<p> 少女時代。私は決して裕福ではない、アパート暮らしの慎ましい生活を過ごしていた。<br> 父は仕事柄家を空ける事が多く、月に数回しか会うことはなかった。<br> 『お父様はお仕事がとても忙しいの。だから、水銀燈がいい子にしてないと帰ってこないかもしれないわよ?』<br> ―お母様は寂しくないの?。<br> 『そりゃ寂しいわよ。でもね。いくら離れていても、ずーっと遠くにいても、お父様は私達を愛してくれているの』<br> そして決まって柔らかい笑みを浮かべて頭を撫でてくれる。<br> 独特の髪と目のせいでいじめられる事は多かったが、その度に抱き締め、慰めてくれた。<br> 私は、そんな優しい母が大好きだった。<br> 高校に入学して、夏服に袖を通す頃、母が倒れた。心労が原因だった。<br> 父は、病院に現われなかった。<br> <br> 病状は日に日に悪化していく。髪は抜け落ち、目は窪み、手は水風船のようにパンパンに腫れ、呪文のようにお父様の名前を繰り返していた。<br> …見る影もない。母を見るのが苦痛の日々が続いた。</p> <br> <p> 学校と病院と家との往復生活に慣れた頃、父が数か月ぶりに帰ってきた。<br> ―今まで何をしていたの?お母様のことが心配じゃなかったの?なんでもっと早く帰って来れなかったの?<br> 息が切れるくらい質問を浴びせ続けた。<br> 『いいんだ』<br> <br> 『もうジャンクになってしまったから』<br> <br> ―何を…言ってるの?<br> 『もう壊れたジャンクだから、必要ないんだ』<br> 心臓が肋骨を突き破りそうになった。<br> ―ふざけないでぇっ!<br> 『私は大真面目だよ。水銀燈。そうだ、ジャンクになったお母様の代わりに、私の新しい妻を紹介しよう。君の、新しいお母様だ』<br> 新しい…なんですって?<br> <br> 『おいで、薔薇水晶』<br> <br> 家を空けている間、こんな少女と逢瀬を重ねていたの?<br> お母様は、今も病院でお父様の名前を呼び続けているのに。信じているのに。まるで…壊れた人形のように。<br> 『どうした?ご挨拶なさい。水銀燈』<br> ―あなたが!あなたがお母様を…!壊したのよ!あなたがジャンクだわ!!<br> 『何を言っているんだ?全てあいつ自身の責任だろう?』<br> <br> 何かが、はじけた。<br> 私は、近くにあった包丁を握り、父に向かって――<br> <br> <br> 気がつくと私は腹部を押さえて倒れていた。紅い血だまりの中で。父の姿はなかった。<br> つづく<br></p>