針生館(喜多方市)

針生館
(はりうだて)
所在地喜多方市熱塩加納町(旧耶麻郡熱塩加納村)米岡
別称 
築城年建長六年(1254)、天文年間(1532-55)か
築城者山川重隆、針生盛幸
城主変遷山川氏…蘆名氏[針生氏]…
廃城年天正十八年(1589)頃か
現状耕作地

概要

針生館は福島県喜多方市(旧耶麻郡熱塩加納村)に所在した城館跡であり、蘆名氏一族の重臣針生氏の居館であった。

歴史

建長六年(1254)山川七良重隆が築き、その子孫針生氏が居住したと「福島県の中世城館跡」にある。しかし針生氏は黒川城主蘆名氏14代遠江守盛滋の子、盛幸が針生姓を称したのが始まりとされており、またこの盛幸が天文年間(1532-55)に針生館を築城したともいわれており、「福島県の~」の記述とはいささか異なっている。

針生氏初代盛幸は蘆名氏当主盛滋の子であるが、初め盛滋に男子が無く、弟の盛舜に家督を譲って隠居した後に出生したため、別家を興したものという。その後は蘆名氏宗家に従い、盛舜を継いで16代当主となった従兄弟である修理大夫盛氏麾下で重臣となるが、同じく一族で津川城主であった金上盛備と席次を争い家臣団分裂の要因の一つとなった。

天正十七年(1589)蘆名義広が摺上原合戦に敗れ滅亡すると、針生氏は伊達氏に従って仙台へ移住した。延宝四年(1676)子孫の針生盛定は、平姓三浦氏の名族である蘆名氏の断絶を惜しんだ仙台藩4代藩主綱村の命により改称、以後子孫は蘆名氏を称した。なお仙台へ移住した後は、新田在所や石越在所を居所としたと伝わる。

そして慶応四年(1868)の戊辰戦争では、子孫の蘆名盛景が額兵隊総督として従軍している。なお出羽国角館城主となった義広の流れを汲む蘆名氏宗家は、盛定が改称する前の承応二年(1653)、蘆名千鶴丸が3歳で夭折して廃絶となっている。

現状・感想

現在は圃場整備によって遺構は残っていない様です。

でも館跡東側にあった、庭園のある立派なお屋敷は無関係なんでしょうかね…?苗字も確認出来ませんでしたが、敷地も広く建物も立派、そして敷地北側と東側は結構雰囲気のあるお宅でした。あの辺の「おやかっつぁま」のお宅なんでしょうかねー。

関連項目

最終更新:2012年10月07日 18:49
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