />  <br /> 「おや、もう帰るのかい?」<br />  <br /> 薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」<br />  <br /> 「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」<br /> 「やれやれ。困った娘だ」<br />  <br /> 階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。<br /> その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。<br />  <br /> 「これからも、仲良くしてやってほしい」<br />  <br /> 薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」<br /> 「ありがとう」槐も、目尻を下げた。<br />  <br /> 「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。<br />  母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」<br />  <br /> 言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。<br />  <br /> 雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。<br /> 女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。<br /> 父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。<br /> だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて――<br /> 多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。<br />  <br /> 有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。<br /> 彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。<br />  <br /> 「よろしく頼むよ」<br /> 「はい、なの」<br />  <br /> 頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。<br /> その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」<br />  <br /> 「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」<br />  <br /> だったら、ほどなく会えるだろう。<br /> 槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。<br /> 一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。<br /> そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。<br />  <br />  <br /> ぱしゃ……ぱしゃ……。<br /> ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。<br /> すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。<br /> 居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。<br />  <br /> ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。<br /> ――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。<br /> なんの前触れもなく、ドアが引き開けられたせいで。<br />  <br /> 「きゃぁっ?!」<br />  <br /> 有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。<br /> 黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。<br /> いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。<br />  <br /> 「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」<br /> 「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」<br /> 「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」<br /> 「誤解なのよー」<br />  <br /> 雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。<br /> その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。<br />  <br /> 「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」<br />  <br /> あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。<br /> 表向きの、帰り道についてのことだけを。<br />  <br /> 『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず……<br /> 喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3993.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>

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