鏡ヶ城 (かがみがじょう) | |
所在地 | 喜多方市塩川町(旧耶麻郡塩川町)源太屋敷字前畑 |
別称 | 鑑ヶ城、源太屋敷 |
築城年 | 元中元年(至徳元・1384) |
築城者 | 平田光範か |
城主変遷 | 勝氏、渡部氏…蘆名氏[平田氏](1384-1589) |
廃城年 | 天正十七年(1589) |
現状 | 宅地 |
鏡ヶ城は福島県喜多方市(旧耶麻郡塩川町)に所在した城館跡であり、蘆名氏重臣平田氏代々の居城であった。
天授五年(康暦元・1379)蘆名直盛が会津へ下向した際に随身した平田大隅守光範が源太屋敷村を与えられ、元中元年(至徳元・1384)に築城したのが起源とされる。しかし村名が示す通り既に豪族の屋敷が構えられていたと考えられ、勝刑部少輔が築城し渡部源太直是が住した、また渡部左京政則、後に平田大隅守秀景が住したともされる。このことから、光範がこの地を与えられた際、この地にあった古城を改修したものとも考えられている。
平田氏は黒川城主として会津に勢力を拡大した蘆名氏の重臣となり、蘆名四天宿老と称された。その出自は清和源氏といい、源満仲の七男戸島左近将監頼範を祖とし、その12代孫が大隅守光範であるという。
天正十七年(1589)摺上原合戦では伊達氏がこの地に侵攻しており、この時に落城、廃城となったと考えられている。この戦いの遠因となった蘆名氏の養子問題では、平田氏は同じく四天宿老といわれた富田氏と共に伊達派に属しており、黒川城に落ち延びてきた蘆名義広を追放して政宗に降ったという。伊達氏が会津を失った後は、伊達氏に従った者、越後国の上杉氏に仕えた者など一族は離散した。
会津北辺の最も重要な拠点であり、典型的な戦国期の平城の形態を持つ。本丸、二の丸、三の丸と標準的な構築に従い、北側の堀は東西92間幅4間、西側土塁は52間堀57間、南側土塁は東西72間高さ2間根置4間、北側以外の堀はすべて幅4間の規模で、全体としては不正形の縄張りを持つ。大手門桝形各3ヶ所はすべて南に面していたとされる。
現在は本丸北側の土塁がよく現存しており、本丸跡は個人宅となっています。集落内の道路は各郭の堀を埋めたもので、ところどころ屈曲しており、城郭遺構であることが偲ばれます。また源太屋敷集落内には、平田氏家臣であった佐藤、須藤、武藤、一国(現在は新国)の4氏の姓を名乗る家が多いそうです。
なお現在本丸跡にお住いの方は平田さんではないのですが、以前勤めていた職場に塩川町出身の平田さんがいらっしゃいました。一族?と訊いたらその通りであるとのこと、びっくりでした。