五稜郭(函館市)

五稜郭
(ごりょうかく)
所在地函館市五稜郭町
別称亀田御役所外構土塁、亀田塁、柳野城
築城年元治元年(1864)
築城者江戸幕府(武田斐三郎)
城主変遷江戸幕府[箱館奉行](1864-1868)-明治政府[箱館府](1868)-蝦夷島政府(1868-69)
廃城年存城と同様
現状五稜郭公園

概要

五稜郭は北海道函館市に所在した城館跡であり、国内では数少ない稜堡式の洋式城郭であった。星型の特徴的な縄張と、戊辰戦争の最後の舞台として有名である。国特別史跡。日本100名城の一。

歴史

安政元年(1854)に結ばれた日米和親条約に基づき、江戸幕府は永く続いた鎖国を解き、箱館及び下田を開港が決定された。そこで北辺防備の要であった函館奉行所は、大砲を主眼とする近代戦に備えるべく西洋の稜堡式城郭築城を幕府に上申する。幕府は稜堡式築城の手始めとして安政三年(1856)弁天台場を構築、次いで翌四年洋学者武田斐三郎成章(アヤサブロウナリアキ)の設計のもと、五稜郭の築城が開始された。そして元治元年(1864)日本で初めての洋式城郭が完成、城内に箱館奉行所が置かれ、初代城番は箱館奉行小出秀実が任ぜられた。

慶応三年(1867)15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が瓦解すると、翌年五稜郭は明治新政府の箱館裁判所(のち箱館府)が置かれ、清水谷公考(キンナル)が総督(のち府知事)として接収することとなった。

しかし、未だ強力な海軍力を有していた旧幕府海軍副総裁榎本和泉守武揚は、艦隊の新政府への引渡しを不服として品川沖を脱走、旧幕臣の保護を目的とした北辺防備、蝦夷地開拓を標榜し、清水谷知事を青森に逐って箱館を占領した。その後榎本らは入札により政府を組織、12月北海道(蝦夷島)政府樹立を宣言し、諸外国もデ・ファクト(事実上)の政府としてこれを認めた。その際箱館奉行には永井尚志が選出されている。

当然明治新政府はこれを認めず、翌明治二年(1869)四月に攻勢に転じる。司令官山田顕義以下1,500の兵は江差に上陸を果たし(この戦いで榎本艦隊旗艦開陽は座礁、沈没)、苦戦を重ねながらも進軍、青森の本営から黒田清隆以下3,000の応援を得、五月十二日箱館総攻撃を敢行した。政権樹立当時は東洋一を誇っていた榎本艦隊も、この頃にはほとんどの艦船を失っており、独立に不可欠であった制海権も失っていたため、五稜郭は新政府旗艦甲鉄の艦砲に晒され、遂に十八日降伏、翌日開城となった。

現状・感想

稜堡式である五稜郭は確かに洋式城郭でしたが、西洋においては17世紀には大成されており、既に時代遅れだったといいます。また大手にあたる半月堡(和式城郭の馬出に相当)も、当初は砲座と砲座の間の凹部全てに築かれる予定が、予算不足で築かれなかったなど未完成なものでした。その上、建造物は当初全て平屋造りで城外から遮蔽されていたが、箱館戦争の際には奉行所主殿に望楼を載せたため却って狙い打たれてしまったといいます。

郭内外にあった建造物はこの箱館戦争で焼失し、残ったものも明治中期までには解体されてしまい、現存するものは残っていません。現在は箱館奉行所が復元されており、一般に公開されています。

関連項目

最終更新:2012年10月12日 12:03
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