亘理城(亘理町)

亘理城(亘理要害)
(わたりじょう(-ようがい))
所在地亘理町旧舘
別称臥牛城、御館
築城年天正年間(1573-92)
築城者亘理元宗
城主変遷伊達氏[亘理氏、片倉氏、伊達氏]
廃城年元和元年(1615)
現状亘理神社、亘理高校、市街地

概要

亘理城は宮城県亘理郡亘理町に所在した城館跡であり、江戸時代以降は要害と称して実質的に城郭として存続し、仙台藩伊達氏一門亘理伊達氏が拝領していた。

歴史

天正年間(1573-92)亘理兵庫頭元宗によって築城された。

文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた千葉介常胤は、戦後源頼朝より陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。常胤よりその中の亘理、伊具、宇多三郡を与えられたのは、下総国千葉郡武石郷の在地領主となっていた三男左衛門尉胤盛であった。初め武石氏は代官を遣わして当地を治めていたが、乾元元年(1302)4代肥前守宗胤が亘理へ下向して小堤城を居城とした。その後延元四年(暦応二・1339)、7代因幡守広胤が足利尊氏より亘理、伊具、宇多三郡の所領を安堵され、以降亘理氏を称して当地方を支配した。

弘和元年(1381)、亘理氏8代行胤は刈田郡での合戦で伊達弾正大弼宗遠に敗れ、伊達氏の麾下に属することとなったが、ほどなく離反して再び抗争を繰り広げている。当時刈田、伊具、亘理、宇多郡周辺は周辺諸豪族の激戦地であり、亘理氏も伊達氏のみならず同族である相馬、国分氏らと離合集散を繰り返していたのである。13代兵庫允茂元の代には名取、柴田郡までを服属させたとされ、かなりの勢力を有していたと見られる。

しかし15代右近将監宗元の代には再び伊達左京大夫稙宗の麾下に復しており、嫡男兵庫頭宗隆は伊達氏の部将として天文五年(1536)の大崎合戦に出陣している。さらに嫡男の無かった宗隆が、稙宗の側室に入った娘の子、彦四郎綱宗を嗣子に迎えたことで、独立した領主ではあったがほぼ完全に伊達氏の勢力下に組み込まれていった。なおその綱宗は、父稙宗と兄晴宗の争いである天文の乱に巻き込まれ、天文十三年(1544)わずか18歳で討死を遂げた、そしてその跡を継いだのが実弟である17代兵庫頭元宗である。元宗は兄晴宗から輝宗、政宗と続く伊達氏の一族として勢力伸張に大きく貢献した。歴代の居城である小堤城からこの亘理城へ移ったのも元宗であり、天正年間(1573-92)のこととされている。

亘理氏の所領は相馬領に接するため、元宗と嫡男美濃守重宗は相馬氏との合戦で活躍、特に重宗は天正十七年(1589)当時相馬領となっていた宇多郡新地城駒ヶ嶺城攻めでは先陣として大功を挙げている。

しかし重宗は、翌天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で伊達氏居城が米沢城より岩出山城へと移った際、旧領を召し上げられて遠田郡百々城、次いで涌谷城へと移封となった。そして江戸時代には伊達姓に復し、涌谷伊達氏として明治維新を迎えている。

亘理氏が遠田郡へ移った後、亘理城には信夫郡大森城より片倉小十郎景綱が入封した。奥州仕置で伊達政宗から召し上げられた刈田、伊達、信夫郡などは、蒲生氏郷、木村吉清らに与えられており、政宗の懐刀として信任の厚い景綱が、伊具郡角田城に封ぜられた伊達成実ととも伊達領南方の押さえとして任ぜられたものであろう。なお慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の結果刈田郡が伊達領に復すと、翌年景綱は白石城へと所替になった。

片倉氏の後を受け、慶長七年(1602)亘理城主となったのは家中随一の猛将として知られる伊達安房守成実であった。成実は伊達晴宗の弟実元を父に、晴宗の子輝宗の妹を母に持つ生粋の伊達一門であり、天正十二年(1584)実元より信夫郡大森城主を継いだ後、同十四年(1586)には安達郡二本松城主、同十八年(1590)奥州仕置により安達郡を失った後は伊具郡角田城主に任ぜられるなど、1歳違いの主君政宗より常に厚い信任を受けていた。文禄四年(1595)政宗との間に確執を生じて高野山へ出奔し、角田の所領を失うも、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う白石合戦の直前に帰参を果たし、その後伊達領南東部の要衝、亘理城を拝領したのである。なお関ヶ原合戦に当たっては、当時の会津若松城主上杉景勝より破格の待遇を以て誘われながらこれを拒絶している。

成実以降、亘理伊達氏は角田城主石川氏に次ぐ一門の次席、そして亘理、宇多郡内に家中最大となる2万4千石の知行を得て、代々亘理城(要害)主を勤めた。しかし明治元年(1868)、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩領の柴田、刈田、伊具、亘理、宇多5郡は召し上げとなり、盛岡藩主であった南部氏に与えられることとなった。仙台藩の禄高は28万石となり、所領を失った亘理伊達氏の禄高は僅か58石まで激減、それでは代々仕えてきた1300余名の家臣とその家族を養うことは当然不可能であった。そこで亘理伊達氏15代邦成は、家老常葉新九郎(田村顕允)の献策を容れて蝦夷地への移住を決意、明治三年(1870)より胆振国有珠郡へと入植を開始した。そして様々な困難を乗り越えて邦成、家臣団の努力は実を結び、今日の北海道伊達市発展の礎となったのである。

城跡は本丸跡である亘理神社境内地を中心とした一帯で、本丸東側に二の丸が置かれ、本丸西側にあった大沼から引かれた水堀が周囲を巡っていた。本丸は比高15mほどの丘陵となっており、東西に細長い平坦面で、やや南に屈曲した西部に居館が置かれていた。本丸と二の丸の間は道路で分断されており、現在二の丸は削平されてスーパーマーケットとなり、駐車場の一角にその一部が残っているに過ぎない。また西側の大沼は完全に埋め立てられており、道路や亘理高校の敷地となっている。本丸南側に内堀の一部が池として残っており、大手門はその南東側に所在した。

現状・感想

郷土のヒーロー伊達成実の居城です♪実際亘理町に住んだことの無いわたしですが(^-^;、一番好きな戦国武将といえばやっぱり成実公ですね~。毛虫の嫌いなわたしでも、兜の前立の由来を知った時は「カッコ良い…」と思ってしまいました。毛虫は決して後ろへ退かないという意味があるそうです(あ、むかでだったかも知れない…)。

ところで母親の実家が亘理町にあり、当然子どもの頃から何度も遊びに行っておりました。さすがに中学、高校生くらいになってからはほとんど行かなくなっていましたが、学生の頃、実家に帰省した際に久しぶりにおじーさんに会いに行くと、今まで全然気にも留めていなかったモノが目に止まりました。茶の間の壁にナニヤラ見たことのある図面…、亘理城の絵図面が額に入れて飾られていたのです。おじーさんに訊くと、北海道へ渡った旧亘理家中の子孫の方が、郷里を思い浮かべながら描いた云々…と言っていた記憶があります。おじーさんは昭和の合併前に村の偉いさんだったらしいので、今思えばもっと突っ込んで訊いてみれば良かった…なんて今にして思いますねー。

母親の実家は東北地方を広く襲った地震、そして津波で流されてしまいました…。あの絵図も多くの思い出と共に何処かへと流されてしまったんだろうな…。

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最終更新:2012年10月08日 18:05
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