「湾岸 "Maiden" Midnight SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

湾岸 "Maiden" Midnight SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」 - (2008/12/26 (金) 19:48:40) の最新版との変更点

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<p align="left">桜田オートエンジニアリング。<br /> その屋根の下で、自分のRやファミリーカーに囲まれる中に、その車はいた。<br /> 湾岸を300km/hで駆け抜ける、悪魔のZが。</p> <p align="left"> </p> <p align="left">湾岸 &quot;Maiden&quot; Midnight</p> <p align="left">SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」</p> <p align="left"> </p> <p align="left">「これが……、真紅の言ってたZ……なのか?」<br /> 「そうよ、これが私のZ」<br /> 「そして、こんな呼ばれ方をしているわ」<br /> 「何て……、呼ばれているんだ……?」</p> <p align="left">「……悪魔の、Z」</p> <p align="left">「悪魔の……、Z……」</p> <p align="left">悪魔のZと言う名を聞いて、ジュンは思い出す。<br /> 昔、噂で聞いたことがあった。</p> <p align="left">湾岸を300km/hで駆け抜ける、S30Zが居るらしい。<br /> それは、悪魔のZと呼ばれているそうだ。</p> <p align="left">ただの噂話、都市伝説だと思っていた。<br /> そんな車が、存在するわけがない。S30Zは最終型でも、もう20年以上前の車だ。<br /> それが、300km/hのスピードを出せるなんて、夢にも思わなかった。<br /> だがその車は、ジュンの目の前に存在している。<br /> ジュンのRを、湾岸で置き去りにしていった事実は、ただの噂話ではなかったという証左。</p> <p align="left">「本当にこの車が、あの、悪魔のZなのか……」</p> <p align="left">思わず口からこぼれてしまう、現実に追いつけていない頭の言葉。</p> <p align="left">「そうよ、これが悪魔のZ」</p> <p align="left">ジュンの頭は、まだ混乱しているというのに、心は更なる熱を帯びてゆく。<br /> 体内の中心から放たれる熱が、冷えた頭に熱を与えてゆく。<br /> 考えているのではない、感じているのだ、悪魔のZを。</p> <p align="left">「それで、私のお願いは聞いてもらえるのかしら?」</p> <p align="left">一瞬忘れてしまっていた。<br /> そういえば、オーバーホールの依頼をされていたのだった。<br /> ジュンは、目の前の悪魔に魅入られていて、肝心の仕事などそっちのけの状態だった。<br /> だからこそ、頭で考えるよりも先に、心が言葉を紡ぎだす。</p> <p align="left">「ああ、僕がこの悪魔をオーバーホールしよう」</p> <p align="left"><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /> 後悔先に立たず、か。<br /> 勢いに任せて、あんなことを口走ってしまった。<br /> 僕が悪魔のZをオーバーホールする?とてもじゃないけど自信がない。<br /> なんとなくわかる、あの車は、ただの車じゃない。<br /> とてもデリケートなチューニングカーは世の中に数多く存在する。<br /> 僕だってチューナーのはしくれだ。チューニングカーを扱うのが怖いわけじゃない。<br /> だけど、あの車は違う。<br /> 言葉にできない不安が襲いかかってくる。</p> <p align="left">やっぱり断ろう。<br /> 誠心誠意謝って、帰ってもらおう。</p> <p align="left"><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /> 確か昼ごろに来ると、真紅は言っていた。<br /> ジュンの気持ちは憂鬱だった。<br /> 自分でやると言っておいて、結局断ることになる。<br /> プロ失格だ。<br /> 自分に対して、どうしようもなく腹が立って来る。<br /> なんて無責任なんだ。<br /> もう子供のころじゃないんだ、いい歳した大人なんだ。<br /> それなのに、ぜんぜんあのころと変わってないじゃないか。<br /> ジュンは、工場の事務所の机に突っ伏したまま、真紅が来るのを待っていた。</p> <p align="left"> </p> <p align="left">音が聞こえた。<br /> 少し調子を崩した、人間で言うと鼻声みたいな音。<br /> しかし、たとえ鼻声でも、周りの車とはっきりと違いのわかる音。<br /> ジュンは事務所から飛び出すように外へ出た。</p> <p align="left">真紅と、悪魔のZがいた。</p> <p align="left">「あら、準備がいいのね」<br /> 「ああ、車を中に入れてくれ」</p> <p align="left">また、ジュンの心が勝手にしゃべりだした。</p> <p align="left"><br /> ――――――――――</p> <p align="left"><br /> 「それじゃ、見積書作るからちょっと待っててくれ」</p> <p align="left">違う。僕が言いたいのはそんなことじゃない。</p> <p align="left">「待って」<br /> 「うん?」<br /> 「このお店は、客にお茶の一つも出さないのかしら?」<br /> 「ああ……、悪い、気が利かなかったな」</p> <p align="left">少し、考える時間ができた。<br /> ナイスアシストだ、真紅。<br /> さてと、お茶の葉はどこにしまってあったっけ?</p> <p align="left">「待って」<br /> 「今度は何だ?」<br /> 「お茶といっても、緑茶じゃなくて、紅茶を用意するのよ」</p> <p align="left">相変わらず尊大な態度だこと。<br /> えっと、紅茶ってうちにあったかな?<br /> こういう時に限って、なんであいつはいないんだよ……。<br /> ああもう、どこにあるんだ、紅茶。</p> <p align="left">「ジュン、遅いわよ、早くしなさい」<br /> 「ちょっと待ってくれー!、今探してるんだよ」</p> <p align="left"><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /> ジュンが慣れない作業に悪戦苦闘しているそのとき、事務所のドアが開いた。</p> <p align="left">「遅くなってごめんねー、ジュン……くぅん……?」<br /> 「ああ、やっと帰ってきたか、遅いぞ姉ちゃん」<br /> 「えっと、どなた……?」</p> <p align="left">ジュンに姉と呼ばれた人は、真紅を見て、目をパチクリさせていた。</p> <p align="left">「はじめまして、私は真紅よ」<br /> 「あっ、はじめまして、桜田のりです。えっと……、真紅ちゃんは、ジュン君の……、コレ?」</p> <p align="left">そう言ってジュンの姉、のりは小指を出す。</p> <p align="left">「違あぁーう!」</p> <p align="left">ジュンが大声で叫んだ。</p> <p align="left">「えっ、違うの?」<br /> 「お客さんだよ!お客さん!」<br /> 「お客さん?だって……、ジュン君が女の子を連れて来るものだから、てっきりお姉ちゃんそう思っちゃうじゃない……」<br /> 「ああもう、その話はいいから、紅茶を用意してくれ!」</p> <p align="left">ジュンとのりの、いきなり大胆な会話を真紅は軽く聞き流した。<br /> そんなことはどうでもいいから、早く紅茶を出して欲しいのである。<br /> 未だ変な熱に浮かれるのりに、発破をかける。</p> <p align="left">「紅茶はまだかしら?」</p> <p align="left"> </p> <p align="left">事務所の中は、沈黙に包まれていた。<br /> のりが、見積書を作成するために、パソコンのキーボードをたたく無機質な音。<br /> 真紅が、紅茶を口に含み、そしてカップを置く無機質な音。<br /> ジュンが、このあと、どう断ろうか悩んでいるときに出る有機質なため息。<br /> 8畳程度の小さな部屋の中で、3人がそれぞれの音を出す。<br /> 真紅が、紅茶について文句を言い出した。<br /> しかし、ジュンの耳には、真紅とのりの会話が入ってこない。<br /> 何も聞こえない。何も見えない。何も言えない。そして、再びの沈黙。<br /> もう、見積書は出来上がりそうだった。<br /> 言葉が出てこない、出てくるのはため息ばかり。<br /> 心が言うことをきいてくれない。<br /> あの悪魔のZを目の前にすると、考えていたことがすべて吹き飛んでしまう。<br /> 自分の心が、全身を支配してしまう、自分の意志とは無関係に。<br /> そんな感覚を、ジュンは感じていた。</p> <p align="left"> </p> <p align="left">結局、ジュンは断ることができなかった。<br /> 真紅はもう帰って、工場には悪魔のZだけが残された。<br /> 納車できる日がわかったら連絡する。<br /> そう言って、引き受けてしまった。<br /> 心が、断ることを許してはくれなかったのだ。</p> <p align="left">工場内にたたずむ悪魔のZを眺めながら、一足先に昂る心を抑えられずにいた。<br /> 不安はある。しかし、もう後戻りはできないのだ。<br /> こうなった以上、プロとして、与えられた仕事をするのみ。<br /> 頭が覚悟を決めた。よし、やろう。僕がやろう。<br /> この悪魔のオーバーホールを。</p> <p align="left">そして、ジュンは電話をかけた。</p> <p align="left"> </p> <p align="left">「すみません、突然押し掛けちゃって」<br /> 「構わない」</p> <p align="left">ここは、チューニング業界において、屈指の技術力で名を売ってきた「ガレージ槐」の工場。<br /> そして、ジュンと会話をしている彼は、ここの社長であり、1代でこの工場を築き上げた槐というチューナーであった。</p> <p align="left">「悪魔のZ、か……」<br /> 「はい、そのことについて槐さんに聞きたくて」<br /> 「そうか、僕もその名を聞くのは久しぶりだ―――」</p> <p align="left"> </p> <p align="left">簡単な説明を一通り受けたジュンは、帰りにひとつのスクラップ帳を渡された。</p> <p align="left">「この中に、僕が知っている悪魔のZのことについて書かれている。持っていって構わない」<br /> 「いいんですか?借りちゃって」<br /> 「ああ、ゆっくり読むといい。なにか参考になるだろう」<br /> 「すいません、じゃあ、借りていきます。今日はありがとうございました」</p> <p align="left">そう言って、ジュンはガレージ槐の事務所を出て行った。<br /> そして、ジュンと入れ違いに、1人の男が事務所へ入ってきた。</p> <p align="left">「相変わらずご執心だね、彼に」<br /> 「白崎か……」</p> <p align="left">白崎と呼ばれた男は続ける。</p> <p align="left">「薔薇水晶が不満そうにしていたよ、早く戻って来いってさ」<br /> 「いい音だ……」<br /> 「……へ?」</p> <p align="left">突然、槐が変なことを口走るので、白崎は混乱する。</p> <p align="left">「彼のRだ」</p> <p align="left">白崎は窓の外を見た。<br /> ちょうど、ジュンのRが暖機運転をしているところだった。</p> <p align="left">「ああ、確かにRのエキゾーストノートはいいね」<br /> 「違う」<br /> 「はい?」<br /> 「エンジンの音だ」<br /> 「エンジンの音?」</p> <p align="left">工場の喧騒にまぎれて、ジュンのRの音が響いてくる。<br /> メカニックたちは、ほとんどジュンのRに目もくれず、仕事を続けていた。<br /> その中で、槐はわずかに聞こえるその音に、耳を傾けていた。</p> <p align="left">「彼には才能がある、持って生まれた才能が。だが、経験が足りない」<br /> 「最近はチューニングの仕事がないらしいからね、彼」<br /> 「それでも、僕は彼の組んだエンジンの音が、とても心地よいと感じている」</p> <p align="left">ジュンのRは、暖機運転を終えて工場を出て行った。</p> <p align="left">「もし、彼に十分な経験が備わったならば、そのエンジンはどんな音を出すのだろうか」<br /> 「なるほど、彼に期待しているわけだ」<br /> 「そうなのかもしれない……。ところで、何の用だったんだ?」<br /> 「おいおい、人の話はちゃんと聞いてくれよ……」<br /> 「それで?」<br /> 「薔薇水晶が」</p> <p align="left">その言葉と同時に、槐は無言で立ち上がり、そそくさと工場内へ消えていった。</p> <p align="left">「まったく、娘と彼とどっちが大切なんだか……」</p> <p align="left"><br /> ――――――――――</p> <p align="left"><br /> 僕は、結局槐さんにオーバーホールの話はしなかった。<br /> 独り占めしたかったのかもしれない。<br /> 今になって思えば、ちゃんと話しておくべきだったと思う。<br /> 槐さんから借りたスクラップ帳。まるでだまし取ったような気分だ。<br /> だけど、せっかく貸してもらえたのだから、きちんと読んで返そう。<br /> そして、返す時に言おう、悪魔のZのことを。</p> <p align="left">僕は、工場に戻ると一心不乱に読み漁った。<br /> 悪魔のZ。その成り立ちを。</p> <p align="left">まずエンジン。<br /> これはL28を3.1Lまでボアアップし、ツインターボ化させたもの。<br /> 600馬力、トルク80kgf-m以上を発生させる。<br /> 槐さんにも聞いた話だが、あのZがわずか600馬力というのには驚いた。<br /> 湾岸には、600馬力以上のマシンがごろごろ存在する。<br /> というか、それ以上出ていて当たり前の世界だ。<br /> 僕のRだって700馬力までチューニングしたんだ。<br /> それを、いともたやすく抜き去るとは信じられないが、現実がそれを証明している。</p> <p align="left">次に、悪魔と呼ばれる所以だ。<br /> あの悪魔のZを作り上げたチューナーは、ローゼンというらしい。<br /> ドイツ出身のチューナーということ以外は、人物に関する詳細があまり知られていない。<br /> ただ分かっているのは、80年代のストリート、つまり東名、第三京浜、首都高を走る車を手掛けてきた伝説のチューナーであること。<br /> そして、彼の作り上げた車は、とびきりの速さを誇っていたが、同時に乗り手を選ぶ車でもあったということ。<br /> 彼のマシンは次々と事故を起こし、何人もの死者を出した。<br /> ゆえに、伝説のチューナーであると同時に、悪魔のチューナーとも呼ばれた。<br /> 決して表舞台に出ることはなく、ストリートにこだわり続けた。<br /> 彼の作る危険な車は客を減らし、やがて工場は倒産。以後行方不明となっている。<br /> そんな人が昔いたなんて、知らなかった。<br /> ページをめくる手が震えてきた。<br /> もっと知りたい。僕自身が、悪魔のZを欲している。</p> <p align="left">ローゼンの作り上げたチューニングカーのなかでも、ずば抜けた速さを持っていた7台の車がある。<br /> 悪魔のZもその1台だ。<br /> 国産ターボカー黎明期に、600馬力ものパワーを与えられたその車は、特に幾度となく事故を繰り返した。<br /> 次第に、この車は悪魔のZと呼ばれるようになる。それでも、この車を求める者が絶えず、そして死んでいった。<br /> この現代において、悪魔のZの行方は知れず、廃車になったのか、新たなオーナーの手に渡ったのかはわからない。</p> <p align="left">そんな、いわくつきの車だったとは、思わなかった。<br /> そんな、危険な車を、真紅が運転しているなんて、思わなかった。<br /> そんな、魔力を持った車を、僕がオーバーホールしようとしているなんて、思わなかった。</p> <p align="left">それなのに、それなのに……、心が弾む。</p> <p align="left">僕はいつの間にか、悪魔のZの前にいた。<br /> 外は、すでに夜になっていた。</p> <p align="left">この悪魔に乗ってみたい……。</p> <p align="left">真紅からは、自由に乗ってもいいと、預かるときに許可はもらっている。<br /> なのに、なんだろうか、この背徳感は……。<br /> べつにやましくも何ともないじゃないか。現状把握のためのドライブだ。<br /> 時間もいいころじゃないか。<br /> そうやって、言うことを聞かない頭を無理やり納得させる。</p> <p align="left">そして、僕は悪魔のZのキーを回した。</p>
<p align="left">桜田オートエンジニアリング。<br /> その屋根の下で、自分のRやファミリーカーに囲まれる中に、その車はいた。<br /> 湾岸を300km/hで駆け抜ける、悪魔のZが。</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">湾岸 &quot;Maiden&quot; Midnight<br />  </p> <p align="left">SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」</p> <p align="left"> </p> <p align="left"> <br />  </p> <p align="left">「これが……、真紅の言ってたZ……なのか?」<br /> 「そうよ、これが私のZ」<br /> 「そして、こんな呼ばれ方をしているわ」<br /> 「何て……、呼ばれているんだ……?」<br />  </p> <p align="left">「……悪魔の、Z」<br />  </p> <p align="left">「悪魔の……、Z……」<br />  </p> <p align="left">悪魔のZと言う名を聞いて、ジュンは思い出す。<br /> 昔、噂で聞いたことがあった。<br />  </p> <p align="left">湾岸を300km/hで駆け抜ける、S30Zが居るらしい。<br /> それは、悪魔のZと呼ばれているそうだ。<br />  </p> <p align="left">ただの噂話、都市伝説だと思っていた。<br /> そんな車が、存在するわけがない。S30Zは最終型でも、もう20年以上前の車だ。<br /> それが、300km/hのスピードを出せるなんて、夢にも思わなかった。<br /> だがその車は、ジュンの目の前に存在している。<br /> ジュンのRを、湾岸で置き去りにしていった事実は、ただの噂話ではなかったという証左。<br />  </p> <p align="left">「本当にこの車が、あの、悪魔のZなのか……」<br />  </p> <p align="left">思わず口からこぼれてしまう、現実に追いつけていない頭の言葉。<br />  </p> <p align="left">「そうよ、これが悪魔のZ」<br />  </p> <p align="left">ジュンの頭は、まだ混乱しているというのに、心は更なる熱を帯びてゆく。<br /> 体内の中心から放たれる熱が、冷えた頭に熱を与えてゆく。<br /> 考えているのではない、感じているのだ、悪魔のZを。<br />  </p> <p align="left">「それで、私のお願いは聞いてもらえるのかしら?」<br />  </p> <p align="left">一瞬忘れてしまっていた。<br /> そういえば、オーバーホールの依頼をされていたのだった。<br /> ジュンは、目の前の悪魔に魅入られていて、肝心の仕事などそっちのけの状態だった。<br /> だからこそ、頭で考えるよりも先に、心が言葉を紡ぎだす。<br />  </p> <p align="left">「ああ、僕がこの悪魔をオーバーホールしよう」</p> <p align="left"><br /><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /><br /> 後悔先に立たず、か。<br /> 勢いに任せて、あんなことを口走ってしまった。<br /> 僕が悪魔のZをオーバーホールする?とてもじゃないけど自信がない。<br /> なんとなくわかる、あの車は、ただの車じゃない。<br /> とてもデリケートなチューニングカーは世の中に数多く存在する。<br /> 僕だってチューナーのはしくれだ。チューニングカーを扱うのが怖いわけじゃない。<br /> だけど、あの車は違う。<br /> 言葉にできない不安が襲いかかってくる。<br />  </p> <p align="left">やっぱり断ろう。<br /> 誠心誠意謝って、帰ってもらおう。</p> <p align="left"><br /><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /><br /> 確か昼ごろに来ると、真紅は言っていた。<br /> ジュンの気持ちは憂鬱だった。<br /> 自分でやると言っておいて、結局断ることになる。<br /> プロ失格だ。<br /> 自分に対して、どうしようもなく腹が立って来る。<br /> なんて無責任なんだ。<br /> もう子供のころじゃないんだ、いい歳した大人なんだ。<br /> それなのに、ぜんぜんあのころと変わってないじゃないか。<br /> ジュンは、工場の事務所の机に突っ伏したまま、真紅が来るのを待っていた。</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">音が聞こえた。<br /> 少し調子を崩した、人間で言うと鼻声みたいな音。<br /> しかし、たとえ鼻声でも、周りの車とはっきりと違いのわかる音。<br /> ジュンは事務所から飛び出すように外へ出た。<br />  </p> <p align="left">真紅と、悪魔のZがいた。<br />  </p> <p align="left">「あら、準備がいいのね」<br /> 「ああ、車を中に入れてくれ」<br />  </p> <p align="left">また、ジュンの心が勝手にしゃべりだした。</p> <p align="left"><br /><br /> ――――――――――</p> <p align="left"><br /><br /> 「それじゃ、見積書作るからちょっと待っててくれ」<br />  </p> <p align="left">違う。僕が言いたいのはそんなことじゃない。<br />  </p> <p align="left">「待って」<br /> 「うん?」<br /> 「このお店は、客にお茶の一つも出さないのかしら?」<br /> 「ああ……、悪い、気が利かなかったな」<br />  </p> <p align="left">少し、考える時間ができた。<br /> ナイスアシストだ、真紅。<br /> さてと、お茶の葉はどこにしまってあったっけ?<br />  </p> <p align="left">「待って」<br /> 「今度は何だ?」<br /> 「お茶といっても、緑茶じゃなくて、紅茶を用意するのよ」<br />  </p> <p align="left">相変わらず尊大な態度だこと。<br /> えっと、紅茶ってうちにあったかな?<br /> こういう時に限って、なんであいつはいないんだよ……。<br /> ああもう、どこにあるんだ、紅茶。<br />  </p> <p align="left">「ジュン、遅いわよ、早くしなさい」<br /> 「ちょっと待ってくれー!、今探してるんだよ」</p> <p align="left"><br /><br /> ―――――――――</p> <p align="left"><br /><br /> ジュンが慣れない作業に悪戦苦闘しているそのとき、事務所のドアが開いた。<br />  </p> <p align="left">「遅くなってごめんねー、ジュン……くぅん……?」<br /> 「ああ、やっと帰ってきたか、遅いぞ姉ちゃん」<br /> 「えっと、どなた……?」<br />  </p> <p align="left">ジュンに姉と呼ばれた人は、真紅を見て、目をパチクリさせていた。<br />  </p> <p align="left">「はじめまして、私は真紅よ」<br /> 「あっ、はじめまして、桜田のりです。えっと……、真紅ちゃんは、ジュン君の……、コレ?」<br />  </p> <p align="left">そう言ってジュンの姉、のりは小指を出す。<br />  </p> <p align="left">「違あぁーう!」<br />  </p> <p align="left">ジュンが大声で叫んだ。<br />  </p> <p align="left">「えっ、違うの?」<br /> 「お客さんだよ!お客さん!」<br /> 「お客さん?だって……、ジュン君が女の子を連れて来るものだから、てっきりお姉ちゃんそう思っちゃうじゃない……」<br /> 「ああもう、その話はいいから、紅茶を用意してくれ!」<br />  </p> <p align="left">ジュンとのりの、いきなり大胆な会話を真紅は軽く聞き流した。<br /> そんなことはどうでもいいから、早く紅茶を出して欲しいのである。<br /> 未だ変な熱に浮かれるのりに、発破をかける。<br />  </p> <p align="left">「紅茶はまだかしら?」</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">事務所の中は、沈黙に包まれていた。<br /> のりが、見積書を作成するために、パソコンのキーボードをたたく無機質な音。<br /> 真紅が、紅茶を口に含み、そしてカップを置く無機質な音。<br /> ジュンが、このあと、どう断ろうか悩んでいるときに出る有機質なため息。<br /> 8畳程度の小さな部屋の中で、3人がそれぞれの音を出す。<br /> 真紅が、紅茶について文句を言い出した。<br /> しかし、ジュンの耳には、真紅とのりの会話が入ってこない。<br /> 何も聞こえない。何も見えない。何も言えない。そして、再びの沈黙。<br /> もう、見積書は出来上がりそうだった。<br /> 言葉が出てこない、出てくるのはため息ばかり。<br /> 心が言うことをきいてくれない。<br /> あの悪魔のZを目の前にすると、考えていたことがすべて吹き飛んでしまう。<br /> 自分の心が、全身を支配してしまう、自分の意志とは無関係に。<br /> そんな感覚を、ジュンは感じていた。</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">結局、ジュンは断ることができなかった。<br /> 真紅はもう帰って、工場には悪魔のZだけが残された。<br /> 納車できる日がわかったら連絡する。<br /> そう言って、引き受けてしまった。<br /> 心が、断ることを許してはくれなかったのだ。<br />  </p> <p align="left">工場内にたたずむ悪魔のZを眺めながら、一足先に昂る心を抑えられずにいた。<br /> 不安はある。しかし、もう後戻りはできないのだ。<br /> こうなった以上、プロとして、与えられた仕事をするのみ。<br /> 頭が覚悟を決めた。よし、やろう。僕がやろう。<br /> この悪魔のオーバーホールを。<br />  </p> <p align="left">そして、ジュンは電話をかけた。</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">「すみません、突然押し掛けちゃって」<br /> 「構わない」<br />  </p> <p align="left">ここは、チューニング業界において、屈指の技術力で名を売ってきた「ガレージ槐」の工場。<br /> そして、ジュンと会話をしている彼は、ここの社長であり、1代でこの工場を築き上げた槐というチューナーであった。<br />  </p> <p align="left">「悪魔のZ、か……」<br /> 「はい、そのことについて槐さんに聞きたくて」<br /> 「そうか、僕もその名を聞くのは久しぶりだ―――」</p> <p align="left"> <br />  <br />  </p> <p align="left">簡単な説明を一通り受けたジュンは、帰りにひとつのスクラップ帳を渡された。<br />  </p> <p align="left">「この中に、僕が知っている悪魔のZのことについて書かれている。持っていって構わない」<br /> 「いいんですか?借りちゃって」<br /> 「ああ、ゆっくり読むといい。なにか参考になるだろう」<br /> 「すいません、じゃあ、借りていきます。今日はありがとうございました」<br />  </p> <p align="left">そう言って、ジュンはガレージ槐の事務所を出て行った。<br /> そして、ジュンと入れ違いに、1人の男が事務所へ入ってきた。<br />  </p> <p align="left">「相変わらずご執心だね、彼に」<br /> 「白崎か……」<br />  </p> <p align="left">白崎と呼ばれた男は続ける。<br />  </p> <p align="left">「薔薇水晶が不満そうにしていたよ、早く戻って来いってさ」<br /> 「いい音だ……」<br /> 「……へ?」<br />  </p> <p align="left">突然、槐が変なことを口走るので、白崎は混乱する。<br />  </p> <p align="left">「彼のRだ」<br />  </p> <p align="left">白崎は窓の外を見た。<br /> ちょうど、ジュンのRが暖機運転をしているところだった。<br />  </p> <p align="left">「ああ、確かにRのエキゾーストノートはいいね」<br /> 「違う」<br /> 「はい?」<br /> 「エンジンの音だ」<br /> 「エンジンの音?」<br />  </p> <p align="left">工場の喧騒にまぎれて、ジュンのRの音が響いてくる。<br /> メカニックたちは、ほとんどジュンのRに目もくれず、仕事を続けていた。<br /> その中で、槐はわずかに聞こえるその音に、耳を傾けていた。<br />  </p> <p align="left">「彼には才能がある、持って生まれた才能が。だが、経験が足りない」<br /> 「最近はチューニングの仕事がないらしいからね、彼」<br /> 「それでも、僕は彼の組んだエンジンの音が、とても心地よいと感じている」<br />  </p> <p align="left">ジュンのRは、暖機運転を終えて工場を出て行った。<br />  </p> <p align="left">「もし、彼に十分な経験が備わったならば、そのエンジンはどんな音を出すのだろうか」<br /> 「なるほど、彼に期待しているわけだ」<br /> 「そうなのかもしれない……。ところで、何の用だったんだ?」<br /> 「おいおい、人の話はちゃんと聞いてくれよ……」<br /> 「それで?」<br /> 「薔薇水晶が」<br />  </p> <p align="left">その言葉と同時に、槐は無言で立ち上がり、そそくさと工場内へ消えていった。<br />  </p> <p align="left">「まったく、娘と彼とどっちが大切なんだか……」</p> <p align="left"><br /><br /> ――――――――――</p> <p align="left"><br /><br /> 僕は、結局槐さんにオーバーホールの話はしなかった。<br /> 独り占めしたかったのかもしれない。<br /> 今になって思えば、ちゃんと話しておくべきだったと思う。<br /> 槐さんから借りたスクラップ帳。まるでだまし取ったような気分だ。<br /> だけど、せっかく貸してもらえたのだから、きちんと読んで返そう。<br /> そして、返す時に言おう、悪魔のZのことを。<br />  </p> <p align="left">僕は、工場に戻ると一心不乱に読み漁った。<br /> 悪魔のZ。その成り立ちを。<br />  </p> <p align="left">まずエンジン。<br /> これはL28を3.1Lまでボアアップし、ツインターボ化させたもの。<br /> 600馬力、トルク80kgf-m以上を発生させる。<br /> 槐さんにも聞いた話だが、あのZがわずか600馬力というのには驚いた。<br /> 湾岸には、600馬力以上のマシンがごろごろ存在する。<br /> というか、それ以上出ていて当たり前の世界だ。<br /> 僕のRだって700馬力までチューニングしたんだ。<br /> それを、いともたやすく抜き去るとは信じられないが、現実がそれを証明している。<br />  </p> <p align="left">次に、悪魔と呼ばれる所以だ。<br /> あの悪魔のZを作り上げたチューナーは、ローゼンというらしい。<br /> ドイツ出身のチューナーということ以外は、人物に関する詳細があまり知られていない。<br /> ただ分かっているのは、80年代のストリート、つまり東名、第三京浜、首都高を走る車を手掛けてきた伝説のチューナーであること。<br /> そして、彼の作り上げた車は、とびきりの速さを誇っていたが、同時に乗り手を選ぶ車でもあったということ。<br /> 彼のマシンは次々と事故を起こし、何人もの死者を出した。<br /> ゆえに、伝説のチューナーであると同時に、悪魔のチューナーとも呼ばれた。<br /> 決して表舞台に出ることはなく、ストリートにこだわり続けた。<br /> 彼の作る危険な車は客を減らし、やがて工場は倒産。以後行方不明となっている。<br /> そんな人が昔いたなんて、知らなかった。<br /> ページをめくる手が震えてきた。<br /> もっと知りたい。僕自身が、悪魔のZを欲している。<br />  </p> <p align="left">ローゼンの作り上げたチューニングカーのなかでも、ずば抜けた速さを持っていた7台の車がある。<br /> 悪魔のZもその1台だ。<br /> 国産ターボカー黎明期に、600馬力ものパワーを与えられたその車は、特に幾度となく事故を繰り返した。<br /> 次第に、この車は悪魔のZと呼ばれるようになる。それでも、この車を求める者が絶えず、そして死んでいった。<br /> この現代において、悪魔のZの行方は知れず、廃車になったのか、新たなオーナーの手に渡ったのかはわからない。<br />  </p> <p align="left">そんな、いわくつきの車だったとは、思わなかった。<br /> そんな、危険な車を、真紅が運転しているなんて、思わなかった。<br /> そんな、魔力を持った車を、僕がオーバーホールしようとしているなんて、思わなかった。<br />  </p> <p align="left">それなのに、それなのに……、心が弾む。<br />  </p> <p align="left">僕はいつの間にか、悪魔のZの前にいた。<br /> 外は、すでに夜になっていた。<br />  </p> <p align="left">この悪魔に乗ってみたい……。<br />  </p> <p align="left">真紅からは、自由に乗ってもいいと、預かるときに許可はもらっている。<br /> なのに、なんだろうか、この背徳感は……。<br /> べつにやましくも何ともないじゃないか。現状把握のためのドライブだ。<br /> 時間もいいころじゃないか。<br /> そうやって、言うことを聞かない頭を無理やり納得させる。<br />  </p> <p align="left">そして、僕は悪魔のZのキーを回した。</p>

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