『約束の場所へ』 後編①
<p>水銀燈は、今……なんて言った？<br> その言葉の、あまりの破壊力に、私の思考は一瞬で停止寸前まで追いやられていた。<br> 思い返してみれば確かに、私の具合が悪くなりだしたのは、彼女と出会ってからだけど――<br> でも、俄には信じられない。信じろって言う方が、無理な注文だわ。<br> <br> 「ばっ……バカな冗談なんか言わないでよ。薔薇水晶が、私の病気の原因だなんて――どうして？」<br> 「さぁねぇ。私に訊かれても知らなぁい。なにか、恨みを買うようなコト、してたんじゃないのぉ？<br> 気付かない内に誰かを傷付けてるって、よくある話よ」<br> 「…………ウソよ！ 薔薇水晶は、そんな陰険で性根の腐った娘じゃないわ！」<br> 「信じる信じないは、お好きに。でもね、その焼売は、絶対に食べたらダメよ。<br> 食べようとしても、私が阻止するわ。今、めぐに死なれたら困るんだもの」<br> <br> 言うが早いか、水銀燈は私の手から焼売のパックを奪い取った。<br> <br> 「これは、私が処分しておくから。それと、薔薇水晶って子にも、会わない方が良いわよ」<br> 「勝手に決めないでよ！ 私が誰と会おうが、私の自由でしょっ！<br> 私は、彼女を信じてるの。貴女みたいな得体の知れない人より、ずっとね！」<br> 「……それが、死期を早める愚行だとしても？」<br> 「うるさいうるさいっ！ もう聞きたくないっ！ もう出ていってよ！」<br> <br> がなり立てる私に、水銀燈は一瞬、悲しげな目を向けて、<br> <br> 「…………好きにすればぁ」<br> <br> 言い捨てると、そこはかとない哀愁を背に負って、病室を出ていった。<br> そして訪れる、沈黙。押し寄せる、哀惜の情。独りの夜なんて慣れっこで、寂しくなんてない…………のに。<br> いつまでも変わらないと思っていた友情に浴びせられた冷や水が、心細さを募らせた。<br> ……寒い。信じていると言っていながら、薔薇水晶に寄せていた友愛が、凍てついていく。<br> やがて、私の心は、冷たく綺麗な愛の氷と成り果てて……心臓が、きりきりと疼いた。<br> <br> <br> <br> 少しの間、微睡んでいたらしい。瞼が重くて、目がショボショボしている。<br> <br> 「……姫様。そろそろ、ご起床の時刻ですぅ」<br> <br> 聞き慣れた娘の声に、私は閉ざしていた双眸を見開いた。<br> 徐に、身体を起こす。早朝の静けさの中、私が立てる、さらさらと衣擦れだけが響いた。<br> 気配を察したのか、小さな軋みをあげながら、板戸が開かれる。<br> <br> 「姫様。昨夜は、よく眠れたです？」<br> 「おはようございます、姫様」<br> <br> 庭を臨む廊下に正座しているのは、双子の侍女。翠星石と、蒼星石。<br> 彼女たちは、私の身の回りの世話をするだけでなく、屋敷の庭を管理したり、<br> 私の身辺警護もしてくれる。屋敷から殆ど外出を許されない私にとっては、頼もしくて、大切な友人たちだ。<br> <br> 「……おはよう、二人とも。よく晴れているわ。清々しくて、気持ちのいい朝ね」<br> 「ふふぅ～ん。上機嫌なのは、ホントに天気のせいだけですぅ？」<br> <br> 翠星石は、にへら……と、いやらしく口元を歪めて、私に意味深長な流し目をくれた。<br> そして、ズバリと私の図星を突いてくる。<br> <br> 「今日は確か……水銀の君が、お屋敷に参られるですぅ」<br> 「そうだったね。宮中で一目惚れして以来、姫様は、あの方にぞっこんだから」<br> <br> 双子の侍女は、物知り顔を見合わせて目を細め、うんうんと頷いた。<br> 変だわ。私は一言たりとも、あの方への想いを口外した憶えが無いんだけど――<br> 侍女として、日がな一日、側仕えしていると解る物なのかしらね。<br> <br> まあ、いいわ……それよりも、早く着替えて――目指せ、あの人の隣っ！<br> 二人の手を借りて、十二単を纏った私は、燦々と朝日が降り注ぐ庭を眺めながら、<br> 翠星石に髪を梳いてもらっていた。草木の枝を揺らして吹き込んでくる風が、汗ばんだ肌に心地よい。<br> <br> 「少し髪も伸びてきたし、また、蒼星石に切り揃えて貰おうかしらね」<br> 「切るなんて、勿体ねぇです。姫様の黒髪は、こんなにも艶やかなのですから」<br> 「そう？ 私は、貴女たちの栗色の髪も好きよ。蒼星石も、髪を伸ばせばいいのに」<br> 「ボクは、短い方が好きなんだよ。涼しいし、庭仕事の邪魔にならないからね」<br> <br> なんて、他愛ないお喋りをしながら、私は広い庭に生い茂る草木に目を向けた。<br> 私の父は、大納言。正三位の官位で、いわゆる公卿だ。<br> 屋敷も、権勢に相応しい大きさを誇り、使用人も数多。私は不自由ない生活を約束されている。<br> でも……それは虚飾。本当は、夢や希望もない。全てが父の言いなりで、自分の伴侶を選ぶ自由すら無い。<br> この無駄に広い屋敷は、私という人形を閉じ込めておく“鳥かご”に他ならなかったわ。<br> だけど、私は今まで、その習わしを普通と思い、疑いもしていなかった。水銀の君に出会う迄は――<br> <br> 「ちょっと、庭に出てみたいわ。翠星石、蒼星石、手を貸して」<br> <br> 二人に手を引かれて、蒼い空の下に歩み出た。今日は一段と、日差しが強い。<br> 季節は夏へ……十二単を着るには厳しい季節が、巡り来たのね。<br> ああ……暑い。私は装束の胸元を弛めて、掌で汗ばむ喉を扇いだ。<br> そんな私の痴態を、すかさず見咎める翠星石。<br> <br> 「みっともねぇ真似すんなですぅ。後でお叱りを受けるのは、私たちの方なのですから、<br> 自重して欲しいです。ほらっ！ 蒼星石も、なんとか言ってやれです」<br> 「う、うん……あのね、姫様。ふしだらな格好してると、鬼に攫われちゃうんだよ？」<br> 「それって、都中の噂になってる、なんとか童子って魑魅魍魎ね」<br> <br> 今日、水銀の君がこの屋敷を訪れる理由も、鬼対策の防衛術を施すためだった。<br> そろそろ、お見えになる刻限じゃないかしら。<br> 私の見立ては当たったらしい。矢庭に、正門の方で、下男や下働きの女たちが騒ぎ始めた。<br> と、同時に、屋敷の中の空気が一変する。<br> 細い指で首筋を撫ぜられて、身体中の力が、すっ……と抜き取られていくような、妖しい官能。<br> 私しか感じないという、この独特の気配は、特別なお客様の来訪を告げる証。<br> 父の名代として出迎える私に、いつでも微笑みを向けてくれる、あの方が来てくれたのね。<br> 早く会いたい。いつもと変わらぬ笑顔で、私の胸を、はしたなく高鳴らせて欲しい。<br> <br> 「行きましょ、二人とも」<br> <br> 居ても立ってもいられなくなって、私は侍女たちを促すが早いか、<br> 庭の中央に在る池を迂回して、足早に正門へと向かい始めていた。<br> <br> <br> ――そして、大きな松の下を、潜り抜けようとした時、異変は起こった。<br> 目の前に、ひらひらと舞い落ちてくる、人間を象った紙片。<br> なんだろうと訝る間もなく、私の両肩に、ぼとり……と、何かが落ちてくる感触。<br> 驚いて竦めた私の頸に、真っ白で大きな――私の背丈と同じくらいの――蛇が、<br> 今しも巻き付こうとしていた。素早く人型の紙片に噛み付いた大蛇は、鎌首を擡げて、<br> 私の方へと振り向いた。金色に光る蛇の眼と、私の視線が、ぶつかる。<br> その輝きは、以前に絵巻物で見た妖怪変化を彷彿させた。<br> <br> 「ひ、姫様っ！ こぉんの蛇っ……離れやがれですっ！」<br> 「姉さん、ボクに任せてっ！」<br> <br> 翠星石が手刀で払い除けてくれた蛇に向かって、剪定鋏を手にした蒼星石が、<br> 間髪入れずに斬りかかった。大蛇は彼女の鋭い斬撃を躱すべく、空中で器用に身を捩る。<br> だが、やはり全てを躱しきるのは不可能だった。<br> 鋏の切っ先が身体の一部を掠めたらしく、大蛇はビクリと躍動すると、<br> そのまま力無く地面に落ちて、動かなくなった。<br> 蒼星石は、身動きを止めた大蛇の頭めがけて、トドメとばかりに剪定鋏を振り下ろす。<br> <br> 「待って――」<br> <br> 私は、蒼星石の腕にしがみついて、惨劇の幕を開かせなかった。<br> たとえ蛇であっても、流れる血は赤い。私には流血を愉しむ趣味なんてないし、<br> 小さな命が失われていく様子を平然と眺めていられるほど、冷酷にもなれない。<br> なによりも、水銀の君が訪れる場所を、血で汚したくなかった。<br> <br> 「もう良いわ。私も、危害は加えられてないから」<br> <br> 見れば、大蛇の胴には傷が無い。鋏が掠ったと見えたのは、眼の錯覚だったのかしら？<br> これなら、怪我が元で死んでしまうこともないだろうと、安堵したのも束の間――<br> <br> 大蛇の左眼に刻まれた斬り傷を目にして、私は反射的にハッと息を呑んでいた。<br> やはり、私の見間違いなんかじゃなかったのね。<br> 大蛇は暫くの間、竦み上がっている私を睨め付けていた。<br> まるで…………仇敵を、その金色の瞳に焼き付けているかの様に。<br> <br> 「こいつっ！ いつまで居座ってるです！ さっさと逃げやがれですっ！」<br> <br> 柄杓を手にした翠星石に池の水を引っかけられると、大蛇は見た目からは想像できない俊敏さで、<br> 垣根の外へと這い出していった。あの様子なら、命に別状は無さそう。<br> <br> 「本当に、逃がしても良かったの、姫様？ あんなに大きな白蛇が、こんな人里近くに潜んでいるなんて、<br> 不自然この上ないよ。或いは、あの大蛇こそ、鬼の手下だったのかも――」<br> 「良いのよ、蒼星石。仮に、また襲ってきたって、今度も麗しき乙女たちが護ってくれるでしょ？」<br> <br> それどころか、もしかしたら水銀の君が屋敷に泊まり込んで、不寝番をしてくれるかも知れない。<br> 私の寝所で…………あの方と二人っきり…………。<br> 恋はあせらずって言うけれど、そんな状況になったら、理性を保っていられる自信がない。<br> 想像したら、なんだか、身体が火照ってきちゃった。いやん♪<br> <br> <br> <br> 「めぐちゃんっ！ めぐちゃんっ！」<br> <br> 激しく身体を揺さぶられて、私は訳の分からない状況に引き戻された。<br> 緊急停止した思考が、再起動するまで、およそ五秒。<br> それから更に三秒ほど経過して、やっと現状が理解できた。<br> <br> つまりは、いつの間にか眠っていて、今まで平安貴族になった夢を見ていたところを、<br> 看護婦の蒼星石さんに叩き起こされたってワケね。ちょっとだけ、寝覚めが悪いわ。<br> <br> 「めぐちゃん、大丈夫？ 具合悪いの？」<br> 「……苦しゅうないでおじゃる」<br> 「え？！」<br> <br> なっ、なに似非平安貴族みたいな喋り方してるのよ、私はっ！<br> あ、そっか。変な夢を見たから、頭が混乱してるのね。きっと、そうよ。<br> <br> 「う、ううん。何でもないの。だけど、もう少し寝かせといて欲しかったなぁ」<br> 「でも……様子を見に来たら『いやん♪ いやん♪』って魘されてたから」<br> 「はあっ？！ え、えっと……ソレはね。世界水泳の応援してる夢みてたの」<br> 「ああ、なるほど。イアン＝ソープだね」<br> <br> 取り敢えず、巧く誤魔化せたみたい。蒼星石さんがオトボケキャラで助かったわ。<br> 私は彼女に体調の異常がないことを告げて、丁重にお引き取り願った。<br> 窓の外に広がる青空には目もくれず、私は今朝の夢について、考えを巡らせていた。<br> 最近、妙な夢を見る回数が増えてるわ。それも、やたらと水銀燈がらみの……。<br> <br> （もしかしたら、私――）<br> <br> 水銀燈のコト、かなり気に入っちゃってるのかな？<br> あんな最悪の出会いで、嫌悪感すら抱いていたのに、今では……とっても身近に感じてる。<br> この、薔薇の指輪を填めているせいで、一蓮托生の気分になってるだけかも知れない。<br> <br> ともあれ、真実を究明する為には、ひとつでも多く仮定を捻り出すことが重要だわ。<br> それが、目に見えないものならば尚更よ。仮定無くして学問は確立しない。<br> 仮定と証明の試行錯誤が、英知という新たな道標を示し、さらなる躍進へと賢者たちを誘ってきたわけ。<br> それら偉業の連鎖が、過去の偉人たちによって成し遂げられてきたから、現代の科学が存在しているのよ。<br> 自分でも何が言いたいのか解らなくなってきたけど、つまり、仮定には証明が付き物ってこと。<br> <br> 「水銀燈の夢を見る理由――かぁ。そう言えば、夢は現実世界の継続だって、聞いた憶えがあるわ」<br> <br> 夢が実体験の投影ならば、私が見た夢も、また……実際の体験だったのかも。<br> 突拍子もない発想だけれど、私の深層心理に僅かながら残っていた前世の記憶が、<br> 眠っている間に呼び覚まされて、戻り得ぬ記憶を辿るのだとしたら――<br> <br> 「……私は、大納言の娘で、屋敷から出ることを許されない箱入り娘だった……と」<br> <br> そして、現在は個室に閉じこめられている病人だなんて、笑える符合ね。<br> <br> ひとつ類似点が見付かると、私の中で芋蔓式に、関連づけが進められていった。<br> 水銀の君と、水銀燈の名前の重なりも、ただの偶然と割り切って笑い飛ばせなくなる。<br> 夢の中で見た、左目を負傷した白蛇と、薔薇水晶の眼帯も、繋がりがあるように思えてくる。<br> 私を取り巻く全ての事象が、夢で見た私の過去との因果を感じさせた。<br> 不意に、病室の扉がノックされる。そして、私の返事も待たずに、彼女が入ってきた。<br> <br> 「おはよ、めぐちゃん。今日も元気そうだねっ♪」<br> <br> 彼女は無邪気に微笑みながら、ベッドに近付いてくる。害意なんか、全く感じられない。<br> 私と薔薇水晶の仲を羨んだ水銀燈が、嘘を吐いたんじゃないかとさえ思えてしまう。<br> けれど、そう思っても尚、拭いきれない疑念が、私の心に芽生えていた。<br> <br> 「？ めぐちゃん……なんだか、怖い顔してる。もしかして、私が来るのは迷惑？」<br> <br> 無意識のうちに、私は表情を強張らせていたのだろう。薔薇水晶は不安げに眉を顰めていた。<br> 迷惑だなんて、これっぽっちも思ってない。それは本心。<br> でも、水銀燈の台詞が、私の心に重くのしかかっているのも事実。<br> 昨夜の、あの一言で、私の中にある二人を載せた天秤は釣り合ってしまった。<br> そして現在進行形で、水銀燈の方に傾きつつある。その変遷は押し留め様がない。<br> <br> 今のところ、水銀燈は、私の死を望んでいない。私の生きた心臓を欲しがっているんだものね。<br> 薔薇水晶の差し入れを取り上げたり、会うなと忠告したのも、偏に私を死なせたくないから。<br> そう解釈してしまうと『薔薇水晶が病気の原因』という言葉の信憑性が、私の中で一気に高まった。<br> 薔薇水晶は私にとって、天使に等しい存在だったのに……おかしいね。<br> <br> 「……迷惑どころか、とっても嬉しいわよ。でもね、学校には、ちゃんと行って欲しいの」<br> <br> なのに、露骨な拒絶を口にする勇気もなくて――<br> <br> 「病気が治るまで、私は此処に居るからさ。無茶をしないで、貴女の人生を大切にしてよ。<br> 私なら大丈夫。だから、週末の時間がある時に、会いに来てちょうだい」<br> <br> 私の唇は、当たり障りのない、在り来たりな台詞を紡ぎ出す。<br> 自分の優柔不断さに、軽く自己嫌悪。だけど、やっぱり、薔薇水晶を拒絶するなんて出来ない。<br> たとえ、命の炎を灯す蝋燭が、秒単位で短くなり続けているとしてもね。<br> <br> 私に疎まれていないと判って、一度は屈託なく笑った薔薇水晶だったけれど、<br> 力無く微笑む私を見て、またぞろ表情を曇らせた。<br> 私の些細な変化で、こうも一喜一憂してくれる心の優しい娘が、<br> 私の命を削ぎ落としているなんて信じられない。水銀燈の勘違いじゃないのかしら。<br> <br> ――そうよ。<br> どうして、その可能性を考えなかったんだろう。彼女の言うことが確かである証拠は無いのよ。<br> まして、彼女は一昨日まで生首状態だったんだもの。感覚が鈍っていることだって――<br> 一縷の救いを見出した気がして、私の心に蟠っていた重石が、急速に消滅していく。<br> 例えるなら、土砂降りの雨の中、雨宿りする軒下で、雲間から差し込む陽光を眺めた時の気分。<br> <br> が、安堵したのも束の間。何の予兆もなく、私の身体に異変が生じた。<br> 誰かの指先が、私の髪を潜り抜けて、首の後ろを泳ぎ回っている。襲い来る脱力感。<br> 誰？！ 悪ふざけは止めてっ！<br> 叫びたくても、お腹に力が入らず、声が出せなかった。<br> <br> 「ど、どうしたの、めぐちゃんっ？！ 具合……悪いの？ か、看護婦さん呼ばなきゃ」<br> 「……平気よ。大丈……夫だか、ら」<br> <br> 私は気力を振り絞って、それだけを伝えた。実際、脱力感だけで、痛みは無い。<br> この程度のことで変に大騒ぎされた挙げ句に、有象無象が集まってくるのは煩わしかった。<br> <br> 「と、とにかく、横になって！」<br> <br> 薔薇水晶は、ひどく取り乱した様子で、私のベッドに駆け寄ってくる。<br> そんなに慌てなくたって、さよならは突然に――なんて展開には、ならないわよ。<br> 差し出される、薔薇水晶のほっそりした両腕。白い肌が眩しい。<br> 健康美って言うのかな。私の肌みたいな、病的な白さとは、根本的に違う。<br> 知らず、私は彼女の美しさに、羨望の眼差しを向けていた。<br> <br> ――が、不意に私の中で、薔薇水晶の白い腕と、夢で見た白蛇の姿が重なった。<br> 何故かは判らない。ただ、白い蛇のように伸びてくる彼女の手が、どうしようもなく怖くなった。<br> このまま肩を掴まれてしまったら、私は――逝っちゃうのかな？<br> <br> 「きゃっ！」<br> <br> 薔薇水晶の手が、私の肩を掴む直前、バシッ！ と音を立てて、強烈に弾かれた。<br> 一体、何が起きたっていうの？ 薔薇水晶も痛む手を押さえながら、訳が分からず茫然としている。<br> そして次の瞬間、驚愕のあまり瞬きすら忘れていた彼女の目が、更に見開かれた。<br> <br> 「気安く、めぐに触らないで」<br> <br> 壁の中から滲み出すように、水銀燈が――相変わらずの、看護婦の制服姿で――音もなく現れていた。<br> 薔薇水晶の手を弾き飛ばしたのは、水銀燈の仕業だったのね。<br> それに、こんな昼間に平然と出てこられるほど、力が回復したみたいだし。<br> 私の存在価値も、そろそろ無くなる。目の前の二人と交わした『約束』だけが、最後まで残される。<br> <br> 「まぁったく、油断も隙もないわねぇ。昨夜の内に、結界を用意しておいて良かったわ」<br> 「貴女…………だぁれ？」<br> <br> 薔薇水晶は、私が今まで見たこともない鋭利な眼光で、水銀燈を見据えていた。<br> 水銀燈の背後にいる私にすら、ひしひしと伝わってくる敵愾心。<br> こんなにも激しい感情を、彼女が放っているなんて……ウソみたい。<br> 気のせいかも知れないけど、殺意すら込もっている様に感じられたわ。<br> <br> （これが本当に、あの薔薇水晶なの？） <br> <br> 二人だけの合い言葉を語り合った頃とは、別人じゃないの。<br> 私は今まで、表面的な彼女しか見ていなかったのだ。<br> それを思い知らされ、打ちひしがれた。<br> 一年以上も付き合ってきたのに、何してたんだろう……私は。情けないなぁ。<br> <br> 「貴女こそ、何者ぉ？ 私のめぐに手を出すなんて、千年早いわ」<br> <br> 水銀燈は、薔薇水晶の激情に圧された素振りも見せず、切り返す。<br> 『私の～』という箇所に疑問を差し挟みたくなったけど、病室の緊迫感が、<br> 私に喋らせてくれなかった。<br> <br> 「……亡霊の分際で、よくもヌケヌケと。めぐちゃんから離れてっ！」<br> 「嫌ぁよ。この娘はねぇ、もう私のモノなの。なんと言われようが、もう手放さないわぁ」<br> 「ふざけないで！ 貴女が取り憑いてるから、めぐちゃんの具合は悪くなるのよ！」<br> 「あらあらぁ……言うじゃなぁい。自分の事は棚に上げて、責任転嫁？ 散々、めぐを苦しめてきたクセにぃ」<br> 「っ！！」<br> <br> 一瞬の、間。ちょっと――なんで、そこで黙るの？ どうして反論しないの？<br> 黙っちゃったら、水銀燈の言葉が真実だって、認めるようなものじゃない。<br> ねえ……嘘だと言ってよ薔薇水晶っ！<br> <br> 「貴女こそ、出て行きなさいよぉ…………疫・病・神・さん♪」<br> 「？！」<br> <br> 薔薇水晶はキッ！ と、せせら笑う水銀燈を睨み付けた。<br> それが、彼女に出来る、ささやかな抵抗だったのかも知れない。<br> 怒りに身体を戦慄かせ、悔しそうに唇を噛んで……潤んでいく、金色の隻眼。<br> <br> 突如、薔薇水晶は踵を返して、病室を飛び出していった。『さよなら』も『また来る』の一言も無いままに。<br> 勝ち誇る水銀燈の背中に威圧されて、私は――――<br> <br> <br> 薔薇水晶を追いかけることが、出来なかった。<br></p>
