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月の兎さん - (2006/04/12 (水) 16:52:46) のソース

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ここはあまりにも静かだから、足音が良く聞こえる。<br>
たくさんの足音が近づいて、重なって、離れてく。<br>
それぞれ違った音がして、それはそれで面白いのだけれど、<br>

たまに来るこの音だけは私は好きではない。<br>
あぁ、私を苦しめる発作の足音がする・・・<br>
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・・・・・・<br>
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眩しくて眠れない。<br>
傍らの小さな窓からは、触れれば折れてしまいそうなほど細い月。<br>

あれを私に見立てて、恥ずかしい感傷に浸ったときもあった。<br>

でも、あれは私ではない。私とは違う。<br>
私の命は欠けてゆくだけ。決して満ちはしないのだ。<br>
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「いつまで生きていられるかな・・・」<br>
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幾度と無く自分に投げた問いかけ。<br>
問う度に答えは短くなっているのだろう。<br>
この白い消毒された監獄で、私はただ歩み寄る黒い足音を聞いているだけ。<br>

これは生きていても死んでいるのと変わらない気がする。<br>

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ベランダの縁に立つと、肌寒い風が体中を撫でる。<br>
それだけで私の体は悲鳴を上げているけれど<br>
私の頭は聞こえないふり。<br>
体を労ってじっとしているのにはもう飽きた。<br>
あぁ、もう一度、友達と元気に走り回ってみたかったな。<br>

死の走馬灯の中でなら、そんな夢も許されるだろう。<br>
針のような月を見上げる。<br>
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「あなたは綺麗ね。妬ましいぐらい。」<br>
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そういって右足を虚空に一歩、踏み出す。<br>
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『貴女の言うほど綺麗なものではございませんよ』<br>
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びっくりして振り返れば、そこには<br>
背の高い、兎がいた・・・<br>
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・・・・・・<br>
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「あなたは・・・誰?」<br>
『見ての通り、兎でございます』<br>
「なんで・・・ここにいるの?」<br>
『貴女が私に話しかけてくださったので』<br>
「私が、あなたに?」<br>
『ええ、綺麗だとおっしゃってくれたでしょう?』<br>
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私の質問に飄々と答える兎。<br>
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『そこにいてはお寒いでしょう。中にどうぞ』<br>
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私の部屋なんだけどな<br>
そう思いながら部屋に戻ってベッドに腰掛ける。<br>
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「あなたも、座ったら?」<br>
『いえ、私は結構。すぐにおいとま致しますので』<br>
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図々しいのか謙虚なのか良くわからない。<br>
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「あなたは、月の兎なの?」<br>
『そういうことになります』<br>
「じゃあやっぱり、月でお餅をついたりする?」<br>
『ふむ・・・そういうことはあまりしませんね』<br>
「ふふ、そうだよね、あなた格好いいもんね」<br>
『光栄です』<br>
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・・・・・・<br>
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こんなに人と喋ったのはどれくらいぶりだろう。あ、兎か。<br>

でもすごく、楽しかった。<br>
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私にも友達はたくさんいた。<br>
私が病気になって入院してもたくさんの人が会いに来てくれた。<br>

でも、なかなか治らない私を、少しづつ周りは見放していった。<br>

壊れたおもちゃはいらない・・・そんな感じなのだろう。<br>

かろうじて私を見捨てなかった友達も、私は拒絶していった。<br>

欠けてゆく体を持った私には、満ちてゆく彼らと相対するのはつらすぎるのだ。<br>

それでもまだ会いに来る人はいるが、それもそのうちに姿を消すだろう。<br>

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でも彼は、この兎はどうだろう。<br>
どこか私と同じ雰囲気を感じる。<br>
ほんの一瞬のまばたきの隙を縫って消えてしまいそうな、<br>

細い細い飴細工のような、弱く、美しい輝き。<br>
それは、もう消えてしまいそうな三日月からやってきたからだろうか。<br>

影となった私に、そんな彼の光は心地よかった。<br>
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・・・・・・<br>
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「そういえば、あなたは何をしにここへ来たの?」<br>
『そうですね・・・呼ばれたからと言うのもありますが・・・』<br>

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少し考えるようなそぶりを見せて彼は言う。<br>
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『貴女にお別れのご挨拶をしに来たのです』<br>
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月は、細く、弱く、泣いているように見えた。<br>
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「お別れ・・・?」<br>
『ええ、お別れです』<br>
「あ・・・そうだよね、私はもう死んじゃうんだもんね」<br>

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心のどこかがチクリ、痛んだ。<br>
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『いえ、お別れをしないといけないのは、私です』<br>
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彼は少し困ったような、寂しそうな顔をして、<br>
それでも声は何ともないように言う。<br>
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「・・・どうして?」<br>
『明日は新月。今日で月は終わってしまいます』<br>
「でも、月はまた満ちるわ、あなたは死なない・・・」<br>
『ええ、月が出ればまた私は兎として生きることが出来るでしょう。<br>

 しかしそれはもはや、私であり、私ではないのです』<br>
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月はナイフのように鋭く、優しく、私の心に傷を付けていく。<br>

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「・・・どういう事?」<br>
『水車のようなものです。<br>
 月の出ている間は水を溜め込み、新月になればそれを月に贈るのです。<br>

 それを延々と繰り返す、私はそういう役目をもった兎なのです。』<br>

「じゃあ・・・次に月が出るときは・・・」<br>
『私はまた何も知らない空の器になっているでしょう』<br>
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彼のその告白は、友達を失った事実より、医者が下した死の宣告のような言葉より<br>

深く、深く私の心を突き刺し、たくさんの血を流した。<br>
零れた血は塩辛い涙になり、私の顔を汚していく。<br>
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「なんで・・・?<br>
 あなたが来なければ・・・あなたの事なんて知らないままでいられたのに・・・<br>

 お別れだってしなくてすんだのに・・・」<br>
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それは止めどなく流れはするものの<br>
私の心のなにものをも洗い流してはくれない。<br>
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「どうして・・・わざわざそんな事を言うの・・・!<br>
 なんで来るのよぉ!」<br>
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私の言葉は細い、細い月を殴りつけた。<br>
壊れるなら壊れてしまえと思った。<br>
しかし彼は、微笑みながら<br>
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『・・・貴女は月をずっと見ていてくれたから・・・<br>
 器の私に、ずっと水を注ぎ続けてくれたからです』<br>
「違う!私はあなたに、私の不幸を乗せて、自分への慰めにしただけ!」<br>

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ああ、だから彼は私と同じだったのだ。<br>
私が彼に注いだのは黒く、粘ついた不幸の泥。<br>
1滴でも心を汚すそれを、彼はずっと受け止め続けていたのだ。<br>

今の彼はどす黒い器だ。きっと私以上につらいはず。<br>
それでも彼は微笑っている。<br>
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『私は、嬉しかったのです<br>
 私に思いを乗せてくれたこと、この寂しい器を満たしてくれたことが<br>

 だから、お会いしてそれを伝えたかったのです』<br>
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彼がいなければ、深い、深い孤独の海で死が私を喰い殺すまで<br>

ただ大人しく待っていなければならない。<br>
光の心地よさを知ってしまった私には、もう耐えられない影だった。<br>

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「何でよ・・・そう思うなら、ここにいて・・・<br>
 こんな暗い場所に、私を置いて行かないでよぉ・・・」<br>

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力のない、懇願。<br>
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彼はそんな私をずっと見ていた。<br>
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『・・・約束を交わしましょう』<br>
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不意に彼が言う<br>
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「・・・約束・・・?」<br>
『はい、それは終わり無き絆であるがゆえに、いつまでも消えることはありません<br>

 例え私が空白になったとしても、この約束は旗となり、貴女への目印となりましょう』<br>

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そういって彼は跪いて私の手を取り、その甲に軽くキスをした。<br>

それは少しくすぐったくて、恥ずかしくて、暖かい。<br>
私の心がすぅっと、透き通っていくように感じた。<br>
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『貴女が自らの足で地を踏んだ時、月に向かって私をお呼び下さい<br>

 どこにいようとも、私はこの旗の下に参上致しましょう』<br>

「やっぱりあなたは・・・かっこいいね」<br>
『・・・光栄です』<br>
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・・・・・・<br>
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朝日が昇る。<br>
その全てを新しくする眩しい光は、私たちの邂逅の終わりを告げるサインでもあった。<br>

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『それでは私はこれにて失礼致します』<br>
「そうだね・・・」<br>
『また会える日を、お待ちしております』<br>
「うん、またね」<br>
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そう言って、月の兎は静かに体を光に流していった。<br>
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残ったのは、目がくらむような白い部屋と、無駄に大きなベッド。<br>

そして、泥を取り除かれた綺麗な心ひとつ<br>
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・・・・・・<br>
・・・・<br>
・・<br>
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「本当にいくの?」<br>
「ええ・・・行くわ、アメリカ」<br>
「めぐぅ・・・」<br>
「大丈夫よ水銀燈、絶対に帰ってくるわ」<br>
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私は渡米して治療をすることを決めた。<br>
治る確率は5%以下と言う無謀な賭け。<br>
しかし私に不安や恐れは無い。<br>
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「約束したの。治ったらまた会おうって」<br>
「あら、めぐにもついに彼氏ぃ?」<br>
「違うわよ、月の兎さんよ」<br>
「天使の次は月の兎?めぐぅ、本当に大丈夫?」<br>
「あら、ほんとなんだから」<br>
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約束は終わりのない絆である。<br>
しかしそれを果たすまでの道のりは、細い、長い迷路のような道。<br>

戸惑い、迷うときもあるだろう。<br>
それでも、私たちの心に立てた1本の旗が、私たちをまた、巡り合わせるのだ。<br>

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「そういえば・・・名前、聞き忘れたな・・・<br>
 次はちゃんと聞かなきゃね」</p>
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