赤城館 (あかぎだて) | |
所在地 | 耶麻郡北塩原村大塩字土合 |
別称 | 舘山 |
築城年 | 戦国時代 |
築城者 | 赤城氏か |
城主変遷 | 大原氏… |
廃城年 | 蘆名氏[赤城氏]… |
現状 | 山林、私有地 |
赤城館は福島県耶麻郡北塩原村に所在した城館跡である。
戦国時代、黒川城主蘆名氏の手によって築造されたものと考えられるが詳細は不明。天正十七年(1589)摺上原合戦において、蘆名氏は伊達政宗の侵攻により滅亡するが、耶麻郡夏井館(喜多方市高郷町)主赤城玄蕃頭忠清の嗣子左馬介忠師が親族と共に下川前に隠れ住み、元和二年(1616)死亡したという。なお忠師の墓が下川前来正寺に残るという。
赤城氏は刑部大輔藤原顕清なる人物を祖とし、足利氏に仕えて摂津国安部を領していたという。曾孫の上野佐詮頼が扇谷上杉氏に仕えて上野国赤城に塁を構え、以後赤城氏を称した。更に詮頼の玄孫勘解由忠範が故あって赤城塁を去って奥州へ下り、蘆名氏に仕えて耶麻郡大槻館に居住した。その嗣子忠清は夏井の地頭中村備中の女を娶り、備中の死後その遺領を与えられたという。なお忠清の長男は近内忠時と称して越後国上杉氏に仕え、子孫は米沢で上杉氏の禄を食み、次男忠師は嗣子となり、三男は雅楽介忠道を称して夏井に住したとされる。また忠師の子孫は館山より下川前に居を移した後、6代孫の與五右衛門宗保が元文五年(1740)頃耶麻郡塩川(喜多方市塩川町)へ移住、今日も続いている。
米沢街道沿い、漆(北山)綱取城と大塩柏木城の中間に所在し、大塩川を堀とした急峻な絶壁上に立地しています。丘陵頂部に東西約35m、南北約12mの平場があり、北側に3段ほどの曲輪がある…らしいですが、周囲は全くの断崖絶壁。「北塩原の城舘柵」に略図が記載されておりますが、著者の渡部氏はどうやって調べたの?ってくらいの館です。
果たして蘆名氏の城館として築かれたものなのか、マジで忠師はこの館に居住したのか(しねーよなー)、来正寺にあるという忠師の墓、そして夏井に残るという父玄蕃忠清の墓と夏井館、はたまた塩川へ移って商人になったという子孫宗保の墓など、なかなか興味は尽きない館跡ではございます。