神指城(会津若松市)

神指城
(こうざしじょう)
所在地会津若松市神指町本丸
別称 
築城年慶長五年(1600)
築城者上杉景勝
城主変遷(上杉氏)
廃城年未完成
現状耕作地、宅地

概要

神指城は福島県会津若松市に所在した、上杉氏が領国経営の中心として造営を計画した城館跡である。この城の築城が徳川氏による上杉氏討伐、そして関ヶ原合戦のきっかけとなっている。

歴史

慶長三年(1598)若松城主蒲生秀行が下野国宇都宮城へ移封となり、替わって越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で会津領主となった。景勝は時勢から領内の支城を整備する一方、山に近く守備に不適であり、蒲生氏の整備した城下は拡張に障りがあるという理由から新城の構築を計画した。候補地は蘆名氏一族北田氏の居城であった北田城の跡地と神指が挙げられたが、慶長五年(1600)後者に築城が開始された。その頃には景勝と徳川家康との対立は決定的となっており、重臣直江兼続が中心となって昼夜兼行で作業は進められた。人夫は領内全てから集められたといい、その数は8万から12万人ともいわれる。突貫工事で進められた築城により、三ヶ月足らずで本丸、二の丸や石垣、水堀などが完成したという。

しかし徳川家康が会津討伐の軍を起こし、その軍勢が国境付近に迫るにあたって工事は中止となる。景勝、兼続らは徳川勢を迎え撃つべく領内の防備をさらに固めるが、家康はそれらの動きに合わせて兵を挙げた石田三成を討つべく小山城より反転し、関ヶ原合戦に勝利する。戦後上杉氏は会津、佐渡、庄内といった所領をことごとく没収され、出羽国米沢城30万石の大名として会津を去った。神指城は未完成のまま放置され、その石垣は上杉氏以降の会津領主たちによって若松城改修に使用されている。

輪郭式の平城で、二の丸の規模は東西468m、南北522m、二の丸のほぼ中心に本丸があり、東西180m、南北306mの規模を持っていた。

現状・感想

現在は畑地となった本丸跡と二の丸の四隅の土塁が残っています。北東隅の土塁上には高瀬の大木(大ケヤキ)が生育しており、ちょっとした公園として整備され、解説板も設置されています。ちなみに二の丸南西の如来堂集落は、会津戦争の際新選組の斎藤一らが西軍に襲撃された場所で、「新選組殉難地」の石碑が建っています。学生の頃に来た時は神指城の存在は全く知らず、如来堂集落探しに苦労しました…。現在は大河ドラマ「新選組!」、「天地人」の放映の効果もあり、神指城、如来堂共に案内表示が設置されています。特に城跡は大型車も停められる駐車場が整備されるなど、大河ドラマの影響ってすげーなぁと感じさせられます。

ところで…神指城って、本丸、二の丸は完成していたにしても全体的には未完成だし、入城もしていないんですよね。じゃあ城って称するのもどうかと…?「神指城建設予定地跡」とするのが妥当ではないのか?これで城と称して良いなら、「野蒜築港跡」だって「野蒜港跡」で良いじゃん、てのは屁理屈?(←どこだよ?って感じですが会津とはファン・ドールン繋がり)

関連項目

最終更新:2012年09月22日 16:04
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