根城 (ねじょう) | |
所在地 | 八戸市根城 |
別称 | |
築城年 | 鎌倉時代、建武元年(1334)か |
築城者 | 工藤氏、南部師行 |
城主変遷 | 根城南部氏(1334-1590)-南部氏[八戸氏](1590-1627) |
廃城年 | 寛永四年(1627) |
現状 | 根城の広場、八戸市博物館 |
根城は青森県八戸市に所在した城館跡であり、陸奥国北部に大きく勢力を拡大した南部氏一族、根城南部氏(八戸南部氏、八戸氏)の本拠であった。国指定史跡。日本100名城の一。
建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国司代として南部師行が当地に下向、築城したとされるが、本丸跡からは師行入部前のものとみられる建物跡も検出されており、鎌倉時代に北条氏の地頭代工藤三郎兵衛尉が構築した居館跡を利用して築城したものと考えられている。
根城南部氏は、南部氏初代光行の三男実長を祖とし、4代師行の時代に大きく勢力を伸ばした。元弘三年(正慶二・1333)北畠顕家が義良親王を奉じて奥州へ下向した際に国司代として同行、翌年糠部郡八森に城を築き、南朝方の根本となる城という意味から根城と名付けたという。
明徳四年(1393)には根城南部氏8代政光が甲斐国の本領を去って糠部郡を本拠地と定め勢力を拡大、その頃から八戸氏を称したとされる(13代政経の頃とも)。以降閉伊、久慈、鹿角、比内、津軽郡などにも大きく勢力を拡大したが、天正十八年(1590)18代政義(政栄)の頃、宗家である三戸南部氏26代信直が豊臣秀吉より朱印状を受けてからはその家臣と位置付けられる。そして元和四年(1618)盛岡藩2代藩主南部利直より「知行宛行目録」を与えられ、完全に家臣である事を明文化された。
寛永四年(1627)、利直により八戸氏22代直義(直秀?)が遠野への所替えを命ぜられる。その理由は仙台藩主伊達氏の侵攻、そして旧領主和賀氏家臣たちの叛乱に備えるためというものだったが、海に開けた八戸の地を直支配地としたい利直の野心もあったという。以降八戸氏は遠野南部氏とも言われ、鍋倉城1万2500石の領主として明治維新まで存続した。
本丸、中館、東善寺館、岡前館、沢里館などから構成され、土塁、堀などによって区画されている。現在は「根城の広場」として整備されており、本丸内の主殿などが復元され、また八戸市博物館と東善寺館の間には八戸城東門が移築されている。この八戸城東門はもともと根城にあったものが八戸城に移されたと伝承され、安政六年(1857)大風で倒れたのち家臣である木幡氏の門として建て替えられていたという。