「【MADE'N MOOR - 雨夜にとりこ】」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
【MADE'N MOOR - 雨夜にとりこ】」を以下のとおり復元します。
【MADE'N MOOR - 雨夜にとりこ】<br>
 ナビが使えなくなるなんて、思いもよらなかった。<br>
 辺りは凄まじい雷雨で、フロントワイパーすらほとんど役に立たない。田舎の一本道<br>

にもかかわらず、20km/hも出せれば上出来といったところだ。脱輪は御免被る。<br>

 対向車もなければ、ラジオからはホワイトノイズばかり。こんな時こそ気晴らしが<br>

必要なのに……プレイヤーくらい積んでおくんだった。<br>
<br>
 周囲が一層暗くなった。迸る稲妻にシルエットが浮かび、森の中に入ったのだと<br>

わかった……たどっている道に森があっただろうか……地図など頭にしまわないから、<br>

全然思い出せない。<br>
 少なくとも、灯りが見えないのだけは確かだ。進むしかない。<br>

<br>
 ふと我に返って時計を見た。もう午前1時を過ぎている。それで、一気に目が<br>

覚めた。ほんの少し前に見たときはまだ午後11時少し前だったはずだ。眠っていたに<br>

違いない。カーブの少ない道でよかった。<br>
 目が覚めると、雨脚の弱まりに気がついた。前方の見通しも多少ましになって<br>

いる……なんともありがたい話だ。きっと、雨音が子守唄代わりになってしまって<br>

いたのだろう。だからきっと、雨が弱くなって目も覚めたのだ。<br>

 出発前に読んだホームズの筋をちまちま思い出して、眠気と戦うことにする。<br>

<br>
 そして負けた。負けたことに気付いて気を取り直し、改めて前を見つめた瞬間、<br>

反射的にブレーキを踏んで盛大にスリップした。<br>
<br>
 灯りが、見えたのだ。<br>
<br>
 華麗とは言い難いドリフトをキメながら、運よく私道らしきものに滑り込んだ。<br>

そこでようやく、車体が立ち直る。こんどは慎重にブレーキをかけて、徐行させた。<br>

雨はさらに弱くなり、ヘッドライトにはっきりと、巨大な鉄の門扉が浮かび上がる。<br>

両側に優雅なアンティーク調の灯りを備えた、瀟洒で豪勢な造りだ。もしこれに<br>

突っ込んでいたらと思うと、恐ろしい。<br>
<br>
<br>
<br>
 目でインターホンを探すうちに、勝手に門扉が内側に開いた。<br>

 ……入れということだろうか? インターホンらしきものは見つからないままで、<br>

声もかからない。<br>
 バックミラーには、雨に閉ざされた森が黒々とそびえている。雨脚が、また強く<br>

なりだした。<br>
<br>
 選択の余地はない。<br>
<br>
 途中で呆れるくらいの距離を走らされ、ようやく車寄せに車を入れた。<br>

 目の前には薔薇の彫刻がちりばめられたオーク材の、年季が嫌ほど入って見える<br>

大きな扉。首を横に向ければ、屋敷の端は雨の中に消えている……いったい、どういう<br>

金持ちの隠居だろう。<br>
 不躾なことを考えた瞬間、扉が開いた。慌てて威儀を正す。精一杯の礼を取り<br>

繕おうとして……見事に失敗した。相手をまじまじ見つめてしまったのだ。<br>

 上品な薄い薄薔薇色のドレスを着こなした、怜悧な金色の眼差しの麗嬢。左眼を<br>

悪くしているらしく眼帯をかけているのだが、それが全く痛々しくない。むしろ、<br>

そこに刺繍された青い薔薇が、鋭い美貌をさらに研ぎ澄ませていた。<br>

「……どうぞ」<br>
 彼女は燭台を……燭台だ! この21世紀に! ……掲げて、薄暗い屋敷の中に、<br>

案内してくれた。不躾を咎めるでもなく。<br>
<br>
 中は驚くほど大時代的だった。玄関は吹き抜けのホールになっており、灯りが一切<br>

無いため天井が闇に沈んでいる。セピア色になってしまった、もとは緋色であったろう<br>

絨毯が、足音を吸い取ってしまう。<br>
 長い長い階段の途中、三つ目くらいの踊り場に、大きな姿見がかかっていた。建物<br>

自体の装飾も控えめ、絵や彫刻は何ひとつ無い中で、初めて出あった飾り気らしい<br>

飾り気だ。<br>
 彼女は前を滑るように歩いていく。会話は無い。横顔が見てみたくて、鏡に視線を投げた。<br>

 そこに、純白の彼女がいた。胸元に覗く淡雪の肌がわずかに見え、頬に血が上った。<br>

<br>
<br>
<br>
 思わず振り向き、彼女の後ろ姿を確認した。確かに薄薔薇色のドレスだ。もう一度<br>

振り向き……鏡の奥に、階段を登って歩み去っていく、薄薔薇色のドレスを見た。<br>

 鏡の奥に眼を凝らしてみる。別段色が変わったりはしない……嵐の中をずっと運転<br>

してきて、疲れているのだろう。まして、こんな古典の中から抜け出してきたような<br>

屋敷の薄暗い中だ。枯れ尾花があったら幽霊にも見えるだろう。<br>

 深呼吸をしているうちに、彼女が階段を登りきったのが、鏡の中に見えた。階段の<br>

終わったすぐそこで扉が開き、白い服の人影が彼女を招き入れる。<br>

 一瞬ぎょっとしたが、驚くようなことではない、と思いなおした。こんな手間の<br>

かかる広大な屋敷に、一人で住めるわけは無い。<br>
<br>
 部屋にいたのは、彼女一人だった。奥に扉は無い。<br>
 扉は無い。彼女は一人で、部屋の燭台に蝋燭を立て、灯している。再び激しくなった<br>

嵐に、二つの窓の鎧戸が音を立てる。<br>
 侍女の方は? と聞いてみた。彼女は、鸚鵡返しに繰り返して首をかしげただけだった。<br>

<br>
 ベッドにへたりこんだ。彼女の方は、そのまま無言で出て行ってしまった。<br>

 夜食にスコーンかベーグルでも欲しいところだが、余計なことは言わないことに<br>

決めた。寝られるだけで充分だ。余計な好奇心にはフタをする。<br>

 服を弛めながらベッドに倒れこんだ。頭の中がはっきりぐらつく。思ったよりよほど<br>

疲れていたようだ……治まるまで少し眼を閉じた。<br>
<br>
 閉じた眼の奥に、はっきり浮かんでくる。彼女の美貌が。自分で自分が嫌になり<br>

かけたが、そんな自制心はすぐに吹き飛んでしまった。彼女はそれほどに美しい。<br>

高尚な意味でも、あるいはもっと下品な意味でも。<br>
 初めて見た切れるような眼差し、青褪めた頬、招き入れてくれた白魚の指、階段を<br>

登る脚の運び、腰のしなり……<br>
<br>
<br>
<br>
 不意にノックの音が聞こえ、あわてて身を起こした。ドアの方を見ようとして、<br>

巨大な姿見に目を吸い寄せられた。部屋全体をほとんど映しこんでいる。<br>

 姿見はドアのすぐそばだ。入ってきたときはそのまま真っ直ぐベッドに倒れこんだ<br>

から、ちょうど背中になっていて気付かなかったのだろう。<br>

 燭台に揺れる炎は、灯りというよりもむしろ、灯りの届かない闇を際立たせ、鏡に<br>

映しこんでいる。<br>
 鏡の中の闇に、純白のドレスをまとった人影が浮かび上がる。<br>

 薄薔薇色に血の気が失せて、奇妙に両端を引き上げた笑みを浮かべる唇。アラバスタの<br>

顔(かんばせ)に嵌め込まれたサファイアの瞳と純白の薔薇。波打つブロンド。<br>

 ベッドに這い上がり、背後に迫って来ている。向こうの壁とベッドの間には、わずかな<br>

隙間しかなかったはずだ。<br>
<br>
 前に跳び出していればよかった。<br>
<br>
 しかし、体は彼女を求めて振り向こうとし、間に合わずに囚われていた。頬を摺り寄せられ、<br>

無理に前を向かされる。鏡の中で絡め取られてゆく。<br>
 耳元に、含み笑いの微かな息遣い。<br>
「……いい匂い」<br>
 胸元に伸ばされた指が、優雅なつくりに似合わぬ乱暴さで服を引き剥いていく。身を<br>

よじっても、縄で厳しく縛められているかのように、抜け出すことが叶わない。固く抱き<br>

すくめられている感触はあり、鏡に彼女の姿は映るのに、ここにあるのは自分の体だけだ。<br>

「……とてもいい匂い」<br>
 耳に歯が立ち、噛み破られた。血が滴る感触、舌が這う感触。<br>

「美味しい……」<br>
 陶然とした声。背中で、彼女の動悸の高まりを感じる。<br>

<br>
 現実のドアが開いた。出迎えてくれた、薄薔薇色の彼女だ。鏡に映る二人の顔立ちは<br>

よく似ている。見事なシルバーブロンドとブロンドが、一つづつの黄金の瞳とサファイアの<br>

瞳が、見事な対を成して揺れる火影の中で輝く。<br>
<br>
<br>
「欲しい?」<br>
「欲しい」<br>
 問うた薄薔薇色の彼女は一振りの剣を握っていた。答えた純白の彼女の体が、一層強く絡み付いてくる。<br>

 剣は透き通る水晶。振り上げられた刃が、揺れる炎を透かして見せる。<br>

<br>
 一撃。声の代わりに、血を吐いた。背中の方で、背筋を撫で上げるような柔らかな悲鳴が<br>

上がる。きつくきつく、抱きしめられる。<br>
 突き立てられた刃が、血を吸って薔薇色に染まる。霞み始めた目が、鏡の中で朱に染まり<br>

始めた純白のドレスを辛うじて捉えた。<br>
 剣がゆっくりとこじられ、派手に血が噴き出した。ごりごりと音がし、あばらが折れていく。<br>

あやまたずに心臓を貫いているのだろう。半分を朱く染め分けられた、薄薔薇色のドレス。<br>

 純白のドレスが、赤黒いまでにしっかりと血を吸い、満足の溜息をついた。<br>

 白い白い薔薇の花びらが一枚、どこかからどこかへ落ちていく。<br>

 耳の中で、ホワイトノイズが囁きだし、世界が色を失っていく。<br>

<br>
     *     *<br>
<br>
「……まだ染まりきらないのね。雪華綺晶」<br>
「そうね……まだ足りないのね」<br>
「ごめんなさい……こんな少しづつで」<br>
「ごめんなさい……こんなにたくさん貰ったのに」<br>
「でも、いつか」<br>
「きっと、いつか」<br>
「待ちましょう」<br>
「貴女となら。薔薇水晶」<br>
<br>
 猫がミルクを舐めるような、てちてちとした音が暗がりに響く。<br>

<br>
- 了 -<br>
<br>

復元してよろしいですか?