弘前城 (ひろさきじょう) | |
所在地 | 弘前市下白銀町 |
別称 | 高岡城、鷹岡城 |
築城年 | 慶長十六年(1611) |
築城者 | 津軽信枚 |
城主変遷 | 津軽氏(11代・1611-1871) |
廃城年 | 存城 |
現状 | 弘前公園 |
弘前城は青森県弘前市に所在した城館跡であり、江戸時代を通じて弘前藩津軽氏の府城であった。弘前公園となった現在も多くの建造物が現存し、また桜の名所として知られている。国指定史跡。日本100名城の一。
戦国時代末期、津軽統一を果たして南部氏の支配より独立した津軽為信が築城を計画するも果たせず、その後嗣子信枚が築城を開始、慶長十六年(1611)にほぼ完成した。
津軽氏祖である大浦為信の出自には諸説あるが、一般的には南部氏支族久慈氏を祖とし、南部氏家臣として大浦城を本拠に津軽地方を支配していた。
南部氏からの独立をかねてからの宿願としていた為信は、元亀二年(1571)南部宗家の家督争いに乗じて津軽郡代石川高信(南部氏26代信直実父)の居城大仏ヶ鼻城を攻め、高信を自刃させて独立への一歩を歩み出した。その後一気に和徳城、大光寺城、浪岡城など近隣諸城を攻略、天正十六年(1588)高楯城を手中に収めて津軽統一を果たした。
天正十八年(1590)豊臣秀吉によって小田原征伐が行われると、続いて奥羽仕置があると察知した為信は、南部氏に先んじて津軽領安堵の朱印状を受ける。公的にも南部氏からの独立を果たした為信は、以降大浦姓を改め津軽を称する様になる。更に慶長五年(1600)関ヶ原合戦においては東軍に属し、津軽藩4万7千石(後加増され10万石)の近世大名の地位を確立した。
為信は文禄3年(1594)大浦城より堀越城へと居城を移したが、更に津軽支配に便の良い高岡の地に新城を計画していた。しかし慶長十二年(1607)上洛途中に死去、その後嗣子信枚がその意志を継いで完成させたのが高岡城であった。なお高岡城は寛永五年(1628)弘前城と改称されている。
なお、津軽藩は成立の過程からも当然隣国同士であった南部氏とは犬猿の仲であり、その確執は江戸時代に入っても続いた。文政四年(1821)盛岡藩浪人相馬大作(下斗米秀之進将真)による檜山事件(津軽寧親暗殺未遂事件)などもその一例であり、南部氏は事あらば津軽領回復を虎視眈々と狙っていたという。従って弘前城は、南部藩に備えるため30万石の大名に匹敵するほどの堅城であったという。
慶応四年(1868)の戊辰戦争では、弘前藩は西軍に協力して参戦したため、ほかの主だった東北の諸城とは異なり破却を免れ、天守ほか多くの櫓や門などの城郭建造物が数多く残された。
現在城跡は弘前公園として整備されており、本丸ほかの各郭、石垣、堀など、築城形態のほぼ全容を残している貴重な城郭であり、現存する天守、3基の隅櫓、5基の城門は全て国の重要文化財に指定されています。本丸の三層天守のみ江戸時代後期の建造で、文化八年(1811)10万石となった9代寧親によって築かれたとされます(築城当初の五層天守は寛永四年(1627)落雷で焼失)。
仕事で弘前を訪問した際、すぐ近くのホテルに宿泊し、朝散歩がてら見に行きました。当時は出張時にカメラを持参する習慣がなかったので、残念ながら写真が手元にないんです…。弘前はそれ以来行く機会がなく…東北楽天さんがベイスターズ相手でイースタンリーグ公式戦でも組んでくれればなあ(横須賀のが近いけど)。