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蒼星石短編19」を以下のとおり復元します。
<p>人は、様々な理由で旅に出る。<br>
見分を広める為、思い出を作る為、そして思い出を葬る為。<br>

旅は心を豊かにし、時に心の贅肉を削ぎ落とし、そして時には心の傷を塞ぐ───<br>

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-Sentimentaljourney~傷心旅行~-<br>
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冷たい風が、独り佇む僕の体温を奪ってゆく。<br>
遠くからどこか物悲しい汽笛が響いた。<br>
コンクリートの岸壁からは、海水が揺れ跳ねる音。<br>
ふと空を見上げると、鈍色のそれは今にも泣き出しそうで、いつもならば優雅に舞っているはずの鴎の姿は一つも無い。<br>

一つついた僕の溜息は、白い霞となって、消えた。<br>
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「僕はもう、君とは居られない」<br>
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彼に言われたその言葉が、未だ心に刺さっている。<br>
何故と問い詰める僕に、彼はノイズ交じりの声で答えた。<br>

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「君の気持ちが重すぎる。僕じゃあ支える事はできないよ」<br>

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いつも僕は不安だった。<br>
彼が僕を好きで居てくれているのか、本当に僕でいいのか。<br>

それは裏を返せば彼を信じる事が出来ていないという事。<br>

気付いてみたら、簡単だった。<br>
自分を信じて貰えない相手を信じる事なんてできはしない。<br>

きっと、彼は言外でそう言いたかったのだろう。<br>
彼は優しいから、致死に至るだけの刃を僕に突き立ててはくれなかった。<br>

命を奪うこと無く、じわじわと痛みだけを与える「優しい刃」。<br>

今は、その優しさが、とても辛い。<br>
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幸い、大学は長期休暇中だった。<br>
僕はそれから数日後の夜荷物をまとめ、僅かな貯金を持って旅に出た。<br>

どこでもいい、誰も知ってる人が居ない場所へ。<br>
終点までの切符を買って、目的地も決めず、二十三時十八分発の夜行電車に僕は乗っていた。<br>

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寂れた、潮の香りだけが漂う活気の薄い港町。<br>
翌日、気の向くままに電車を降りた僕がホームからこの町を見て思った事は、「寂しくて哀しい」だった。<br>

まるで時代の流れから取り残されたような雰囲気は、今の僕の心境にはぴったりで、だから僕は駅の改札を出る事にした。<br>

駅前の商店街はもうすぐ昼だと言うのにシャッターの降りている店が多く、開店している店もやはり活気が無い。<br>

今日が平日だという事を差し引いても、あまりに寂しい。<br>

うらぶれた町。うらぶれた僕の心。<br>
どこまでも、ぴったりだった。<br>
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足の向くまま歩き続け、ふと気がつくと僕は港へと辿り着いていた。<br>

ここが漁港なのかそれともマリーナなのかは解らないけれど、どちらにしろそれほど大きな規模の船が停泊する事は稀だろう。<br>

ちらほらと人影はあるものの、やはり活気は無い。<br>
冷たい潮風が僕の体温を容赦なく奪う。それでも僕は海の向こうをただひたすらに見つづけていた。<br>

このまま心を凍らせてくれればいいのに。<br>
そんな事を考えていた。<br>
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どれだけの時間そうしていたのかは解らない。突然、肩をぽんと叩かれた。<br>

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「お姉ちゃん、身体に障るよ」<br>
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振り向くと、人の良さそうなおじさんが笑っている。<br>
僕は視線を海へと戻して、「いいんです。それでも」と素っ気無く答えた。<br>

溜息が一つ聞こえ、気配が遠ざかる。<br>
人の優しさが、今は煩わしかった。<br>
けれど、世の中自分の思う通りにはいかないようだ。<br>
頬に熱いものがあてられてびっくりした僕の耳には、さっきのおじさんの笑い声が響いていた。<br>

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「おじさん……僕には構わないでください。ごめんなさい」<br>

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目を伏せて短く答える僕におじさんは、「ま、そう言わずに。とりあえずコレ飲め」と缶コーヒーを差し出した。<br>

これ以上断るのは失礼だろう。仮にも僕を心配してくれた人に不義理を働くわけにはいかない。<br>

一人で居たいという僕と、おじさんへの義理を囁く僕。<br>
こういう時、自分の我侭を通せない僕の性格は損だと思う。<br>

受け取った缶コーヒーの、少し乱暴な温もりが心地良い。<br>

冷え切った指先を溶かしてゆくと、急に寒さを感じるようになった。<br>

ふるりと身震いをしながらプルタブを開け、暖かなコーヒーを口に運んでほうと溜息をつく僕を、おじさんはやっぱり笑って見ていた。<br>

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「この街を見て、寂しい街だと思っただろう?」<br>
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少しだけ酒に焼けた、ざらついた声。<br>
僕は素直にこくりと頷いて、おじさんを見た。<br>
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「その見立ては間違っちゃいないよ。若い衆は皆都会へ行っちまった」<br>

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おじさんは、沈み行く太陽を見つめていた。<br>
どこか寂しげなその表情に、なぜか僕は心が締め付けられる。<br>

後何年この街が生きていられるのだろうか、そんな漠然とした不安が伺えたからだ。<br>

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「ま、何があったか知らないけどよ。この街は小さくても魚と酒だけは旨え」<br>

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再び笑みを浮かべたおじさんは、僕の方を見た。<br>
大きな手で、僕の手を包む。暖かくて、節くれだった大きな手。<br>

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「旨いもん喰って旨い酒飲めばよ、すっきり来ないもんもすっきり来るさ」<br>

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そう言っておじさんは僕の答えを待たずに手を引いてゆく。<br>

いつもの僕なら振り払って逃げるのだけど、その時はなぜか逃げる気にはならなかった。<br>

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案内されたそこはおじさんの家で、扉を開けた奥さんが僕の姿を目にした途端「あんた、若い子誑かして来たのかい」なんてジトっとした目でおじさんに言った。<br>

おじさんはおじさんで「港で拾っただけだよ。訳ありっぽいからなんか旨いもんでも食わしてやれや」って平然と答える。<br>

長年連れ添った夫婦って感じで、僕は自然と笑ってしまった。<br>

割れ鍋に綴じ蓋、というと少し悪い表現だろうか。おじさんにとてもよく似合う、少し恰幅が良くて豪快そうな奥さんだ。<br>

まったく、と少し困ったような溜息をついた奥さんは、それでも「まあいいさ。若いお客さんは歓迎だ、上がっておいで」と僕を招き入れる。<br>

その言葉に甘え厚かましくもお邪魔して、その日揚がったばかりだという魚のお刺身と熱燗を頂いた。<br>

じわりと染み渡るお酒が、港で凍らせようとした僕の心を溶かしてゆく。<br>

明るく笑うおじさんと、それを適当にといった素振りで流す奥さん。<br>

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──僕達も、ああなれると思っていた。<br>
──でも、僕達の絆は切れてしまった。<br>
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溶かした心が悲鳴をあげて、涙が溢れ止まらない。<br>
手にしたお猪口に一滴二滴と僕の涙が落ちてゆく。<br>
隣に座って優しく抱きしめてくれた奥さんの胸の中で、僕は別れを告げられてから、初めて泣いた。<br>

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翌朝目が醒めると、僕は布団に寝かされている事に気がついた。<br>

散々泣いて泣き疲れ、眠ってしまったらしい。<br>
引き戸を開けて奥さんと挨拶を交し、昨日はお世話になりましたと告げる。<br>

気にする事じゃないよと笑って奥さんが言い、朝食出来てるから顔を洗っておいでとタオルを渡してくれた。<br>

その言葉に従い、洗顔を終える。<br>
戻ってくると、そう大きくはないちゃぶ台に、ほかほかの御飯と味噌汁、焼き魚が乗っていた。<br>

雑談を交しながら朝食を頂いていると、奥さんは唐突に「僕の事情」に触れる。<br>

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「お嬢ちゃん、フラれたか何かしたんだろう」<br>
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僕はただ頷いて答えると、奥さんは僕の頭をわしわしと撫でた。<br>

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「まったく、こんな可愛い子を振るなんてねえ。見る目の無い男だ」<br>

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視線を上げると、奥さんはにかっと笑って「ねえお嬢ちゃん」と問い掛ける。<br>

「何ですか?」と僕が答えると、僕の目の前に指をつきつけて、<br>

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「あんたはまだ若い。そのフッた男を後悔させるくらいいい女になってやんな」<br>

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そう言った。<br>
その言葉で僕の中の何かがストンと落ちた気がして、沈んだ心が急に晴れてゆく。<br>

なんだか、とても不思議な気分だった。<br>
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一泊二日の傷心旅行は、人の暖かさに触れたことで僕の傷を癒してくれた。<br>

次にこの街へ来る時は、新しい恋人を連れてこよう。<br>
おじさんと奥さんに紹介して、そして沢山お礼を言おう。<br>

電車の窓から見える空は、昨日とはうって変わって雲一つない快晴だ。<br>

その空に象徴されるように、僕の心に突き立った刃は跡形もなく消滅していた。</p>

復元してよろしいですか?