寄り添いながら、パーティー会場を出て、エレベーターに向かう。 覚束ない足取りの彼女を支えているため、どうしても身体が密着しがちになる。 鼻先を、コロンの甘い薫りにくすぐられて、僕はクシャミをひとつ放った。 「普段から、あんまり飲まない方なのかい?」 「……んふぅ。実は、そうなんでぇ~すぅ」 「だったら、やっぱり、やめておこうか」 「うぅん。構いませんよぉ。今夜は、めいっぱい飲みた~い気分ですからぁ」 とても愉しいから、メチャクチャに酔ってしまいたいの。 じっくり噛みしめるように呟いて、彼女は白い腕を、僕の腰に絡みつかせた。 「連れていって。ね? もう少し、楽しくお喋りしましょぉ」 「――しょうがない娘だな。ま、誘ったのは僕だし、トコトン付き合うよ」 からっぽのエレベーターに乗り込んで、上へのボタンを押す。 僕らの目当ては、ホテルの最上階にあるスカイバー。 心地よいBGMに包まれながら、煌めく夜景を眼下に、グラスを傾ける―― たまには、そんな洒落た雰囲気を嗜むのもいい。感性が豊かになるから。 ふわり……と、小舟が波に持ち上げられるような、独特の浮遊感。 途端、膝が力を失ったらしく、ハイヒールを履いていた彼女は、小さな悲鳴を上げて仰け反った。 「おっと。危ない」 「――あ! ふわぁ……」 咄嗟に伸ばした僕の腕は、彼女の細いウエストを、しっかり抱き寄せていた。 密着する、ふたつの身体。期せずして間近に迫った、二人の顔。 見つめ合った瞳の虹彩さえも、違わず数えられそうな距離だ。 「大丈夫か?」 訊くと、彼女は眼をパチクリさせながら、小さく頷いた。 なにか言いたげに唇は動くけれど、巧く声が出せないらしい。 その様子が、なんとも初々しくて、僕は優しく微笑みながら腕の力を抜いた。 「すぐに着くから。ほら、ちゃんと立って」 「……はぁい」 返事は、なぜか不承不承な響き。 もしや、なにか期待するところがあって、わざと蹌踉めいて見せたのか。 いやいや――ただの気のせい……だよな? 考えている間に、浮遊感は穏やかに収束して、澄んだベルの音が終息を告げる。 静かに滑るドアの隙間から、ピアノの音色が忍び込んできて、二人を出迎えた。 それは、いつかどこかで、耳にした憶えのあるメロディー。 「あ……私、この曲、知ってます」 「確かに、聞いたことあるな。なんていう曲だっけ?」 「亜麻色の髪の乙女。ドビュッシーです」 「そっか……クラシックなんて、あんまり聴かないからなぁ」 「たまには、贅沢に時間を使ってみるのも、いいものですよ」 「うーん。興味はあるけど、それをするには、今の僕は余裕が無さすぎだな」 まだ、夢の途中。二人三脚で向かう先は眩しく霞んで、終着点など見えやしない。 だから、足を止めたくなかった。幸せな時間が、どれだけ残されているか分からないから。 「行こうか、鳶色の髪の乙女さん」 肘を差し出すと、彼女は遠慮がちに指を掛けて、照れ笑った。 4. 窓辺に設えられた『止まり木』と呼ばれるシートに腰を落ち着けて、注文を済ませる。 ほどなく運ばれてきたカクテルグラスを、僕らは目元に掲げた。 降り注ぐブルーライトの下、薫香を放つ液体が揺れて、蠱惑的な煌めきを振り撒いた。 「ステキな眺め……とっても綺麗です。それに…………美味しい」 はふ、と艶っぽく吐息して、酔いどれ乙女は、右隣に座る僕に目を流してきた。 「いつも、こんな風に、モデルの女の子たちを誑し込めてるんですか?」 ぐぽっ!? 飲みかけのリキュールに喉の奥を直撃されて、噎せ返る。 彼女は、ころころと笑いながら、咳き込んだ僕にハンカチを差し出した。 「こぉんな冗談で慌てるなんて、なぁんかアヤシイ~」 「か、勘弁してくれよ。してないって、そんなこと」 「ホントですかぁ~?」 「当ったり前だろ。こう見えても、妻子持ちだぞ」 ハンカチで口元を拭うたび、僕の薬指のリングが、潔癖を証すように鋭利な輝きを放つ。 彼女は「知ってますよぉ」と。とろんとした眼差しを、指輪に注いでいた。 「貴方の記事が掲載されてる雑誌は、すべて買い揃えてますから」 「そりゃまた、随分と熱心に応援してくれてるんだね。僕が、元同級生だから?」 「まぁ……ねぇ。でも――」 「ん? なに」 「い、いえ。なんでも」 「……ふぅん?」 なんとなく、微妙な空気。僕らは仕切り直しとばかりに、宝石のような液体を、口に含んだ。 甘い口当たり。それは、喉に仄かな火照りと、鼻孔に芳香を残していく。 気持ちよく耳をくすぐるピアノの旋律も、タイミング良く変わった。 バダジェフスカの『乙女の祈り』だと、彼女が教えてくれた。 それなりに良いムードのところに、適度な酔いの勢いも手伝えば、 元同級生という間柄、理性の防御壁も低くなるもので―― 僕らは、どちらからともなく肩を寄せ、眠ることを知らない街の夜景を眺めていた。 煌めくネオン、行き来する車のヘッドライトとテールランプが、光の川を描いている。 それは儚げに瞬きながら、凸凹の黒い地平から訪れ、また彼方へと消えていった。 「ホントに綺麗……。私、バカだから、陳腐な表現しかできませんけど――」 ――夢みたいです。 はにかんだ彼女の、朱に染まる肩へと、僕はさも当然のように腕を回した。 「夜は、夢を見る時間だからね。きみが望むだけ、素敵な夢に浸らせてあげるよ」 「……貴方って、昔っからこんなにキザでしたっけ?」 「男は誰でも、かっこつけたがりだよ。可愛い娘の前では、特にね」 「だから、今夜は特別キザなの?」 「うん、そう。きみだから――なのかな」 「そかそか。さしずめ、私だけの催眠術師さん、ってとこかぁ」 彼女は僕の肩に頭を預けて、くすくすと笑った。 それは、心から楽しんでいる者だけが作りだせる表情。 一夜だけの催眠術師……か。そういうのも、案外、悪くない。 「こんなに素敵な夢なら、いつまでも見てたいなぁ。ずぅっと……」 「それだと、ありがたみが薄れちゃうよ。たまにしか見れないから、貴重なんだ」 「ふむぅ~。まあ……そうですよねぇ。だったら――」 また、誘って頂けますか? 呂律の回りきらない囁きに、僕は「もちろん」と即答。 「――嬉しい」 グラスの縁を、人差し指でなぞりながら呟かれた彼女の声は、喜色そのもの。 僕の左肩にかかる彼女の頭の重みが、とても、愛おしく感じられた。 もっとも、その淡い想いは『旧友との親睦』の域を出ないものだったけれど。 「あ――」やおら、彼女が思いだしたように頭を上げる。 「そう言えば、私の名前……そろそろ思い出してくれましたか? いつか誘ってくださるなら、そのくらいは憶えていてもらわないと」 彼女の、期待に満ちた眼差しに晒されて、僕は思わず顔を引いてしまった。 さっきも、いくら考えたところで思い出せなかったと言うのに、 だいぶ酔いが回った今となっては、悩み悩んだ挙げ句に寝落ちしかねない。 「あのさ……名刺、もらえるかい」 「持ってるワケないでしょぉ、そんなもの。ただのフリーターですしぃ」 「――そっか。なあ、意地悪しないで、きみの名前を教えてくれよ」 「やぁ~よ。頑張って当ててみて。ほら! よぉーく、思い出してくださいっ」 「そうは言うけどな。あの頃、僕は留年回避の特別措置に合格するため、 三学期だけで、一年分の学習内容を詰め込んでたんだぞ。寝る間も惜しんでさ。 とてもじゃないけど、勉強以外のことなんて、憶えてる余裕なかったよ」 「えぇ~。ホントに……まったくもって記憶にございませなんですかぁ?」 「なんなんだ、その妙ちきりんな喋り方は」 僕は眉を八の字にしながら、鼻の頭を掻いた。 「まあ――全然ってことは、ないと思う……んだけど。 せめてヒントをくれよ。そうすれば、思い出せるかも知れない」 きみだって、あの頃とは変わってしまったから、分からなくて当然だと言ったじゃないか。 僕が、そう続けたら、彼女は「そうでしたね。ええ……確かに」と、口元を綻ばせた。 「じゃあ――」 彼女は、カクテルグラスが敷いていた、ホテルのロゴ入りコースターを抜き取って、 焦らすように、ゆっくりと……自分の左眼に重ねた。 「これが、ヒントです」 左眼を隠した少女―― その瞬間、時間が目まぐるしく巻き戻されて、17歳の三学期に放り出されていた。 しんと静まり返った、授業中の教室。僕の席は、一番うしろ。 教師が背を向けた隙を衝いて、隣の席から、白く細い腕がニュッと伸びてきた。 そこにあったのは、手の平サイズの、綺麗にラッピングされた小箱―― 「あげる」と。唇だけ動かして、その女の子は微かに笑った。 2月14日……初めて、家族以外の女性からもらったチョコレート。 あの頃は、どうして授業中に渡してくるのかと訝しんだ。 今にして思うと、他の生徒たちに見られて、からかわれたくなかったからだろう。 「きみは……まさか、薔薇水晶なのか? 隣の席だった、あの?」 彼女――薔薇水晶が、パッと表情を輝かせた。 「あはっ。やっと、思い出してくれた」 「いや、だってさ……髪とか、瞳の色が違うし……話し方だって、もっと――」 「カラーコンタクトよ。髪は、染めてるんです。 職場によっては、うるさかったりするから。地毛の色だと、敬遠されちゃって」 「……そうだったのか。参ったなあ。本当に、まったくの別人だよ」 「だから言ったでしょう? カムフラージュです……って」 論より証拠とばかりに、薔薇水晶は、右眼のコンタクトを外して見せる。 そして、あの高二の三学期と同じ琥珀色の瞳を、ひた……と、僕に注いだ。 「私はね、あの頃も、今も……いつだって、カムフラージュしているんです」 「それは、どうして?」 「本当の私は、とても臆病で、弱いから。泣き虫で、内気で、人見知りで―― ありのままの自分をさらけ出したりなんて、とてもじゃないけど…… こうして酔っ払ったりでもしなければ、無理です」 「だから、高校生のときも、ずっと眼帯を着けていたのかい?」 こくり。頷いて、カラーコンタクトを瞳に戻し、薔薇水晶は続けた。 「口数が少なくて、引っ込み思案な子は、なにかとイジメ易いんでしょうね。 小学校、中学校と、私はイジメられっ子でした。泣かない日なんて、なかった。 そんな私に、お父さまがあの眼帯をくれたんです。高校進学を機に」 「イメージチェンジか。その効果は覿面だったわけだ」 「ええ。あれを着けている間、私は別人みたいに、強く振る舞えました。 いつも、お父さまが傍に着いててくれるようで、勇気が涌いてきたんです」 高校時代の薔薇水晶は、近寄りがたい雰囲気を、常に纏わりつかせていた。 並外れた美貌と、眼帯の取り合わせが、衆目には異質で威圧的に映ったからだろう。 僕も当初は、訥々とした彼女の語り口調を、ぶっきらぼうに感じていた。 席が隣にならなかったら、きっと今も、クールな娘としか見なしてなかったはずだ。 「いいお父さんだな」 「はい。とても……私なんかには勿体ないくらい、素晴らしいお父さまでした」 「おいおい。でした……って、なんだよ。もう居ないみたいじゃないか」 「…………そうです」 「えっ?」 「お父さまは、もう居ません。三年前に……亡くなりました」 あまりの事に、言葉を失った。三年前と言えば、僕が家庭を築いた年だ。 自分が幸せに浸っていたとき、この娘は不幸に見舞われていたなんて……。 「そうだったのか。ごめん。知らなかったとは言え、辛いこと思い出させたね」 「いいんです。以前に比べたら、だいぶ胸の痛みも薄れましたから」 そう言いながらも、薔薇水晶は僕の肩に頭を凭せ、一粒だけ、涙を流した。 健気だな、きみは。僕は彼女の髪を撫でて慰めながら、胸裏で呟いた。 身内の不幸は、そんな簡単に割り切れるものじゃないだろ、と。 「悲しい気持ちまで、カムフラージュすることなんて、ないんじゃないか。 そんなに素直な自分を押し込めてばかりじゃ、本当のきみが可哀想だ」 「……ん。そう、かな?」 髪を滑る僕の手の温もりに、幾ばくの癒しがあったのかは分からない。 けれど、薔薇水晶はいつしか、うっとりと表情を和らげていた。 「じゃあ、今から思いっ切り泣いちゃっても――いい?」 「今すぐに、かい?」 「そ。いますぐ」 「ここで、か?」 つい、周りを見回してしまった。僕にも、世間体というものがある。 この状況で号泣されようものなら、誤解されること間違いなし。 僕に悪意を抱いている者が、この客の中に、いないとも限らない。 僕らの仲を邪推して、ウェブ上に、有ること無いこと書かれるかも。 そうなれば【JaM】ブランドとしても、少なからずイメージダウンになる。 どうしよう。言い訳を探す僕を横目に、薔薇水晶は、くくっ……と喉を鳴らした。 「ウソ、ですよ。ハラハラしましたか?」 また担がれたらしい。僕は口をへの字にして、小さく頭を振った。 さっき、薔薇水晶に言われたことは、案外、正鵠を得ているようだ。 繊細で多感かどうかは疑わしいけれど、他人に影響されやすいのは、確からしい。 「スリルありすぎだよ。どう逃げようか、真剣に悩んだぞ」 「ひどぉい。そこまで分別のない子供じゃありませんよ、私」 「本当かぁ? 実は、半分くらい本気だったんじゃないか?」 「半分だなんて、とんでもない。九割九分、泣くつもりでした。本気で」 「うわ……もっと質が悪いだろ、それ」 「では、交換条件といきましょうか。叶えてくれたら、泣き喚くのは止めてあげる」 「どういう恫喝だよ。ウソじゃなかったのか?」 「悲しみまでカムフラージュするなと言ったのは、貴方ですよ?」 そこで言質を取られると、二の句が継げない。もはや、破れかぶれ。 酔った勢いもあって、多少の無理難題は大目に見るつもりで、僕は訊ねた。 でも、彼女が提示した条件は、身構える必要もないくらい、簡単なものだった。 「もう少しだけ――ほんの数分で構わないから、私の頭を、ナデナデしてて」 「そんな程度で、いいのか」 「……うん。貴方の掌は、とても温かくて……心地好いから」 お安いご用だよ――と、鳶色に染められた長い髪を、優しく梳いてゆく。 僕の指先がうなじをくすぐると、薔薇水晶は「はふ」と、鼻に掛かった吐息を漏らした。 お父さま……。 薔薇水晶は、恍惚とした面持ちで、掠れた囁きを紡いだ。 もう二度と取り戻せないものへの彼女の渇望が、ありありと表れていた。 そのとき、僕の中で、同情とは違う想いが大きく膨らむのを感じた。 僕は薔薇水晶を慰めながら、彼女の耳元に囁いていた。 【JaM】の専属モデルに、なってくれないか? と。 うっすらと、彼女の瞼が開く。 けれど、それは一秒と経たず、静かに閉ざされた。 「ダメ、です」 「どうして? 一カ所には、束縛されたくない?」 「……ううん。でも……今は、ダメなの」 僕には、薔薇水晶の気持ちが、よく解らなかった。 僕のココロは17歳の少年に戻りっぱなしで、気の利いた台詞のひとつも、口にできない。 ただただ、彼女の求めるがままに、頭を撫で続けるだけだった。 【4】に続く