塚原館(喜多方市)

塚原館
(つかはらだて)
所在地喜多方市天満前
別称 
築城年天文元年(1532)
築城者富田義実
城主変遷蘆名氏[富田氏](1532-61)…
廃城年永禄四年(1561)か
現状宅地

概要

塚原館は福島県喜多方市に所在した城館跡である。

歴史

築城年代は定かでないが、天文元年(1532)富田監物義実が築城したと考えられている。富田氏は黒川城主蘆名氏四天宿老と呼ばれる重臣であり、義実は松山和泉守の子で富田氏10代実持の女婿となり、実家から分家した際に塚原村に館を構築して居住したいう。

義実は蘆名氏15代盛舜の庶子、山城守氏方の随身を命ぜられる。しかし盛舜の跡を継いだ16代盛氏は盛舜の遺命に背いて氏方に相応の所領を与えなかったため、ついに義実は氏方を擁して永禄四年(1561)挙兵する。しかしこの叛乱も程なく鎮圧され、氏方は自刃、義実は討死し、義実の嫡男主膳義祐も捕らえられて処刑された。なおこの叛乱は永禄十一年(1568)ともいわれ、何れにしてもこの内紛の後に塚原館も廃されている様である。

しかしその後、富田将監隆実が居住したともされている。隆実は美作守氏実の嫡子であり、氏実の父は義実の妻の弟、左近将監実滋である。隆実は天正十七年(1589)の摺上原合戦において、序盤に伊達勢の猪苗代弾正盛国、原田左馬介宗時、片倉小十郎景綱の各隊を崩す活躍を見せている。敗戦後、黒川城にあった父氏実、平田左京亮(尾張守輔範?)らが伊達氏に通じ蘆名義広を常陸国に逐うと、隆実は主君に従って佐竹領へと落ち延びた。

本丸は東西30間、南北36間、その東側に東西30間、南北40間の二の丸、西側に東西14間、南北42間の三の丸を置いた連郭式の平地館であり、各郭の周囲には土塁、堀が巡らされていたと推定されている。しかし現在は市街地となっており、各郭の遺構はもちろん、その南側に位置していたとされる馬場跡なども確認は出来ない。発掘調査も行われているが、塚原館と直接結びつく遺構、遺物は出土していないという。

現状・感想

現在は漆器屋さん?の前に標柱、解説板、ごく簡単な絵図などが建てられています。

向かい側の馬場跡も含めて周囲をホテホテと歩いたことがありますが、特に目立った遺構などは見られませんでした。単にわたしの目が節穴であることは否定出来ませんが。

歴史の表舞台にはほぼ登場しない蘆名氏方ですが、蘆名氏の最盛期を築いた盛氏も家督を継いだ頃には一族、家臣の統制には苦慮していた様ですし、結構チャンスはあったのかもしれませんね。重臣である富田氏が後盾になっていた訳ですし、盛氏も簡単に相続したんではないんですねえ。ここで氏方が勝利していたら、蘆名氏の最盛期はどの様に変わっていたものでしょうか。

関連項目

最終更新:2012年09月24日 19:22
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